凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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9話 決意

 

『1着──シリウスシンボリ! 2着、トリプティク! 3着、セレスティアルストーム!』

 

 歓声が、遅れて押し寄せる。

 波のように膨れ上がり、スタンドを揺らし、空気そのものを震わせた。

 

『勝った! 勝ちました! シリウスシンボリ! 凱旋門賞制覇に続き、ここキングジョージでも頂点! 欧州の頂を、その脚で踏みしめましたッ!』

 

 歓声は途切れず、実況の言葉もまた、熱に押されるまま溢れていく。

 その中心でシリウスは、ただ見上げていた。

 

 肩が大きく上下し、荒い呼吸が胸を揺らす。

 全身に残る熱と重みは抜けきらず、脚はわずかに震えている。

 踏みしめるたび、鈍い違和感を覚える。

 

 だが、そんなことよりも。

 視線は、ただ一点へ。

 

 掲示板には、揺るぎない数字が映っていた。

 歓声はなおも高まり続けていたが、その耳には遠く聞こえている。

 

 あの日と、同じように。

 

 ──その只中で。

 

 最前列では、控えていたはずの関係者たちまでもが思わず身を乗り出していた。

 普段は冷静さを崩さないURAの面々ですら、顔を見合わせ、抑えきれないように頷き合う。

 

 シンボリ家の者たちも言わずもがな。押し殺しきれない昂りが走っていた。

 息を呑んだまま言葉を失う者、目を見開いたまま動けない者──それでも、誰もが同じ一点を見つめている。

 

「……っ、よし──ッ!」

 

 スピードシンボリの低く押し殺したはずの声が、わずかに弾けた。

 抑えきれなかった衝動が、そのまま形となり、ぐっと拳が突き上がる。

 

 普段ではまず見られないその姿に、周囲の者たちは一瞬、反応を失った。

 ぽかん、と言葉を失う──まさに、そんな間が落ちる。

 

 一拍遅れて、その視線に気づいたスピードシンボリは、はっと我に返った。

 

「んんっ……コホン」

 

 咳払いをひとつ。

 何事もなかったかのように姿勢を正し、わずかに顔を逸らした。

 

「……いや、その……少し、ね」

 

 わずかに滲む気恥ずかしさ。

 それを取り繕うような一言に、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。

 その場にいた者たちも、同じように息を吐く。

 やがて、こぼれるように笑みが広がり──

 

 それぞれの拳が、小さく、あるいは力強く、空へと上がった。

 

「……ははっ。あの重鎮たちが、揃いも揃ってこんな顔をするとは……いい光景だ、実にいい!」

 

 少し離れた位置で、佐岳メイが肩を揺らす。

 

「恥ずかしがることなんてないさ。今は、そういうとき、だろう?」

 

 そう言って、自らも拳を上げる。

 飾らない動きだったが、その声にはまっすぐな熱があった。

 

 佐岳メイの言葉を受けて、スピードシンボリも逸らしていた視線がゆっくりと前へ戻る。

 歓声の中心にいる、シリウスの背へ。

 深く息をひとつ落とし、もう一度だけ、静かに拳を握った。

 

 その隣では、ルドルフもまた目を見開き、武者震いするように拳を握っている。

 

 驚きと、感嘆。

 そして、その奥に滲む言いようのない高揚を。

 

 そんなルドルフの横顔を見て、ラモーヌがふっと目を細める。

 

「ふふ……そっちの方が、私は好きよ」

 

 からかうような声音に、ルドルフはわずかに眉を動かした。

 

 ──どんな顔をしているのだろう。

 

 そう聞き返しかけて、やめる。

 わざわざ聞くまでもない。

 

 ふっと息を吐くように笑う。

 自分でも分かっている。今、自分がどんな顔をしているのかくらい。

 

「シリウス、君は本当に……」

 

 その表情には、どこか晴れやかなものがあった。

 

 

 そして、その少し離れた先にも、同じ光景を見つめる者がいた。

 

 パーマーだ。

 

 ただ立ち尽くし、何かを言おうとしても言葉が出てこない。

 目の前に広がる光景を、ただじっと見つめている。

 歓声の中心。

 その中に立つ、シリウスシンボリを。

 

 やがて。

 

 シリウスが、ゆっくりと右腕を上げた。

 握り締められた拳が、天へ向かって伸びていく。

 

『シリウスシンボリ、右拳を高く掲げましたッ! 勝利の証を、今、高く高く掲げます! 欧州の頂を制した、その拳です!!』

 

 瞬間、歓声がさらに膨れ上がった。

 

 耳を塞ぎたくなるほどの轟音。

 それでも、パーマーには不思議なくらい、その光景がはっきりと見えた。

 

 その背中を。その勝者の姿を。

 あれほど大勢の人間が、たった一人のウマ娘の勝利に沸いている。

 

 胸の奥が、熱くなる。

 否、熱くならないはずがない。

 それは少しずつ、確かな熱となってせり上がって来ている。

 

「……すごい……」

 

 ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

「パーマー」

 

 そんな熱に浮かれてしまっているパーマーに、トレーナーは声をかける。

 

「ここに立ってるのは、夢物語なんかじゃない」

 

 大歓声の向こう。

 勝利を手にしたシリウスを見ながら、トレーナーは続けた。

 

「君だって、あそこに立つことが出来る」

 

 パーマーへ向かって、手を差し出した。

 

「今度は、君が見せてくれないか」

 

 差し出された手を、パーマーは見つめる。

 その胸の奥で、さっきまで知らなかった何かが、確かに動き始めていた。

 

 

 

 

 

 ──キングジョージから、数週間後。

 

 日本の紙面を、大きく飾ったのは一枚の写真。

 歓声に包まれたターフの上、無数の視線を背に、右拳を高く掲げるシリウスシンボリ。

 

 その背中を捉えた一枚が、各紙の一面を大きく飾っていた。

 

【シリウスシンボリ、キングジョージ制覇!】

【凱旋門賞に続く欧州二冠!】

【世界の頂点、再び日本へ!?】

 

 昨年の凱旋門賞制覇に続く快挙。

 そして、それ以上に国内を騒がせたのが──シリウス自身による、帰国の宣言だった。

 

 欧州遠征を終え、今後は日本を拠点にする。

 その報せは瞬く間に広がり、国内の競技界を大きく揺らしていった。

 

 歓迎する声は無論、多い。

 世界を相手に戦い、欧州の頂点まで極めたウマ娘が日本へ戻ってくる。

 国内のレースに、世界の覇者が出走する。

 

 それを歓迎しない者の方が少ないだろう。

 

 ──だが、その一方で。

 

 なぜ、今なのか。

 

 凱旋門賞の連覇を目前にして、なぜ欧州を離れるのか。

 キングジョージを勝った今だからこそ、その疑問はむしろ大きくなっていた。

 

【なぜ、凱旋門賞を走らないのか】

【今になって国内へ?】

【欧州二冠、その先を捨てる理由とは】

 

 そして、中にはもっと露骨な言葉を並べる記事もあった。

 

【勝ち逃げではないのか】

【凱旋門賞連覇から逃げたのでは?】

【欧州の頂を目前にして、なぜ帰国を選ぶ?】

【シリウスシンボリは、本当に“世界の覇者”なのか】

 

 これまでの実績を考えれば、辛辣な言葉だ。

 

 凱旋門賞を制し、キングジョージまで勝った。

 それだけの結果を残したウマ娘に対して、なお「逃げた」とまで言うのか。

 

 当然、そうした記事に反発する声も多い。

 

 むしろ、ここまで走ってきたシリウスに何を求める。

 凱旋門賞もキングジョージも、誰にでも勝てるレースではない。

 連覇を目指すことだけが、世界の頂点に立った者の義務なのか。

 

 議論は、日に日に大きくなり、憶測も飛躍する一方。

 だが、やはり批判も完全に消えることはなかった。

 

 なにしろ、シリウスが離れるのは、まだ戦えることを証明した直後だったからだ。

 

 負けて帰ってきたわけではない。

 力を失ったわけでもない。

 

 勝利だ。

 

 それも、欧州の最高峰のひとつを制した。

 だからこそ、人々には理解しきれない。

 

 なぜ、ここで終えるのか。

 なぜ、もう一度あの舞台へ向かわないのか。

 

 本人が多くを語らないこともまた、憶測を呼んだ。

 

 だが、そんな疑問や批判さえも飲み込むように──シリウスシンボリの帰国は、国内にかつてないほどの熱をもたらしていた。

 

 

 

 

 

 

 京都のレース会場。

 空には薄い雲が広がりながらも、陽射しは柔らかく地面へ落ちる。

 

 レースを待つパドックには、出走を控えたウマ娘たちの姿が並んでいた。

 周囲から聞こえる観客の声や、係員たちの動く気配。いつものレース前の空気の中に、どこか初々しい緊張が混じっている。

 

 その中の一人。

 胸元にゼッケンをつけた体操服姿のパーマーが、どこかそわそわした様子で周囲を見渡していた。

 

「──調子はどう? パーマー」

 

 傍らから声をかけられ、パーマーは顔を向ける。

 トレーナーはいつもと変わらない様子で、まっすぐパーマーを見ていた。

 その視線に、パーマーも自然と表情を緩める。

 

「うん、絶好調! 私らしく、いつも通り走れそうっ!」

 

 明るく答えながら、軽くその場で身体を弾ませる。

 いよいよ、メイクデビューだ。

 そう思うと、不思議と胸の奥が弾む。

 緊張はもちろんある。

 だが、それ以上に楽しみが勝っていた。

 

「それな! で、パリピデビュー☆」

 

 隣から、やたらとテンションの高い声が飛んで来る。

 振り向けば、ヘリオスが満面の笑みを浮かべていた。身体を軽く左右に揺らし、今にもその場で踊り出しそうな勢いだ。

 

「もちろん! ……うん?」

 

 元気よく頷いたパーマーだったが、そこでふと首を傾げる。

 ヘリオスの言葉を頭の中で反芻するように、少しだけ間を置いて。

 

「えっ、メイクデビューでパリピムーブかますの?」

「うぇいうぇ~い、当たり前っしょ☆ 最初からバイブスブチ上げて、生きた証キザんでけ的な!」

 

 そのあまりの勢いに、パーマーは思わず瞬きを繰り返した。

 

「こっからはパマちんがフロア回すんだって、示しとくっきゃないし☆」

「そ、そっか。高校テビュー的な感じで、いきなりアピールしといた方がいっか。……本当にやるの?」

 

 言いながら、パーマーはおそるおそるトレーナーへ視線を向けた。

 その視線を受けたトレーナーは、わずかに眉を下げる。

 

「……まあ、うん。そこは、パーマーに任せることになると思うけど……」

 

 どこか歯切れの悪い返事だった。

 

 トレーナーは周囲を見渡す。

 パドックを囲む観客は多く、記者の姿も目立っている。

 本来、メイクデビューのパドックに、ここまで人が集まることはない。

 

 その分、いつもよりも多くの視線を感じた。

 もちろん、その大半は出走を控えたウマ娘たちへ向けられている。

 期待を寄せる新人を見ようとする者、メジロ家の名に惹かれて足を運んだ者。

 物珍しそうに、周囲の様子を窺う者もいる。

 

 けれど。

 

 その視線のすべてが、パーマーたちへ向けられているわけではなかった。

 すぐ隣に立つ自分へも、興味深そうな目が向けられている。

 中には、あからさまな視線を送ってくる者もいた。

 

 それに、聞こえてくる声も一様ではない。

 

「メジロ家の子だって」

「シリウスシンボリのトレーナーが担当してるらしいぞ」

「この前のキングジョージ、見たか? あのトレーナーだよ」

 

 期待に弾む声がある一方で、少し離れたところからは、こんな声も混じる。

 

「次はこの子ってわけか……大丈夫か?」

「まあまあ、どんなもんか見てみましょう」

 

 向けられる視線は、期待だけではない。

 純粋な興味もあれば、好奇心もある。

 そして、先日の騒ぎを受けて、その実力を確かめようとするような視線もあった。

 

 今、世間を騒がせているシリウスシンボリ。

 その快挙を支えたトレーナーが、今度はメジロ家の新たな一人を手掛ける──。

 

 話題性だけで言えば、今年デビューする世代の中でも、パーマーは頭ひとつ抜けた注目を集めているだろう。

 その注目株が、今日、いよいよデビューする。

 

 トレーナーは改めて周囲を見渡した。

 集まった視線の多さに、申し訳なさそうに眉を下げる。

 

「……ごめん。分かってはいたけど、注目されちゃってるみたいだ」

「だよねぇ……」

 

 パーマーの顔が、わずかに引きつった。

 

 改めて周囲を見回す。

 

 向けられる視線。

 聞こえてくる話し声。

 時折、こちらを指差すような仕草まで見える。

 

 その中には、期待するような笑顔もあれば、値踏みするような視線もあった。

 

 思っていたより、ずっと多い。

 さっきまで楽しみの方が勝っていたはずなのに──胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなる。

 

 そんなパーマーの背後から、聞き慣れた声が届いた。

 

「失礼いたしますわ」

「あれ? マックイーンに、ライアン?」

 

 振り返ってみれば、そこにはメジロマックイーンとメジロライアンの姿があった。

 二人ともいつもの穏やかな笑みを浮かべているが、その表情にはどこか嬉しそうな色が滲んでいる。

 

「パーマー、陣中見舞いに来ましたわよ」

「頑張ってね!」

「うん……うん、ありがと!」

 

 パーマーが笑顔を返すと、二人はそのまま隣に立つトレーナーへと向き直った。

 

「そして、トレーナーさん。改めまして、おめでとうございます」

「本当にすごかったよ。まさかキングジョージまで勝っちゃうなんて!」

 

 ライアンが弾むような声で言う。

 

「凱旋門賞に続いて、ですものね。あれほどの大舞台で続けて結果を出されるとは……さすが、としか言いようがありませんわ」

「ありがとう。シリウスにちゃんと伝えておくよ」

 

 その返事に、マックイーンとライアンが顔を見合わせ、思わず苦笑を浮かべた。

 どうやら、本人は自分に向けられた言葉だとは思っていないらしい。

 

 そんなトレーナーをよそに、二人の視線が改めてパーマーへ向く。

 そして、少しだけ表情を変えた。

 

「調子は……言うまでもなさそうですね」

「うん、見るだけでも分かるよ。パーマー」

「えっ……そ、そう?」

 

 二人からまっすぐに見つめられ、パーマーは少し照れたように頬をかく。

 選抜レースの頃と比べても、その姿には確かな変化があった。

 身体つきはわずかに引き締まり、以前よりも芯の強さを感じさせる。

 

「それに、パーマーを応援に来た人はたくさんいるからね!」

 

 ライアンがそう言って、パドックの外へ視線を向ける。

 パドックを囲む柵の向こうには、十数人ほどの人だかりができていた。

 

 こちらへ声をかける者もいれば、期待に満ちた表情でパーマーの姿を見つめている者もいる。

 中には、手を振りながら笑顔を向けてくる人の姿もあった。

 

 そして、その人だかりの中心で、大きな横断幕が風に揺れていた。

 

『頑張れ、メジロ家!』

 

 見覚えのある文字に、パーマーの目が少しだけ見開かれる。

 

「そっか、メジロ家のファン!」

「メジロ家の?」

 

 トレーナーが尋ねると、パーマーは頷いた。

 

 そこにいるのは、昔からメジロ家を応援してくれている人たちだった。

 メジロ家のウマ娘たちが走る姿を長年見守り続けてきた、いわば古くからのファンだ。

 

「そういえば、前にも見かけたことがあったっけ」

 

 パーマーは、横断幕を見つめながら小さく笑う。

 

「あの時は、ガッカリさせないようにって……ちょっと力んじゃったなぁ」

 

 ふと蘇ったのは、以前のレースの記憶。

 期待に応えなければならない。

 メジロ家の名を背負っているのだから、恥ずかしい走りはできない。

 だけど、そう思うほど、身体は思うように動かなかった。

 今となっては、少し苦い思い出だ。

 

 けれど──。

 

 今、あの横断幕を見ても、以前ほど胸が重くなることはなかった。

 むしろ、こうして自分のために足を運んでくれたことが、素直に嬉しい。

 期待に応えなければと身構えるよりも先に、そんな気持ちが胸に浮かんだ。

 

「う~ん、ありがたいけど、いきなりハードル上がったかもなー! あの人たちの前でパリピかぁ……」

 

 嬉しい。

 だからこそ、ちょっとだけ恥ずかしい。

 そう言うように、パーマーは肩を縮めた。

 

 それに気づいたトレーナーは、何も言わずに小さく頷く。

 大丈夫だとでも言うように、拳を軽く握ってみせた。

 その隣では、ヘリオスが満面の笑みで親指を立てる。

 

「……っ」

 

 二人の姿を見て、パーマーは一瞬だけ目を丸くした。

 

 そして、ふっと息を吐く。

 小さく笑って、もう一度だけ横断幕へ目を向けた。

 

「──みなさん! 本日デビューするメジロパーマーです!」

 

 パーマーは、ぐっと胸を張って顔を上げる。

 さっきまでの尻込みはどこへやら。今度は自信たっぷりに、集まった観客へ向かって笑顔を浮かべた。

 

「今日は応援に来てくれて、マジでありがとうございますっ!」

 

 そして、少しだけいたずらっぽく笑って──

 

「せっかくのデビューだし、めっちゃ楽しんでくんで! みんなも一緒にアガってこー! よろしくお願いしまーすっ!」

 

 元気よく頭を下げる。

 パドックの周囲に、なんとも言えないざわめきが広がった。

 

 特に、メジロ家の横断幕を掲げていたファンたちは、揃ってぽかんと口を開けている。

 長年メジロ家を応援してきた彼らにとって、目の前の令嬢が見せた挨拶は、あまりにも予想外のものだった。

 

 一方で、周囲の観客からは、くすりと笑いが漏れる。

 驚いたように顔を見合わせる者もいれば、面白そうに頷く者もいる。

 中には、楽しげに声援を送る者までいた。

 

「うんうん! パマちんぽくてイイじゃん☆」

「あははは! ……ごめん、ちょっと日和った」

 

 そう言って、パーマーは顔を真っ赤にして少し俯いた。

 本当はもっとパリピっぽく、勢いよく決めるつもりだったのだ。

 それこそ、ヘリオスみたいに……結局、日和ってしまったわけだが。

 

 だが、周囲の反応は悪くない。

 小さな拍手や声援まで起き始めた。

 先ほどまで値踏みするように向けられていた視線も、いつの間にか少しだけ柔らかくなっている。

 

 メジロ家のファンたちは、まだぽかんとした顔をしているものの、その表情には困惑だけではないものが滲み始めていた。

 

 誰もがまだ、この少女がどんな走りをするのかを知らない。

 それでも──少なくとも今、この場にいる者たちは、彼女の門出を楽しみにし始めていた。

 

 やがて、出走を促す係員の声がパドックに響く。

 

「そろそろ時間だよ、パーマー」

 

 トレーナーの声に、パーマーが顔を上げた。

 

「……うん」

 

 さっきまでの気恥ずかしさを振り払うように、小さく息を吐く。

 そして、もう一度だけ観客の方へ目を向けた。

 

 たくさんの視線。

 メジロ家の横断幕。

 その向こうには、自分の走りを待っている人たちがいる。

 胸の奥が、少しだけ熱くなった。

 

「……よしっ」

 

 パーマーは顔を上げる。

 

 いよいよ、自分の番だ。

 

 




約1年ぶり近くの更新になってしまい、申し訳ございません。
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