いつか、善き人として生まれ変われる様に 作:万年赤字一般傭兵
橙に染まった日が横並びに帰って行く生徒達を照らし始めた放課後、段々と冷えていく筈の空気が学業の終わりを喜ぶ彼らの活気によって熱を取り戻し始めた頃。
「蜘蛛蠍少年、久しぶりだね」
「……ええ、お久しぶりですオールマイトさん」
「それで、僕を呼び出した訳は何ですか?」
扉を閉め切り、人を払った仮眠室にて二人の影が向かい合っていた。もっとも外とは違って、何処か冷たく静かな雰囲気に満ちている中だが。
「蜘蛛蠍少年、君はさっきの訓練で確かに怪我をしただろう?」
「君の特殊な体質については良く分かっている、勿論それを誰かに知られたく無いことも。だけど、万が一はある」
「だから、何か異常が無いかを聞きたいんだ」
「そんな事ですか。大丈夫ですよ、傷一つ残って無いです」
「……"貴方"とは、違って」
前提として、オールマイトも蜘蛛蠍も温厚な部類の人間である。
この二人が並ぶならばもっと穏やかな雰囲気になる筈なのだが…現実として純粋な心配をするオールマイトに対し、蜘蛛蠍は喜ぶどころか寧ろ敵意に近い感情を露わにしていた。
目の前にいる存在は己が知っていた蜘蛛蠍では無い、そうオールマイトに思わせる程に。
だから、ナチュラルボーンヒーローたる彼であっても困惑するしか無く、この部屋の雰囲気を変える事はできない。
「…!何処で知ったんだい?」
「知るも何も、こうやって話すだけで嫌でも分かりますよ」
「少しこけた頬、妙に力が入っている横腹、血生臭い口元、何よりも静まっている個性…あの時とは段違いじゃ無いですか」
「象徴と言うのは、不変不朽だと思っていたのですが」
「……僕みたいに…」
「…ああでも、もしかしたら僕と同じかもしれませんね」
「ねぇ、オールマイト…貴方のその姿は偽りでしょう?もし良かったら…」
「本当の姿を、見せてはくれませんか?」
オールマイトの秘密を一切の遠慮なく暴き出し、しかしそれに飽き足らず蜘蛛蠍は一つの要求を出した。
それはオールマイトにとって絶対に超えてはならない一線、彼が象徴たる為には絶対に見せてはならない姿だ。
だが、蜘蛛蠍が一度出してしまった恨み言を止める事はできなかった。
「それは、「出来ないなど言いませんよね?」
「知っているのですよね?僕が如何に醜く、悍ましい存在かを」
「皮一枚剥がした先にある、腐り切った中身を」
「なのに、僕は貴方を知らないだなんて…不公平じゃあないですか」
「……分かったよ、蜘蛛蠍少年」
オールマイトの目の前にいるのは一学生では無く、嫉妬と憎悪に塗れた人の中身だった。
それはこの世の人の醜悪さを詰め込まれたかの如き、哀れな存在だ。
だからこそ、オールマイトは真の姿を晒す事を決めた。
未だ過去の傷を消し切れていない蜘蛛蠍を、今へと引き戻す為に。
オールマイトの体が煙に包まれて行く。その煙は段々と大きくなって行く様に見えるが、実際には違っていた。
「………」
オールマイトの体が縮んでいるのだ。
やがて、煙が完全に体を覆い尽くし、晴れた時。
「…これが私の本当の姿だよ」
蜘蛛蠍の目の前に、皮を貼り付けた骸骨の様な半死人が現れた。
目は落ち窪み、頬は完全に痩せこけ、手足は枯れ木のように細く、しかしその目には変わらぬ光を秘めている。
その光こそが確かに目の前の半死人がオールマイトである事を示していた。
そんなオールマイトの姿を見て理解した時、蜘蛛蠍が口を開いた。
「…残念です、やっぱり僕とは違うのですね……」
「オールマイト、そんな体で後どれだけ持つと言うのですか」
「十年?五年?…もっと少ないかもしれない」
「正直言って貴方が羨ましいです…だってそんな姿になっても、死ねるのでしょう?」
「頑張って、頑張って、そしたら最後には象徴の終わりと共に死を享受できるのでしょう?」
「けれど、その後は?貴方がいなくなったら、代わりの象徴として永遠の務めをしなければならない僕は?」
蜘蛛蠍の言葉に乗せられた感情は嫉妬、そして悲しみ。段々と口調を強くし、オールマイトに詰め寄りながら彼は言葉を続ける。
「貴方には…辛くとも象徴たる役目を楽しめていた貴方には、分からないでしょうね」
「再び象徴として縛りつけられる恐怖を、仲良くなった友達を失う怖さを」
「……本当に、怖いのですよ…酷く痛む鞭打ちよりも、時たまチラつく黄色い炎よりも何よりも……」
「…オールマイト、貴方は嘘つきで残酷だ」
「何で僕の願いを聞いたのですか?何で母児村から僕を解放してしまったのですか?」
「こんな、こんな…事なら……」
やがてオールマイトの首に手をかけんとしたところで、蜘蛛蠍は止まった。俯き、言葉すらも止まった彼からは涙と嗚咽がこぼれ落ちるだけだ。
先まで恨み言を吐いていた筈の彼は、いつしかただの子供になっていた。
どうしようもなく、ただ泣く事しか出来ない子供に。
「蜘蛛蠍少年」
「……へ?」
その時、彼の肩が何かに掴まれた。少し固く骨ばっていて弱々しいが、確かな力強さを感じるものに。
その何かとはオールマイトの両手。思わず蜘蛛蠍が顔を上げれば、すぐ側の彼は弱々しさを一切感じさせぬヒーローの顔をしていた。
「すまなかった…君に心配をかけたどころか、ここまで思い詰めさせてしまうとは」
「確かに、君の言う通りかもしれない。君と出会ったあの時と比べて、私は酷く弱くなってしまったね」
「…事実、ヒーローとして活動できる時間も減っている」
「でも、だからこそ今一度思い直してほしいんだ」
先まで蜘蛛蠍の理不尽な怒りを受けていたにも関わらず、オールマイトは落ち着いて力強い言葉を紡ぎ続ける。
「私がこうして衰えた時、この社会は悪くなっていったか?」
「君がこの社会で生活している中で、私の衰えを感じた事はあったか?」
「……ない、です…」
「そうだろう。さあ、考えてみてくれ」
「どうして私が衰えても、こうして平和が維持されたのかを」
今のオールマイトはヒーローでもあり、また新米であれども教師であった。
全ては教えず、問いを持って気づきを促す。
彼は今、蜘蛛蠍が気づく事ができていない答えを気づかせようとしているのだ。
既に答えは、彼の中にあるのだから。
「それは……」
「貴方以外のヒーロー達が……」
その時、蜘蛛蠍の頭に一人思い浮かぶ人物がいた。
手を汚そうとも社会の維持の為にヒーローを続ける、そんな彼女が。
「……レディ・ナガン」
「そうか、そうだったのですね。あの人をはじめ、色んなヒーローが支えていたのですね…」
かつて彼は人殺しの罪悪感と終わりの見えない苦行を哀れみ、彼女に対してどうにか救いを与えようとした。
それは所詮、口先だけの偽りでしかない筈だったが、その嘘は真となったのだ。
「そうさ、蜘蛛蠍少年!その通りだよ!!」
「確かに象徴を失えば、再び超人社会は悪に拐かされる…私も前まではそう思っていた」
「しかし!!」
個性 OFA、それは継承に重きを置く、不変を軸とする巫子とは真反対のもの。
されど象徴となったオールマイトは、その事を知っていながらも個性を託せる誰かを決めかね象徴であることを絶対としてきた。
「私以外のヒーローにも目を向けてほしい!君の言った通り、彼らは確かに象徴なき後を任せられる程に逞しいのさ!!」
「…だから蜘蛛蠍少年、どうか心配しないでくれ」
「私が象徴で無くなったとしても、超人社会が君を歪な象徴として求める事は無いのだから」
だが蜘蛛蠍から象徴であり続けることの歪さを、教師となって未熟さを知り、後継者を決めて継承を行なってからは、オールマイトの考えは自然と変わっていた。
最後まで象徴であるとした決意を揺るがないが、しかし彼はOFAの本領たる継承を、誰かに受け継がせて導くことを受け入れられたのだ。
「そして、信じてほしい」
「私は君との約束を違える気は一切無い。やり方は違うが、それでも君がヒーローになる夢を叶えられるように最後の一瞬まで全力を尽くすつもりだ」
「ヒーローとして、教師として」
「……ありがとうございます、オールマイト」
「本当に、本当に……」
だからこそオールマイトは、象徴としての捨てきれぬ責務に囚われかけていた蜘蛛蠍を当たり前の日常へと引き戻す事ができた。
仮眠室におけるオールマイトとの対話を終え、1-A教室まで向かう途中、蜘蛛蠍はこれ以上ない程に上機嫌だった。
『ところでオールマイト。あえて名前は言いませんけど、A組クラスメイトの中に貴方の個性と同じような個性を持っている人がいますよね?』
『やっぱり、気づいてた?…このこともオフレコで頼むよ』
『もちろんです。ただ個性で何か困ったことがあったら、僕を頼ってください』
『OFAは未だに謎が多い個性でしょう?僕の様に科学ではなく、神秘でなければ説明がつかない事もある筈です』
『…それに、こうでもしないと今日のお礼ができませんので』
それこそスキップ混じりの足取りに加え、先までのオールマイトとの会話が頭の中で反復されるほどには。
やがて彼の目の前に現れた"1-A"と書かれた大扉さえも、彼にとっては喜ばしいものとなり…
「切島君!!まだ反省会やってますか!!」
「おお蜘蛛蠍来た!!おつかれ!」
これでもかと声を張って扉を開け、それと張り合うかの様に大きな声を出した切島に出迎えられた。
「切島から聞いてるよ!蜘蛛蠍だっけ?アタシ芦戸!よろしく!!」
「…!蜘蛛蠍…」
「あら蜘蛛蠍ちゃん、おかえりなさい」
「ああ!蜘蛛蠍ってなんか凄え動きしてた奴か!…俺!砂藤、よろしくな!」
そして切島に続いて様々な反応をよこしたのは芦戸や常闇、蛙吹といった反省会の他の面子だ。
会ってから一週間も経っていない筈なのに、こうやって何の抵抗もなく話しかけてくれるクラスメイト達が、今の蜘蛛蠍にとっては手に入れる事ができた日常の象徴に思えた。
「…ふふふ…」
「えぇ、本当に…これからよろしくお願いしますね」
だからこそ彼には、この空間と時間がどうしようもないほどに愛おしく感じられ、満面の笑顔と共に反省会の輪へと入っていく。
「えっ、急にどうしたんだ蜘蛛蠍。…もしかして、オールマイトに怒られでもしたか?」
「ああ見えて、怒ると意外に怖いのかしら…?」
「あ"っ、いえそういう訳では…」
その笑顔たるや、既知の仲では不審に思われるほどであったが。
反省会の進行は滞る事なく、時計の針の進みに比べると早めのペースであった。
時折話が脱線し、見どころが多かった試合の感想会になりかけはしたが…それでもここまで順調に進行したのは、そうなる度に何かと外から飯田が口を挟んだからなのだろう。
「よし、じゃあ次は第三回戦…まぁ、俺たちの反省してみっか」
そして遂に始まったのが第三回戦の反省、第一回戦と張り合えるほどに荒れることとなった試合だ。
「真っ先に話すべきは…俺の個性だろうな」
「俺の個性 黒影は闇を増すごとに強くなるが、ただそれだけではない」
「あまりにも闇が深ければ、黒影は俺の制御を離れ…先の様に暴走するんだ」
口火を切ったのは常闇だった。
黒影を暴走させてしまい試合全体を掻き回し、事実蜘蛛蠍たちを巻き込んだ罪悪感が常闇に口を開かせたのだ。
「闇ってのは暗さってことだよな…なら逆に言えば、暗くなりすぎなければ問題ないってことか?」
「なら、すんごく強いのに使いやすい個性じゃん!だって、あれだけ自由に動かせてテープだってスパスパーって切れるんでしょ!」
「それで、暗さにだけ気をつければいいから…うん、やっぱり全然使いやすいよ!…私の酸は色々巻き込んじゃうからな…」
「…なら、何であの時に暴走したのですか?」
「最初は特に問題無かったようですし、別に雲が太陽を覆った訳でもないですよね?」
「そうだね、外から見てたけどずっと晴れてたよ!」
「だが、映像は段々と暗くなっていなかったか?」
「言われてみれば…?モニタールームが暗かったから、ちょっと確信持てないかも」
「む、そうなのか……ならば、なぜだ?」
常闇の個性 黒影の暴走、それは確かにインパクトのある出来事ではあったが、しかし反省会で話すべきは再発の防止であり罪の追求ではない。
だからこそ常闇の罪悪感に反して話は順調に進み、最も重要な部屋が暗くなった原因について話し始めたのだが…
「「「「うーん…?」」」」
「……梅雨ちゃん?何か、思い当たる節があるのですか?」
「ええ、ただ…」
「ちょっと自分でも信じられないような理由なのよ」
「本当か、蛙吹!…待て、信じられないような理由?」
ただ一人、近くにいながらも試合を俯瞰していた蛙吹を除いてその原因を思いつく事はできなかった。
「ええ…蜘蛛蠍ちゃんと、切島君が戦っていたのは皆覚えているわよね?」
「この二人が戦い始めて少し経った頃だったわね。張り付いていた壁が揺れ始めたのよ」
「それで簡単に言えば、この揺れのせいで部屋の色んなところが崩落して窓が塞がれたから暗くなった…と思うのだけれど」
「地震…?」
「いや、モニタールームにいたが、地震なんか無かったぞ」
「なら、何で揺れたんだ?」
「…やっぱり、あれは地震じゃ無かったのね」
蛙吹が話した理由、それは一見真っ当なものに見えたが実際には違った。故に皆が注目し始め…やがて蛙吹が"信じられないような理由"を話し始めた。
「蜘蛛蠍ちゃん、切島君…本当に信じられないと思うのだけれど、あの揺れは貴方達の戦いが原因かもしれないわ」
「何か思い当たる事はない?」
増強系や異形系の個性を持つ訳でもない二人の戦闘、普通ならばそれが緑谷が起こしたような破壊をもたらすとは考えられない。
だが彼自身が冷や汗を流して自覚しているように、蜘蛛蠍は少々特殊だった。
「………いや、まさか」
「なぁ蜘蛛蠍、今だから言うけどよ。俺、お前の攻撃を防ぎきれなかったんだよな」
「硬化してんのに、お前の蹴りが結構響いたんだ」
「あん時ゃ全然気にしなかったんだけどさ…よくよく考えりゃお前、とんでもない力してたな」
「い、いやまさか!確かに壁や天井を蹴ったりしましたよ、でも…」
「蜘蛛蠍が蹴った場所って何処も砕けてなかった?」
「そうだな、映像越しなのに迫力満点だったぜ」
「待って、と言う事は…全ての原因は蜘蛛蠍ってこと?」
「えっ」
「蜘蛛蠍ちゃん、ごめんね…」
「えっ、えっ」
硬化の個性を持つ切島からの認定、そしてモニタールーム待機組の芦戸と砂藤からの証言…もはや、蜘蛛蠍が否定できる要素は何一つ無い。
やがて周りからそれらしい哀れみの目を向けられ始めた彼の肩に、ポンと手が乗せられた。
「男らしく罪を認めようぜ、蜘蛛蠍」
「一緒に戦っていた俺もついてやるからよ」
「……はい」
もう蜘蛛蠍が逃げる事はない。完全に観念した彼は、どこか笑みを堪えた顔の切島と共に常闇へと向き直り、その頭を下げた。
「本当に、申し訳ないです」
「いや、事前に伝えなかった俺が明らかに悪いだろ」
「…えっ?」
「暗くしてはいけないことを知らないのだったら、どうしようもないに決まっているだろう?」
「はぁ……蜘蛛蠍、お前は乗せられすぎだ…」
途端、切島達から笑い声が漏れ出した。一体何が起こったかを把握しきれていない蜘蛛蠍に対し、笑い混じりの声で芦戸が話しかける。
「アハハハハ……いやさっきまでの、冗談だよ!」
「蜘蛛蠍さ…まさかあんなに、乗せられるだなんて、ちょっと真面目すぎるよ!」
「は、はぁ…?」
俗に言う軽い冗談。よくあるものではあるが、しかし蜘蛛蠍にとっては馴染みのないものだ。
彼にとって嘘をつく事は完全な悪であり、誰かを苦しめるものであったのだから。
だが不思議な事に、彼がこの嘘で悪い気になる事はなかった。
寧ろこうやって揶揄う程、ある意味の信頼があると思えば少し嬉しい程だった。
だから、彼もまた少し揶揄う事にした様だ。
その目に少しの涙を出して、彼は切島へと向き直り訴えかける。
「…なるほど、そうきますか……まさか、騙されていたとは」
「くぅ…よりによって切島君に騙されてしまうとは…僕達は男らしく拳を交えた仲では無かったのですか…!」
「切島君、こんなの全然男らしくないですよ!」
「え"っ、それは…いやちょっと待ってく
「何て…へへ、冗談ですよ」
「恨みっこなし、ですよね?」
「お、お前〜…」
男らしさを押し出されて思わず切島がたじろぐが、そこを逃さずに蜘蛛蠍が種を明かす。
先まで泣きそうだった顔は何処にもなく、少し舌を出して如何にも"揶揄ってやった"と誇る悪ガキの様な表情がそこにはあった。
「ア"ッハハハハハ!!!ゲホゲホッ!!もうダメ!めっちゃ面白いわアンタら!!!」
それを見てこれまた芦戸が大きく笑う、されど蜘蛛蠍は止まらない。
「そうやって笑ってられるのも今のうちですよ!」
「芦戸さん、梅雨ちゃん、そして砂藤君!絶対に騙し返してあげますからね!」
「絶対ですよ!!」
「やっ、やめて…ヒヒッ!!これ以上、わらわせないで…」
反省会であったはずが、いつの間にかそこには何とも下らなくて、しかし自然に笑う事が出来る談笑の場ができていた。
だが、それこそが日常というものだろう。
『ええーっ!?切ってる!!?』
『痛くないの…って、痛いなら尚更ダメだよ!』
『確かに捻れて混ざり合ってる角で、手入れは面倒かもしれないけど…』
『確か…ほらこの会社!ここで売ってる手入れ品なら、蜘蛛蠍の角でも簡単に綺麗にできるよ!』
『あっそうだ!今度私も買いに行くからさ、選び方とかもあるし一緒に行こーよ!!』
「角の手入れかぁ…考えたことも無かったですね」
あれだけ楽しかった雑談は、たとえ家に帰れども忘れる事は無い。
今、蜘蛛蠍は反省会後の話を思い返しながら洗面台の鏡と向き合っていた。
とは言え、角の手入れをする訳ではない。手入れ品は今度の週末に芦戸と買いに行くことを約束したのだから。
「心なんて読めなくていい…いや、読めない方がいい」
「あんな冗談を楽しめないだなんて、損ですからね」
彼が鏡の先に見つめるのは角ではなく、目だ。
誰かから押し付けられた、人の心を読めてしまう目である。
巫子として誰かの弱みを見つめるときにはとても有用で、しかし日常の中では厭うべきもの。
「…うっ、ゔ…」
そんな目に狙いを定め、彼は両手を近づけてゆく。
反射のせいだろうか、両手を近づけて行くごとに瞼は閉じて行き、瞳孔は狭まって行く。
だが、決してやめようとはしない。
「…はぁ、はぁ……」
両目まで後10cmかというところで、彼は近づけていた手を止め、息を吸い直し…
「あ“あ"あ"ぁっ!!!!」
瞼が閉じ切るよりもずっと早く、指を"中"へと滑り込ませた。
途端、絶叫が家の中にこだまする。
「…ぐっ…ぅゔっ…」
無理に指を入れたのだというのに、眼球が潰れる事はない。少し柔らかく、しかしヌメヌメしたスーパーボールの様な二つのそれは、その程度では目としての役割を放棄しないのだ。
だから何とか引き抜こうと彼がそれらを握り込めば、痛みと共に視界が変わっていった。
押せば狭く暗くなって、戻せば広く明るくなる。
くぐもった声を出しながら、そうしてもがく事五分。
「ぎ…ぃっ…ゔ……」
「ヴァ"ア"ア"ア"ア"ぁぁっ!!!!」
「…あ"…ぁ…」
遂に、両目を引き抜く事に成功した。
二度目の叫びは酷いものだった、喉を壊し言葉を発せなくなってしまうほどに。
されど終わりではない。
まだ、目は見えているのだから。
まるでカタツムリの角のように、伸び切った視神経が未だ眼球についていた。
目を引き抜けども脳とのつながりは切れておらず、故にチカチカとした異常な光景が彼の脳に投影されているのだ。
左に見えるのは今日の朝に使ったはずの歯ブラシ、白色だったはずなのにそれは極彩色を放っている。
右に見えるのはさっき落としてしまったタオル、紺色であったはずのそれは灰色になっていた。
「………ぃ"…っ…!!!!」
覚悟を決め、彼は両手の指で視神経を思い切り断ち切った。
3回目の叫びは静かだった、もはや叫べないのだから当然だろう。
ぶつりとコードを切ったテレビのように何も見えていないが、それこそが終わりの合図だ。
「………はあっ…!…はぁ、はぁ、はぁ……」
「!!」
段々と喉が治って行くのに従って、真っ黒だった視界が情報を取り戻して行く。
すかさず彼は鏡を見た、鏡の先にある己の瞳を。
「……やった、やったぁ!!」
「これで、皆んなと…皆んなと同じ日常が見れるんだ…!!」
それは色褪せた瞳。何の変哲もない唯の目である。
だが唯の目であるからこそ、それは象徴たるを真に捨て、眩い日常を手にした確かな証拠なのだ。
激痛への狂気を抱くこともなく、誰もいない洗面所で彼はただ純粋にその瞳を喜んでいた。
浸透型角油"トリシャ"
とある化粧品会社が開発した手入れ品の一つ。
ブラシや布で奥まで磨けない混じり角の手入れに最適。
母児村における需要は無く、故に混じり角をもつとは言えども巫子が知る事はなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。