今回はちょっと暗いです
第42話:悪夢の招き手
森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂いがふわりと鼻をくすぐり、木々の青い香りが肺の奥まで染み込んでいく。
鳥の声が遠くで重なり、風が枝葉を揺らすたびに光がちらちらと揺れた。
職場体験の緊張が、少しずつ溶けていくのが分かる。
「Woh! 見てくだサイ結城サン! この木、めっちゃ太いデース!」
ポニーちゃんがはしゃぎながら、両腕をいっぱいに広げて木に抱きつく。
その姿があまりに無邪気で、界離は思わず口元を緩めた。
「結城くん、写真撮っていい?」
「やだ」
「えぇ〜!」
透がカメラを構え、界離はそっぽを向く。
そのやり取りに、ヤオモモがくすりと笑った。
「皆さん、こちらの植物は薬草としても利用されていて――」
「ヤオモモ、説明長い!」
「えっ、そ、そうですか?」
わいわいと賑やかに歩く中、梅雨ちゃんは少し後ろを歩きながら、界離の背中をじっと見つめていた。
(・・・やっぱり、どこか違う)
界離の歩き方、呼吸のリズム、笑うタイミング。
全部“いつもの界離”なのに、どこかが違う。
その違和感が、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。
昼時。
各々が持参した弁当を披露する中、ヤオモモの弁当はまさに高級料亭のそれだった。
彩り、香り、盛り付け――どれも完璧。
「うまっ! ヤオモモ天才!」
「ポニーさん、食べるの早いですわ!」
「結城くんも食べる?」
「・・・うん」
界離は普通に食べている。
普通に見える。
でも――梅雨ちゃんの胸の奥に、ざらりとした違和感が残る。
(・・・笑ってるのに、目が笑ってない)
界離の笑顔は、どこか“形だけ”に見えた。心がそこにいないような、薄い膜を隔てたような。
「ところでさ、皆職場体験どうだった?」
界離が切り出すと、みんなが一斉に話し始めた。
透はお茶子と共にガンヘッドの元で
梅雨ちゃんはセルキーの元で密航者を捕らえた話を。
ヤオモモはウワバミの元でCM出演した日々を。
どれも楽しそうで、誇らしげで、界離もそれを聞きながら笑っていた。
――だが、その笑顔はやはりどこか遠かった。
「でも、No.1はヤッパリ結城サンデスネ。ヒーロー殺しに指定
「ヒーロー殺しの件は出久や轟も居たから、俺一人の成果じゃないよ。それに俺としてはヤオモモが羨ましいな・・・インタビューとかCM出演なんて学校じゃまだ習えない事を体験できたんだから」
界離の返答に、ヤオモモは少し照れたように微笑んだ。
その笑顔は、界離の言葉に救われたようにも見えた。
だが梅雨ちゃんは――界離の横顔から目を離せなかった。
(・・・やっぱり、違う)
昼食後、透とポニーがトイレへ。
ヤオモモは片付けのため少し離れた。
自然と、界離と梅雨ちゃんが二人きりになる。
「・・・界離ちゃん」
「ん?」
梅雨ちゃんは深呼吸して、昼寝をしようとした界離を見つめた。
「最近・・・何か隠してない?」
界離の心臓が跳ねた。
全身の血液が冷却液に変わったかのように体が冷え、呼吸が一瞬止まる。
(・・・やばい)
だが表情は崩さない。
いつもの調子で返す。
「別に。何も――」
「嘘よ」
梅雨ちゃんの声は静かだった。
でも逃げ場がないほど真っ直ぐだった。
「界離ちゃん・・・昔みたいに、心から笑えてないわ」
その瞬間――界離の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
自分の手が、
そして足元には――
(・・・っ!)
界離は瞬きを繰り返す。
幻は一瞬で消えた。
だが心臓は激しく脈打ち、手のひらが冷たく汗ばむ。
(・・・なんで今、こんな・・・)
梅雨ちゃんは僅かな変化を見逃さず、続ける。
「学校に居る時も、今日も・・・皆と笑ってるのに、どこか遠くにいるみたいで・・・私、ずっと気になってたの」
界離は誤魔化そうと口を開く。
「・・・考えすぎだよ。俺は――」
「界離ちゃん」
梅雨ちゃんが一歩近づく。
「私は、あなたの力になりたいの。だから――」
「・・・鬱陶しいよ」
反射的に出たその言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。
「幼馴染だからってさ・・・調子に乗り過ぎじゃない?俺だって男なんだから、土足で踏み込んでほしくない場所だってあるんだよ」
梅雨ちゃんの瞳が揺れた。
「界離・・・ちゃん?」
その声は、痛みに震えていた。
「・・・あの、結城くん?」
振り返ると、透・ポニー・ヤオモモの三人が立っていた。
透は驚きで目を見開き、ポニーは口を押さえ、ヤオモモは信じられないという顔をしていた。
(聞かれた・・・)
界離の“冷たく無機質な声”は、普段の彼からは想像できないものだった。
「結城さん・・・今の、あなた・・・」
ヤオモモの声は震えていた。
ポニーは涙を滲ませていた。
「・・・今日はもう帰る」
「結城くん、待って――」
透が手を伸ばすが、立ち上がった界離はワープゲートを開いた。
「ごめん。・・・また明日」
絞り出すようにごめんと残し、界離はそのままワープゲートの向こうへ消えた。
寮の部屋に戻ると、透から通話が入った。
『結城くん・・・大丈夫?』
「・・・大丈夫だよ」
声が震えているのを自覚しながら、界離は答える。
『梅雨ちゃん、すごく心配してたよ』
「・・・だろうね」
沈黙が支配する。
(公安会長交代のニュース・・・本当は結城くんに聞きたい。でも・・・言えない。言ったら、結城くんがもっと苦しむ)
透は確信していた。
突然の公安委員会会長の交代。
これは偶然ではなく、おそらく界離が何かしたのだと。
「・・・透。梅雨ちゃんと皆に、ごめんねって伝えといて」
『結城くんが直接言えばいいじゃない』
「・・・無理だよ」
透は息を呑む。
『ねぇ結城くん・・・本当のこと、梅雨ちゃんに話さない?』
「ダメだ!」
返事は即答だった。
「梅雨ちゃんには・・・皆には本心からヒーローを目指してほしい。俺みたいな・・・
『結城くん・・・』
「お願いだ透。
こんなこと知ったら、皆はきっとどこまでも俺たちの後を追い続ける・・・これ以上、巻き込みたくない」
通話が静かに途切れた。
界離はベッドに倒れ込み、胸の奥に溜まった痛みを押し殺した。
(・・・ごめん梅雨ちゃん)
(俺はあと何年・・・君と一緒に居られるのかな?あとどれだけ、胸を張ってヒーロー科のみんなと歩けるのかな)
(レディ・ナガン・・・あなたが抱えてた絶望・・・今更だけど、分かった気がします)
その悲鳴は、誰にも届かなかった。
界離との通話が切れた瞬間、透はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
(・・・結城くん、あんな声で・・・)
胸の奥がじんと痛む。
あの優しい声が震えていた。
泣き出しそうなほど弱っていた。
でも――透は言えなかった。
画面の向こうで、界離の背後に“監視の影”がちらりと映った気がした。
(・・・言えるわけ、ないよね)
透は深く息を吸い、梅雨ちゃんたちとのグループ通話を開いた。
「・・・透ちゃん?」
最初に声を出したのは梅雨ちゃんだった。
その声は、震えていた。
「界離ちゃん・・・帰っちゃったのよね」
「・・・うん」
透は言葉を選びながら答える。
「結城くん、すごく・・・疲れてた。今日はもう無理だって」
その瞬間、梅雨ちゃんの息が詰まる音が聞こえた。
「・・・私ね、透ちゃん」
梅雨ちゃんの声は、今にも泣き出しそうなほど弱かった。
「界離ちゃんが辛い時・・・いつも、傍に居られなかったの」
透は黙って聞く。
「小六の空港の事件の時も・・・中一の誘拐犯の時も・・・界離ちゃんが一番苦しんでた時に、私は何もできなかった」
梅雨ちゃんの呼吸が乱れる。
「幼馴染なのに・・・大好きで・・・何よりも大切な人なのに・・・私は、何も・・・」
そんな事は無いと、言いたかった。
「・・・そんな時ね」
梅雨ちゃんは、少しだけ言葉を詰まらせた。
「界離ちゃんの隣にいたのは・・・透ちゃんだった」
透の胸がきゅっと締めつけられる。
「透ちゃんは・・・ずっと界離ちゃんを支えてた。私ができなかったことを・・・全部」
「梅雨ちゃん・・・」
「だから・・・羨ましかったの。透ちゃんが、界離ちゃんの一番近くにいるのが」
その言葉は、嫉妬ではなく、自分を責める痛みだった。
透は言いかけた。
(本当は・・・言いたい。“結城くんを助ける力になって”って・・・“真実を知ってあげて”って・・・)
でも――視界の端に、自分の部屋のモニターの陰に、公安の監視の影が動いた。
(・・・ダメだ)
透は唇を噛んだ。
(言ったら・・・梅雨ちゃんまで巻き込む)
だから――透は、言えなかった。
「・・・梅雨ちゃん」
「・・・なに?」
「結城くんが・・・“ごめんね”って」
梅雨ちゃんは、息を呑んだ。
「・・・そう、なの」
その声は、泣き出す寸前のように震えていた。
「界離ちゃん・・・私のこと、嫌いになったのかな」
「違うよ!」
透は思わず声を上げた。
「結城くんは・・・梅雨ちゃんのこと、すごく大事に思ってる。だから・・・言えないんだよ。大事だからこそ・・・」
言いながら、透の胸も痛んだ。
(本当は・・・もっと言いたいのに)
「・・・ありがとう、透ちゃん」
梅雨ちゃんは静かに言った。
「界離ちゃんに・・・また明日、会うわ」
「うん・・・」
通話が切れた後、透はスマホを胸に抱きしめた。
(結城くん・・・どうしたら、あなたを助けられるの・・・?)
その問いは、夜の静けさに溶けていった。
◇◇◇◇
落ちている――そんな感覚だけがあった。
界離は気づけば、真っ暗な空間を彷徨っていた。
上下も、左右も、距離感も分からない。
ただ、足音だけが虚しく響く。
(・・・ここ、どこだ)
声を出しても、音は吸い込まれるように消えていく。
匂いも風もない。
世界そのものが“死んでいる”ような静寂。
その静寂を破ったのは――悲鳴だった。
男の声。
女の声。
子どもの声。
混ざり合い、遠くで、近くで、四方八方から響く。
(誰か・・・!)
界離は走り出した。走っているはずなのに、足元の感覚が曖昧で、まるで地面が存在しないようだった。
悲鳴の方向へ辿り着いた瞬間、界離は息を呑んだ。
そこには――知っている顔が、倒れていた。
クラスメイト。
雄英の教師。
ミルコ。
サンイーター。
ルミリオン。
ネジレチャン。
狼愛。
愛狸。
皆、動かない。
苦痛の表情を浮かべたまま、静かに横たわっている。
(・・・なんで・・・なんでみんな・・・)
界離は震える手でミルコに触れようとした。
だが指先が触れる直前、ミルコの身体は砂のように崩れ、風に散った。
「やめろ・・・やめてくれ・・・」
界離の声は震えていた。
「――界離ちゃん!!」
梅雨ちゃんの声だ。
界離は反射的に走り出した。足がもつれそうになりながら、必死に声の方へ向かう。
木々の影が揺れ、視界が歪む。
胸が苦しい。呼吸が浅い。
そして――見えた。
梅雨ちゃんが、誰かに押さえつけられていた。
「やめて!! 界離ちゃん!!」
界離は咄嗟に近くに落ちていた刀を掴んだ。
助けなきゃ。守らなきゃ。
その一心で、影に向かって刀を振り下ろした。
だが――刃が貫いたのは、梅雨ちゃんだった。
「・・・え?」
梅雨ちゃんの瞳が、驚きと悲しみで揺れる。
「界離・・・ちゃん・・・どうして・・・?」
「違う・・・違うんだ・・・俺は・・・!」
界離は刀を手放し、梅雨ちゃんを抱きしめようとする。
だが腕の中の梅雨ちゃんは、光の粒となって消えていった。
「――どうして、なんて聞くまでもないだろ」
背後から声がした。
界離は振り返る。
そこにいたのは――自分自身だった。
死んだ魚のような、光のない瞳。
感情の欠片もない表情。
血のついた手。
「お前が殺したんだよ。梅雨ちゃんも、クラスメイトも、ヒーローも、家族も。全部、お前の手で」
「違う・・・俺は・・・!」
「違わない。俺は“そういう存在”なんだよ」
周囲に、影が立ち上がる。
命令で闇に葬った七人のプロヒーロー。
そして、植物状態に陥れた会長。
彼らは界離を囲み、口々に言う。
『お前はヒーローじゃない』
『汚れた手で、誰を守るつもりだ?』
『次は誰を殺す?』
『お前は――壊す側の人間だ』
「やめろ・・・やめてくれ・・・!」
界離は耳を塞ぐ。
だが声は頭の中に直接響いてくる。
『お前は、いずれ――』
「やめろッ!!」
叫んだ瞬間、世界が崩れ落ちた。
「――っは!!」
界離は飛び起きた。
息が荒い。
胸が痛いほど脈打っている。
胃がひっくり返るような感覚に襲われ、界離はベッドから転げ落ちるようにして洗面台へ駆け込んだ。
「・・・っ、う・・・!」
堪えきれず、吐いた。
何度も、何度も。
吐くものがなくなっても、
喉が勝手に痙攣して、涙が滲む。
(・・・なんだよ、これ・・・)
鏡を見る。
自分の顔が、ひどく青ざめていた。
(・・・俺は・・・)
胸の奥に、“確信”のようなものが生まれてしまった。
(――皆と一緒にいられるのは、もう一年もない)
その確信は、悪夢よりも冷たく、重く、界離の心に沈んだ。