凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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6話 担当とトレーナー

 

 早朝。

 いつもよりずっと早く、パーマーは目を覚ました。

 

 昨日の選抜レース後から続く、胸の奥の高鳴りがまだ抜けていない。

 正式に──と言っても、まだ書類の手続きすらしていないが──担当として見てもらえることになった。

 その事実が、心のどこかをくすぐって離れず、浮ついていた。

 

 案の定、寝つきは悪い。

 嬉しさと興奮が交じり合って、何度も寝返りを打っても眠れずにいた。

 同室の先輩、カツラギエースに「落ち着け」と呆れられた上に、少し揶揄われる始末。

 それでも、どうにも胸が浮ついて仕方がなかった。

 

 ようやく眠りに落ちたのは、深夜を少し過ぎた頃だった気がする。

 

 けれど、目が覚めた今は、不思議と眠くなかった。

 体が軽く、息まで澄んでいる気がする。

 まるで、何か新しい一日が、もうとっくに始まっていたみたいに。

 

 パーマーは寝息を立てる先輩を起こさないように、そっと身支度を整える。

 ジャージに袖を通し、髪をまとめ、音を立てぬよう扉を閉めた。

 

 外は、まだ薄暗い。

 冷たい空気が肌を撫で、夜明け前の空がゆっくりと青を滲ませていく。

 いつも見ている学園の景色が、少しだけ違って見えた。

 まるで、世界そのものが昨日より澄んでいるように。

 

 そのまま、グランドのターフへ出て、軽く足を動かす。

 早朝の静けさの中で、芝を蹴る音だけがやわらかく響いた。

 

 ちらほらと、同じように朝練をしている生徒の姿が見える。

 折角だから一緒に。そんな考えは浮かばなかった。

 

 足が軽い。体がふわりと浮く。

 頬が緩むのを止められず、気づけば笑っていた。

 

 浮かれている──自分でも分かるほどに。

 落ち着け、と言い聞かせても胸の鼓動は静まらない。

 軽く流すつもりだったはずが、気づけば速度が上がっていた。

 

 危ない、と息を吐き、足を止めた。

 今の調子で走っていたら、怪我をしかねない。

 呼吸を整えながら、汗を拭い、心を落ち着けようとする。

 

 そのままグラウンドを離れ、校舎の方へ歩き出した。

 冷たい朝の空気が、まだ火照った頬をやさしく撫でていく。

 

 だが、歩きながらも、心の奥の熱は消えなかった。

 考えるより先に、足が動く。

 

 ──気づけば、足はトレーナー室へ向かっていた。

 

 明かりが、ついている。

 

 窓の奥で、オレンジの光がゆらいでいた。

 こんな朝早くから仕事をしているのだろうか。ちゃんと休んでいるのか、と一瞬心配がよぎる。

 

 けれど、すぐに苦笑がこぼれた。

 そんな自分も、今は似たようなものだと思いながら。

 

 そっと扉をノックするれば、中から驚いたような声が聞こえ、数秒後に扉が開いた。

 

「パーマー?」

「えっと……明かりついてたから、気になっちゃって」

 

 言いながら、思わず視線を逸らす。

 どうしてか、無性に恥ずかしかった。

 

 嬉しいのに、顔を見られるのが照れくさい──そんな感覚が胸の奥でふわりと弾ける。

 耳の先がかすかに熱を帯び、尻尾が落ち着きなく揺れた。

 

 その様子に気づいたのか、それとも別の理由か。

 トレーナーは軽く笑って、何も言わず中へと招き入れる。

 

 パーマーは小さく頷きながら部屋に入り、前と同じ席に腰を下ろした。

 どこか居心地のよさと緊張が混ざるような空気。

 

「紅茶の方がいいかい?」

「あ、いや、大丈夫! お気になさらずっ!」

 

 慌てて両手を振ってそう言えば、トレーナーは「了解」と短く返し、手際よく準備を始めた。

 

 パーマーはその姿を視界の端に収めつつ、ふと棚に目を向ける。

 整然と並ぶトロフィーたち。

 その金色の輝きに、不思議と目が吸い寄せられる。

 

 ──いつか、あそこに自分の写真やトロフィーも並ぶのだろうか。

 

 想像しただけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。

 ガラスの奥に、自分の姿が映った写真が見える。

 

 泥だらけの脚、汗で乱れた髪。それでも笑っている自分の隣に、同じように笑っているトレーナーの姿。

 その光景が、まるで既に目の前にあるかのように鮮やかに浮かんできた。

 

 自然と頬がゆるみ、尻尾がふわりと揺れた。

 耳もぴくりと動いて、心の奥の浮つきを隠しきれない。

 

 ……何を考えてるんだろう。まだ、レースにも出ていないのに。

 自分でも呆れるように、息が小さく漏れる。

 けれど、その苦笑の奥には、どうしようもない高揚感が混じっていた。

 

 胸の鼓動が静かに跳ねる。

 ただ見ているだけなのに、未来を手にしたような気がして、少しだけ指先が震えた。

 

 ──そのときだった。

 

 テーブルの上で、携帯が小さく震えた。

 既定の着信音が、静まり返った室内に不意に割り込む。

 

「っ……!?」

 

 反射的に耳と尻尾がびくりと跳ねた。

 胸の奥に残っていた余韻が一瞬で霧散し、妄想の温度がぱちんと弾けるように消える。

 

 ……なにを想像してたんだろ。

 

 頬がじわりと熱くなる。

 パーマーは小さく息を吸い込み、誤魔化すように頭を振った。

 尻尾の先が落ち着きなく揺れて、手元で握ったジャージの裾がくしゃりと鳴る。

 

「ごめん! パーマー出てもらっていいかな?」

「……へっ? え、いいの? 私が!?」

 

 思わず目を瞬かせる。

 普通に考えれば、かけてきた相手は驚くだろう。全くの他人が電話に出たのだから。

 けれど、トレーナーは気にも留めないように「大丈夫大丈夫」と軽く笑った。

 

 鳴り続ける着信音。

 テーブルの上で小刻みに震える携帯。

 ああ、もう……と覚悟を決めて手を伸ばした。

 

 画面を見た瞬間、指が止まる。

 そこには、【シリウス】とディスプレイに表示されていた。

 

「え、えぇぇ……?」

 

 困惑と焦りが入り混じる。

 喋ったこともなのに、出ていいのだろうか。本当に?

 

 そんな理性の声を、着信音が押し流す。

 止まらないバイブレーションが、まるで急かすように指先を揺さぶってくる。

 

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 喉が乾いて、息がうまく吸えない。

 

 ──ええい、ままよ。

 

 意を決して、指をスライドさせた。

 そして、上ずった声でなんとか言葉を絞り出す。

 

「は、はいっ! えっと、もしも──」

『──あぁ? ……誰だ、お前?』

 

 低い声が、耳を裂くように響いた。

 

「ヒッ──!」

 

 息が喉の奥で引っかかって、音にならない。

 胸の奥が一気に縮まり、肺の空気が押し出された。

 全身の毛がざわりと逆立ち、心臓が暴れるように跳ねる。

 

 あまりの迫力に、思わず手を離した。

 携帯がテーブルにぶつかって乾いた音を立てる。

 ヤバイ、と反射的にパーマーは携帯を手に取って傷などを確認しながら、少しだけ距離を取った。

 手の中の端末が、まるで生き物みたいに震えている気がする。

 

 まだ、通話が切れていないのが分かった。

 小さく響く呼吸の音が、聞こえて来ている。

 

 怖い怖い……っ!

 なんで、どうして、と疑問が恐怖に包まれる。

 

 そのとき、マグカップを両手に持ったトレーナーが戻ってきた。

 湯気の立つ香りが広がる中、状況を見てきょとんとする。

 

「パーマー……? どうしたの?」

「ト、トレーナー……っ!」

 

 礼を言いながら、カップをテーブルに置いたトレーナーが首を傾げる。

 怯えたように目を見開いたパーマーが、震える手で携帯を差し出してきた。

 

 何かあったのかと受け取れば、画面には通話中の表示が灯っていた。

 着信が切れていない。まだ、繋がっている。

 パーマーの様子に疑問を感じつつも、小さく息を整えながら、トレーナーは携帯を手に取り、耳へと近づけた。

 

「もしもし──」

『──おい、今のは誰だ? 説明しろ』

 

 低く、押し殺したような声。

 その底に、ふつふつとした怒りの熱が潜んでいる。

 

 その一言だけで、空気の密度が変わった。

 室内の温度がわずかに下がった気さえする。

 トレーナーは一瞬、息を飲み、手の中の携帯を握り直した。

 

 この声を、聞き間違えるはずがない。

 長い付き合いの中で、彼女が怒っているときの声音であり、この感覚は身体が覚えている。

 

 遥か欧州の地からかけられた一本の通話。

 そのはずなのに、声の震えや息づかいが、まるで目の前にいるかのように生々しく伝わってきた。

 

 間違いなく、キレている。

 

「シ、シリウス? ……どうかした?」

 

 動揺を押し隠しながら、どうにか冷静を装って言葉を返す。

 けれど、喉の奥がひどく乾いていて、声が上ずった。

 

『聞こえなかったのか? ──誰だ、って聞いてんだ』

 

 声のトーンは低いまま。

 それなのに、ひとつひとつの音が妙に重く、胸の奥に沈み込んでくる。

 抑えきれない怒りが、そのわずかな息づかいからでも伝わった。

 

 トレーナーは息を詰めた。

 心臓の鼓動が、通話の静寂を叩くように響く。

 

 なぜ、怒っている?

 今の段階で、シリウスが怒る理由は──まだ、ないはずだ。

 シリウスの声に滲む怒気を感じながらも、頭の奥ではどうにか冷静を保とうとする。

 

 確かに、これから話そうとしていたことは、彼女との“約束”を破る内容に等しい。

 まだ、正式にパーマーとの担当契約を結んでいるわけではないとはいえ、あらかじめ話しておくべきだった。

 

 自分が、メジロパーマーの担当になるつもりでいることを。

 

 無論、それを伝えれば、シリウスが不機嫌になることは分かっていた。

 だが、まさか、話す前からこの怒りようとは……。

 

「い、いや、ちゃんと聞こえてるよ。ただ、手が離せなくて……ちょっと出てもらったんだ」

 

 努めて穏やかに返しながらも、声の奥では緊張が張り詰めていた。

 ぼかすように言葉を選びつつ、頭の中では必死に考えを巡らせる。

 

 ──何故だ。

 

 言う前に、もう知られている?

 ……いや、それはあり得ない。昨日の出来事だ。

 広まっているとしても、せいぜい学園の中だけ。

 この距離と時差を考えれば、今の時点で把握できるはずがない。

 

 だからこそ、分からなかった。

 なぜ、シリウスがここまで怒っているのか。

 

 いつもの定期連絡の流れで、パーマーのことを話して、そこで怒られるなら分かる。

 

 覚悟もしていた。

 罵られるのも、責められるのも、すべて受け止めるつもりだった。

 

 怒るだろうな、と分かっていながらパーマーを見ると決めた。

 何だかんだ、話せば最後には許してくれる。そう楽観視していた。

 

 けれど、蓋を開けてみれば、事情を話す前からこの有様だ。

 どう考えても筋が合わない。

 

 別の理由で怒っている──?

 そう思いたい。

 

 いや、なおのこと、ダメだろう。

 火に油を注ぐどころの話ではない。

 

 今のシリウスに、パーマーとの契約の話など切り出せば、業火の中へ自ら飛び込むのと等しい。

 どうする。いったん落ち着いてから話すべきか。

 

 ……いや、それも違う。

 今さら引っ込めるのは、不義理だ。

 

 シリウスは、そういった筋を通さないことを何より嫌う。

 それに、シリウスにもパーマーに対しても誠実でありたい。

 

 何より、電話に出たのが彼女だ。

 このまま黙ってやり過ごすなんて、できるはずがない。

 

 ふぅ、と小さく息を吐く。

 音に出せばすぐに悟られる。だから、喉の奥で抑えたまま、空気をゆっくりと逃がした。

 どっちにしろ、事情を話さなければならないのだ。何か言われるのは分かりきっていたこと。

 

 何故か、挙動不審になっているパーマーを視界の端で確認し、手で落ち着けと合図を送る。

 そして、少しだけ距離を取り、窓の外へ目をやる。

 夜明けの光が、ゆっくりと部屋の中に滲みはじめていた。

 

 その光を背に受けながら、トレーナーは静かに口を開く。

 

「あー、えっと……さっき出てもらった子はメジロパーマーっていう子でね」

『……メジロ、だと?』

 

 怒気の中に、ほんのわずかな疑問が混じった気がした。

 けれど、その一言だけで空気が震えるような怒りは変わらない。

 電話越しなのに、まるで目の前にいるような圧が伝わってくる。

 

 喉が乾く。

 それでもトレーナーは、どうにか平静を装って言葉を続けた。

 

「ちょっと同期の──ああ、いや、ラモーヌのトレーナーから頼まれて、トレーニングを見ることになってね」

 

 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど頼りなかった。

 同期を巻き込み、シリウスからしても馴染み深い友人の名前を盾にして、どうにか怒りの矛先を逸らそうとする。

 

 そんな姑息な手を使うべきではないと分かっていながら、喉の奥が勝手に動いた。

 

 息が浅い。喉が乾く。言葉の温度が自分でも制御できない。

 落ち着け、と自分に言い聞かせながらも、頭が真っ白になっていく。

 

「ええっと、だからパーマーとは、そういう縁が出来てさ。それで、その、シリウス? 本当は前もって──」

『──やめろ』

 

 低く、鋭く、切り捨てるような一言。

 その瞬間、胸の奥がきゅっと凍った。

 

 言葉が、喉に貼りついた。

 反射的に息を呑み、身体がこわばる。

 携帯越しなのに、全身が釘付けにされたように動けなかった。

 

 沈黙とわずかに呼吸の音。

 そして、シリウスが怒りを押し殺すように、ひとつ息を吐いた。

 

『もういい……それで? 契約はしたのか』

 

 その声には、怒りだけでなく、わずかな失望が混じっていた。

 胸の奥を鋭く刺されるような感覚。

 その微かな変化を感じ取った瞬間、トレーナーの口が勝手に動いた。

 

「っ、シリウス……! これは、全面的に自分が悪い。前もって話すべきだった」

 

 だけど、と言葉を繋ごうとした瞬間、通話の向こうから短く息を吸う音が聞こえる。

 その直後、鋭く冷えた声が割り込んだ。

 

『おい、私の質問に答えろよ。口の利き方も忘れたのか?』

 

 低く唸るような声。

 静かに笑っているようにも聞こえるのに、その奥にある刃が鋭い。

 まるで、皮一枚の下に怒りが潜んでいるようだった。

 

「……いや、まだ正式にはしていない。もともと、君に話してから契約するつもりだったんだ」

『なら手間が省けてよかったな』

「シリウス? それはどういう……?」

 

 問う声がわずかに掠れる。

 言葉の意味を理解しきれずに、トレーナーは反射的に問い返していた。

 

『察しも悪くなったのか、アンタ? ──担当契約なんてするな、って言ったんだよ』

 

 短く、明確に、斬りつけるような声音。

 その一言で、空気がさらに重く沈んだ。

 

「……何故? もしかして、君が怒っている理由はそれか?」

 

 シリウスの怒りは理解できる。

 だが、それなら──なぜ、話す前からこうなっている?

 

 理屈が繋がらない。

 こちらが悪いと分かっていても、どうにも腑に落ちない。

 

 電話の向こうで、かすかな沈黙。

 ほんの一瞬、反応が遅れたように息が止まる。

 その直後、短く鋭い舌打ちが聞こえた。

 

『……それは関係ねぇ。聞くな』

 

 怒気がわずかに変わった気がした。

 鋭さの奥に、少し焦りにも似た色が混じる。

 だが、すぐにも短く息を吐いて、低く続けた。

 

『見てやるのは…………まあいい。だが、契約はやめとけ』

 

 切り捨てるような声。

 そこに、説明する気配すらない。

 

 何故、と喉の奥で言葉が浮かんだ。

 けれど、それを口にするよりも早く、シリウスの声が重なった。

 

『いいか、子犬(パピー)? アンタは誰のトレーナーだ?』

「えっと……シリウスシンボリ?」

『……おい、本気か? まだ分かってねぇのか?』

 

 それは、もはや怒っているというよりかは、少し呆れが含んだものに聞こえた。

 だが、すぐに低く、硬く、真剣さが滲んだ声音に戻る。

 

『国内ならダービーウマ娘で大阪杯と宝塚記念の勝者。そして、あの凱旋門賞を制覇したウマ娘──そのトレーナーがアンタだ』

 

 その言葉に、トレーナーは息を詰める。

 反射的に何かを言おうとしたが、喉の奥で声が止まった。

 

 シリウスの言葉の裏にある意図が、じわじわと形を持って迫ってくるのを感じたからだった。

 それは、この数ヶ月で嫌というほど見せつけられた現実。

 

「いや、でも……それは関係ない、だろう?」

『こっちからすれば関係ねぇな。──けど、周りは違うだろ』

 

 その言葉に、胸の奥が小さく疼いた。

 もし、パーマーが重賞を取ったとして、最初に呼ばれるのは、果たして彼女の名だろうか。

 

 きっと名前は大きく掲げられる。

 それでも、その隣には“シリウスシンボリのトレーナー”という肩書きが並ぶかもしれない。

 その言葉が添えられるたびに、彼女の努力の輪郭が少しずつ曖昧になっていくようにも思える。

 

 走るのは彼女たちだ。主役はいつだってウマ娘。

 努力したのも、苦しんだのも、立ち上がったのも彼女たちだ。

 

 ──そんなこと、誰だって知っている。

 

 だからこそ、人は“別の何か”を探すだろう。

 見慣れた真実の隣に、もっと派手で、分かりやすい物語を欲しがる。

 

 今回の場合、【シリウスシンボリ】という名は、あまりにも強く、そして眩しく輝きすぎた。

 

 その光が強ければ強いほど、相対的に自分も光に当たる機会が増える。

 いくら、その陰に身を置こうとしても、照らされれば嫌でも浮かび上がってしまう。

 世間での知名度はどうあれ、関係者の間ではその名を知らぬ者はいない。

 

 そして、パーマーが走り、勝てば──自然と露見する。

 注目も、視線も、称賛も、こちらに寄って来る可能性がある。

 

 その光景を想像するだけで、胸がざわついた。

 レース後、主役であり勝者であるパーマーや、走ったウマ娘たちに向かうはずのマイクやレンズが、違う方向へと向けられる。

 賞賛の先がずれていく想像だけで、違うと叫びたくなる。

 

 ──流石は、あのシリウスシンボリのトレーナーだ。

 ──シリウスシンボリのトレーナーが付いてるなら当然か。

 

 そんな言葉が、パーマーの努力を薄め、積み重ねを上書きしてしまう。

 それこそが、最悪の結末だ。

 

「シリウス……君は自分が担当の足枷になると分かっていて?」

『そうなるかはソイツ次第だろ。自覚しろとは言ったが……自惚れるなよ、子犬(パピー)?』

 

 その言葉に、息が詰まる。

 胸の奥に刺さる痛みと同時に、どこか納得している自分がいた。

 

「それは……参ったな。君と離れて少し腑抜けてしまったかもしれない」

『……四六時中リードを引っ張る趣味はない。自力で着いて来れるだろ』

 

 フン、とまだ怒りを残した声音。

 けれど、先ほどまでの棘のような鋭さはもうなかった。

 

 静かに息を吐く。

 少しだけ、視界が澄んだ気がした。

 

 自分は、どこかで気を抜いていたのだろう。

 そう変わりはしないと、楽観していたに違いない。

 

 自分が特別だったわけじゃない。

 ただ、シリウスがあまりに特別だっただけのことだ。

 それでも、その名の重さが次の誰かに与える影響を、軽く見ていた。

 

 “シリウスシンボリのトレーナー”という肩書き。

 その響きがどれほどの意味を持つか、改めて考え直すべきだ。

 

 新しい担当にとって、自分は“期待”の象徴にも“比較”の対象にもなる。

 もしそれを背負えるならいい。だが、そうでなければ、その瞬間から世間の期待という見えない重圧に押しつぶされる。

 

 そして、その重みを払う術は、自分にはない。

 どれだけ「気にするな」と言っても、それは届かないだろう。

 ──名は力になるが、同時に鎖にもなる。

 

 周囲が「やはりシリウスシンボリが凄かった」と言ってくれるのなら、まだいい。

 その時は、無能の烙印を押されようが、自分が全て引き受ければ済む話だ。

 

 だが、担当の努力がその影で見えなくなることだけは、絶対に避けたい。

 

 ちらりとパーマーの方を見る。

 こちらの会話を全部聞いていたわけでは無いだろうが、酷く不安に揺れているのが見て分かった。

 それを見ながら、トレーナーは思う。

 

「シリウス、契約の件だけど──約束通り、パーマーとは担当契約を結ぶよ」

『……はぁ? おい、話を理解してなかったのか?』

 

 携帯の向こうで、低い声が少しだけ引きつった。

 驚きと苛立ちが混じった、そんな声音だった。

 

 視界の端で、ぽかんと口を開けて固まっているパーマーが見える。

 トレーナーはその姿を見て、苦笑を浮かべた。

 

「懸念していることは分かってる。だけど、パーマーはそんな弱い子じゃないよ」

『おい、待て。そういうことじゃねぇ……っ!』

 

 シリウスの声の奥に、焦りが滲んだ気がした。

 それでも、トレーナーは気にする様子もなく言葉を重ねる。

 

「だから、自分たちが見ている景色をパーマーにも見てもらうと思うんだけど……どう思う?」

『どう思う、じゃねぇよ。待てって言ってんだ。おい、言うこと聞け!』

 

 シリウスは、思わず声を荒らげる。

 けれど、その怒りの奥には、わずかに戸惑いのような色が混じっていた。

 

 窓の外では、朝の光がゆっくりと差し込んできている。

 柔らかな陽が机の上の書類を照らし、カップの縁を淡く光らせる。

 

 思っていた以上に話していたようだ。

 片手で窓を開ければ、風がカーテンを揺らし、鳥の声が遠くで鳴いた。

 

「シリウス、君も実際に会ってみるのがいいよ。お互い聞きたいこともあるだろうし」

『おい! ……チッ、本気か、トレーナー?』

「本気だよ。それに、二人ともいい経験になる」

 

 返事はない。

 受話器の向こうで、わずかに息を吸う音がした。

 次の瞬間、押し殺したような息づかいが微かに混じる。

 怒っているのか、呆れているのか、判断がつかない。

 

 強引だったのは自覚している。

 けれど、あえて言葉を畳みかけた。

 シリウスと口を交わすときは、いつも押し負けてばかりだ。

 

 だが、今回ばかりは譲れなかった。

 長い沈黙ののち、舌打ち混じりの息が落ちてくる。

 

『……アンタは予定通り先に来い。ソイツは前日入りで来させろ。メジロなら融通も利くだろ』

「っ! 分かった。詳細はまた後で……ああ、それと、しっかり休むように」

『今の子犬(パピー)に指図される言われはねぇな』

 

 ぶつり、と通話が切れた。

 最後の最後まで、不器用に怒ったままの声。

 

 ふぅ、と大きく息を吐く。

 凱旋門賞以来の緊張だった──そう思いながら、苦笑して携帯をしまう。

 

 そのとき、パーマーが小さく息を呑んだ。

 何か言いたげに口を開きかけて、けれど言葉が出てこない。

 耳の先がぴくりと動き、視線が泳いでいる。

 

 トレーナーはその戸惑いを宥めるように、ゆっくりと前に座った。

 

「ごめんね、恥ずかしいところを見せて。それで──」

「──あー、えっと、難しいなら別に大丈夫だよ?」

「え?」

 

 突然、パーマーは微笑を浮かべながらそう言った。

 不意に被さった声に、トレーナーが目を瞬く。

 

「いや、その……契約の話。シリウスさん、あんまり乗り気じゃなさそうだったし。私のせいで無理してほしくないっていうかさ」

「無理はしてないけど……どうして急に?」

「気を使わなくたっていいって。私、物分かりはいい方だからさ。怒ったりしないし」

 

 軽く笑って見せたその顔は、どこかぎこちない。

 トレーナーは一瞬、言葉を失う。

 数秒の沈黙が訪れ、その音のない時間がやけに長く感じられた。

 

 パーマーの胸がひくりと跳ねる。

 笑顔のまま、指先に力がこもった。

 膝の上で、両手をぎゅっと握りしめる。

 

 大丈夫。平気。

 そう言い聞かせても、唇の端がわずかに震えた。

 目線を落とすと、視界の端がじんわりと滲む。

 

「えっと、まあ……どっちにしろ一つお願いがあるんだけど、いいかな?」

 

 優しい声だった。

 けれど、どこかに戸惑いと申し訳なさが混じっている。

 あれ、と思って顔を上げると、トレーナーは視線を彷徨わせ、少し逡巡してから言った。

 

「今度、イギリスまで来てほしい」

「……ん?」

 

 その一言に、思考が止まる。

 何かの聞き間違いかと思い、瞬きを繰り返す。

 

「ああ、大丈夫、安心してほしい。諸々、こっちで手配するし、恐らくルドルフたちと一緒に来てもらう感じになると思うから」

「ちょ、ちょっと待って!? イギリス!? なんでっ!?」

 

 困惑するパーマーをよそに、トレーナーは少しだけ早口で続ける。

 

「契約に関しては、一度保留って形でいいかな? ……こっちも、自覚が足りてなくてね」

「……えーっと、結局どういうこと?」

 

 戸惑いが言葉にならず、声が上ずる。

 けれど、その問いに返ってきたのは、まっすぐな声だった。

 

「パーマー、君には一度──自分とシリウスが見ている景色を知ってほしいんだ」

 

 その声音は静かで、確かな熱を帯びている。

 どこか遠くを見つめるようなその瞳に、パーマーは息を呑んだ。

 

 




感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。

やはり、全体的にテンポが悪い気がするので、見直して調整をかけていきます。また、文字数に関しても、もう少しサッと読めるように調整していく所存です。



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