凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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8話 勝者

 

『──各ウマ娘、いいスタートを切りました!』

 

 乾いた音とともに、芝が低く唸った。

 湿りを含んだ飛沫が一瞬光を弾き、数秒のあいだに隊列が形を取っていく。

 観客席の熱がうねり、声の波がターフを押し上げるように揺れた。

 

 ムーンマッドネスが軽やかに抜け出し、最初のコーナーを目指して先頭へ。

 地元の歓声を背に、落ち着いて流れを作る。欧州の芝を知る者の余裕が、走りの隙間に漂っていた。

 

 そのすぐ後ろを、リファレンスポイントが鋭く追う。

 髪を靡かせながら、正確なリズムでムーンマッドネスの影をなぞる。

 

 そして、さらに外目の二番手に、シリウスシンボリ。

 スタートで無理はせず、呼吸を整えながら脚を刻む。

 視線は前を捉えたまま、群れの呼吸を読むように流れの芯を掴んでいく。

 押し出すでも、引くでもない──ただ主導権を取る位置。

 

 わずかに間を置いて、トリプティクが中団前目。

 出脚は鋭いが、仕掛けを抑え、静かにシリウスの背を追う。

 その眼差しに、去年の影がちらりと宿った。

 

 トニービンは中団。

 脚を溜めながら、芝の重さと風の向きを読む。

 無駄のないリズムで流れに溶け、他者の動きを静かに映す。

 

 アカテナンゴは後方寄り。

 体を沈め、湿ったターフをものともせずにリズムを刻む。

 鈍重ではなく、確かな安定を感じさせる動きだった。

 

 そのさらに一列後ろ、セレスティアルストームが静かに呼吸を整えていた。

 顔を上げることもなく、ただ風の流れを読むように脚を刻む。

 群れに混じりながらも、どこか別の気配を纏っていた。

 

 サーハリールイス、ユナイト、バーボンガールらはその外で隊列を調整。

 それぞれが位置を探り合い、風の流れに溶けていく。

 

 先頭のムーンマッドネスを中心に、濃淡のある流れが一気に広がった。

 その中央、シリウスが静かに脚を刻む。

 観客の視線が重なり、空気がわずかに震えた。

 

『先頭はムーンマッドネス! すぐ後ろにリファレンスポイント! その外にシリウスシンボリ! 続いてトリプティク、トニービン──各ウマ娘、位置取りを探りながら最初のコーナーへ!』

 

 実況の声が熱を帯びる中、ペースがわずかに落ちる。

 ムーンマッドネスが抑えたからだ。

 それに呼応するように、リファレンスポイントもスピードを絞る。

 その“わずか”な緩みで、後続の列が波のように密集した。

 

 シリウスはその変化を察し、体を外へとずらす。

 が、その瞬間、ユナイトとバーボンガールが外から並びかけた。

 互いの肩が触れぬ絶妙な間合い──まるで風が形を持ったような圧力が押し寄せる。

 

『外からはユナイト、さらにバーボンガール! 内にはリファレンスポイント! シリウスシンボリ、わずかに位置を下げたか!』

 

 わずかな間合いでの距離感。

 それだけで、シリウスは脚の置き場を変えざるを得ない。

 無理に出れば脚を使い過ぎる。控えれば、流れを譲る。

 その一瞬の板挟みの中で、彼女は息を整えた。

 

「(──なるほど、そう来るか)」

 

 目線の先で、ムーンマッドネスが動く。

 それに呼応して、リファレンスポイントが内のラインを取ると同時に、速度を半歩だけ緩めた。

 

 その“半歩”が、シリウスの前脚のリズムを崩す。

 完璧に計算された動き。ぶつからず、邪魔をせず、しかし走る余地を奪う動きだった。

 

『ペースが落ち着きません! ムーンマッドネスが押さえ、後方では各ウマ娘が密集──シリウスシンボリ、中央へ押し込まれました!』

 

 観客の歓声がわずかに遠のく。

 息遣いだけが、濃密に響いていた。

 前を行く者の呼吸、左右の脚音、芝を裂く音が、すべて同じ拍で重なっている。

 

 誰もぶつからない。

 それなのに、どこにも逃げ場がない。

 

 シリウスは横目に流れるリファレンスポイントの背を捉え、わずかに唇を歪めた。

 

 外の圧と内の制御。

 誰も彼女を止めてはいない。ただ、“走らせない”空気を作っている。

 重い芝の下で、戦いはすでに始まっていた。

 

 

 ──見守っていた者たちは、シリウスより先に気が付いていた。

 

 ターフを走るシリウスの影を見つめ、スピードシンボリが眉をひそめる。

 視線の先、シリウスは完全に囲まれている。

 内も外も塞がれ、逃げ場がほぼ無い。

 

「……やはり狙われるか」

 

 低く落としたスピードシンボリの声に、隣のルドルフが小さく頷く。

 その横顔には、静かな焦燥が滲んでいた。

 

「予想していたことだが……あの位置で脚を使わされるのはまずい」

 

 ターフの中、シリウスはまだ表情ひとつ変えない。

 それがかえって、不安を掻き立てる。

 シンボリ家の二人が不安になっている中で、ラモーヌだけは何も言わず、瞳だけを細めた。

 

 その静けさが、逆に異様だった。

 序盤から重苦しい空気の中、パーマーは思わず声を漏らす。

 

「トレーナー、大丈夫なの……?」

「……想定の範囲である。だけど、正直言ってここまで狙われるとは思っていなかった」

 

 その声音には、驚きと感嘆が半分ずつ混じっていた。

 

 予想はしていた。

 誰もが自由には走らせてくれないだろうと。

 シリウスを抑えに来ること、マークしてくることは当然。

 

 だが──ここまで他のウマ娘たちの意識が同調するとは思っていなかった。

 お互いが敵同士であるはずの彼女たちが、今はまるで“ひとつの群れ”として動いている。

 誰も声を出さず、しかし同じ呼吸で、同じ目的を共有していた。

 

「ムーンマッドネスが先頭でペースを支配して、そのすぐ後ろでリファレンスポイントが合わせて、内側の流れを固める。その外をユナイトとバーボンガールが押さえてるから、シリウスは外に出られない。かといって、下がろうにも後ろのトリプティクが邪魔をしてる」

 

 トレーナーの言葉に、パーマーは息を呑んだ。

 ターフの中では、シリウスがわずかに揺れている。

 押し込まれながらも、どうにか抜け出すタイミングを計っていた。

 

「でも、これって……進路妨害にならないの?」

「いや、こればっかりは相手が上手い。“ラインを譲らない”──それをしているだけだよ」

 

 言葉は穏やかだが、視線は鋭かった。

 

「日本のレースなら、もっと綺麗に間が空くだろうけど海外は違う。ああやって、互いのリズムを奪い合うんだ」

 

 パーマーはごくりと唾を飲み込む。

 シリウスの肩が一瞬だけ上下する。ほんの数呼吸の乱れ──それだけで、体の動きに微かな影が差した。

 

「……まずいな。早く抜けなければ取り返しが付かない」

「息を奪われたウマ娘は、いくら強くても伸び切れない。だから、ここで削って、最後に潰す。狙いはそんなところだろう」

 

 シンボリ家の二人の声には、戦場を知る者の静かな敬意が滲んでいた。

 

 彼女たちは戦っている。

 名誉や意地だけでなく、勝つための知恵と理、そのすべてを賭けて。

 今回、その矛先が、たった一人の覇者を沈めるために収束してしまっただけだ。

 

「──でも、シリウスなら問題無い」

 

 静かに、けれど断言するようなトレーナーの声。

 その落ち着きに、周囲の空気がわずかに緩む。

 

 パーマーは走るシリウスを目で追う。

 何も分からないまま、それでも胸の奥で何かが震えている。

 

 ターフの中で、蒼が風を裂いていた。

 荒波の中でも沈まない光が、確かにそこにあった。

 

 

 ──蹄が芝を打つ音が、低く、規則的に響く。

 

 第一コーナーを抜けてなお、隊列の形は崩れない。

 濡れた芝が重く、どの脚も慎重に地を探る。

 ペースは遅い。だが、ただの落ち着きではない。

 

 前にいるムーンマッドネスが、後方を確認しながらスピードを僅かに絞った。

 それに、外のユナイトが呼吸を合わせる。

 その一瞬の間合いの取り方で、シリウスの進路が狭まる。

 

 左は内柵、右は壁。

 どちらにしても動きづらく、無理に脚を使えば最後の方で脚色が鈍る。

 このままでは、無駄にスタミナを消費するだけ。

 そのことを念頭に置きつつ、シリウスは前方を注視した。

 

 そして、その少し後方で、トリプティクは周囲の様子をうかがいながら、わずかに眉を寄せる。

 

「(気に入らないな……狙いは一緒だが、欧州(そっち)の駒になった覚えはないぞ)」

 

 ムーンマッドネスの意図は読めていた。

 だからこそ、利用してやろうと思っていた。

 しかし、今は自分もまた、その網の目の一部となっている。

 

 下手に仕掛ければ、抑えにかかっているシリウスに抜ける隙を与えかねない。

 かといって、このまま行けば、ムーンマッドネスとリファレンスポイントの作る流れに完全に飲み込まれる。

 それは、単純に前を取ったムーンマッドネスが巧みに場をコントロールしており、その緻密さには思わず舌を巻くほどだった。

 

 だが──どっちにしても、いずれは動かざるを得ない。

 シリウスもきっと、それを分かっている。

 

 目線の先、蒼が静かに揺れていた。

 押し込まれているはずなのに、乱れない。

 呼吸の奥に、何かを溜め込んでいる気配がある。

 空気が微かに震えた。

 

 ──何かが、来る。

 

 トリプティクの指先がわずかに強張る。

 その圧は、目に見えないのに確かにあった。

 重い芝を通して、空気がじわりと熱を帯びていく。

 冷や汗が背を伝い、それと同時に唇の端が吊り上がる。

 

「(あの時の屈辱を……!)」

 

 静かな狂気のような笑みを浮かべ、トリプティクは再び脚を沈めた。

 いつでも動けるように──体の奥で火を点ける。

 

 対して、先頭を行くムーンマッドネスは、背後のざわめきを耳の端で感じ取っていた。

 風の乱れ、蹄の間隔、芝を裂く音。すべてが繊細な信号として伝わって来る。

 

「(──今のところは、順調ね)」

 

 安堵と、わずかな驚き。

 こう動けば、他も察してくれるとは思っていた。だが、これほど完璧に噛み合うとは。

 その上、あのリファレンスポイントが先頭をこちらに譲ったことは想定外だった。

 けれど──それもまた、シリウスを警戒してのことだろう。

 

 そのリファレンスポイントの影が、常に一定の距離を保って背後にある。

 あの冷静な追走こそが、この策略の軸。

 彼女が動かない限り、誰も大きく仕掛けてはこないだろう。

 

 軽く呼吸を一つ。

 芝の重みが脚に馴染む。

 この重さこそ、ムーンマッドネスが最も得意とする舞台。

 

「(焦る必要はない……タイミングを見て“止め”を刺す) 」

 

 そうすれば、覇者は潰れる。

 後は、こちら側での一騎打ちだ。

 

 ──覇者を抑えるには、力より秩序。

 

 内を守り、外を動かし、真ん中で体力を削ぐ。

 戦いではなく、支配するようにレースを動かす。

 それが、彼女のやり方だった。

 

 ……だが。

 

 微かに、背筋をじりじりと焼くような焦燥が走る。

 空気が重く、後ろから押されている。

 

 ムーンマッドネスは、音と空気の揺れで、その変化を捉えていた。

 背後の群れの波が、わずかに蠢いている。

 

 それまで完璧に保たれていた呼吸が、わずかにズレ始めた。

 芝を裂く音の拍が、ほんの少し早くなる。

 その違和感に、ムーンマッドネスの表情が引き締まる。

 意識せずとも、脚が半歩だけ速くなった。

 

 そして、その圧をまともに受けていたリファレンスポイントは、表に出さぬよう歯をくしばる。

 胸がわずかに上下し、整っていたはずの呼吸がかすかに乱れた。

 

「(やりづらい……っ!)

 

 汗がうなじを伝い、風に散る。それが、いつもより多い。

 けれど本人は、それが何を意味しているのか気づいていなかった。

 

『ペースがわずかに上がりました! 中団の隊列が動き出しています──! シリウスシンボリ、再び前との距離を詰めてきた!』

 

 実況の声が、観客席のざわめきを割った。

 音が波のように押し寄せ、スタンドの空気が震える。

 その瞬間、ぞくりと背を撫でるような感覚が走った。

 

 何かが来る。

 

 誰もが、同じ異変を感じ取っていた。

 間違いなく、何らかの気配が動き始めている。

 

 ──風が、かすかに震えた。

 

 次の瞬間、シリウスの“圧”が弾ける。

 わずかに重心が沈み、空気が歪んだ。

 その気配だけで、リファレンスポイントの体が反応する。

 

「(動いたっ!)」

 

 反射的に脚を強める。

 冷静さを欠いたわけではない。

 ただ、あまりにも自然に体が動いていた。

 

 内でペースが上がる。

 それを見たムーンマッドネスが呼吸を合わせた。

 

 ──だが、違う。

 

『リファレンスポイントが仕掛けた! ムーンマッドネスも反応! 外の隊列も連動──していない! 脚を溜めているようです!』

 

 その実況の声に反して、外のユナイトが目を見開き、すぐに険しい表情へと変わる。

 

「(バカっ……! 何をっ!?)」

 

 動いていない(・・・・・・)

 外の壁として動いていたユナイトとバーボンガールの目には、そう映った。

 一瞬、仕掛けたように見えただけで、その実態はほんのわずか──重心をずらし、外側へ身体の意識を向けただけ。

 

 だが、それだけで流れが変わった。

 

 内でリファレンスポイントが反応し、ムーンマッドネスが呼吸を合わせる。

 その波が、外へと伝わってくる。

 

 こちらも無理に脚を使って合わせるべきか。

 それとも、このまま様子を見て追走するべきか。

 

 ほんの一拍の迷い。

 そのわずかな判断の遅れが、致命傷になった。

 

 ムーンマッドネスの上げた速度に釣られ、外の流れがわずかに膨らむ。

 整っていた隊列が、一瞬だけ解れた。

 

 ──その隙を、シリウスが見逃すはずがない。

 

『シリウスシンボリ──外へ! 一気に前へ出た!!』

 

 観客席が爆ぜたように揺れた。

 重く湿った空気を切り裂き、蒼の閃光が弾ける。

 ムーンマッドネスの視界の端を掠め、外へ躍り出た。

 

「(なっ──しまっ……!)」

 

 リファレンスポイントが歯を食いしばる。

 ムーンマッドネスは慌てて立て直すが、流れはもう戻らない。

 隊列の主導権が、完全に入れ替わった。

 

 内にリファレンスポイント、外にシリウスシンボリ。

 その間に挟まれる形でムーンマッドネス。

 ここに来て、三者が並んだ。

 

『先頭争いは三つ巴──ムーンマッドネス、シリウスシンボリ、リファレンスポイント! 後続も中団から詰めてくる!』

 

「(ふざけたことをする……っ!)」

 

 トリプティクはそんな前の動きを見て、信じられないものを見たように毒づいた。

 後方にいたトリプティクをはじめ、トニービン、アカテナンゴ、サーハリールイスが一斉に目を見開く。

 

 普通、そんなことできるはずがない。

 気配だけで仕掛けたように“見せる”など。

 

 だが、今の状況がそれを可能にさせた。

 全員がシリウスに集中しすぎていたのだ。

 少しの挙動すら見落とすまいと、呼吸を合わせ、神経を張りつめていた。

 

 そこに、増していくシリウスの圧。

 動く──と、あの気配を感じさせられては、わずかな体の揺れにも反応してしまうのは致し方ない。

 掛かってしまったリファレンスポイントを責めることはできないだろう。

 

 ある意味、ムーンマッドネスはリファレンスポイントを信用しすぎた。

 

「(くっ……! やられたっ!!)」

 

 ムーンマッドネスは舌打ちを飲み込み、歯を食いしばる。

 完璧に抑えたはずだった。

 しかし、相手のわずか一つの動作で均衡を崩した。

 

「(こうなってしまっては……っ!)」

 

 ムーンマッドネスは視界の端と頭の中で流れを組み直す。

 視界の端にいるリファレンスポイントもすぐに立て直した。

 けれど、冷静を取り戻したように見えて表情は険しい。

 

 トリプティクを含め、後方組は位置を取り直している。

 シリウスの後ろ、絶妙な距離にいたからこそ、出来たこと。

 あの動きを見て、瞬時にポジショニングを整えていた。

 

 群れの律動が再び組み直される。

 だが、もう欧州勢の独壇場ではない。

 

『先頭はムーンマッドネス! その外からシリウスシンボリ、内にはリファレンスポイント! 互いに譲らず、三者が並ぶ形! その後ろ、トリプティク! 外にユナイト、バーボンガール! 中団にはトニービンとアカテナンゴ! 後方からサーハリールイスも詰めてくる!──そしてセレスティアルストーム! まだ動かない、静かに脚を溜めている!』

 

 実況の声が熱を帯び、スタンドの空気が震える。

 観客の歓声も、大きく熱を持ち出した。

 

 各々の位置が確定する。

 誰もが、次の瞬間を見据えていた。

 

 ここから先は、誰の謀も、策も通じない。

 ただ、すべてを懸けた力比べが始まるだけだ。

 

『第3コーナーを通過──後方からはトリプティク! 中団のトニービン、アカテナンゴも脚を上げてきた! 隊列が密集してきます!』

 

 実況の声が、風のうねりに溶ける。

 芝を打つ音が重なり、空気が震えていた。

 

 ムーンマッドネスは息を詰めた。

 左右から伝わる圧に、胸が焼ける。

 外からはシリウスの気配が迫り、内からはリファレンスポイントが削る。

 わずかでも気を緩めれば、すぐに置いていかれる。

 

 ──だが、それは全員同じ。

 

 リファレンスポイントの肩が上下し、シリウスの呼吸も荒い。

 序盤の削り合いは、間違いなく無駄ではなかった。

 脚は残っている。ならば、ここからが勝負だ。

 

「(仕掛けるなら──先にッ!)」

 

 ムーンマッドネスは重心を前へ送った。

 わずかな体の沈みとともに、芝を蹴り上げる。

 

『ムーンマッドネス、動いた!! 最終コーナーで仕掛けましたっ!!』

 

 実況の声が、爆ぜるように響いた。

 ムーンマッドネスの脚は止まらない。そのリズムは荒く、激しい。

 湿った芝が弾け、距離を離していく。

 

 わずかに1バ身。ムーンマッドネスが先に抜けた。

 

『先頭はムーンマッドネス! 1バ身、リードを取った! 外からシリウスシンボリ! 内にはリファレンスポイント! さらに後続も詰めてくる!』

 

 視界が、白く光る。

 風と歓声がぶつかり、音が消える。

 全員が、ただ前を見ていた。

 

 ──最終直線。

 

 ムーンマッドネスの背に影が差す。

 蒼の閃光が迫り、その脚が風と一体になって伸びて来ていた。

 

『シリウスシンボリ、来たっ! 外から伸びてくる!!』

 

「(っ! 更に加速して──っ!?)」

 

 ムーンマッドネスの驚愕が喉を裂く。

 直線に入っておよそ400。その瞬間、並ぶ間もなく抜かれた。

 

『シリウスシンボリ、先頭に立った! ムーンマッドネスが沈む! リファレンスポイントが追う! だが、苦しいかッ!?』

 

 湿った芝が弾けるたび、陽光が粉のように散った。

 背後から、怒涛の気配が押し寄せる。

 

『後続が来るッ──トリプティク! シリウスシンボリを捕まえに行きます!』

 

「(脚が残っていたとしても、疲労は隠せていない!)──ここで、終わりだ、シリウスッ!!」

 

 叫びと共に、トリプティクが吼えた。

 溜めに溜めた脚を解き放つ。

 

 だが、その背後で同じように風が爆ぜた。

 

『──さらに外からセレスティアルストーム! 一気に末脚を爆発させた!』

 

 風が裂けた。

 音の壁を越えるような衝撃が、ターフの上を駆け抜ける。

 セレスティアルストームの加速は、異様なほど鋭かった。

 

 それまで静かに溜め込んでいた呼吸が、一気に解き放たれる。

 ただ、一人だけ、ずっと輪に加わらず、虎視眈々とこの瞬間を狙っていた。

 

「ハァァァァァァッ!!」

「──邪魔をするなァ!!」

 

『これは!? トリプティク更に加速! 先頭シリウスシンボリとの差を3バ身差、2バ身──1バ身!!』

 

 トリプティクにとって、それはあの日からの続きだった。

 凱旋門の敗北、あの屈辱の記憶。

 

 幾度も夢に見た背中。

 追って、追って、ようやくこの手が届く。

 

 そのまま、追い抜いて──

 

『──縮まらない! 差が、縮まりません! シリウスシンボリ譲りません!』

 

 今回レースは、全体を通してペースが遅かった。

 それは、ムーンマッドネスが序盤で作り出した巧みな流れのせいでもあるが、それだけではない。

 

 芝は重く、踏み込むたびに脚が取られる。加えて、中盤の駆け引きによる絶え間ない位置の入れ替え。

 あの時、シリウスだけでなく全員が想像以上に体力を削られていた。

 

『残り200! リファレンスポイントも伸びてくる! 内にシリウスシンボリ! 外はセレスティアルストーム、さらにトリプティクも食らいつく!!』

 

 蒼が、風をまとう。

 熱が視界を歪ませ、息が焼けても、なお前を見た。

 轟く足音が、奔流のように背後で絡み合う。

 

『残り100ッ!! 並ぶか!? 並んだ──いや、並ばない! 抜かせないッ!!』

 

 叫びと歓声と蹄の響き。

 そのすべてを押し切るように、蒼が前へ。

 

 ──世界が、追い風に変わった。

 

『シリウスシンボリ、粘る! 粘り切った──ゴールインッ!! 勝ったのはシリウスシンボリ!!』

 

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