イギリス、アスコットレース場。
異国のざわめきが、湿った空気とともに肌にまとわりつく。
パーマーは、見上げるようにスタンドを仰いだ。
目に映るものすべてが異国の光景で、思わず口を半開きにして立ち尽くす。
──まさか、本当に来ることになるなんて。
右を向いても外国人、左を向いても外国人。
聞き慣れない言語が幾重にも重なり、波のように押し寄せてくる。
少し離れた場所には日本の報道機関らしき一団も見えたが、それすら喧噪に呑まれ、遠い幻のようだった。
「……多いわね」
横から落ちた声に、パーマーはわずかに肩を跳ねさせる。
ラモーヌが視線を巡らせながら、涼やかに言葉を継いだ。
「仕方ないさ。いや、流石は、と言うべきかな」
反対側から応じるのはルドルフ。
二人の落ち着いた声が、異国のざわめきの中でも不思議とよく通る。
そんな二人に挟まれる形で、パーマーは小さく身を縮めた。
自分だけがこの場に馴染めていない──そんな居心地の悪さが、制服の襟のあたりにまとわりつく。
「君、大丈夫かい?」
背後から、穏やかでどこか柔らかな声がかかる。
振り向けば、スピードシンボリが心配そうに目を細めていた。
「……ハ、ハイ。ダイジョウブデス」
思わず片言で返してしまい、言ったそばから顔が熱くなる。
ラモーヌが小さく吹き出し、ルドルフが苦笑を浮かべた。
パーマーは気まずさをごまかすように視線を逸らし、制服の裾を指先でつまむ。
その仕草が、どうしようもなく落ち着かない心を映していた。
──まだデビューもしていない自分が、どうしてこの輪の中に。
パーマーもメジロ家の娘として、それなりの場には慣れているつもりだった。
だが、今ばかりは心の逃げ場が見つからない。
場違いという言葉が、これほど似合う瞬間はなかった。
今日行われるレースが、この欧州でも屈指の格式を誇ることは知っている。
だからこそ、周囲の顔ぶれに納得はしていた。
初めての地に不安を覚え、せめて見知った相手──ラモーヌとルドルフ──のそばに寄っただけのつもりだった。
けれど、その二人は自然と人を惹きつける。
そこにスピードシンボリが加われば、気づけばその中心に置かれていた。
日本の報道陣のカメラが、いくつもこちらを向く。
キャスターらしき人物がマイクを構え、何かを早口でまくしたてている。
まるで標的にされたようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。
ものすごく、嫌な予感がする。
だが、誰一人そんな視線を気にすることなく、堂々と歩を進めていく。
その中でパーマーだけが、小さく息を潜め、気配を薄めようと必死だった。
その背中に、そっと手が添えられる。
びくりと肩を跳ねさせて振り向けば、スピードシンボリが申し訳なさそうに苦笑をしていた。
先ほどから、何かと気を遣ってくれている。
けれど、今のパーマーにとっては、それがかえって居たたまれない。
これがラモーヌなら、まだ違ったかもしれない。
だが、そのラモーヌは、そんな様子を面白がるように口元で笑うだけ。
隣のルドルフは、何とも言えない表情を浮かべながら、そのやり取りを静かに見守っていた。
そうしているうちに、一行は場内へと進み、それぞれが自然に散っていく。
対してパーマーたちは、他とは違い、シンボリ家の関係者に促されるまま控室へと案内された。
扉を開けると、勝負服に身を包んだシリウスシンボリとトレーナーが並んで腰掛けていた。
トレーナーは背もたれに体を預け、疲労を滲ませながらもどこか落ち着いた表情で息を吐く。
一方のシリウスは腕を組み、上機嫌そうに口の端を上げていた。
だが、こちらの姿を認めた瞬間──その表情が一変する。
わずかに眉が動き、張り詰めた気配が室内を覆った。
「チッ……うるさいのがぞろぞろと来やがって」
「シリウス、そんな言い方は……ああ、いや、みんな来てくれてありがとう」
不機嫌を隠そうともしないシリウスと、そんなシリウスを窘めながらも穏やかに応じるトレーナー。
その対照が、かえって二人の関係を物語っているように見えた。
久しぶりに見るトレーナーの姿に、パーマーはわずかに肩の力を抜く。
けれど、次の瞬間、シリウスと視線がぶつかる。
緊張からか胸の奥がきゅっと締めつけられ、息が詰まる。背筋が自然と強張り、手のひらに汗が滲んだ。
互いに声は聞いたことがあっても、顔を合わせるのはこれが初めてだ。
目と目が合ったその瞬間、言葉のない圧が空気を満たした。
どこか張り詰めた気配が、室内の温度をわずかに下げる。
だが、その張りつめた空気を破ったのは、低く落ち着いた声だった。
「申し訳ないが、少しトレーナー君を借りたい。いいかな?」
スピードシンボリが一歩前へ出る。
シリウスは短く息を吐き、肩をすくめた。
「……好きにしろ」
「悪いね。大事なレース前なのに」
「ああ、いえ、大丈夫ですよ。準備は万全にしていますから」
そう言って、スピードシンボリとトレーナーは並んで控室を出ていった。
扉が閉まる音が、静かな部屋に乾いた余韻を残す。
その瞬間、空気がわずかに変わった。
シリウスの放つ圧が、音もなく膨らんでいく。
パーマーは思わず息を詰め、肩をすくめた。
だが、その緊張をものともせず、ラモーヌが軽く顎を上げて言葉を落とす。
「それにしても、ずいぶんな物言いね?」
「後からでも良かっただろうが」
吐き捨てるようなシリウスの声。
ラモーヌは、その反応をどこか楽しむように目を細めた。
「まあ、そう邪険に扱わないでほしい……ところでシリウス。それは新しい勝負服かい?」
「……見れば分かるだろ」
全員の視線が、シリウスの蒼を帯びた装いをなぞる。
かつての深緑のスーツから一変し、今の彼女は夜空のような青に包まれていた。
金糸が星屑のように散り、光の角度で微かに揺らめく。
かつての強者の威圧よりも、今は覇者の静けさのようなものを感じさせる。
「前よりも、ずっとあなたらしいわね」
「なるほど、確かに今のシリウスにピッタリな勝負服だ」
ルドルフが穏やかに続けると、シリウスは鼻を鳴らす。
「ハッ、テメェらに言われても嬉しくねぇよ」
「あらそう? じゃあ──誰に言われたら嬉しいのかしら? それとも、もう欲しい言葉は貰っていて?」
言葉の端に、甘い毒を含ませたラモーヌ。
軽やかに笑みを浮かべながらも、その声音にはどこか試しているようにも聞こえた。
シリウスのこめかみがひくりと動き、目が細くなる。
「……わざわざ、そんなことを言いに海の向こうまで来たのか。暇人もいいとこだな」
不機嫌に吐き捨てるシリウス。
そして、場をなだめるようにルドルフが小さく肩を竦めた。
「ははっ、そう言われてしまっては立つ瀬がないな。だが、似合っているのは本心だよ」
ラモーヌはその言葉にちらりと視線を送り、わずかに唇を緩めた。
対して、シリウスは一瞬だけそちらに目をやり、つまらなそうに鼻を鳴らす。
その仕草さえ、どこか慣れたものだった。
その空気の中心に、緊張も気負いもない。
ただ、長い時間を共有した者だけが持つ独特の呼吸があった。
そんな三人の空気の中で、パーマーだけが居場所を見失っていた。
会話の輪に入り込むこともできず、けれど誰も自分を見ていないことに、ほんの少し安堵する。
このまま時間が過ぎていけば、きっと何も起きない。
そう思った矢先だった。
「おい、お前」
「えっ……あっ! は、はいっ!?」
呼ばれたとは思わず、一拍遅れて声が裏返る。
慌てて背筋を伸ばし、反射的に気をつけの姿勢をとってしまう。
その様子に、ラモーヌは口元を手で隠して笑い、ルドルフは苦笑を浮かべた。
対して、シリウスは無言のままパーマーを見つめている。
視線が上下にゆっくりと動き、まるで値踏みするようだった。
やがて、小さく舌打ちが漏れる。
「チッ……首輪をしっかり握っとくべきだったな」
何を言われたのか分からず、パーマーはきょとんと目を瞬かせる。
だが、シリウスの視線はすでに別の方を向いていた。
「え、えぇっと……はい? ど、どういう……?」
「あら、お眼鏡には適ったようね。パーマー」
「冗談もほどほどにしとけよ、ラモーヌ」
ギロリと睨むシリウスに、余裕の笑みを返すラモーヌ。
そのやり取りを前に、パーマーは完全に置いてけぼりだった。
会話の意味も温度も掴めず、ただ目だけを忙しなく動かして様子をうかがう。
「そこまでだ、二人とも……変わらないな、君たちは」
止めに入ったのはルドルフだった。
もっとも、二人とも本気で言い合っていたわけではない。
互いに慣れきった距離感の中での、軽いじゃれ合いのようなものだ。
「
「相変わらず憶測で物を言いやがる。何度も痛い目にあったのを忘れたか?」
「確かに、悪い癖だね。だが、今回は外れているとは思っていないよ」
淡々と、それでいて揺るぎない声音。
ルドルフは微笑を崩さぬまま、静かにシリウスを見つめていた。
その穏やかさが、かえって挑発のようにも感じられる。
シリウスは短く息を吐き、面倒そうに顔をそらした。
「……チッ。どうするかは、そこの小鹿次第だ」
「えっ……あ、わ、私? ……ですか?」
まさか、小鹿が自分のことは思わず、パーマーの肩がびくりと跳ねた。
突然、視線が突き刺さり、呼吸が浅くなる。
その沈黙は短いようで、永遠にも感じられた。
ごくりと生唾を飲み込んだ、その瞬間──扉が開いた。
「シリウス、そろそろ時間だけど……タイミングが悪かった?」
「……なんでもねぇよ」
トレーナーの声に、シリウスは短く答え、椅子を押して立ち上がる。
そのまま一歩、二歩と歩み寄り、何も言わずにトレーナーの隣を通り過ぎた。
すれ違いざまに、ほんの一瞬だけ目が合う。
言葉はない。けれど、それで十分だった。
信頼の形は、言葉よりも静かにそこにあった。
やがて、足音が遠ざかる。
その背を見送りながら、トレーナーはふっと口元を緩めた。
瞳には誇らしさとともに、どこか憧れにも似た光が宿っている。
残された室内には、微かな静けさが戻っていた。
ほんの少し前まで張り詰めていた空気が、ゆるやかに溶けていく。
パーマーは思わず息を吸い込み、その余韻の中でようやく肩の力を抜いた。
その様子を見ていたトレーナーが、ふと振り向く。
「パーマー、少しは話せた?」
穏やかな声音に、パーマーは瞬きをして顔を上げる。
少し間を置いて、首を傾げながらも、かすかに頷いた。
「うーん……話した、って言えるのかなぁ?」
「まあ、想像はつくよ。だけど、シリウスも悪意があるわけじゃないから気にしないで」
「……そっか。うん、ありがと」
その言葉に、パーマーはわずかに息を吐く。
緊張がほどけるのと同時に、胸の奥に温かな安堵が広がっていった。
その空気を見計らったように、ルドルフが静かに口を開く。
「君の意見をぜひ聞きたい。今回のレースは──……いや、よしておこう。学ばないな、私は」
「賢明ね。ターフの外にいるなら見届ければいいだけよ。そうではなくって?」
ラモーヌの声音は、どこまでも上品で、それでいてどこか子供のように楽しげだった。
その軽やかさに、ルドルフは小さく息を吐き、負けを認めるように額へ手を当てて苦笑する。
トレーナーはそんな二人を見て小さく笑うと、扉の前で半身をずらし、外へ出る姿勢を見せた。
そして、勝気な笑みを浮かべながら口を開く。
「今のシリウスなら、負けることはないよ」
──その言葉を最後に、時は流れる。
灰色の雲が垂れこめる午後、スタンドにはすでに熱気が満ちていた。
『さあ、まもなく発走を迎えます! ──キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス! 天候は曇り、芝の状態はやや重。湿りを含んだターフが、各陣営の読みを試す一戦となりそうです!』
湿った風が観客席を抜けていく。
重たい雲の下、空気は熱を孕み、ざわめきが波のように揺れていた。
どこを見ても人の群れ。
押し寄せる声が折り重なり、歓声が重低音のように地面を震わせる。
その熱気は肌に張り付き、呼吸のたびに胸の奥まで振動が伝わってきた。
名を呼ぶ声が次々と上がり、それがやがて一つのうねりになる。
まるで世界の鼓動そのものが、この場所に集まっているようだった。
パーマーたちは最前列近くの関係者席に並んでいた。
その眼前には、ゲート前で準備を整えるウマ娘たちの姿。
芝の上を蹴るたび、水を含んだ飛沫が光を弾いて散る。
『──それでは、出走ウマ娘たちを紹介していきましょう!』
実況の声が一段と高く響く。
巨大なスクリーンには、ゲート前で軽く体を解すウマ娘たちの姿が映し出された。
緊張と集中が交錯するその表情は、どのウマ娘も真剣そのもの。
『3番人気──【ムーンマッドネス】! 英国生まれの技巧派ステイヤー! 欧州の伝統と誇りをその脚に宿し、今度こそ、栄光をその手に掴めるか!?』
実況が名を告げた瞬間、場内の空気がわずかに変わった。
それは喝采ではなく、敬意にも似た静かなうねり。
この地の名を背負う者にしか向けられない、重みのある期待だった。
スクリーンには、深緑の勝負服をまとったウマ娘が映る。
淡々とした表情のまま、ゆっくりと首を回し、足首を伸ばす。
無駄のない所作──研ぎ澄まされた職人のような気配。
その存在だけで、アスコットの空気がわずかに引き締まった。
静寂と熱狂が混ざり合い、“欧州の矜持”がそこに立っていた。
『──続いて、2番人気! 去年の凱旋門賞で涙を飲んだ宿命の女王──【トリプティク】! 奪われた栄光を、このアスコットで取り戻せるか!』
スクリーンに映るのは、深紅の勝負服をまとったトリプティク。
静かに目を閉じ、深く息を吸い込むと、わずかに拳を握った。
その表情に浮かぶのは、恐れではなく、確かな決意。
去年、敗れた記憶。
その記憶こそが、彼女を今日まで走らせてきた。
観客席がざわめき、熱が空気を震わせる。
そして、実況の声が一段高く跳ね上がった。
『──そして、栄光の1番人気! 去年の凱旋門賞を制し、欧州を震わせた黒き流星──【シリウスシンボリ】!』
轟く歓声。
スクリーンに映し出されたのは、蒼い勝負服に身を包んだウマ娘。
陽を受けて淡く光るその姿は、まるで嵐の前の静けさを纏っているかのようだった。
肩越しに流れる髪をかき上げ、前を見据える。
わずかな仕草一つで、観客席の空気が一変する。
沸き上がる声援、歓喜の叫び、鳴り止まぬ拍手。
そのすべてがアスコットの空を震わせ、ひとつの熱のうねりとなった。
スタンド最前列で、トレーナーは静かに目を細めた。
胸元には、小さな星のブローチが光を受けて鈍く光っている。
指先でそれにそっと触れ、短く息を吐いた。
声にはならない想いが、あのウマ娘へ向けて放たれていく。
その隣で、パーマーは言葉を失っていた。
ゲート前に立つウマ娘たち──その一人ひとりが放つ気迫の濃度が、肌を刺すように伝わってくる。
何もかもが違っていた。佇まいも、空気も、目の奥に宿る光も。
ゾクリと背筋を走る感覚。
鳥肌が立つ。
胸の奥が熱くなり、息が浅くなる。
怖いほど美しい光景だった。
──これが、世界。
心のどこかで、そう呟いていた。
その観客の熱の只中、ゲートへ向かうウマ娘たち。
同じようにシリウスが芝の上を踏みしめるたび、周囲の視線が突き刺さった。
敵意。
警戒。
嫉妬。
それらすべてが肌を焼くように伝わってきた。
誰もが知っている。去年、欧州の“頂”を奪われたことを。
このキングジョージは、その冠を取り戻すための戦だ。
それでも、シリウスは笑った。
唇の端がゆるやかに吊り上がり、目の奥が獰猛に光る。
──上等だ。
その笑みが消えぬうちに、空気がわずかに揺れた。
視線を向けた先にいたのは、深紅の勝負服をまとったウマ娘。
金栗色の髪を後ろで束ね、陽を受けたそれが鈍く輝く。
整った顔立ちに宿るのは、鋼のような意志。そして、忘れられない記憶。
去年、凱旋門の舞台で敗れたその瞳には、同じ光が宿っていた。
トリプティクが真正面から歩み寄り、シリウスの前に立つ。
わずかに顎を上げ、静かに見下ろした。
その眼差しには、氷のような冷たさと、奥底に燃える執念が混ざっていた。
「調子に乗るなよ、シリウスシンボリ。あの凱旋門の幻──今日で終わりにしてやる」
その声音には、誇りと怒り、そして静かな闘志が混じっていた。
敗北を知る者だけが纏う、澄み切った殺気。
トリプティクの言葉が空気を裂くように響くと、周囲のウマ娘たちの視線が一斉にシリウスへと集まった。
誰もがその覇者を見据え、敵として、挑戦者として、沈黙の中に意志を燃やしている。
アスコットの風さえも、いまはその視線の熱に息を潜めていた。
シリウスはわずかに目を細め、唇の端を吊り上げる。
その瞳には、挑発に対する苛立ちではなく、獲物を前にした愉悦が浮かんでいた。
「ハッ……やれるものなら、やってみろよ」
短く放たれた声は、もはやトリプティク一人に向けたものではなかった。
その場のすべての視線をまとめて受け止め、挑み返すように響く。
視線がぶつかり、誰も口を挟めぬほどの緊張が走る。
その静寂の中、二人──いや、全員がそれぞれの戦場へと歩みを進めた。
空気が再び動く。
ゲートへと向かう足音、金属が軋む音、蹄鉄が芝を踏む音。
それらが一つに溶け合い、スタート前の緊張を極限まで高めていく。
シリウスがゲートへと歩み入る。
蒼の背が陽光を受け、わずかに光を返した。
扉が閉じられる瞬間、風が止み──アスコット全体が息をひそめた。
『各ウマ娘、ゲートイン完了!』
実況の声が高らかに響く。
その一言で、静寂が凍りついたように場内が張り詰める。
──乾いた音が弾け、ゲートが一斉に開いた。
『世界が見つめる頂上決戦! キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス、スタートです!!』
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。