早朝。
いつもよりずっと早く、パーマーは目を覚ました。
昨日の選抜レース後から続く、胸の奥の高鳴りがまだ抜けていない。
正式に──と言っても、まだ書類の手続きすらしていないが──担当として見てもらえることになった。
その事実が、心のどこかをくすぐって離れず、浮ついていた。
案の定、寝つきは悪い。
嬉しさと興奮が交じり合って、何度も寝返りを打っても眠れずにいた。
同室の先輩、カツラギエースに「落ち着け」と呆れられた上に、少し揶揄われる始末。
それでも、どうにも胸が浮ついて仕方がなかった。
ようやく眠りに落ちたのは、深夜を少し過ぎた頃だった気がする。
けれど、目が覚めた今は、不思議と眠くなかった。
体が軽く、息まで澄んでいる気がする。
まるで、何か新しい一日が、もうとっくに始まっていたみたいに。
パーマーは寝息を立てる先輩を起こさないように、そっと身支度を整える。
ジャージに袖を通し、髪をまとめ、音を立てぬよう扉を閉めた。
外は、まだ薄暗い。
冷たい空気が肌を撫で、夜明け前の空がゆっくりと青を滲ませていく。
いつも見ている学園の景色が、少しだけ違って見えた。
まるで、世界そのものが昨日より澄んでいるように。
そのまま、グランドのターフへ出て、軽く足を動かす。
早朝の静けさの中で、芝を蹴る音だけがやわらかく響いた。
ちらほらと、同じように朝練をしている生徒の姿が見える。
折角だから一緒に。そんな考えは浮かばなかった。
足が軽い。体がふわりと浮く。
頬が緩むのを止められず、気づけば笑っていた。
浮かれている──自分でも分かるほどに。
落ち着け、と言い聞かせても胸の鼓動は静まらない。
軽く流すつもりだったはずが、気づけば速度が上がっていた。
危ない、と息を吐き、足を止めた。
今の調子で走っていたら、怪我をしかねない。
呼吸を整えながら、汗を拭い、心を落ち着けようとする。
そのままグラウンドを離れ、校舎の方へ歩き出した。
冷たい朝の空気が、まだ火照った頬をやさしく撫でていく。
だが、歩きながらも、心の奥の熱は消えなかった。
考えるより先に、足が動く。
──気づけば、足はトレーナー室へ向かっていた。
明かりが、ついている。
窓の奥で、オレンジの光がゆらいでいた。
こんな朝早くから仕事をしているのだろうか。ちゃんと休んでいるのか、と一瞬心配がよぎる。
けれど、すぐに苦笑がこぼれた。
そんな自分も、今は似たようなものだと思いながら。
そっと扉をノックするれば、中から驚いたような声が聞こえ、数秒後に扉が開いた。
「パーマー?」
「えっと……明かりついてたから、気になっちゃって」
言いながら、思わず視線を逸らす。
どうしてか、無性に恥ずかしかった。
嬉しいのに、顔を見られるのが照れくさい──そんな感覚が胸の奥でふわりと弾ける。
耳の先がかすかに熱を帯び、尻尾が落ち着きなく揺れた。
その様子に気づいたのか、それとも別の理由か。
トレーナーは軽く笑って、何も言わず中へと招き入れる。
パーマーは小さく頷きながら部屋に入り、前と同じ席に腰を下ろした。
どこか居心地のよさと緊張が混ざるような空気。
「紅茶の方がいいかい?」
「あ、いや、大丈夫! お気になさらずっ!」
慌てて両手を振ってそう言えば、トレーナーは「了解」と短く返し、手際よく準備を始めた。
パーマーはその姿を視界の端に収めつつ、ふと棚に目を向ける。
整然と並ぶトロフィーたち。
その金色の輝きに、不思議と目が吸い寄せられる。
──いつか、あそこに自分の写真やトロフィーも並ぶのだろうか。
想像しただけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
ガラスの奥に、自分の姿が映った写真が見える。
泥だらけの脚、汗で乱れた髪。それでも笑っている自分の隣に、同じように笑っているトレーナーの姿。
その光景が、まるで既に目の前にあるかのように鮮やかに浮かんできた。
自然と頬がゆるみ、尻尾がふわりと揺れた。
耳もぴくりと動いて、心の奥の浮つきを隠しきれない。
……何を考えてるんだろう。まだ、レースにも出ていないのに。
自分でも呆れるように、息が小さく漏れる。
けれど、その苦笑の奥には、どうしようもない高揚感が混じっていた。
胸の鼓動が静かに跳ねる。
ただ見ているだけなのに、未来を手にしたような気がして、少しだけ指先が震えた。
──そのときだった。
テーブルの上で、携帯が小さく震えた。
既定の着信音が、静まり返った室内に不意に割り込む。
「っ……!?」
反射的に耳と尻尾がびくりと跳ねた。
胸の奥に残っていた余韻が一瞬で霧散し、妄想の温度がぱちんと弾けるように消える。
……なにを想像してたんだろ。
頬がじわりと熱くなる。
パーマーは小さく息を吸い込み、誤魔化すように頭を振った。
尻尾の先が落ち着きなく揺れて、手元で握ったジャージの裾がくしゃりと鳴る。
「ごめん! パーマー出てもらっていいかな?」
「……へっ? え、いいの? 私が!?」
思わず目を瞬かせる。
普通に考えれば、かけてきた相手は驚くだろう。全くの他人が電話に出たのだから。
けれど、トレーナーは気にも留めないように「大丈夫大丈夫」と軽く笑った。
鳴り続ける着信音。
テーブルの上で小刻みに震える携帯。
ああ、もう……と覚悟を決めて手を伸ばした。
画面を見た瞬間、指が止まる。
そこには、【シリウス】とディスプレイに表示されていた。
「え、えぇぇ……?」
困惑と焦りが入り混じる。
喋ったこともなのに、出ていいのだろうか。本当に?
そんな理性の声を、着信音が押し流す。
止まらないバイブレーションが、まるで急かすように指先を揺さぶってくる。
ごくり、と生唾を飲み込む。
喉が乾いて、息がうまく吸えない。
──ええい、ままよ。
意を決して、指をスライドさせた。
そして、上ずった声でなんとか言葉を絞り出す。
「は、はいっ! えっと、もしも──」
『──あぁ? ……誰だ、お前?』
低い声が、耳を裂くように響いた。
「ヒッ──!」
息が喉の奥で引っかかって、音にならない。
胸の奥が一気に縮まり、肺の空気が押し出された。
全身の毛がざわりと逆立ち、心臓が暴れるように跳ねる。
あまりの迫力に、思わず手を離した。
携帯がテーブルにぶつかって乾いた音を立てる。
ヤバイ、と反射的にパーマーは携帯を手に取って傷などを確認しながら、少しだけ距離を取った。
手の中の端末が、まるで生き物みたいに震えている気がする。
まだ、通話が切れていないのが分かった。
小さく響く呼吸の音が、聞こえて来ている。
怖い怖い……っ!
なんで、どうして、と疑問が恐怖に包まれる。
そのとき、マグカップを両手に持ったトレーナーが戻ってきた。
湯気の立つ香りが広がる中、状況を見てきょとんとする。
「パーマー……? どうしたの?」
「ト、トレーナー……っ!」
礼を言いながら、カップをテーブルに置いたトレーナーが首を傾げる。
怯えたように目を見開いたパーマーが、震える手で携帯を差し出してきた。
何かあったのかと受け取れば、画面には通話中の表示が灯っていた。
着信が切れていない。まだ、繋がっている。
パーマーの様子に疑問を感じつつも、小さく息を整えながら、トレーナーは携帯を手に取り、耳へと近づけた。
「もしもし──」
『──おい、今のは誰だ? 説明しろ』
低く、押し殺したような声。
その底に、ふつふつとした怒りの熱が潜んでいる。
その一言だけで、空気の密度が変わった。
室内の温度がわずかに下がった気さえする。
トレーナーは一瞬、息を飲み、手の中の携帯を握り直した。
この声を、聞き間違えるはずがない。
長い付き合いの中で、彼女が怒っているときの声音であり、この感覚は身体が覚えている。
遥か欧州の地からかけられた一本の通話。
そのはずなのに、声の震えや息づかいが、まるで目の前にいるかのように生々しく伝わってきた。
間違いなく、キレている。
「シ、シリウス? ……どうかした?」
動揺を押し隠しながら、どうにか冷静を装って言葉を返す。
けれど、喉の奥がひどく乾いていて、声が上ずった。
『聞こえなかったのか? ──誰だ、って聞いてんだ』
声のトーンは低いまま。
それなのに、ひとつひとつの音が妙に重く、胸の奥に沈み込んでくる。
抑えきれない怒りが、そのわずかな息づかいからでも伝わった。
トレーナーは息を詰めた。
心臓の鼓動が、通話の静寂を叩くように響く。
なぜ、怒っている?
今の段階で、シリウスが怒る理由は──まだ、ないはずだ。
シリウスの声に滲む怒気を感じながらも、頭の奥ではどうにか冷静を保とうとする。
確かに、これから話そうとしていたことは、彼女との“約束”を破る内容に等しい。
まだ、正式にパーマーとの担当契約を結んでいるわけではないとはいえ、あらかじめ話しておくべきだった。
自分が、メジロパーマーの担当になるつもりでいることを。
無論、それを伝えれば、シリウスが不機嫌になることは分かっていた。
だが、まさか、話す前からこの怒りようとは……。
「い、いや、ちゃんと聞こえてるよ。ただ、手が離せなくて……ちょっと出てもらったんだ」
努めて穏やかに返しながらも、声の奥では緊張が張り詰めていた。
ぼかすように言葉を選びつつ、頭の中では必死に考えを巡らせる。
──何故だ。
言う前に、もう知られている?
……いや、それはあり得ない。昨日の出来事だ。
広まっているとしても、せいぜい学園の中だけ。
この距離と時差を考えれば、今の時点で把握できるはずがない。
だからこそ、分からなかった。
なぜ、シリウスがここまで怒っているのか。
いつもの定期連絡の流れで、パーマーのことを話して、そこで怒られるなら分かる。
覚悟もしていた。
罵られるのも、責められるのも、すべて受け止めるつもりだった。
怒るだろうな、と分かっていながらパーマーを見ると決めた。
何だかんだ、話せば最後には許してくれる。そう楽観視していた。
けれど、蓋を開けてみれば、事情を話す前からこの有様だ。
どう考えても筋が合わない。
別の理由で怒っている──?
そう思いたい。
いや、なおのこと、ダメだろう。
火に油を注ぐどころの話ではない。
今のシリウスに、パーマーとの契約の話など切り出せば、業火の中へ自ら飛び込むのと等しい。
どうする。いったん落ち着いてから話すべきか。
……いや、それも違う。
今さら引っ込めるのは、不義理だ。
シリウスは、そういった筋を通さないことを何より嫌う。
それに、シリウスにもパーマーに対しても誠実でありたい。
何より、電話に出たのが彼女だ。
このまま黙ってやり過ごすなんて、できるはずがない。
ふぅ、と小さく息を吐く。
音に出せばすぐに悟られる。だから、喉の奥で抑えたまま、空気をゆっくりと逃がした。
どっちにしろ、事情を話さなければならないのだ。何か言われるのは分かりきっていたこと。
何故か、挙動不審になっているパーマーを視界の端で確認し、手で落ち着けと合図を送る。
そして、少しだけ距離を取り、窓の外へ目をやる。
夜明けの光が、ゆっくりと部屋の中に滲みはじめていた。
その光を背に受けながら、トレーナーは静かに口を開く。
「あー、えっと……さっき出てもらった子はメジロパーマーっていう子でね」
『……メジロ、だと?』
怒気の中に、ほんのわずかな疑問が混じった気がした。
けれど、その一言だけで空気が震えるような怒りは変わらない。
電話越しなのに、まるで目の前にいるような圧が伝わってくる。
喉が乾く。
それでもトレーナーは、どうにか平静を装って言葉を続けた。
「ちょっと同期の──ああ、いや、ラモーヌのトレーナーから頼まれて、トレーニングを見ることになってね」
口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。
同期を巻き込み、シリウスからしても馴染み深い友人の名前を盾にして、どうにか怒りの矛先を逸らそうとする。
そんな姑息な手を使うべきではないと分かっていながら、喉の奥が勝手に動いた。
息が浅い。喉が乾く。言葉の温度が自分でも制御できない。
落ち着け、と自分に言い聞かせながらも、頭が真っ白になっていく。
「ええっと、だからパーマーとは、そういう縁が出来てさ。それで、その、シリウス? 本当は前もって──」
『──やめろ』
低く、鋭く、切り捨てるような一言。
その瞬間、胸の奥がきゅっと凍った。
言葉が、喉に貼りついた。
反射的に息を呑み、身体がこわばる。
携帯越しなのに、全身が釘付けにされたように動けなかった。
沈黙とわずかに呼吸の音。
そして、シリウスが怒りを押し殺すように、ひとつ息を吐いた。
『もういい……それで? 契約はしたのか』
その声には、怒りだけでなく、わずかな失望が混じっていた。
胸の奥を鋭く刺されるような感覚。
その微かな変化を感じ取った瞬間、トレーナーの口が勝手に動いた。
「っ、シリウス……! これは、全面的に自分が悪い。前もって話すべきだった」
だけど、と言葉を繋ごうとした瞬間、通話の向こうから短く息を吸う音が聞こえる。
その直後、鋭く冷えた声が割り込んだ。
『おい、私の質問に答えろよ。口の利き方も忘れたのか?』
低く唸るような声。
静かに笑っているようにも聞こえるのに、その奥にある刃が鋭い。
まるで、皮一枚の下に怒りが潜んでいるようだった。
「……いや、まだ正式にはしていない。もともと、君に話してから契約するつもりだったんだ」
『なら手間が省けてよかったな』
「シリウス? それはどういう……?」
問う声がわずかに掠れる。
言葉の意味を理解しきれずに、トレーナーは反射的に問い返していた。
『察しも悪くなったのか、アンタ? ──担当契約なんてするな、って言ったんだよ』
短く、明確に、斬りつけるような声音。
その一言で、空気がさらに重く沈んだ。
「……何故? もしかして、君が怒っている理由はそれか?」
シリウスの怒りは理解できる。
だが、それなら──なぜ、話す前からこうなっている?
理屈が繋がらない。
こちらが悪いと分かっていても、どうにも腑に落ちない。
電話の向こうで、かすかな沈黙。
ほんの一瞬、反応が遅れたように息が止まる。
その直後、短く鋭い舌打ちが聞こえた。
『……それは関係ねぇ。聞くな』
怒気がわずかに変わった気がした。
鋭さの奥に、少し焦りにも似た色が混じる。
だが、すぐにも短く息を吐いて、低く続けた。
『見てやるのは…………まあいい。だが、契約はやめとけ』
切り捨てるような声。
そこに、説明する気配すらない。
何故、と喉の奥で言葉が浮かんだ。
けれど、それを口にするよりも早く、シリウスの声が重なった。
『いいか、
「えっと……シリウスシンボリ?」
『……おい、本気か? まだ分かってねぇのか?』
それは、もはや怒っているというよりかは、少し呆れが含んだものに聞こえた。
だが、すぐに低く、硬く、真剣さが滲んだ声音に戻る。
『国内ならダービーウマ娘で大阪杯と宝塚記念の勝者。そして、あの凱旋門賞を制覇したウマ娘──そのトレーナーがアンタだ』
その言葉に、トレーナーは息を詰める。
反射的に何かを言おうとしたが、喉の奥で声が止まった。
シリウスの言葉の裏にある意図が、じわじわと形を持って迫ってくるのを感じたからだった。
それは、この数ヶ月で嫌というほど見せつけられた現実。
「いや、でも……それは関係ない、だろう?」
『こっちからすれば関係ねぇな。──けど、周りは違うだろ』
その言葉に、胸の奥が小さく疼いた。
もし、パーマーが重賞を取ったとして、最初に呼ばれるのは、果たして彼女の名だろうか。
きっと名前は大きく掲げられる。
それでも、その隣には“シリウスシンボリのトレーナー”という肩書きが並ぶかもしれない。
その言葉が添えられるたびに、彼女の努力の輪郭が少しずつ曖昧になっていくようにも思える。
走るのは彼女たちだ。主役はいつだってウマ娘。
努力したのも、苦しんだのも、立ち上がったのも彼女たちだ。
──そんなこと、誰だって知っている。
だからこそ、人は“別の何か”を探すだろう。
見慣れた真実の隣に、もっと派手で、分かりやすい物語を欲しがる。
今回の場合、【シリウスシンボリ】という名は、あまりにも強く、そして眩しく輝きすぎた。
その光が強ければ強いほど、相対的に自分も光に当たる機会が増える。
いくら、その陰に身を置こうとしても、照らされれば嫌でも浮かび上がってしまう。
世間での知名度はどうあれ、関係者の間ではその名を知らぬ者はいない。
そして、パーマーが走り、勝てば──自然と露見する。
注目も、視線も、称賛も、こちらに寄って来る可能性がある。
その光景を想像するだけで、胸がざわついた。
レース後、主役であり勝者であるパーマーや、走ったウマ娘たちに向かうはずのマイクやレンズが、違う方向へと向けられる。
賞賛の先がずれていく想像だけで、違うと叫びたくなる。
──流石は、あのシリウスシンボリのトレーナーだ。
──シリウスシンボリのトレーナーが付いてるなら当然か。
そんな言葉が、パーマーの努力を薄め、積み重ねを上書きしてしまう。
それこそが、最悪の結末だ。
「シリウス……君は自分が担当の足枷になると分かっていて?」
『そうなるかはソイツ次第だろ。自覚しろとは言ったが……自惚れるなよ、
その言葉に、息が詰まる。
胸の奥に刺さる痛みと同時に、どこか納得している自分がいた。
「それは……参ったな。君と離れて少し腑抜けてしまったかもしれない」
『……四六時中リードを引っ張る趣味はない。自力で着いて来れるだろ』
フン、とまだ怒りを残した声音。
けれど、先ほどまでの棘のような鋭さはもうなかった。
静かに息を吐く。
少しだけ、視界が澄んだ気がした。
自分は、どこかで気を抜いていたのだろう。
そう変わりはしないと、楽観していたに違いない。
自分が特別だったわけじゃない。
ただ、シリウスがあまりに特別だっただけのことだ。
それでも、その名の重さが次の誰かに与える影響を、軽く見ていた。
“シリウスシンボリのトレーナー”という肩書き。
その響きがどれほどの意味を持つか、改めて考え直すべきだ。
新しい担当にとって、自分は“期待”の象徴にも“比較”の対象にもなる。
もしそれを背負えるならいい。だが、そうでなければ、その瞬間から世間の期待という見えない重圧に押しつぶされる。
そして、その重みを払う術は、自分にはない。
どれだけ「気にするな」と言っても、それは届かないだろう。
──名は力になるが、同時に鎖にもなる。
周囲が「やはりシリウスシンボリが凄かった」と言ってくれるのなら、まだいい。
その時は、無能の烙印を押されようが、自分が全て引き受ければ済む話だ。
だが、担当の努力がその影で見えなくなることだけは、絶対に避けたい。
ちらりとパーマーの方を見る。
こちらの会話を全部聞いていたわけでは無いだろうが、酷く不安に揺れているのが見て分かった。
それを見ながら、トレーナーは思う。
「シリウス、契約の件だけど──約束通り、パーマーとは担当契約を結ぶよ」
『……はぁ? おい、話を理解してなかったのか?』
携帯の向こうで、低い声が少しだけ引きつった。
驚きと苛立ちが混じった、そんな声音だった。
視界の端で、ぽかんと口を開けて固まっているパーマーが見える。
トレーナーはその姿を見て、苦笑を浮かべた。
「懸念していることは分かってる。だけど、パーマーはそんな弱い子じゃないよ」
『おい、待て。そういうことじゃねぇ……っ!』
シリウスの声の奥に、焦りが滲んだ気がした。
それでも、トレーナーは気にする様子もなく言葉を重ねる。
「だから、自分たちが見ている景色をパーマーにも見てもらうと思うんだけど……どう思う?」
『どう思う、じゃねぇよ。待てって言ってんだ。おい、言うこと聞け!』
シリウスは、思わず声を荒らげる。
けれど、その怒りの奥には、わずかに戸惑いのような色が混じっていた。
窓の外では、朝の光がゆっくりと差し込んできている。
柔らかな陽が机の上の書類を照らし、カップの縁を淡く光らせる。
思っていた以上に話していたようだ。
片手で窓を開ければ、風がカーテンを揺らし、鳥の声が遠くで鳴いた。
「シリウス、君も実際に会ってみるのがいいよ。お互い聞きたいこともあるだろうし」
『おい! ……チッ、本気か、トレーナー?』
「本気だよ。それに、二人ともいい経験になる」
返事はない。
受話器の向こうで、わずかに息を吸う音がした。
次の瞬間、押し殺したような息づかいが微かに混じる。
怒っているのか、呆れているのか、判断がつかない。
強引だったのは自覚している。
けれど、あえて言葉を畳みかけた。
シリウスと口を交わすときは、いつも押し負けてばかりだ。
だが、今回ばかりは譲れなかった。
長い沈黙ののち、舌打ち混じりの息が落ちてくる。
『……アンタは予定通り先に来い。ソイツは前日入りで来させろ。メジロなら融通も利くだろ』
「っ! 分かった。詳細はまた後で……ああ、それと、しっかり休むように」
『今の
ぶつり、と通話が切れた。
最後の最後まで、不器用に怒ったままの声。
ふぅ、と大きく息を吐く。
凱旋門賞以来の緊張だった──そう思いながら、苦笑して携帯をしまう。
そのとき、パーマーが小さく息を呑んだ。
何か言いたげに口を開きかけて、けれど言葉が出てこない。
耳の先がぴくりと動き、視線が泳いでいる。
トレーナーはその戸惑いを宥めるように、ゆっくりと前に座った。
「ごめんね、恥ずかしいところを見せて。それで──」
「──あー、えっと、難しいなら別に大丈夫だよ?」
「え?」
突然、パーマーは微笑を浮かべながらそう言った。
不意に被さった声に、トレーナーが目を瞬く。
「いや、その……契約の話。シリウスさん、あんまり乗り気じゃなさそうだったし。私のせいで無理してほしくないっていうかさ」
「無理はしてないけど……どうして急に?」
「気を使わなくたっていいって。私、物分かりはいい方だからさ。怒ったりしないし」
軽く笑って見せたその顔は、どこかぎこちない。
トレーナーは一瞬、言葉を失う。
数秒の沈黙が訪れ、その音のない時間がやけに長く感じられた。
パーマーの胸がひくりと跳ねる。
笑顔のまま、指先に力がこもった。
膝の上で、両手をぎゅっと握りしめる。
大丈夫。平気。
そう言い聞かせても、唇の端がわずかに震えた。
目線を落とすと、視界の端がじんわりと滲む。
「えっと、まあ……どっちにしろ一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
優しい声だった。
けれど、どこかに戸惑いと申し訳なさが混じっている。
あれ、と思って顔を上げると、トレーナーは視線を彷徨わせ、少し逡巡してから言った。
「今度、イギリスまで来てほしい」
「……ん?」
その一言に、思考が止まる。
何かの聞き間違いかと思い、瞬きを繰り返す。
「ああ、大丈夫、安心してほしい。諸々、こっちで手配するし、恐らくルドルフたちと一緒に来てもらう感じになると思うから」
「ちょ、ちょっと待って!? イギリス!? なんでっ!?」
困惑するパーマーをよそに、トレーナーは少しだけ早口で続ける。
「契約に関しては、一度保留って形でいいかな? ……こっちも、自覚が足りてなくてね」
「……えーっと、結局どういうこと?」
戸惑いが言葉にならず、声が上ずる。
けれど、その問いに返ってきたのは、まっすぐな声だった。
「パーマー、君には一度──自分とシリウスが見ている景色を知ってほしいんだ」
その声音は静かで、確かな熱を帯びている。
どこか遠くを見つめるようなその瞳に、パーマーは息を呑んだ。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
やはり、全体的にテンポが悪い気がするので、見直して調整をかけていきます。また、文字数に関しても、もう少しサッと読めるように調整していく所存です。