最推しの羽川翼と付き合いたい 作:羽川翼はヤベー奴
私が絶望の中で一人きりで居たところを助け出された。
あれは多分、私がヒロインだと自称しても良い数少ない機会の一つだと思う。
私がヒロインだった話は終わり──だから、これは私がお兄ちゃんに救われた後の話。
「おはよー、
「うん、おはよう。
昔の私は尖っていた。
境遇が境遇だから仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。
でも、ツンツンとしていて攻撃的でどこか格好付けていた。
今となっては気取っていた自分に赤面ものだね。
「二人は?」
「早めに出掛けたわ」
「今日って何かあったけ?ま、いいか」
私達は一緒に暮らしている。
というか、一方的に私がお節介になっている。
それも全ては私が救いだされたあの日、私は周囲の大人にできる限りの主張をした。
『どうかした?何かあったのかー?』
『…………』
『?何か気になることとかあったか?遠慮なく何か言ってくれ!』
『…………』
『えーと、その……そんな服にしがみつかれても分からないんだけど……?』
『…………』
『うぐ!?いや、ちょ、待っ……!?く、首っ!首が締まってるぅ……!?』
私は極度の人間不信に……いや、大人不信になっていた。
大人は私の事を裏切り利用する人間しかいないと、そう思い込んでいたんだね。
人間不信にならなかったのは、他でもない彼が何の見返りもないのに助け出してくれたから。
私が世界で唯一信じられる存在こそがお兄ちゃんだった。
「今日は何かしたいとかある?サッカー?フットサル?セパタクロー?何がしたい?」
「数学をしたいわ。ねえ、『オイラーの等式』って知ってる?数学史上『最も美しい数式』と言われてる凄い数式なの。自然対数の底 e と虚数単位の i 、円周率の π 、そして1と0。数学における極めて重要な5つの定数がたった1つの式で結びついていて、最早芸術と言ってもいいわ」
「うん、知らない」
『勉強するかー。でも、俺って文系なんだよなぁ……』と呟きながら、椅子に座り私と机越しに向かい合う。
それでも、鉛筆と紙を用意する辺りお兄ちゃんの私に寄り添おうとする優しさが分かる。
彼は自身の両親や色々な大人を頼り、私の安全を掴み取れるように動いてくれた。
色々な手続きを終わらせてくれて、社会福祉団体から援助が貰えるようにしてくれたのだ。
それどころか、あのクズ親の借金も肩代わりしないようにしてくれただけじゃなく、人攫いの不安もこの先ずっとやって来なくなるみたい。
ーーそして、その状態は半年の月日が経った今も変わらない。
「ねえ、お金は本当に大丈夫だった?」
「うん?……ああ、両親を説得した時のあれね。あれは言った通り、俺が色々な事をして正当に手に入れたお金だから大丈夫!」
笑いながらそう言う彼を見て、彼が身を切るような真似をしたのではない事を知って安堵する。
もちろん、この恩を忘れるつもりなどないけどね。
昔よりも肩の力を抜いて生きているけど、私の本質は重い女だから忘れる事なんてありえない──死ぬまで。いえ、死んでも、絶対に。
「大人ですら簡単には稼げないお金を持ってることもそうだけど、悪い人達を子供が納得させることなんて普通じゃないわ」
今まで深くは聞かなかった事だった。
私が居候をさせて貰っていたのは、私が彼以外の人間の前ではパニックを起こしてしまう事もあり、経過観察の意味もあって居候という形で収まった。
勿論、すんなりといったわけではなかったけれど、お兄ちゃんがそうした方がいいと根気強く説得をしてくれて、この様な形になったという理由がある。
その生活がある程度慣れてきていた私は、よりお兄ちゃんに深く踏み込むためのその一歩をその日、意を決して踏み出した。
私の問いに対して彼はどこか言いにくそうに口ごもると、頭を掻きながら口を開く。
「まあ、なんというか、ちょっとした裏技だよ。流石に俺一人であの件をどうにかするなんて流石に無理無理。なら、頼れる大人に頼るっていうのが正しいやり方だろ?」
私はあの最低な親の言葉通りなら、極道のような危ない組織に身売りさせられる筈だった。
それを、生半可な金額でどうにかするなんてとても現実的ではないのは分かっている。
助けられて良かったという気持ちの他に、申し訳ない気持ちで一杯になった。
私はお兄ちゃんが危ない橋を渡ることを望んではいなかった。
けれど、彼はそんな私の態度から察したのか大丈夫だと明るく言う。
「フッフッフ、こう見えてそれなりの
深い溜め息だった。
彼らしくはなかったけど、それほど癖のある人であるようだ。
あのお兄ちゃんが机に突っ伏してしまうほどの相手なのだから、それはそれはとんでもない人なのだろう。
でも、どんな人であれ小学生のうちからそんな人と知り合えることが、既に普通じゃない。
ご両親は一般家庭の範疇を出ないようだったから、やはりお兄ちゃんがおかしいのだと思う。
だけど、そんなお兄ちゃんだから私を救ってしまったのだと思えば、まるで物語のヒーローのようだと思ってしまうのだから不思議だ。
「あの人を尊敬はしてるけど、本音を言うとできる限り会いたく無いんだよなー……怖いし」
……とはいえ、私が当時からお兄ちゃんに向けるこの感情が"重い"ことは分かっている。
今まで両親の顔色を伺ってきた私だ。
この感情をぶつけられれば、お兄ちゃんに鬱陶しいと思われるのだと認識できる程度の客観視はできた。
だから、気付かれないように細心の注意を払い続ける。
お兄ちゃんに失望させられたり嫌われたりするなんて、当時も今も考えたくなんてないから。
「(私にとっては憧れのヒーロー……でも、彼にとって私は囚われのお姫様でも何でもない。虐待されてとうとう親から見放されただけの可哀想で哀れな惨めな女の子。彼にとって特別な女の子にはなれない)」
それはお兄ちゃんの反応からも間違いはなかったと思う。
私を助けたことに下心も何もない。
そんなお兄ちゃんだからこそ、私を助けることができたという事実を思えば、随分と皮肉が利いていると思う。
「(人間不信で愛想がなくて情緒不安定の女が、この人のお姫様になれる訳がないんだから。今もこうして家に住まわせて貰えるだけ充分。これ以上を求めるなんて罰が当たるわ)」
あの頃の渡しはお兄ちゃんと結ばれたいと思っていたかは結構怪しい。
小学三年生の子供だったから恋愛なんて分かってなかったし、言ってしまえばあの感情は『憧れ』だったんだと思う。
目の前に現れたヒーローに憧れて、どこか浮わついた気持ちだった。
「よし、うん。話を変えよう。そうしよう」
きっとお兄ちゃんは私が両親の事を思い出さないように、色々と気を使ってくれたんだと思う。
この気配りの細やかさは同年代の男子達には無いものだった。
気分で動き回る少年でありながら、絶対に踏み越えて欲しくないところは決して踏み込んで来ない。
その癖、私を救い出した時のように相手にとって必要なことなら、誰に止められても止まらない人。
チグハグのようでどこまでも一貫して行動を起こしていた。
きっと、それがお兄ちゃんが様々な人から好かれている魅力なんだと思う。
「そう言えば、羽川翼さん……だっけ?
「あれ?どうして
「普段からあれだけ名前を口から出していれば流石に覚えるわよ」
彼には好きな人が居るのだという。
それが羽川翼。
お兄ちゃんの告白を何度も振っているお兄ちゃんの幼馴染みの女の子。
「話を聞く限り何度も振られてるのに、諦めようとか思わないの?実を結ぶ根拠なんてどこにもないじゃない」
私には何故お兄ちゃんからの告白を振るのか、その理由が全く分からないけど、人の価値観は人の数だけ違うのだし、羽川さんには受け入れる事のできない何かがあって、お兄ちゃんからの想いを受け付けないのだろう。
まあ、毎回のようにキッチリと振っているらしいから、私から何か言うのも違うのかもしれないけど。
「まあ、こればかりはしゃーなしだ。だって恋愛は惚れた方が負けなんだぜ?じゃあ、負け犬らしく遠吠えをするだけさ。ワンワン」
「……ここまで潔いと何も言えないわね」
お兄ちゃんの割り切り方は凄い。
それはそれ、これはこれをここまだ実践できる人もそうはいないと思う。
「(羨ましくて妬ましい……恵まれている人間はいつも幸せな理由に気付かない。だから……嫌い)」
好きな人のために言動を変えて、髪型を変えて、服装を変えて、人間関係まで変えて、変えて変えて変えて変えて変えて変えて、変え続けたお兄ちゃんは本当に努力の人だと思う。
私は物語でよく使われるフレーズである愛の力。
それこそが、お兄ちゃんの抱いている想いなんだと思った。
それこそ、思わず私が気後れしてしまいかねないほどの純愛。
私にはあれほど誰かを想うことができるのか、ちょっと自身が無くなるほどの一途な想い。
でも、だからこそ私は『恋愛』に夢を見れるようになった。
何故なら、私の両親は絶対に想い合っていなかったという事実を知ってしまったから。
彼らに『愛』は欠片も存在していなかった。
その無慈悲で、残酷で、救いの無い事実を、お兄ちゃんが『恋』をする姿を見て私は確信できてしまったのだ。
十年も想いに答えられていないにも
お兄ちゃんを見ていると、もし仮に羽川さん以外の誰と付き合う事になったとしても、両親のような関係になることは無いとそう断言できる。
ーーお兄ちゃんが誰かを一心に『愛』し続ける姿が、私にとっての残酷で無慈悲な救いだった。
そして、今では小さな頃とはその振るまいはガラリと変わり、あの時のような何をするか分からない活発さはお兄ちゃんから消えてしまったけど、頭で考えるよりも身体が動き出す事はあの頃から変わっていない。
それこそ、お母さんには『この鉄砲玉みたいな馬鹿息子が変な事をしたら、引っ張たいても止めてやってね?面倒を見てくれる
「頑張って。
「おう!やってやんぜ!」
そう言って、数学の勉強をする。
と言っても、別に学校の宿題じゃない。
『オイラーの等式』を理解するため、その数式の意味を理解をするってだけ。
その五つの定数をどんな時に使うかを噛み砕いて説明した。
本当は応用から何から何までちゃんと教えてあげたかったけど、何度も止められてその部分は省かざるをえなかった。
「この『eiπ=-1』と『eiπ+1=0』の二つの数式は、どっちも『オイラーの等式』でいいのか?」
「ええ、両辺をそれぞれ+1か-1をするかの違いだから同じよ。『世界で最も美しい数式』は『eiπ+1=0』の方。e, i, π, 1, 0 の五つの定数が揃ってるもの。でも、私はより無駄を無くした『eiπ=-1』の方が好きよ」
何もかもが満たされているから、『世界で最も美しい数式』と言われている。
お兄ちゃんは見たまま素直に思ったことを口にした。
「うーん、そうだなぁ……俺は『eiπ+1=0』の方が気分が良いな!」
「……気分がいい?」
私はその言葉の意味が理解できなかった。
お兄ちゃんは私とは違って、数字を見ていると気分が良くなるタイプには見えなかったから。
「『eiπ=-1』は答えがどんな答えでも-1になるみたいで、なんか気分が悪くなる気がしないか?『eiπ+1=0』は+1をした結果が0になるんだから、何か得した気分になるだろ」
それは私には無い考え方だった。
数字によって導き出される答えとは違った子供染みた理屈。
それは、もしかするとお兄ちゃんの言う通り、文系の考え方だったかもしれない。
「でも、それって結局は0なんだから得をしてないと思うんだけど……」
私には何も無いように見えて寂しく思えてしまうが、お兄ちゃんにはそうは見えなかったようだ。
「でも、借金も何も無い状態で始められるんだ。充分得だろ?どんなことでも0から始めればいいんだよ」
「……それが-1を積み重ねるだけかもしれないのに?私は父親に金のために身売りされたあとに母親にも見捨てられて、孤独の中で空腹と絶望を味わったわ。幸せよりも不幸がやってくる事の方が自然な事よ」
地震や台風から連鎖するように二次災害や三次災害が起こる。
災いというのは一度で終わってくれない。
尾を引くようにじわじわと苛み続けるからこそ災難なんだから。
あの次々と絶望が押し寄せてくるあの感覚を知っていた私は、そんな前向きにはなれなかった。
「ーーでも、俺が助けたじゃん」
「っ!」
そう、世界で唯一私を不幸と災難から救い出したお兄ちゃんだけはその言葉を言える。
他の人なら私が今から幸せになれるなんて言われても響かない。
けれど、私を絶望から日の当たる場所に連れ出して救ってくれたお兄ちゃんだけは、それを言うことができた。
私を助けその後の私の生活まで守ってくれた。
これほど完全無欠な救いもない。
言い訳なんてする方が野暮だ。
「一歩一歩、転ばないようにやっていけば、いつかは足下を見なくても前を向けて歩けるようになる。
「気付けない……」
「目の前に幸せとか希望とかあったら、怯えて疑って見過ごすよりも取り敢えず掴んじゃえばいい」
「……それだって、詐欺とかもあるじゃない。騙されたくはないわ」
素直になれない私の捻くれた揚げ足を取り。
可愛げなんて欠片もない……ちょっと死にたくなってくる。
でも、彼はそんな見当外れの私の言い分に何故か真剣に考えて苦々しい顔をした。
「詐欺かぁ……うん、まあ、確かに考え無しに飛び付くのは良くないか……でも、今ある幸せを『もっと欲しい』って思うのは悪くないだろ?相手が駄目ならそれで引けばいいんだし」
「それって、まさか……」
きっとお兄ちゃんが言っていたのは、お母さんやお父さんとまだ距離がある私の事を言っていたんだと思う。
これ以上、壁を作る必要なんてどこにもないと。
「何て言うか、もっと能天気に生きても良いと思うぜ」
「能天気ってそんなこと……」
私は怖かった。
彼に一度救われてこうしてまともに生きれる事実を知った事で、いつこの幸せが失ってしまうのかと、恐怖で頭がおかしくなってしまいそうだった。
だから、今の環境が壊れないように常に怯えて怖がっていたんだね。
「幸せになれるって思った方が気分が良いぞ。そっちの方が楽しく生きられるしな」
「また気分?」
「そう、気分。幸せなんて形がある訳じゃないんだから、その時その時の気分が良いかどうか決めるんだ。ほら、よく言うだろ?心の贅肉ってやつ」
「それって良い意味で使われるものだったかしら?」
「え?違うの?」
お兄ちゃんは基本的に刹那的に生きていたと思う。
文系かどうかは怪しい。
「ま、まあ、幸せなんてたくさん取り込むうちに、どんな幸せを味わったかなんて忘れちゃうし、食事を食べて身体にどんどん付いてくる脂肪と変わらないって」
「……
「そう言う意味じゃないよ?俺って別にデブ専とかじゃないからね?結構真面目な話をしていた筈なのに……あれれー?おかしいぞー?どうしてそんな話になったんだろ?」
羽川さんに変な認識をされないようにお兄ちゃんは必死だった。
まあ、あの頃はお兄ちゃんの想いを隠すのでいっぱいいっぱいで、たまに変なことを口走っていたと思う。
「え、えーと……そう!着膨れして幸せ太りをしているように見えるくらいでいいってことだな!流石に五十も百も幸せを着こんで、幸せを感じ取れませんなんて奴は存在しないだろ?暑苦しくて身動きできないくらい幸せになれば、誰だって能天気な顔して毎日を過ごせるさ」
「……結果と過程が引っくり返ってるじゃない、それは」
お兄ちゃんは『今ある幸せをちゃんと実感できず恐怖をする私』に、『たくさんの幸せを手に入れれば最後には幸せを当たり前ように感じられる』と言ったのだ。
そんな安心安全が確信できない以上は、机上の空論のようにしか思えなかった。
「いやー、何も問題無いんだなー、これが!」
その顔は余りにも自信満々だった。
それこそ、意味が分からないくらいに。
根拠がないにも
その理由を何でもないかのように答える。
「フッフッフ、何故なら……俺が
私はその自信満々な顔に何も言えなくなってしまった。
呆れたのとは違う。
その一点の曇りもない顔色に、それが紛れもない本心であるということを理解してしまったから。
未来の事なんて誰にも分からない。
それこそ、根拠なんて全く無い。
でも、その確信に満ちた顔を向けられてしまい、何も言えなくなるほどの衝撃が胸を襲ったのは、揺るぎようの無い事実だった。
「飽きるくらいに幸せにしてやんよ!お兄ちゃんに任せておけって!」
「私達、同い歳だけど……」
そんな事を良いながらも、もう納得していた。
この人を弟扱いなんてできる訳がないと。
こんな事まで言ってくれる人が味方に居てくれる。
それがどれだけ幸運なのか分からないほど馬鹿にはなれない。
だって私は幸せの理由を分からない馬鹿が世界で一番嫌いだから。
「(お兄ちゃん……あなたの事をそんな風に呼べるのは一体いつになるのかしらね)」
「お兄ちゃん、お帰りなさい!」
昔を思い返していると玄関が開けられた。
この時間帯に帰ってくるのはお兄ちゃんしかいない。
「もー、こんなに可愛い義妹を一人にするなんて酷いんだからさー。ちゃんと構ってよねぇー?」
「はいはい、数学パズルを一緒にしような」
「やったー!紅茶を飲みながらやろ?ほらほら、行こ!」
お兄ちゃんの腕に抱き付いてそのままリビングに向かう。
『幸せな気分で着膨れするくらいに幸せになる』。
その当初の目的はお兄ちゃんと何気ない毎日を過ごす事で無事に達成された。
劇的な瞬間は最初に助け出された時だけ。
私が幸せを感じる事ができたのは何の変哲もない日常だった。
どうやら、幸せになるのに非日常は必要なかったらしい。
私は幸せを数える事をずっと前に止めて、当たり前の日常を生きていく。
私が幸せの理由はお兄ちゃんが私を守りながら、一緒に居てくれているのだと知っているから。
ちなみにだけど、私がお兄ちゃん呼びになるのに半年も掛からなかった。
どうやら、私は重くてちょろい女だったらしい。