凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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7話 KGVI & QES

 

 イギリス、アスコットレース場。

 異国のざわめきが、湿った空気とともに肌にまとわりつく。

 

 パーマーは、見上げるようにスタンドを仰いだ。

 目に映るものすべてが異国の光景で、思わず口を半開きにして立ち尽くす。

 ──まさか、本当に来ることになるなんて。

 

 右を向いても外国人、左を向いても外国人。

 聞き慣れない言語が幾重にも重なり、波のように押し寄せてくる。

 少し離れた場所には日本の報道機関らしき一団も見えたが、それすら喧噪に呑まれ、遠い幻のようだった。

 

「……多いわね」

 

 横から落ちた声に、パーマーはわずかに肩を跳ねさせる。

 ラモーヌが視線を巡らせながら、涼やかに言葉を継いだ。

 

「仕方ないさ。いや、流石は、と言うべきかな」

 

 反対側から応じるのはルドルフ。

 二人の落ち着いた声が、異国のざわめきの中でも不思議とよく通る。

 

 そんな二人に挟まれる形で、パーマーは小さく身を縮めた。

 自分だけがこの場に馴染めていない──そんな居心地の悪さが、制服の襟のあたりにまとわりつく。

 

「君、大丈夫かい?」

 

 背後から、穏やかでどこか柔らかな声がかかる。

 振り向けば、スピードシンボリが心配そうに目を細めていた。

 

「……ハ、ハイ。ダイジョウブデス」

 

 思わず片言で返してしまい、言ったそばから顔が熱くなる。

 ラモーヌが小さく吹き出し、ルドルフが苦笑を浮かべた。

 

 パーマーは気まずさをごまかすように視線を逸らし、制服の裾を指先でつまむ。

 その仕草が、どうしようもなく落ち着かない心を映していた。

 

 ──まだデビューもしていない自分が、どうしてこの輪の中に。

 

 パーマーもメジロ家の娘として、それなりの場には慣れているつもりだった。

 だが、今ばかりは心の逃げ場が見つからない。

 場違いという言葉が、これほど似合う瞬間はなかった。

 

 今日行われるレースが、この欧州でも屈指の格式を誇ることは知っている。

 だからこそ、周囲の顔ぶれに納得はしていた。

 

 初めての地に不安を覚え、せめて見知った相手──ラモーヌとルドルフ──のそばに寄っただけのつもりだった。

 けれど、その二人は自然と人を惹きつける。

 そこにスピードシンボリが加われば、気づけばその中心に置かれていた。

 

 日本の報道陣のカメラが、いくつもこちらを向く。

 キャスターらしき人物がマイクを構え、何かを早口でまくしたてている。

 まるで標的にされたようで、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 ものすごく、嫌な予感がする。

 

 だが、誰一人そんな視線を気にすることなく、堂々と歩を進めていく。

 その中でパーマーだけが、小さく息を潜め、気配を薄めようと必死だった。

 

 その背中に、そっと手が添えられる。

 びくりと肩を跳ねさせて振り向けば、スピードシンボリが申し訳なさそうに苦笑をしていた。

 

 先ほどから、何かと気を遣ってくれている。

 けれど、今のパーマーにとっては、それがかえって居たたまれない。

 

 これがラモーヌなら、まだ違ったかもしれない。

 だが、そのラモーヌは、そんな様子を面白がるように口元で笑うだけ。

 隣のルドルフは、何とも言えない表情を浮かべながら、そのやり取りを静かに見守っていた。

 

 そうしているうちに、一行は場内へと進み、それぞれが自然に散っていく。

 対してパーマーたちは、他とは違い、シンボリ家の関係者に促されるまま控室へと案内された。

 

 扉を開けると、勝負服に身を包んだシリウスシンボリとトレーナーが並んで腰掛けていた。

 トレーナーは背もたれに体を預け、疲労を滲ませながらもどこか落ち着いた表情で息を吐く。

 一方のシリウスは腕を組み、上機嫌そうに口の端を上げていた。

 

 だが、こちらの姿を認めた瞬間──その表情が一変する。

 わずかに眉が動き、張り詰めた気配が室内を覆った。

 

「チッ……うるさいのがぞろぞろと来やがって」

「シリウス、そんな言い方は……ああ、いや、みんな来てくれてありがとう」

 

 不機嫌を隠そうともしないシリウスと、そんなシリウスを窘めながらも穏やかに応じるトレーナー。

 その対照が、かえって二人の関係を物語っているように見えた。

 

 久しぶりに見るトレーナーの姿に、パーマーはわずかに肩の力を抜く。

 けれど、次の瞬間、シリウスと視線がぶつかる。

 

 緊張からか胸の奥がきゅっと締めつけられ、息が詰まる。背筋が自然と強張り、手のひらに汗が滲んだ。

 

 互いに声は聞いたことがあっても、顔を合わせるのはこれが初めてだ。

 目と目が合ったその瞬間、言葉のない圧が空気を満たした。

 どこか張り詰めた気配が、室内の温度をわずかに下げる。

 

 だが、その張りつめた空気を破ったのは、低く落ち着いた声だった。

 

「申し訳ないが、少しトレーナー君を借りたい。いいかな?」

 

 スピードシンボリが一歩前へ出る。

 シリウスは短く息を吐き、肩をすくめた。

 

「……好きにしろ」

「悪いね。大事なレース前なのに」

「ああ、いえ、大丈夫ですよ。準備は万全にしていますから」

 

 そう言って、スピードシンボリとトレーナーは並んで控室を出ていった。

 扉が閉まる音が、静かな部屋に乾いた余韻を残す。

 

 その瞬間、空気がわずかに変わった。

 シリウスの放つ圧が、音もなく膨らんでいく。

 パーマーは思わず息を詰め、肩をすくめた。

 

 だが、その緊張をものともせず、ラモーヌが軽く顎を上げて言葉を落とす。

 

「それにしても、ずいぶんな物言いね?」

「後からでも良かっただろうが」

 

 吐き捨てるようなシリウスの声。

 ラモーヌは、その反応をどこか楽しむように目を細めた。

 

「まあ、そう邪険に扱わないでほしい……ところでシリウス。それは新しい勝負服かい?」

「……見れば分かるだろ」

 

 全員の視線が、シリウスの蒼を帯びた装いをなぞる。

 かつての深緑のスーツから一変し、今の彼女は夜空のような青に包まれていた。

 金糸が星屑のように散り、光の角度で微かに揺らめく。

 かつての強者の威圧よりも、今は覇者の静けさのようなものを感じさせる。

 

「前よりも、ずっとあなたらしいわね」

「なるほど、確かに今のシリウスにピッタリな勝負服だ」

 

 ルドルフが穏やかに続けると、シリウスは鼻を鳴らす。

 

「ハッ、テメェらに言われても嬉しくねぇよ」

「あらそう? じゃあ──誰に言われたら嬉しいのかしら? それとも、もう欲しい言葉は貰っていて?」

 

 言葉の端に、甘い毒を含ませたラモーヌ。

 軽やかに笑みを浮かべながらも、その声音にはどこか試しているようにも聞こえた。

 シリウスのこめかみがひくりと動き、目が細くなる。

 

「……わざわざ、そんなことを言いに海の向こうまで来たのか。暇人もいいとこだな」

 

 不機嫌に吐き捨てるシリウス。

 そして、場をなだめるようにルドルフが小さく肩を竦めた。

 

「ははっ、そう言われてしまっては立つ瀬がないな。だが、似合っているのは本心だよ」

 

 ラモーヌはその言葉にちらりと視線を送り、わずかに唇を緩めた。

 対して、シリウスは一瞬だけそちらに目をやり、つまらなそうに鼻を鳴らす。

 その仕草さえ、どこか慣れたものだった。

 

 その空気の中心に、緊張も気負いもない。

 ただ、長い時間を共有した者だけが持つ独特の呼吸があった。

 

 そんな三人の空気の中で、パーマーだけが居場所を見失っていた。

 会話の輪に入り込むこともできず、けれど誰も自分を見ていないことに、ほんの少し安堵する。

 

 このまま時間が過ぎていけば、きっと何も起きない。

 そう思った矢先だった。

 

「おい、お前」

「えっ……あっ! は、はいっ!?」

 

 呼ばれたとは思わず、一拍遅れて声が裏返る。

 慌てて背筋を伸ばし、反射的に気をつけの姿勢をとってしまう。

 その様子に、ラモーヌは口元を手で隠して笑い、ルドルフは苦笑を浮かべた。

 

 対して、シリウスは無言のままパーマーを見つめている。

 視線が上下にゆっくりと動き、まるで値踏みするようだった。

 やがて、小さく舌打ちが漏れる。

 

「チッ……首輪をしっかり握っとくべきだったな」

 

 何を言われたのか分からず、パーマーはきょとんと目を瞬かせる。

 だが、シリウスの視線はすでに別の方を向いていた。

 

「え、えぇっと……はい? ど、どういう……?」

「あら、お眼鏡には適ったようね。パーマー」

「冗談もほどほどにしとけよ、ラモーヌ」

 

 ギロリと睨むシリウスに、余裕の笑みを返すラモーヌ。

 そのやり取りを前に、パーマーは完全に置いてけぼりだった。

 会話の意味も温度も掴めず、ただ目だけを忙しなく動かして様子をうかがう。

 

「そこまでだ、二人とも……変わらないな、君たちは」

 

 止めに入ったのはルドルフだった。

 もっとも、二人とも本気で言い合っていたわけではない。

 互いに慣れきった距離感の中での、軽いじゃれ合いのようなものだ。

 

彼女(パーマー)のことは聞いているよ。ただ、その件についてはもうトレーナーとは話がついているんだろう?」

「相変わらず憶測で物を言いやがる。何度も痛い目にあったのを忘れたか?」

「確かに、悪い癖だね。だが、今回は外れているとは思っていないよ」

 

 淡々と、それでいて揺るぎない声音。

 ルドルフは微笑を崩さぬまま、静かにシリウスを見つめていた。

 その穏やかさが、かえって挑発のようにも感じられる。

 

 シリウスは短く息を吐き、面倒そうに顔をそらした。

 

「……チッ。どうするかは、そこの小鹿次第だ」

「えっ……あ、わ、私? ……ですか?」

 

 まさか、小鹿が自分のことは思わず、パーマーの肩がびくりと跳ねた。

 突然、視線が突き刺さり、呼吸が浅くなる。

 その沈黙は短いようで、永遠にも感じられた。

 

 ごくりと生唾を飲み込んだ、その瞬間──扉が開いた。

 

「シリウス、そろそろ時間だけど……タイミングが悪かった?」

「……なんでもねぇよ」

 

 トレーナーの声に、シリウスは短く答え、椅子を押して立ち上がる。

 そのまま一歩、二歩と歩み寄り、何も言わずにトレーナーの隣を通り過ぎた。

 

 すれ違いざまに、ほんの一瞬だけ目が合う。

 言葉はない。けれど、それで十分だった。

 

 信頼の形は、言葉よりも静かにそこにあった。

 

 やがて、足音が遠ざかる。

 その背を見送りながら、トレーナーはふっと口元を緩めた。

 瞳には誇らしさとともに、どこか憧れにも似た光が宿っている。

 

 残された室内には、微かな静けさが戻っていた。

 ほんの少し前まで張り詰めていた空気が、ゆるやかに溶けていく。

 パーマーは思わず息を吸い込み、その余韻の中でようやく肩の力を抜いた。

 

 その様子を見ていたトレーナーが、ふと振り向く。

 

「パーマー、少しは話せた?」

 

 穏やかな声音に、パーマーは瞬きをして顔を上げる。

 少し間を置いて、首を傾げながらも、かすかに頷いた。

 

「うーん……話した、って言えるのかなぁ?」

「まあ、想像はつくよ。だけど、シリウスも悪意があるわけじゃないから気にしないで」

「……そっか。うん、ありがと」

 

 その言葉に、パーマーはわずかに息を吐く。

 緊張がほどけるのと同時に、胸の奥に温かな安堵が広がっていった。

 

 その空気を見計らったように、ルドルフが静かに口を開く。

 

「君の意見をぜひ聞きたい。今回のレースは──……いや、よしておこう。学ばないな、私は」

「賢明ね。ターフの外にいるなら見届ければいいだけよ。そうではなくって?」

 

 ラモーヌの声音は、どこまでも上品で、それでいてどこか子供のように楽しげだった。

 その軽やかさに、ルドルフは小さく息を吐き、負けを認めるように額へ手を当てて苦笑する。

 

 トレーナーはそんな二人を見て小さく笑うと、扉の前で半身をずらし、外へ出る姿勢を見せた。

 そして、勝気な笑みを浮かべながら口を開く。

 

「今のシリウスなら、負けることはないよ」

 

 ──その言葉を最後に、時は流れる。

 灰色の雲が垂れこめる午後、スタンドにはすでに熱気が満ちていた。

 

『さあ、まもなく発走を迎えます! ──キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス! 天候は曇り、芝の状態はやや重。湿りを含んだターフが、各陣営の読みを試す一戦となりそうです!』

 

 湿った風が観客席を抜けていく。

 重たい雲の下、空気は熱を孕み、ざわめきが波のように揺れていた。

 

 どこを見ても人の群れ。

 押し寄せる声が折り重なり、歓声が重低音のように地面を震わせる。

 その熱気は肌に張り付き、呼吸のたびに胸の奥まで振動が伝わってきた。

 

 名を呼ぶ声が次々と上がり、それがやがて一つのうねりになる。

 まるで世界の鼓動そのものが、この場所に集まっているようだった。

 

 パーマーたちは最前列近くの関係者席に並んでいた。

 その眼前には、ゲート前で準備を整えるウマ娘たちの姿。

 芝の上を蹴るたび、水を含んだ飛沫が光を弾いて散る。

 

『──それでは、出走ウマ娘たちを紹介していきましょう!』

 

 実況の声が一段と高く響く。

 巨大なスクリーンには、ゲート前で軽く体を解すウマ娘たちの姿が映し出された。

 緊張と集中が交錯するその表情は、どのウマ娘も真剣そのもの。

 

『3番人気──【ムーンマッドネス】! 英国生まれの技巧派ステイヤー!  欧州の伝統と誇りをその脚に宿し、今度こそ、栄光をその手に掴めるか!?』

 

 実況が名を告げた瞬間、場内の空気がわずかに変わった。

 それは喝采ではなく、敬意にも似た静かなうねり。

 この地の名を背負う者にしか向けられない、重みのある期待だった。

 

 スクリーンには、深緑の勝負服をまとったウマ娘が映る。

 淡々とした表情のまま、ゆっくりと首を回し、足首を伸ばす。

 無駄のない所作──研ぎ澄まされた職人のような気配。

 

 その存在だけで、アスコットの空気がわずかに引き締まった。

 静寂と熱狂が混ざり合い、“欧州の矜持”がそこに立っていた。

 

『──続いて、2番人気!  去年の凱旋門賞で涙を飲んだ宿命の女王──【トリプティク】! 奪われた栄光を、このアスコットで取り戻せるか!』

 

 スクリーンに映るのは、深紅の勝負服をまとったトリプティク。

 静かに目を閉じ、深く息を吸い込むと、わずかに拳を握った。

 その表情に浮かぶのは、恐れではなく、確かな決意。

 

 去年、敗れた記憶。

 その記憶こそが、彼女を今日まで走らせてきた。

 

 観客席がざわめき、熱が空気を震わせる。

 そして、実況の声が一段高く跳ね上がった。

 

『──そして、栄光の1番人気! 去年の凱旋門賞を制し、欧州を震わせた黒き流星──【シリウスシンボリ】!』

 

 轟く歓声。

 スクリーンに映し出されたのは、蒼い勝負服に身を包んだウマ娘。

 陽を受けて淡く光るその姿は、まるで嵐の前の静けさを纏っているかのようだった。

 

 肩越しに流れる髪をかき上げ、前を見据える。

 わずかな仕草一つで、観客席の空気が一変する。

 沸き上がる声援、歓喜の叫び、鳴り止まぬ拍手。

 そのすべてがアスコットの空を震わせ、ひとつの熱のうねりとなった。

 

 スタンド最前列で、トレーナーは静かに目を細めた。

 胸元には、小さな星のブローチが光を受けて鈍く光っている。

 指先でそれにそっと触れ、短く息を吐いた。

 声にはならない想いが、あのウマ娘へ向けて放たれていく。

 

 その隣で、パーマーは言葉を失っていた。

 ゲート前に立つウマ娘たち──その一人ひとりが放つ気迫の濃度が、肌を刺すように伝わってくる。

 何もかもが違っていた。佇まいも、空気も、目の奥に宿る光も。

 

 ゾクリと背筋を走る感覚。

 鳥肌が立つ。

 胸の奥が熱くなり、息が浅くなる。

 怖いほど美しい光景だった。

 

 ──これが、世界。

 

 心のどこかで、そう呟いていた。

 

 その観客の熱の只中、ゲートへ向かうウマ娘たち。

 同じようにシリウスが芝の上を踏みしめるたび、周囲の視線が突き刺さった。

 

 敵意。

 警戒。

 嫉妬。

 

 それらすべてが肌を焼くように伝わってきた。

 誰もが知っている。去年、欧州の“頂”を奪われたことを。

 このキングジョージは、その冠を取り戻すための戦だ。

 

 それでも、シリウスは笑った。

 唇の端がゆるやかに吊り上がり、目の奥が獰猛に光る。

 

 ──上等だ。

 

 その笑みが消えぬうちに、空気がわずかに揺れた。

 視線を向けた先にいたのは、深紅の勝負服をまとったウマ娘。

 

 金栗色の髪を後ろで束ね、陽を受けたそれが鈍く輝く。

 整った顔立ちに宿るのは、鋼のような意志。そして、忘れられない記憶。

 去年、凱旋門の舞台で敗れたその瞳には、同じ光が宿っていた。

 

 トリプティクが真正面から歩み寄り、シリウスの前に立つ。

 わずかに顎を上げ、静かに見下ろした。

 その眼差しには、氷のような冷たさと、奥底に燃える執念が混ざっていた。

 

「調子に乗るなよ、シリウスシンボリ。あの凱旋門の幻──今日で終わりにしてやる」

 

 その声音には、誇りと怒り、そして静かな闘志が混じっていた。

 敗北を知る者だけが纏う、澄み切った殺気。

 

 トリプティクの言葉が空気を裂くように響くと、周囲のウマ娘たちの視線が一斉にシリウスへと集まった。

 誰もがその覇者を見据え、敵として、挑戦者として、沈黙の中に意志を燃やしている。

 アスコットの風さえも、いまはその視線の熱に息を潜めていた。

 

 シリウスはわずかに目を細め、唇の端を吊り上げる。

 その瞳には、挑発に対する苛立ちではなく、獲物を前にした愉悦が浮かんでいた。

 

「ハッ……やれるものなら、やってみろよ」

 

 短く放たれた声は、もはやトリプティク一人に向けたものではなかった。

 その場のすべての視線をまとめて受け止め、挑み返すように響く。

 

 視線がぶつかり、誰も口を挟めぬほどの緊張が走る。

 その静寂の中、二人──いや、全員がそれぞれの戦場へと歩みを進めた。

 

 空気が再び動く。

 ゲートへと向かう足音、金属が軋む音、蹄鉄が芝を踏む音。

 それらが一つに溶け合い、スタート前の緊張を極限まで高めていく。

 

 シリウスがゲートへと歩み入る。

 蒼の背が陽光を受け、わずかに光を返した。

 扉が閉じられる瞬間、風が止み──アスコット全体が息をひそめた。

 

『各ウマ娘、ゲートイン完了!』

 

 実況の声が高らかに響く。

 その一言で、静寂が凍りついたように場内が張り詰める。

 

 ──乾いた音が弾け、ゲートが一斉に開いた。

 

『世界が見つめる頂上決戦! キングジョージ六世&クイーンエリザベスステークス、スタートです!!』

 




感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
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