『1着──シリウスシンボリ! 2着、トリプティク! 3着、セレスティアルストーム!』
歓声が、遅れて押し寄せる。
波のように膨れ上がり、スタンドを揺らし、空気そのものを震わせた。
『勝った! 勝ちました! シリウスシンボリ! 凱旋門賞制覇に続き、ここキングジョージでも頂点! 欧州の頂を、その脚で踏みしめましたッ!』
歓声は途切れず、実況の言葉もまた、熱に押されるまま溢れていく。
その中心でシリウスは、ただ見上げていた。
肩が大きく上下し、荒い呼吸が胸を揺らす。
全身に残る熱と重みは抜けきらず、脚はわずかに震えている。
踏みしめるたび、鈍い違和感を感じる。
だが、そんなことよりも。
視線は、ただ一点へ。
掲示板には、揺るぎない数字が映っていた。
歓声はなおも高まり続けていたが、その耳には遠く聞こえている。
あの日と、同じように。
──その只中で。
最前列では、控えていたはずの関係者たちまでもが思わず身を乗り出していた。
普段は冷静さを崩さないURAの面々ですら、顔を見合わせ、抑えきれないように頷き合う。
シンボリ家の者たちも言わずもがな。押し殺しきれない昂りが走っていた。
息を呑んだまま言葉を失う者、目を見開いたまま動けない者──それでも、誰もが同じ一点を見つめている。
「……っ、よし──ッ!」
スピードシンボリの低く押し殺したはずの声が、わずかに弾けた。
抑えきれなかった衝動が、そのまま形となり、ぐっと拳が突き上がる。
普段ではまず見られないその姿に、周囲の者たちは一瞬、反応を失った。
ぽかん、と言葉を失う──まさに、そんな間が落ちる。
一拍遅れて、その視線に気づいたスピードシンボリは、はっと我に返った。
「んんっ……コホン」
咳払いをひとつ。
何事もなかったかのように姿勢を正し、わずかに顔を逸らした。
「……いや、その……少し、ね」
わずかに滲む気恥ずかしさ。
それを取り繕うような一言に、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
その場にいた者たちも、同じように息を吐く。
やがて、こぼれるように笑みが広がり──
それぞれの拳が、小さく、あるいは力強く、空へと上がった。
「……ははっ。あの重鎮たちが、揃いも揃ってこんな顔をするとは……いい光景だ、実にいい!」
少し離れた位置で、佐岳メイが肩を揺らす。
「恥ずかしがることなんてないさ。今は、そういうとき、だろう?」
そう言って、自らも拳を上げる。
飾らない動きだったが、その声にはまっすぐな熱があった。
佐岳メイの言葉を受けて、スピードシンボリも逸らしていた視線がゆっくりと前へ戻る。
歓声の中心にいる、シリウスの背へ。
深く息をひとつ落とし、もう一度だけ、静かに拳を握った。
その隣では、ルドルフもまた目を見開き、武者震いするように拳を握っている。
驚きと、感嘆。
そして、その奥に滲む言いようのない高揚を。
そんなルドルフの横顔を見て、ラモーヌがふっと目を細める。
「ふふ……そっちの方が、私は好きよ」
からかうような声音に、ルドルフはわずかに眉を動かした。
──どんな顔をしているのだろう。
そう聞き返しかけて、やめる。
わざわざ聞くまでもない。
ふっと息を吐くように笑う。
自分でも分かっている。今、自分がどんな顔をしているのかくらい。
「シリウス、君は本当に……」
その表情には、どこか晴れやかなものがあった。
そして、その少し離れた先にも、同じ光景を見つめる者がいた。
パーマーだ。
ただ立ち尽くし、何かを言おうとしても言葉が出てこない。
目の前に広がる光景を、ただじっと見つめている。
歓声の中心。
その中に立つ、シリウスシンボリを。
やがて。
シリウスが、ゆっくりと右腕を上げた。
握り締められた拳が、天へ向かって伸びていく。
『シリウスシンボリ、右拳を高く掲げましたッ! 勝利の証を、今、高く高く掲げます! 欧州の頂を制した、その拳です!!』
瞬間、歓声がさらに膨れ上がった。
耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
それでも、パーマーには不思議なくらい、その光景がはっきりと見えた。
その背中を。その勝者の姿を。
あれほど大勢の人間が、たった一人のウマ娘の勝利に沸いている。
胸の奥が、熱くなる。
否、熱くならないはずがない。
それは少しずつ、確かな熱となってせり上がって来ている。
「……すごい……」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「パーマー」
そんな熱に浮かれてしまっているパーマーに、トレーナーは声をかける。
「ここに立ってるのは、夢物語なんかじゃない」
大歓声の向こう。
勝利を手にしたシリウスを見ながら、トレーナーは続けた。
「君だって、あそこに立つことが出来る」
パーマーへ向かって、手を差し出した。
「今度は、君が見せてくれないか」
差し出された手を、パーマーは見つめる。
その胸の奥で、さっきまで知らなかった何かが、確かに動き始めていた。
──キングジョージから、数週間後。
日本の紙面を、大きく飾ったのは一枚の写真。
歓声に包まれたターフの上、無数の視線を背に、右拳を高く掲げるシリウスシンボリ。
その背中を捉えた一枚が、各紙の一面を大きく飾っていた。
【シリウスシンボリ、キングジョージ制覇!】
【凱旋門賞に続く欧州二冠!】
【世界の頂点、再び日本へ!?】
昨年の凱旋門賞制覇に続く快挙。
そして、それ以上に国内を騒がせたのが──シリウス自身による、帰国の宣言だった。
欧州遠征を終え、今後は日本を拠点にする。
その報せは瞬く間に広がり、国内の競技界を大きく揺らしていった。
歓迎する声は無論、多い。
世界を相手に戦い、欧州の頂点まで極めたウマ娘が日本へ戻ってくる。
国内のレースに、世界の覇者が出走する。
それを歓迎しない者の方が少ないだろう。
──だが、その一方で。
なぜ、今なのか。
凱旋門賞の連覇を目前にして、なぜ欧州を離れるのか。
キングジョージを勝った今だからこそ、その疑問はむしろ大きくなっていた。
【なぜ、凱旋門賞を走らないのか】
【今になって国内へ?】
【欧州二冠、その先を捨てる理由とは】
そして、中にはもっと露骨な言葉を並べる記事もあった。
【勝ち逃げではないのか】
【凱旋門賞連覇から逃げたのでは?】
【欧州の頂を目前にして、なぜ帰国を選ぶ?】
【シリウスシンボリは、本当に“世界の覇者”なのか】
これまでの実績を考えれば、辛辣な言葉だ。
凱旋門賞を制し、キングジョージまで勝った。
それだけの結果を残したウマ娘に対して、なお「逃げた」とまで言うのか。
当然、そうした記事に反発する声も多い。
むしろ、ここまで走ってきたシリウスに何を求める。
凱旋門賞もキングジョージも、誰にでも勝てるレースではない。
連覇を目指すことだけが、世界の頂点に立った者の義務なのか。
議論は、日に日に大きくなり、憶測も飛躍する一方。
だが、やはり批判も完全に消えることはなかった。
なにしろ、シリウスが離れるのは、まだ戦えることを証明した直後だったからだ。
負けて帰ってきたわけではない。
力を失ったわけでもない。
勝利だ。
それも、欧州の最高峰のひとつを制した。
だからこそ、人々には理解しきれない。
なぜ、ここで終えるのか。
なぜ、もう一度あの舞台へ向かわないのか。
本人が多くを語らないこともまた、憶測を呼んだ。
だが、そんな疑問や批判さえも飲み込むように──シリウスシンボリの帰国は、国内にかつてないほどの熱をもたらしていた。
京都のレース会場。
空には薄い雲が広がりながらも、陽射しは柔らかく地面へ落ちる。
レースを待つパドックには、出走を控えたウマ娘たちの姿が並んでいた。
周囲から聞こえる観客の声や、係員たちの動く気配。いつものレース前の空気の中に、どこか初々しい緊張が混じっている。
その中の一人。
胸元にゼッケンをつけた体操服姿のパーマーが、どこかそわそわした様子で周囲を見渡していた。
「──調子はどう? パーマー」
傍らから声をかけられ、パーマーは顔を向ける。
トレーナーはいつもと変わらない様子で、まっすぐパーマーを見ていた。
その視線に、パーマーも自然と表情を緩める。
「うん、絶好調! 私らしく、いつも通り走れそうっ!」
明るく答えながら、軽くその場で身体を弾ませる。
いよいよ、メイクデビューだ。
そう思うと、不思議と胸の奥が弾む。
緊張はもちろんある。
だが、それ以上に楽しみが勝っていた。
「それな! で、パリピテビュー☆」
隣から、やたらとテンションの高い声が飛んで来る。
振り向けば、ヘリオスが満面の笑みを浮かべていた。身体を軽く左右に揺らし、今にもその場で踊り出しそうな勢いだ。
「もちろん! ……うん?」
元気よく頷いたパーマーだったが、そこでふと首を傾げる。
ヘリオスの言葉を頭の中で反芻するように、少しだけ間を置いて。
「えっ、メイクデビューでパリピムーブかますの?」
「うぇいうぇ~い、当たり前っしょ☆ 最初からバイブスブチ上げて、生きた証キザんでけ的な!」
そのあまりの勢いに、パーマーは思わず瞬きを繰り返した。
「こっからはパマちんがフロア回すんだって、示しとくっきゃないし☆」
「そ、そっか。高校テビュー的な感じで、いきなりアピールしといた方がいっか。……本当にやるの?」
言いながら、パーマーはおそるおそるトレーナーへ視線を向けた。
その視線を受けたトレーナーは、わずかに眉を下げる。
「……まあ、うん。そこは、パーマーに任せることになると思うけど……」
どこか歯切れの悪い返事だった。
トレーナーは周囲を見渡す。
パドックを囲む観客は多く、記者の姿も目立っている。
本来、メイクデビューのパドックに、ここまで人が集まることはない。
その分、いつもよりも多くの視線を感じた。
もちろん、その大半は出走を控えたウマ娘たちへ向けられている。
期待を寄せる新人を見ようとする者、メジロ家の名に惹かれて足を運んだ者。
物珍しそうに、周囲の様子を窺う者もいる。
けれど。
その視線のすべてが、パーマーたちへ向けられているわけではなかった。
すぐ隣に立つ自分へも、興味深そうな目が向けられている。
中には、あからさまな視線を送ってくる者もいた。
それに、聞こえてくる声も一様ではない。
「メジロ家の子だって」
「シリウスシンボリのトレーナーが担当してるらしいぞ」
「この前のキングジョージ、見たか? あのトレーナーだよ」
期待に弾む声がある一方で、少し離れたところからは、こんな声も混じる。
「次はこの子ってわけか……大丈夫か?」
「まあまあ、どんなもんか見てみましょう」
向けられる視線は、期待だけではない。
純粋な興味もあれば、好奇心もある。
そして、先日の騒ぎを受けて、その実力を確かめようとするような視線もあった。
今、世間を騒がせているシリウスシンボリ。
その快挙を支えたトレーナーが、今度はメジロ家の新たな一人を手掛ける──。
話題性だけで言えば、今年デビューする世代の中でも、パーマーは頭ひとつ抜けた注目を集めているだろう。
その注目株が、今日、いよいよデビューする。
トレーナーは改めて周囲を見渡した。
集まった視線の多さに、申し訳なさそうに眉を下げる。
「……ごめん。分かってはいたけど、注目されちゃってるみたいだ」
「だよねぇ……」
パーマーの顔が、わずかに引きつった。
改めて周囲を見回す。
向けられる視線。
聞こえてくる話し声。
時折、こちらを指差すような仕草まで見える。
その中には、期待するような笑顔もあれば、値踏みするような視線もあった。
思っていたより、ずっと多い。
さっきまで楽しみの方が勝っていたはずなのに──胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなる。
そんなパーマーの背後から、聞き慣れた声が届いた。
「失礼いたしますわ」
「あれ? マックイーンに、ライアン?」
振り返ってみれば、そこにはメジロマックイーンとメジロライアンの姿があった。
二人ともいつもの穏やかな笑みを浮かべているが、その表情にはどこか嬉しそうな色が滲んでいる。
「パーマー、陣中見舞いに来ましたわよ」
「頑張ってね!」
「うん……うん、ありがと!」
パーマーが笑顔を返すと、二人はそのまま隣に立つトレーナーへと向き直った。
「そして、トレーナーさん。改めまして、おめでとうございます」
「本当にすごかったよ。まさかキングジョージまで勝っちゃうなんて!」
ライアンが弾むような声で言う。
「凱旋門賞に続いて、ですものね。あれほどの大舞台で続けて結果を出されるとは……さすが、としか言いようがありませんわ」
「ありがとう。シリウスにちゃんと伝えておくよ」
その返事に、マックイーンとライアンが顔を見合わせ、思わず苦笑を浮かべた。
どうやら、本人は自分に向けられた言葉だとは思っていないらしい。
そんなトレーナーをよそに、二人の視線が改めてパーマーへ向く。
そして、少しだけ表情を変えた。
「調子は……言うまでもなさそうですね」
「うん、見るだけでも分かるよ。パーマー」
「えっ……そ、そう?」
二人からまっすぐに見つめられ、パーマーは少し照れたように頬をかく。
選抜レースの頃と比べても、その姿には確かな変化があった。
身体つきはわずかに引き締まり、以前よりも芯の強さを感じさせる。
「それに、パーマーを応援に来た人はたくさんいるからね!」
ライアンがそう言って、パドックの外へ視線を向ける。
パドックを囲む柵の向こうには、十数人ほどの人だかりができていた。
こちらへ声をかける者もいれば、期待に満ちた表情でパーマーの姿を見つめている者もいる。
中には、手を振りながら笑顔を向けてくる人の姿もあった。
そして、その人だかりの中心で、大きな横断幕が風に揺れていた。
『頑張れ、メジロ家!』
見覚えのある文字に、パーマーの目が少しだけ見開かれる。
「そっか、メジロ家のファン!」
「メジロ家の?」
トレーナーが尋ねると、パーマーは頷いた。
そこにいるのは、昔からメジロ家を応援してくれている人たちだった。
メジロ家のウマ娘たちが走る姿を長年見守り続けてきた、いわば古くからのファンだ。
「そういえば、前にも見かけたことがあったっけ」
パーマーは、横断幕を見つめながら小さく笑う。
「あの時は、ガッカリさせないようにって……ちょっと力んじゃったなぁ」
ふと蘇ったのは、以前のレースの記憶。
期待に応えなければならない。
メジロ家の名を背負っているのだから、恥ずかしい走りはできない。
だけど、そう思うほど、身体は思うように動かなかった。
今となっては、少し苦い思い出だ。
けれど──。
今、あの横断幕を見ても、以前ほど胸が重くなることはなかった。
むしろ、こうして自分のために足を運んでくれたことが、素直に嬉しい。
期待に応えなければと身構えるよりも先に、そんな気持ちが胸に浮かんだ。
「う~ん、ありがたいけど、いきなりハードル上がったかもなー! あの人たちの前でパリピかぁ……」
嬉しい。
だからこそ、ちょっとだけ恥ずかしい。
そう言うように、パーマーは肩を縮めた。
それに気づいたトレーナーは、何も言わずに小さく頷く。
大丈夫だとでも言うように、拳を軽く握ってみせた。
その隣では、ヘリオスが満面の笑みで親指を立てる。
「……っ」
二人の姿を見て、パーマーは一瞬だけ目を丸くした。
そして、ふっと息を吐く。
小さく笑って、もう一度だけ横断幕へ目を向けた。
「──みなさん! 本日デビューするメジロパーマーです!」
パーマーは、ぐっと胸を張って顔を上げる。
さっきまでの尻込みはどこへやら。今度は自信たっぷりに、集まった観客へ向かって笑顔を浮かべた。
「今日は応援に来てくれて、マジでありがとうございますっ!」
そして、少しだけいたずらっぽく笑って──
「せっかくのデビューだし、めっちゃ楽しんでくんで! みんなも一緒にアガってこー! よろしくお願いしまーすっ!」
元気よく頭を下げる。
パドックの周囲に、なんとも言えないざわめきが広がった。
特に、メジロ家の横断幕を掲げていたファンたちは、揃ってぽかんと口を開けている。
長年メジロ家を応援してきた彼らにとって、目の前の令嬢が見せた挨拶は、あまりにも予想外のものだった。
一方で、周囲の観客からは、くすりと笑いが漏れる。
驚いたように顔を見合わせる者もいれば、面白そうに頷く者もいる。
中には、楽しげに声援を送る者までいた。
「うんうん! パマちんぽくてイイじゃん☆」
「あははは! ……ごめん、ちょっと日和った」
そう言って、パーマーは顔を真っ赤にして少し俯いた。
本当はもっとパリピっぽく、勢いよく決めるつもりだったのだ。
それこそ、ヘリオスみたいに……結局、日和ってしまったわけだが。
だが、周囲の反応は悪くない。
小さな拍手や声援まで起き始めた。
先ほどまで値踏みするように向けられていた視線も、いつの間にか少しだけ柔らかくなっている。
メジロ家のファンたちは、まだぽかんとした顔をしているものの、その表情には困惑だけではないものが滲み始めていた。
誰もがまだ、この少女がどんな走りをするのかを知らない。
それでも──少なくとも今、この場にいる者たちは、彼女の門出を楽しみにし始めていた。
やがて、出走を促す係員の声がパドックに響く。
「そろそろ時間だよ、パーマー」
トレーナーの声に、パーマーが顔を上げた。
「……うん」
さっきまでの気恥ずかしさを振り払うように、小さく息を吐く。
そして、もう一度だけ観客の方へ目を向けた。
たくさんの視線。
メジロ家の横断幕。
その向こうには、自分の走りを待っている人たちがいる。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……よしっ」
パーマーは顔を上げる。
いよいよ、自分の番だ。
約1年ぶり近くの更新になってしまい、申し訳ございません。