なろう系と呼ぶには、冒涜的すぎる   作:おさわHSM

14 / 23
主人公が優しくないので最終回です


私の、運命の人

わたしの家は、ふつうの家だったと思う。

お母さんとお父さんがいて、二人ともよく働いてた。お母さんはスーパーのレジで、お父さんは配達の仕事。毎日くたくたで帰ってくるけど、夕飯のときはちゃんと笑ってくれた。

わたしは一人っ子で、学校から帰ったらだいたい一人。宿題やって、テレビ見て、お母さんの帰りを待つ。

ほんとうに、どこにでもある家族。どこにでもいる子ども。だったと思う。

 

学校も、まあまあ楽しかった。

友達もいたし、嫌いな子もいた。好きな子は居なかったっけな?成績はふつう。部活も入ってなかったけど、放課後は図書室に行って、本を読むのが好きだった。

ページをめくる音がすきで、知らない言葉を知るのが楽しかった。

「この世界の外にも、いろんなところがあるんだな」って思ってた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも――あの日。

 

帰り道で、ちょっとだけ遠回りをした。海が見たくて。家は海の近くだったから、学校の帰りにたまに見に行ってたんだ。

夕方の海って、なんか落ち着くんだ。波の音も、風のにおいも、全部。

でもその日は、ちょっと違った。

 

風がぬるくて、潮のにおいが強かった。

それに混じって、何かが腐ったような、でも懐かしいような……そんな変なにおいがした。

海の向こうの方で、黒い人みたいなものが立ってた気がする。

 

 

見えたのは一瞬だったけど、目が離せなかった。

胸の奥がざわついて、なんとも言えない嫌な気配が残ったまま帰り道を急いだ。足は自然と速くなって、家のドアを開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――誰もいないはずの家の中が、静かすぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま」って声を出してみる。返事はない。コンロの火が点いたままで、テーブルには片付けられないままの皿。お母さんのハンカチが椅子にかけてある。でも、いつもの生活音がまるで抜け落ちてしまっているみたいで、心臓がギュッと締めつけられた。

 

 

 

 

 

 

 

台所の奥、寝室のドアを押し開けた瞬間、視界が止まった。

父がベッドに倒れていて、表情はもう動かない。母も隣に――二人とも静かに眠っているみたいに見えたけど、息はしていない。肌がいつもより白くて、冷たかった。

 

 

 

 

 

 

「お母さん! お父さん!」

声が家の中で反響して、耳が痛くなる。両手で母の頬を触ると、冷たくて温度が戻らない。必死に肩を揺すってみたけど、返事はなかった。近くで小さな時計がチクタク音を立てているだけで、世界が止まったみたいだった。

 

涙が急に溢れてきて、声にならない声を出す。膝がふにゃりと折れて、床に崩れ落ちる。胸が苦しくて、息が吸えない。どうして、どうして、どうして――って、同じ言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 

近所の人に助けを呼ぼうと外に出る手も震えて、うまくドアを閉められなかった。外はいつもの夕焼けの色で、誰もが普通に歩いているみたいに見えた。だけど、私の世界はもう、完全に壊れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳の奥で時計の音だけが鳴って、世界がぐるぐる回っているみたいだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背後から、低い足音が近づいた。振り返ると、見慣れない影が二つ、三つ――海の匂いを纏った人たちが立っていた。目が合うと、その一人がにやりと口角を上げた。顔は人間に似ているけれど、どこか違って見える。肌の色も、瞳の奥も、海の底みたいに冷たかった。

 

「生き残りだ」

声は砂を噛んだようで、喉の内側がざらつく。私は立ち上がろうとしたけれど、足がふらついてうまく動かなかった。胸の中が押し潰されるみたいで、呼吸が浅くなる。

 

その海の人の一人が、ひょいとこちらに手を伸ばして、私の肩を掴んだ。力は強くないのに、引っぱられると体が勝手についていってしまう。誰かに腕を引かれる感覚――それは子どもの頃、遠足で手を繋いで歩いた時と似ているはずなのに、ぜんぜん違った。怖さだけが重かった。

 

「初物だ。贄だ。薄い。司祭様に捧げよう」

 

その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥の何かが音を立てて崩れた。

「贄」という言葉の響きが、私を現実に引き戻す。父と母のこと、帰る家のこと、全部が遠くなっていく。

 

誰かが私の腕をさらに強く掴んで、振り向けないように押さえつけた。声が四方から聞こえる。囁き、祈り、低い合唱――全部が同じ音になって、私を包む。泣きたいのに声が出ない。手は震えて、靴の紐を踏んでしまった。

 

「やだ、やだ、やだ……」

小さな声が喉からもれて、それでも足は動かされた。誰かが私の脇に手を回し、無理やり歩かせる。廊下を抜け、外の潮風が顔に当たった。冷たくて、しょっぱかった。

 

目の前に、見たことのない祭壇の灯りが揺れている。誰かが私の名前を呼ぶような声をあげるけれど、そこにいるのはみんな他人の顔だ。私の手を離してくれる人はどこにもいない。

 

必死に抵抗しようとしても、力が抜けていく。涙が頬を伝って落ちて、塩の味が口の中に広がった。どこかで、父の声を、母の笑い声を、幻のように探してしまうけれど、もう見つからない。

 

私は押し流されるように、知らない人たちに連れて行かれた。頭の中でただ繰り返すのは、「助けて」という単純な言葉だけだった。外では狼狽する声も上がり、遠くで誰かが祈りを高鳴らせている。

 

その夜、私の世界は抜け殻のように変わってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気がついたら、知らない場所にいた。

 じめじめした空気。鼻にまとわりつく海の匂い。

 体が思うように動かない。手首には縄のあとが赤く残っていた。

 

ここは……牢屋?

でも、学校で見たような鉄格子の牢屋じゃない。壁も床も、貝殻と海藻をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいなものでできていて、冷たくて、湿っていて、ぬるっとしている。

 

奥に、ガラスのようなものがはめこまれていた。

──鏡……?

最初は、ただの飾りかと思った。

でも、近づいてみて、そこに映った自分を見て、心臓が止まった。

 

「誰……これ……?」

 

髪の毛は濡れたみたいに張りついて、ところどころ色が抜けている。

目は、深い海の底みたいな色に変わっていた。

首元から胸にかけて、見慣れない模様が浮かび上がっている。まるでウロコ。

手の指のあいだには、うっすら膜みたいなものが見えた。

 

「うそ……うそ……なんで……」

声が勝手に震えた。

涙が出ても、手の甲で拭うことができなかった。自分の手が、もう“人間の手”じゃなかったから。

 

壁の向こうから、低い声と水音がした。

「混血種……“形”はもうできあがってる」

誰かがつぶやいた。

 

私はその場に座りこんで、何度も鏡のようなガラスに映った自分を見た。

息が苦しくて、でも吐き出すたびに、肺の奥に冷たい水が入ってくるみたいな感覚があった。

あの時、私ははっきりわかった。

 

もう“元の私”には戻れないんだって――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間の感覚なんてすぐになくなった。

寝たのか、起きてるのかも分からない。

でも、ある日――いや、ある“時”って言ったほうがいいかも。

 

牢の外から、水をかくような音がした。

ぬるり、ぬるりと何かが這うような音。

その音を聞くだけで、身体が勝手にこわばった。あの儀式の夜を思い出したから。

 

鉄格子の向こうに、あの化け物達が立っていた。

顔の殆どが鱗に覆われてて、私にそっくり。

そして、その隣に――あの女がいた。

 

白い髪を後ろで結んで、まるで人形みたいに無表情な女。

あの時、私を混血に変えたときにも、彼女は隣に立っていた。

司祭が何かを唱えるたび、彼女は微動だにせず、ただ静かに見つめていた。

その冷たい瞳を、私は忘れられなかった。

 

 

「……連れてきたか」

司祭の声が、水底から響くように低く響く。

 

 

 化け物達たちが何かを引きずってくる。

 重たい音。濡れた床にずるずると何かを引きずる音。

 私は反射的に後ずさった。

 

それは、人間だった。

男の人。ぐったりしてて、息もしてないように見えた。

でも、見た瞬間に分かった。あの人は“私と同じ”じゃない。

まだ、普通の世界の匂いがする。

 

司祭が小さく笑った。

「新しい器だ。海の意志が選んだ“欠片”……」

 

あの女が一歩前に出て、男の顔をのぞきこむ。

その瞬間、牢の中に冷たい潮の風が吹き抜けた気がした。

彼の頬をなでるその指先は、人間のものじゃなかった。

 

 

私はただ、息を殺して見ていた。

 

女が、ゆっくりと前に出る。白い髪を後ろで結い直して、無表情のまま、彼に向かって何かを差し出そうとしている。手のひらには、小さな包みか、それとも光る物か。よく見えないけど、──渡す、のだとわかった。

 

「……◾︎◾︎◾︎」

女の声はくぐもっていて良く聞こえなかった。ただ分かったのは言葉の端に嘲りも優しさも混じらない、ただの事務的な確認の音。

 

彼は、最初、反応しないふうに見えた。眠っているみたいな、半分覚めているみたいな顔で。私は胸が締めつけられ、手が震えた。

──きっとこの人も困惑して、恐怖してるんだ。私は彼を慰めようと、手を伸した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の瞬間、世界が崩れた。

 

女が何かを差し出そうとしたその「瞬間」に、彼の手が音もなく伸びた。細い動きじゃない。瞬発、というより本能。女の手首をがしりと掴む──その握力の強さに、私の体の芯がゾクリとした。

 

「離……ッ!」女が驚いて声を上げる。反射で後ずさろうとするけれど、彼の腕から逃げられない。彼の目は笑っていない。冷たく、けれど確かな意志が煌めいている。

 

 

 

格子に叩きつけられる音がした。

 

 

 

鈍く、重い。私の鼓膜が一瞬だけ震えて、世界が揺れる。女の身体が格子にぶつかったとき、唇から小さな破裂音のような声が漏れただけで、その後はもう言葉にならない。私は目を覆いたくなったが、体が動かなかった。見てはいけないものを見ている気配がどんどん自分を包んでいく。

 

 

ア彼は女の首に手を回したのか、それとも床格子に押し付けるようにして動きを止めたのか――動作は速く、無駄がない。女の体がぐったりと沈み、そのまま微かに震えなくなったのを、私も同じ瞬間に確認した。静寂が、その場を飲み込む。

 

「――一人目」

彼の声が、低く、だけど淡々と響いた。まるで買い物から戻ってきた人のように普通の口調で。足元に倒れた女の影が、ぽたり、と床に落ちる。血の匂いが鼻を刺したけれど、吐き気はこらえられた。身体がフリーズしたまま、ただそれを嗅いだ。

 

鉄格子の向こう側で、誰かが叫んだ。司祭の声か、それとも化け物達の悲鳴か。音は遠く、私の鼓動だけが大きくなる。彼は私を見て、少しだけ顔の角度を変えた。目の奥が一瞬、極色彩に変色した。だがそれは一刹那で、すぐにさっきまでの冷酷な静けさに戻った。

 

私の手は震えている。喉の奥が乾いて、言葉が出ない。目の前で起こったことが現実だと、まだ信じられない。あの「渡す」という無垢な仕草が――命の終わりを招いたなんて、どうしても結びつかない。

 

彼は化け物達と少しの言葉の応酬の後、飽きたのか牢の奥へと移動する。周りの影がざわめき、誰かが駆け寄る足音がする。でも、私はただそこに座り込んで、世界が戻るのを待つしかなかった。胸の内で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。恐怖と、理解と、そして──奇妙な静かな確信が同時に生まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜になると、牢屋の空気はひんやりと重くなる。

私はベッドの端に座り、じっと鉄格子の向こうを見つめていた。彼は――例によって――こちらには一切干渉してこない。初日に「干渉して来るな」と言われて以来、声をかけられたことなんて一度もない。

 

でも、夜になると不思議な門が開く。光がうっすら揺れ、そこから沢山の人影が次々と現れる。最初は恐ろしくて、息を止めてじっとしていたけれど、見ているうちに、彼らは何かを運んだり、囁き合ったり、準備をしたりしているだけだとわかってきた。

 

そして、門から出てきた人たちは、毎晩、彼が眠ると私の前にご飯を置いていく。最初は警戒して手を伸ばせなかったけど、温かいパンや、魚や、時にはお菓子まで――思ったよりも悪い人じゃないのかもしれない、そう思える瞬間だった。

 

私は少しだけ微笑む。牢屋の冷たい空気の中、ぽつりと響く夜の静寂と、差し入れの温かさ。

――あの人は、私に直接何かを言わないけれど、もしかしたら気にかけてくれているのかもしれない。態度は冷たいけど

 

手を合わせて、そっと差し入れを受け取る。

「……ありがとう」

心の中で、誰にも聞かれないように呟く。声に出さなくても、きっと届いている――そう信じて。

 

 

「おい流石にこれは人選ミスだろ」

門の中で、彼の声がかすかに聞こえる。けれど、その面倒くさそうな声の端には、確かに楽しげな響きも混ざっていた。

 

「ジャンクフード買って来いって言ってなんで持ってきたのがフェッ〇チーネとかのグミなんだよ。普通ケ〇チキとかマ〇クだろ?!」

言葉に軽く苛立ちが混じる。だけど、指示の出し方や声の抑揚には、ちょっとした楽しさも滲んでいる。まるで、大勢の玩具を相手にする子供みたいだ。

 

私は思わず小さく笑った。面倒くさいとか言いながらも、楽しんでいる。こういうのが、あの人のやり方なんだ。

 

それに、門から出てくる人や生物たちは、彼の一言で瞬時に動きを止めたり、指示に従ったりする。私にはまだ理解できないことばかりだけど――それでも、この光景にはどこか安心感があった。

 

「……あの人。結構口悪いな。でも、楽しんでるのかも」

私は小声で呟きながら、置かれたご飯に手を伸ばした。温かさが、冷たい牢屋の中で少しだけ心を和らげる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……起きろ!」

混血種の声で、私は目を覚ました。まだ薄暗い牢屋の中、まどろむ意識を引きずりながら、何とか体を起こす。

 

隣で、彼も目を開けたばかりらしく、頭を掻きながら眠そうに伸びをしている。

「……マジ〜?早くね〜?」

その声はいつも通り、少し面倒くさそうだけど、どこか余裕がある。私は思わず息を呑んだ。こんな状況で、どうしてこんなに落ち着いていられるんだろう。

 

混血種が私たちの手を取り、牢屋から外へと誘導する。彼は軽く肩をすくめ、私を見て小さく笑う。

「さっさと行くか〜。ネムイ」

私はまだ恐怖で体が震えているけれど、彼のその余裕が、どこか心を落ち着かせる。

 

廊下を進む。潮の香りと湿った空気が漂う中、混血種たちは無言で私たちを先導する。彼はゆったりと歩き、時折私をちらりと見て、まるで「大丈夫だ」とでも言うかのように微笑む。

 

祭壇の前に到着すると、そこにはすでに他の化け物たちが待っていた。私は息を詰める。だが、彼は目を細めて状況を見渡し、少し伸びをして余裕を見せる。

 

 

祭壇の前、老人が手をかざし、低く呟く声が空気を震わせた。

「生贄となる者、名乗れ──」

 

私は目を見張る。混血種の手を握りながら、恐怖と不安で体が硬直する。

だが、アインは少し眉をひそめる程度で、動じる様子はない。

「ぼ、僕は……生贄に……なります……」

と、セリフっぽい口調で言う

 

私は思わず目を細める。

(演技下手だな、この人……)

普通ならもっと恐怖に怯える様な震えた声なのに。まったく、なんでこんな状況で演技がバレるくらい余裕を出せるんだろう。

 

私も、ぎこちなく頷き、老人の呪文に合わせて

 

「わ、私は――い、いのちを捧げます……」

と口を開く。

でも、彼の横で、私には確かにわかる。これは効いていない――いや、効かせている振りをしているだけだ。

 

私の胸はざわつく。演技の下手さに思わず笑いそうになる自分がいる。でも同時に、もし本当に彼が力を使えば、この化け物すら焼き尽くすんだろうな、という怖さも感じた。

 

 

 

 

祭壇の中心で、老人の手が空中に描く奇妙な軌跡。黒潮のような魔力が渦巻き、ダゴン?って言う化け物を呼び出そうとする――その瞬間、私の胸は凍りついた。

 

 

 

 

 

 

 

(本当に……勝てるの、あの人?でも、ここで動かなきゃ……)

 

 

 

 

 

 

恐怖と打算が入り混じる。もし、今私が彼を守る施設を見せれば――少なくとも、あの化け物の手から守ってもらえるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――にげて!」

 

私は迷わず、彼の手を掴んだ。握った瞬間、指先に伝わる力は強いけれど、冷たくはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何やってんだ!?邪魔すんな!」

 

 

 

 

 

 

 

私は初めて彼がここまで驚いた表情を見た。けれど私は迷わない。手を引き、全力で後ろに体重をかける。

 

「あなただけでもにげて!」

 

黒潮のような魔力が指先で弾け、祭壇の光が背後で炸裂する。叫び声と黒い潮の音が耳をつんざくが、私の視界の中心にはただ彼の腕がある。

 

(行く……絶対に、この人についていく……)

 

足を踏み出し、全身で手を引く力を加える。彼は抵抗もせず、私に従うように動く。胸の奥で鼓動が早まる。恐怖と興奮が絡み合う。

 

背後で祭壇が崩れ、黒潮が飛び散る中、私たちは闇の中へと滑り込んだ。

 

 

 

 

 

祭壇を抜け、夜の闇に身を沈めた瞬間、私の胸は強く締めつけられた。背後にまだ燃え上がる魔力の残滓が見える。

 

(――この印を使えば、あの人たち、すぐに……)

 

思わず目を背けたくなる。手のひらに残る熱。あの瞬間、アインが印を使えば――この瞬間、私も一瞬で灰になってしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

でも、目の前の彼は冷たいだけじゃなかった。私が化け物になる前、あの牢屋で――本当に微かだけど、ご飯をくれたことを思い出す。

 

「……あの時の、ご飯……最後の優しさ……」

 

記憶はぼんやりとしていて、化け物になる前の私のことはほとんど消えかかっている。それでもその一瞬、彼が私に見せてくれた小さな思いやりだけは、まだ胸の奥に残っていた。

 

握られた手を離さないように、私はその温もりを頼りに、闇の中を走る。心の奥で震えるのは恐怖だけじゃない――どこか、安心感さえ混じっていた。

 

「……この人は……」

 

吐息に混じる自分の声に、私はぎゅっと握った手の力を込める。彼の冷徹さと優しさ、その両方を一度に感じながら、私は闇の中でただ、彼に身を任せるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、あの人が私を殺すって言った時。何処か諦めがついたんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――そうなんですね

 

その言葉を呟いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが広がった。何度も、何度も目の前で人が消えていく光景を見てきたはずなのに、今度は私が――自分が、消えてしまうかもしれない。

 

 

 

でも同時に、どこかでほっとしている自分がいた。あの人たち――私の記憶にある化け物や、あの儀式の司祭たち――とは違う。優しくて、暖かくて、諦めららる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しぬのがわたしだけで…よかったです

 

 

小さな声でそう呟いたとき、涙がひとすじ頬を伝う。怖い。すごく怖い。けれど、その恐怖の中に、少しの安堵も混ざっている。私だけがこの場から消えることで、他の誰かを守れるかもしれない――そう思うと、胸の中が少し軽くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーごはん、はじめてあんなにたべられました。うれしかった…です

 

 

 

 

記憶が、混血種になったあとの断片しか残っていない。けれど、彼がくれたご飯の温かさ、少しだけ笑ってくれた表情、その些細な優しさが、今の私を支えている。死を前にしても、その記憶だけは、私の心に静かに光を灯してくれる。

 

 

 

心の奥で、覚悟が固まる。恐怖も痛みも、この身体の感覚も、すべてを受け入れるしかない。私はもう、抗わない。消えること、終わること。それをただ受け入れよう。

 

そして小さく、胸の中でつぶやいた。

 

 

 

「……ありがとう、アイン様」

 

 

こっそり聞いた、彼の名前。

恐怖に震える身体を抱えながらも、最後にほんの少しだけ、心が安らぐ瞬間があった。死の影が迫る中で、私の意識は静かに、そして確かにその瞬間を感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「要らね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多分、私はこの時にこの人を好きになったんだと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この先はもういいかな。思い出してたら私も顔が赤くなっちゃうし。最後に逃げ出したのは...ちょっとカッコ悪かったかもだし

 

 

 

今は、アイン様の奉仕種族……と言う方達に、家事のいろはを教えてもらっています。朝ご飯の用意や洗濯、掃除、料理の手順まで、私の知らないことばかりで、毎日が少しずつ学びの連続です。

 

ベルゼブブさんはちょっと口うるさいけれど、丁寧に教えてくれる。ユウゴさんはパソコンや道具の扱い方を見せてくれるし、ブレージュさんは静かに手順を整理して教えてくれる。ロイノスさんは上空からあれこれ指示してくれるし、ロウドさんはのんびり構えながらも、時々助けてくれる。グロスさんは……姿が毎回変わってビックリしますけど、お勉強を手伝ってくれます

 

アイン様自身には、まだ一度も話しかけてもらったことはありません。

 

でも、それでいいのです。あの人はいつも冷たく見えるけれど、実際にはいろんなことをちゃんと見てくれている。だから、私もこっそり、でも全力で日々を過ごすだけです。

 

台所で鍋をかき混ぜながら、ふと思います。あの人の隣で普通に暮らせる日が来るのかな、と。怖くて、でも少し楽しみでもある。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。