なろう系と呼ぶには、冒涜的すぎる 作:おさわHSM
階段をさらに下りると、空気がひんやりと変わる──いや、冷たさだけじゃない。
奥に近づくにつれて、壁の色が微かに変化していくのに気づいた。
最初は淡い影のようだったが、徐々に色が鮮やかになり、赤や青、緑が交錯するように床や壁を染め始める。光源はない。けれど、目を離すこともできない──何かが光を作り出しているのかもしれない。
足元に散らばる紙片も、先ほどの手記とは違い、文字が微かに浮き上がって見える──いや、これは錯覚じゃない。光が文字をなぞり、意味を呼び覚ましているようだ。
懐中電灯で光を揺らすと、印の輪郭がわずかに輝く。
──これは、ただの模様じゃない。
「黄色の印...!」
アルデバランの奥地。ハリ湖を拠点に構える邪神の皇太子。その、印。
胸の奥がざわつき、心臓が軽く跳ねる。
「……なんだこれ」
呟くと、声が地下室の静寂に吸い込まれる。
光の加減で印が少し立体的に見える気がして、思わず後ずさりしてしまった。
だが、直感が告げる──これは、この地下室で最も重要な痕跡の一つだ。
通常、ハスターとシャンが手を組むことはありえない──
少なくとも、表向きには。配下のビヤーキーも、その信者達も、互いの存在を理解していれば同盟なんて結べないはずだ。
ハスターの信者は、魔皇という強大な存在を知らない。知れば、運が良ければ発狂する。通常は、体がぐじゅぐじゅに溶ける。
シャンも同様だ。性悪で、表向きは手助けをするかもしれないが、いずれ本性を現し、人間を皆殺しにする。
……なのに、今目の前の空間は、明らかに「招来段階」が完璧に整っている──
ここまで手順が整っているのなら、誰かが本来ありえない手を貸したのか。いや、待て──
まさか、これは……俺がPLだった頃の知識でしか理解できない、異常な現象の一つか?
だが理屈では説明できない、この不条理な状況は、心をざわつかせ続ける。
─普通なら絶対ありえないことが、ここでは既に現実になっている。
「……くそ、どういうことだよ……」
呟いても、答えてくれるのは自分の胸の中の疑念だけだ。
──俺はまだ、何も知らない。
でも、この奥に進めば、答えも、そして危険も、全部待っている──
「 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 」
空中に、薄く光る箱がふわりと現れる。
手を伸ばすと、箱の蓋が音もなく開き、中から星型の中央に目がある印が浮かび上がる。
──これは俺の最終兵器だ
掌の中で神の感触を確かめるように、そっと取り出す。
印は柔らかくも、決して形を崩さず、見た人によっては呪われた札とかに見えるかもしれない。
見た目以上に意味がある──悪しきを封じ、退散させる、そんな力を秘めている俺の切り札。
「頼むぞ……これ一枚しか作れなかったんだからな」
呟くと、印がわずかに震えるように輝く。
手にした瞬間、地下室の空気がひんやりと引き締まる。
「行くか」
扉を開けると周囲の壁や床が光を帯び、視界はまるで液体絵の具に包まれたような極彩色の世界に変わっていた。
赤や青、緑、紫が入り乱れ、空間が揺れ、光の奔流が常識では考えられない形でうねる──
眩しさと不安で、目を細めずにはいられない。
その中に、人影があった──いや、人影ではないかもしれない。
長いローブを纏った魔術師が、壁に描かれた紋様の前に立ち、掌から光の糸を伸ばしている。
空中には、先ほど落ちていた黄色い印と同じような光の結界が浮かび、まるで導かれるかのように渦を描いていた。
「……ガチか」
思わず息を漏らす。魔術師の指先が微かに震え、印の光が反応する。
どうやら、あの門の創造を使って、かの邪神を呼び出そうとしているらしい。
気配はまだ実体を持たないが、存在感だけで心臓の奥が重くなる。
──本格的に不味い状況だ。
俺は一歩、極彩色に包まれた空間に踏み出す。
掌の印が熱を帯び、微かに力を増す。
この印がある限り、俺にはまだ干渉する力がある──
だが、その力でハスターの招来を阻めるかどうかは、別の話だ。召喚の余波で、この辺りがどうなるか想像がつかない。
異様な色彩の中、魔術師は淡々と儀式を続ける。
空間がひんやりと震え、風も音もないのに、まるで生き物が近づいてくるような感覚がする。
──これが、クトゥルフの現実だ。普通の人間なら、一目で気が狂う。
魔術師がゆっくりと振り返る。
ローブの影から覗く顔は冷静そのもので、余裕たっぷりだ。
「あれ? ここまで来れたんだ。あの虫は?」
その声に、思わず一瞬手が止まる。……あの虫? ……まさか、シャンのことか?
「え、虫……いたっけ?」
俺は首をかしげ、とぼけて見せる。
「いや、あれ? なんか見間違いかなー」
目の前の魔術師がこちらを訝しむ目で覗き込む。俺は軽く目を逸らす。
魔術師は眉をひそめ、けれど口元はにやりと笑う。
「ふーん、知らないんだ……でも、まあいい。僕には関係無いしね」
その言葉で、少し背筋が寒くなる。
──生きて返してくれないとか言ってみるか? いや、そもそも...シャンを知らない振りか……コチラを油断させてるな。
俺は少し笑みを浮かべ、軽く肩をすくめる。
「ね、ねぇ。君はここで何してるの?」
なるべく弱そうに、なるべく無知そうに話す。
魔術師は腕を組むが、儀式を止める気配もない。
「……ああ、君にはまだ分からないか」
その声に合わせ、俺は目立たないように微かに呪文を口の中で反復する。
ナーク・ティトの障壁……シャンの退散……ヨグ=ソトースの拳……それらとは違う、奇襲用の魔術。
時間を稼ぐ。バレないように、確実に当てる為に
魔術師はゆっくりと語り始める。
「ハスター──君も聞いたことはあるだろう。『黄衣の王』とも呼ばれる、宇宙に漂う存在。
その力は人間の理解を超え、意識に直接干渉する。
ここで呼び出せば……ああ、君のような小さな人間には到底理解できないほどの世界が開ける」
俺は微かに眉をひそめつつも、装いは変えずに耳を傾ける。
──そんなもん開けてたまるか。勝手に魔導書でも見て発狂してろや。
そんな言葉をぐっと飲み込み、再度質問
「……あ、あの……その、ハスターって……怖くないの?」
とぼけた声で訊く。だが、心の中ではすでに魔力を目の前のクソ野郎に注ぎ込む準備をしている。
魔術師は軽く笑う。
「怖いかどうかじゃない。理解できるかどうか、だ」
「理解できるかどうか...」
思わず言葉を反復する。
そうか、理解か。ハスターなんて脆弱な三次元の神しか知らないような浅知恵を付けた三流魔術師に理解か
「そっか...なら」
言葉と同時に、視界の端で魔術師の片手と片足に力の流れが走る。
魔力の一点集中が、一瞬にして手足の動きを止め、骨と関節にひびを入れ、潰す──
鈍い音もなく、しかし確実に、魔術師の片手と片足はもう動かせなくなった。
その瞬間、魔術師の表情に大きな動揺が走る。
目が瞬き、肩が僅かに震え、普段の余裕が一気に崩れたことを隠せない。
──どうやら、俺が魔術を使えると理解していなかったらしい。
「な、何……!?」
小さく、声が震える。普段の冷静な声色からは想像できない焦り。
手足が動かないだけでなく、極彩色の空間で魔力が乱れ、儀式が不安定になるのが見て取れる。
「手足の萎縮。お前この程度は対策しろや」
──は? 何が理解だよ。
ハスター程度で何イキってんのお前。
三文芝居に騙されるような雑魚がしゃしゃってんじゃねぇよ。
声に出して言いたいところを、俺はぐっと飲み込む。
でも、心の中では完全にそう思っていた。
──いや、まだ手加減してるけど、こいつ本気で焦らせるのはこれからだ。
「 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 」
極彩色の空間に、地面から黒い触手がねじれながら伸びる。
先端は液状のように揺れ、光を吸い込むように黒く輝く。
俺は動かず、触手が魔術師の服を透過するのを見届ける。
「物理で防げるわけ無いだろ」
触手が体内に潜り込み、魔術師の心臓を鷲掴みにする。
その瞬間、魔術師の顔色が一瞬で蒼白になり、息が詰まる。
手足を必死に動かそうとするが、触手の力は絶対的だ。
俺はゆっくりと魔術師の目を覗き込み、低く声を落とす。
「で、教えてもらおうか」
尋問が始まる。
声は冷静だが、眼の奥には殺意の光がある。
「お前は何のためにここにいる? ハスターを呼ぶつもりか?」
魔術師は苦しげに息を吐きながら答える。
「……儀式を……完成させれば……この世界が……」
俺は片眉を上げ、圧力を少しだけ加える
「そんな教科書通りの回答は求めてないのよ」
言葉の一つ一つが、まるで刃のように空間を切り裂く。
触手の圧力を微妙に調整し、逃げられない恐怖を最大限に伝える。
「いいか。全部吐け。嘘をついたら……心臓ごと、消す」
魔術師は震え、言葉が途切れる。
でも、俺はまだ一歩も引かない。
──この尋問は、単なる情報収集じゃない。
こいつに、自分の立場の脆さと恐怖を思い知らせる時間でもあるのだ。
俺はゆっくりと魔術師の目を覗き込み、低く声を落とす。
「で、教えてもらおうか。あの……シャンからの昆虫と、何してた?」
魔術師は目をぱちくりさせ、口を開ける。
「え……何それ? 知らない……そんなもの、見たことも触ったことも……」
俺は片眉を上げる。
──知らないってか。ふーん、意外とお前、演技派なのかもな。
触手の圧力を少し強め、胸の奥まで冷たく締め上げる。
「知らないじゃないよ。俺は見たんだ。シャンがこの家に居たのも、てか消したし」
魔術師は顔色を変え、必死に震える声で言う。
「ち、違う、俺は……あんなの知らない! ただの……う、うわっ、やめ……!」
一歩も引ない、ゴミを見るように見下ろす。
「知らない? 本当に? じゃあ何でお前、あんな極彩色の空間でハスターを呼ぶ儀式なんてやってんの?」
魔術師は言葉を詰まらせ、ますます混乱している。
──コイツ凄いな。こんな演技が上手い魔術師は始めてだ。
俺はこの焦りを利用して、次の質問に進む準備を整える。
「じゃあ……これ止めろよ」
言葉は低く、でも威圧的に。
魔術師はぱちくりと目を瞬かせ、口を震わせる。
「え、えっと……止め……る、止め方は……知らない……」
俺は片眉を上げ、星の精の光を掌で小さく揺らす。
──知らないか。ふーん、想像通りのクソ野郎だな。
魔術師の目は必死に俺を見つめるが、焦りと恐怖で声は震えっぱなし。
「だ、だって……誰も教えてくれなかったし、俺……ただ……」
俺は口を一文字も挟まず、じっと観察する。
──そりゃそうだ。今までの努力を無に帰す様な呪文なんざ、わざわざ覚えない。
俺が次の質問を口にしようとした瞬間、頭の奥で違和感が走る──
──なんだ、この感覚……
次の瞬間、目の前の魔術師が声にならない声で、呪文を詠唱し始めた。
「……ちょっ、なに!?」
俺の心臓も跳ねる。魔術師の方を見ると、彼の顔色がみるみる変わる。目が虚ろになり、体がぎこちなく震え出す。
「あ……やば……」
魔術師は呪文に操られるように立ち上がり、口から意味不明な言葉が漏れ、足取りはふらつく。
「 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 」
その呟きと共に、空中に突如現れたナイフの一振りで、首は床に転がった。
……だが、それでも呪文は止まらない。
首が落ちた瞬間、空気の震えは収まらず、極彩色の空間に詠唱の余波が漂う。
──くそ、こうなると止められない。こいつはもう自分の意思じゃ動けない……
魔術師は暴走状態のまま、極彩色の空間を飛び出す。
まるで自分でも何をしているのか理解できず、ただシャンの呪文に引きずられて動く。
俺は唇を引き結び、視線を固定する。
──くそ、予定外だ。コイツらは協力関係じゃないのか?
俺はゆっくりと膝を曲げ、床に落ちた首から目を逸らす。血の匂いが鼻を突くが、もう気にならない。胸の中にあったざわめきが、刃を握る前の緊張みたいに一つにまとまっていく。
ポケットに手を入れ、あの印を確かめる。掌に乗る感触は思ったより冷たく、でも重みがある。切り札だ。ここまで来てそれを使わない手はない。
「リス狩り、か……」
自分の口から出た言葉に少しだけ笑いが混じる。ハスターを狩るなんて大仰だけど、やることは単純だ。ゲームと同じ、出てくる瞬間、この印に魔力を流すをそれだけ。
印を取り出し、指の間でゆっくりと回す。魔力指先にまとわりつき、極彩色の空間がぐっと収縮する感覚が来る。周囲の色彩が一瞬、像のように歪み、音が遠のく。集中するたびに、心が重くなり、胸の中で何かが削られていくのが分かる。代償はでかい。だが、今はそれを払うだけの理由がある。
印を掲げ、心の中で詠唱を紡ぐ。声には出さない。呪文が浸透するのを感じながら、俺はゆっくりと周囲を睨む。極彩色の渦の向こう、まだ完全に姿を現していない“何か”の気配が、脈打つ。獲物はそこにいる。
準備は整った。
その瞬間、空気が裂け、極彩色の壁面に小さな穴が開く。穴の向こうから、低く、しかし確実に生き物の匂いが押し寄せる。獲物の息遣いだ。リスを見つけたときのあの静かな高揚が、胸の奥で跳ねる。
「来い」
小さく言う。命令でも、呼び声でもない。誰にも聞こえない自分を奮い立たせる言葉。印が、それと共鳴し、極彩色の渦の中心へと力を引き寄せる。
「……は?」
目の前の裂け目が、静かに揺れたかと思うと──突然、圧倒的な力がぶつかり、手元の印が腕から弾き飛ばされた。掌の感覚が消え、腕が宙を切るような痛みで吹き飛ぶ。
極彩色の空間から現れたのは、先ほどの予兆をはるかに超えた形。
黒く粘液質の触手が地面を撫で、膨張した胴体は200フィートを優に超え、直立したトカゲのような威圧感を放つ。
翼は蝙蝠を思わせるが、薄膜は光を反射せず、存在そのものが闇を押し広げるかのようだ。
頭部はねじれ、口が複数開き、唸るような声は聞こえないのに、脳の奥を直接揺さぶる。触手が宙に伸び、腕を弾き飛ばした力の余波がまだ手首に残る。
俺の視界は瞬間的に色彩の渦に侵され、極彩色の空間がぐるぐると回る。まるで現実が引き裂かれたかのようだ。
「うぐ...あぁ...クソ...クソ!」
腕の痛みを押し込め、俺は崩れないよう踏みとどまる。星の精が肩の上で小さく光り、脈打つように震える。
――だが、これはまだ序章に過ぎない。準備を整えろ、俺。
裂け目の中の生物は、地を這う触手の先端を空間に撒き散らし、ゆっくりと俺を包囲しようと動く。
不可視の力と触手の圧力が交錯し、攻撃の予兆が全身を刺す。腕を吹き飛ばされても、目を逸らすわけにはいかない。
──痛っ……痛っ、痛っ……!!
腕が吹き飛ばされた痛みがまだズキズキと残り、思考がまともに働かない。手首から先が無くなったような感覚に、頭の中がぐるぐるする。ワイ将ただの男子高校生、正直マジで痛い。泣きそう。
それでも、目の前の異形を見逃すわけにはいかない。脳内で必死に整理する。
──出てきたのは恐らく、本体だ。
有名な化身の「黄衣の王」じゃない。あれは確か、化身として部分的に現れるはず……いや、あれと比べても圧倒的にサイズも力も違う。
対話なんて、まず無理だ。理性で会話できる相手じゃない。
よし……頭の中で冷静に整理する。痛いけど、痛いけど、考える。魔術による退散が優先だ。
──腕は痛いけど、もう片方残ってる。星の精も肩で小さく光っている。
痛い痛い痛い……でも、ここで迷ったら終わりだ。俺はまだ、大丈夫だけど……神話生物を目の前にして立ち止まるわけにはいかない。逃がしたら日本と言うか地球が終わる。
裂け目の中で触手が蠢き、圧力が空間を揺らす。奴の動きは遅く見えるが、それは錯覚だ。力は全方向に伝わり、俺の神経を刺す。
──魔術による退散、これしかない。まずは、やられる前に、動く。
痛みに耐えつつ、胸の中で呟く。
「痛い痛い痛い……でも、行くしかねぇ……!」
胸の奥で痛みを押し込め、ハスターに魔術の詠唱を始めようとした──その瞬間、衝撃が頭を弾き、何かが首を掴む感覚が
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「油断したな?」
言葉とともに、裂け目の中の極彩色が一瞬だけ歪んだ。
次の瞬間、目の前のハスターの半身が、黒い触手の渦と光の奔流に巻き込まれ、衝撃と共に消え飛ぶ。
空間が裂け、鳴き声でも唸り声でもない、存在そのものを揺るがす音が耳の奥で響く。
──クソッ、び、びびった……!
死なないと分かっていても、心臓は跳ね、血の気が引く。これが、本体の力か。常識では測れない恐怖だ。
腕の痛みも、首を失った衝撃もまだ残っているのに、それを上書きする圧倒的な存在感。
いや、存在感じゃない。これは、殺意とも違う、世界ごと潰されそうな圧迫感だ。
もうあの一発芸は通じない。ここから先は半分の力と言っても正真正銘コイツとのタイマン勝負
「まだだ……まだ終わっちゃいねぇ」
高校生らしい単純で端的な言葉で自分を鼓舞する。痛みも、恐怖も、全てを飲み込んで、次の一手に集中しなければならない。
裂け目の中から、黒い触手が飛び出す。一本、また一本──空間を裂き、全方位から襲いかかる。
「ちょ、ちょっと待て!目に見える速さじゃねぇだろこれ!」
痛みと恐怖で頭はぐるぐるするが、詠唱の言葉を紡ぎ、掌の印を振るう。魔術が触手を逸らし、空中で力場が歪む。
「 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 」
しかし……魔力が、吸い取られる。えげつない勢いで奪われ、胸の奥がヒリヒリ痛む。
「うわ、これ、魔力マジで持ってかれすぎ……!」
必死に攻撃を逸らすが、足元の触手は止まらない。全身の神経が一瞬、電気に打たれたように痺れ、戦闘のテンポは容赦なく奪われる。
掌を握り直し、痛みを押し込みながらも、次々に飛んでくる触手を逸らす。
「くそっ……この速さ、普通の神話生物じゃねぇ……」
想像以上の、そして想定外の手数。まず間違いなく正攻法じゃ叶わない化け物との対峙。
だが、そんな化け物との戦闘が想定外な訳じゃない
触手の一撃を受けて、頭の中の血がぐるぐる回る。
ここで死んでたまるか──ってなもんだ。印を握り締め直し、声にならない詠唱を内側で紡ぐ。今必要なのは、力任せの殴り合いじゃない。道具だ。切り札だ。箱を作る。
「 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 」
空中に薄く輪郭だけの箱がふわりと現れる。極彩色の渦の中で、その輪郭だけが妙に生々しく光る。指先が震えるのを抑えて、俺は箱の蓋を弾くように開く。中には、黒曜の影が沈んでいる——いや、燃えていると言った方が正しいのかもしれない。
「契約魔術」
今度は日本語の、自分でも理解できる言葉を紡ぐ。こんな事を想定して神と結んだ契約を。切ったものが有機であれ無機であれ、区別なく焼き尽くす剣。常に刃が燃えている。そんな代物を、今、ここで呼ぶ。
箱の中の黒い物体に触れると、熱が掌を通して骨まで伝わってきた。痛みが走る。いや、痛いのは腕のせいもあるが、この熱は別種だ。刃は見た目に反して冷たくない。むしろ、存在が燃えているという感触。刃先がわずかに震え、空気を焼く匂いが鼻腔を刺す。鉄と硫黄と、何とも言えない古い煙草の焦げた匂いを混ぜたような匂い。
俺は躊躇なく剣を抜いた。引いた瞬間、刃全体が生き物のように蠢き、周囲の色彩が一瞬滲む。剣身に触れた星の精の光がぎゅっと瞬き、ほんの少しだけ暖かさを返す。剣は常に燃えている——視覚的には黒い炎、あるいは焦げた光の筋が刃身を覆っていて、触れるものすべてを「焼こう」とする意志を感じさせる。
「おお……やっぱカッケェなこれ」
素の感想が思わず声が出る。痛くても、びびってても、こういう瞬間は燃え上がる。感覚がシャープになって、頭のぐるぐるが少し収まる気がする。
でも、代償は来る。邪神との契約の受講に大きく魔力を引かれ、胸の中のゲージが一気に削られるのを感じた。さっきから即死の触手に吸われてた分と合わせれば、確実に限界に近い。指先が微かに痺れる。
剣の切っ先を軽く床に突き立てる。黒い炎が床板に触れ、焦げる匂いがさらに濃くなる。足元から伝わる熱は、俺の残ってる冷静を無理やり奮い立たせる。これでこそ勝負だ。
俺の唯一の勝ち筋は、アイツの足元にある【古き印】。俺の不完全な【ハスターの退散】では半身しか消せなかった
「行くぞ……コルヴァス」
呟いて、剣を構える。片腕は吹っ飛ばされたけど、剣を振るうには十分だ。痛みはある、魔力は減った。でも、相手の腹の底を引っ掻けるだけの武器は得た。次の一振りで、どう転ぶかは俺次第だ。
喉が焼けるように渇く。
――今の俺に必要なのは水でも酸素でもない。蜂蜜の甘ったるい匂いと、黄金色の液体が落ちてくる熱だ。
腰に括りつけた革袋を片手で乱暴に開けて、蜂蜜酒を喉に流し込む。甘さが広がった直後に、焼けつくような熱が食道から胸まで駆け抜ける。痛みで飛びそうな意識が、かえってはっきりしていく。
「...魔術:比叡山炎上!」
声に出すと同時に、背骨の奥から何かが這い上がる。俺の体はもう俺の意思じゃない。昔の武人の「型」が肉体を乗っ取り、動かす。
足元の床がひび割れる。
──縮地。
世界が流れる。10メートル以内なら一瞬で踏み込める。
次の瞬間には、ハスターの伸びる触手の一本に肉薄していた。剣の圧力を感じ取った印を守っていた触手が攻撃に動く。
黒い炎の剣を、振り下ろす。
──妙剣切り落とし。
触手の先端が空を切り裂く瞬間、魔力を支払って身をずらす。同時に斬撃が触手を裂き、黒い煙が飛び散った。
「...これで決める」
再び蜂蜜酒をあおる。甘ったるさに胃が反発しそうになるが、飲まなきゃ体が持たない。魔力の流れが酒でほんの少しだけスムーズになり、膝の痺れが消える。
──大業物の鍛え。
剣が震え、刃渡りに宿る黒炎が濃くなる。
同時に「刀身を清める」を重ね、炎の剣が「切るための存在」へとさらに尖った。
俺は一歩踏み込む。足は勝手に動く。武人の型が俺を導く。
「奥義……連続切断ッ!」
腕が勝手に振るわれる。肩も、腰も、背骨さえも、俺じゃない誰かが操作しているかのように。
その斬撃は一度では終わらない。
二度、三度、四度……数え切れない連撃が、ハスターの触手を焼き裂き、虚空の色彩に火花を散らす。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ」
胸の奥に残った魔力が、ぐちゃぐちゃに削られていく。
呼吸の合間にまた蜂蜜酒を流し込み、喉を焼きながら吐き出すように叫んだ。
「俺の...勝ちだッ!」
ズドン、と重い衝撃が胸を叩いた。
次の瞬間、皮膚が裂け、肉がえぐれ、肋骨が鈍く軋んだ。
――熱い。
焼けつくような激痛が胸の奥に突き刺さり、視界が一瞬、真っ白に飛んだ。
触手は迷いなく心臓を狙い撃ち、まるで地図をなぞるみたいに正確に俺の「そこ」を潰していく。
脳に酸素が届かない。息が詰まり、膝が勝手に折れそうになる。
普通なら、ここで終わりだ。
人間なら。
この感覚、この痛み、この位置……間違いなく、心臓は粉砕されている。
「死」の確信が全身を覆い、俺の脳は本能的に悲鳴をあげる。
……なのに。
まだ、意識は途切れない。
目の奥がジンジン熱を帯びて、むしろ世界が鮮明に見える。
視界の隅にまで色が刺さってくるみたいだ。
「ッは……いいね……完璧だ」
俺は笑った。笑ってる自分に自分が引くくらい、笑えてしまった。
狙いは正確無比。賞賛すらしたくなる一撃だ。
だが――効かない。俺には。
俺の心臓は、そこには無い。
潰したつもりか?
そこに俺の心臓はねぇんだよ。
足元で転がった印を拾い上げる。指先は震えている。恐怖でか、痛みでか、それとも笑いを堪えてるせいか。
「そこも...ねぇんだわ!」
その声は、かすれてるくせに妙に澄んで響いた。
俺は異常だ――分かってる。けど、だからこそまだ立ってられる。
「これからが本番だ……。」
叫ぶと同時に、掌の上に小さなブロンズ製のディスクが現れる。三本足の鉤十字のような奇妙な紋様がエッチングされ、次の瞬間そこから黒霧が一気に噴き出した。
「 - - - - - - - - - - - - - - - 」
「 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 」
霧の中で蠢く鎖のように魔力は形を変え、やがて黒く束縛された“ゾンビ"たちを象る。目の前に立ちはだかり、触手に向かって吠える彼らは──俺にとっての囮に過ぎない。
案の定、触手がゾンビを貫いた。ずぶり、と肉が裂ける音。けれど、それは俺が望んだ瞬間だった。
「今だ――!」
黒霧を引き裂くようにして飛び出す。
だが、ハスターの触手はすぐに軌道を修正し、俺に向かって唸りを上げた。
「バーカ」
砕けたガラスのような光が瞬き、そこに映し出された“俺”が一歩前に出る。タークルン・アテプの鏡が割れた音がする。
触手が偽の俺を薙ぎ払う――爆ぜる音、霧散する鏡像。続けて二度目の触手。今度は、すでにそこに居ない俺を貫いた。
「邪神が大魔道士の言う事信じんじゃねぇよバーカ!」
背後から揺らめき出す。俺の身体はすでに変貌を始めていた。
スペクトラル・ハンター――霧と影の狩人の姿へと。肉体は透け、輪郭は崩れ、存在そのものが幽霊じみて軽くなる。
「これで...俺の勝ちだ」
アドレナリンで鼓動は爆発しそうだ。痛みも恐怖も全部どうでもよくなる。ただ、この一撃を決めれば勝ち。
印を握りしめた右手が、灼熱の魔力で焼けるように熱い。
俺はそのまま触手の網を抜け――裂け目の中心へと、印を叩きつけた。
「エルダーサイン!」
全身の魔力を流し込む。
空気が悲鳴を上げ、黄色の輝きが爆ぜる。
黄色い光が爆ぜた瞬間、裂け目から伸びていた触手が一斉に痙攣し、凄絶な断末魔のような振動音を発した。空気が震え、色彩が崩れ、全てが押し潰されるように収束していく。
──パァン、と破裂音。
視界を覆っていた極彩色は、一瞬で掻き消えた。
……沈黙。
俺はその場に膝を突き、荒い呼吸を繰り返す。全身の魔力は底を尽き、汗で髪が張り付いて、心臓の鼓動は破裂しそうに早い。指先すら震えて、立ち上がる力も残ってない。
「……や、やった……」
乾いた笑いが喉から漏れる。
腕を吹き飛ばされ、心臓を潰されかけ――それでも生き残って、印を叩き込んで、封印を成功させた。
「勝った……マジで勝った……!」
あり得ない。だって相手は“旧支配者”だ。クトゥグアやウムル=アト=タゥィルやアフォーゴモンと並ぶ、最強格の一柱───のハスター。
そんなもんに、ただの人間……いや、正確には人間かはちょっと審議が居るが──俺が勝った。
「……俺、ハスターに勝ったんだ……!」
笑いが止まらない。疲労で視界が滲むのに、口元は勝手に緩む。
全身が痛くて、動くのもやっとで、次の瞬間には気を失いそうで――それでも、この達成感は揺るがない。
「……ざまぁみろ、旧支配者……」
力なく呟き、アインはそのまま冷たい床に仰向けに倒れ込んだ。
「……いや、待て」
俺は額の汗を拭いながら、上体を起こす。
「外……どうなってんだ?」
フラフラの足取りで階段を上がり、玄関の扉を押し開ける。
その瞬間、夜の空気と一緒に飛び込んできたのは――人々の絶叫と、狂気に満ちた笑い声。
道端ではサラリーマンが頭を抱えて路上に転がり、主婦が意味不明な歌を叫びながら踊り狂い、子どもたちは目を見開いて壁に爪を立てていた。
建物の窓という窓からは、狂った叫び声がこだまし、まるで街全体が悪夢に飲み込まれたかのよう。
「……あ、やべ?」
俺は固まった。
……いや、そうか。旧支配者の召喚。そりゃ余波くらい出るよな。発狂祭りも仕方ねぇ。
「……ま、取り敢えず勝ったんだし。ハッピーエンド...だよな?」