……はぁ。心の中でため息を吐く。
今日から俺は新人の面倒を見ることになった。とはいえまだ顔も合わせていないわけだが。
あまり関係は築かないでおこう。深くまで踏み込まないし、深くまで踏み込ませない。
少し憂鬱な気持ちになりながらもなんとか会社へと通勤する。
こうして電車に乗っていると、主に男から多く視線が感じられる。
不快になる人も居るのだろうが、俺としてはこの状況が嬉しかった。……勘違いしないで欲しい、俺は別にみられて興奮するような奴ではない。
男から見られると、今ちゃんと女になれているんだな、と安心できるのだ。数少ない安心感を得られる時間である。
今ここに俺が元男だと分かる人は居ない。それだけで、たったそれだけだが、俺にとっては救いとなる。どうせここで会った人とは二度と会わないのだから。
しばらくぼーっとしていると、視界の隅にちらりと見覚えのある姿が見えた。
高校でいつも一緒に居た存在。忘れたことのない存在。
「……隼人?」
思わず言葉が漏れ、慌てて口を手でふさぐ。
隼人。俺が高校で常に一緒に居て、青春を共に過ごした、大事な親友。
……いや今の俺には関係の無い話だ。男の時の俺とは違うんだ。今は俺と隼人は全くの赤の他人。出会ったこともなければ知り合いでもない。
俺の声を疑問に思ったのか、隼人はあたりをチラチラと少し見回した。しかしそれもすぐに終わり手元へと目を移した。
「……」
久々に見た友の姿は、前に見た時よりたくましく見えた。
男だった時、隼人は大学に行くと言っていた。あの様子だと無事に大学へ行けたのだろう。
そして留年もしていなければもうどこかの会社に入社しているはずだ。
……心の中で、おめでとうと一言だけ掛ける。
今の俺は赤の他人だし、俺だって知らない人にいきなりおめでとうなんて言われたら混乱するに違いない。
だから、心の中で。
停車を知らせるアナウンスが流れ電車を降りる準備を始める。
すると隼人も同じように準備を始める。
近くの会社かな?なんて疑問も聞けるわけなく自分の中に留めておく。
駅を出れば、徒歩五分。それで会社に到着する。
今日からの教育、どのようにしていこうかと考えながら歩いていく。
今の時代少しきつく言うとパワハラだなんやら叫ばれる時代だ。過去の俺も上司に対してこのようなことを考えさせていたのだろうか。
少しだけ申し訳なさを感じた。ごめんなさい、田中さん。
◇
職場に着いた。特筆すべきことの無い、いつも通りの日常だ。
昨日と同じように働き、昨日と同じように帰る。
しかし今日は違った。俺が担当する子と初の対面である。
正直言うとドキドキしてた。素直な子だといいなと考えていた。
「結城隼人です。今日からお世話になります」
「……桜井薫です」
どうしてこうなった。確かに降りる駅は一緒だったけれども。それは無いでしょう。
……気づかれたくない。俺の切実な願いだった。相手にとって俺は、いきなり縁を切り連絡のつかなくなった親友だぞ。しかも女になっているというフルコンボ。
「……桜井か」
「?……なにか?」
「いえ、すみません。高校の時に同じ苗字の奴がいたっていうか」
「……苗字なんてありふれてるしね」
なんでこいつこんなに勘が鋭いんですか?
……でも、大丈夫。男だった時からは苗字は変えられなくても名前は変えられた。
男だった時は葵だった。しかし、今は違う。俺は薫だ。今の俺は薫。
「それじゃあさっそくなんだけど──」
……何があっても、仕事中は仕事をしてもらう。社会で働くものとしてそれは当然だ。何か雑談でもするなら、休憩中にでもしておけばいい。
俺が葵だってことはバレないようにしなければ。不必要な会話をせずに最低限で話していけば、バレる可能性は少なくなるだろう。
時刻は少し経ち、昼。隼人は仕事の覚えが早かった。分からないとこがあったらすぐに聞きに来るし、昇進するのはこういうタイプなんだろう。俺なんかすぐに抜いてしまいそうだ。
一人で買ってきたパンをもぐもぐ食べていると横から声が掛かった。
「桜井さん、僕も一緒に食べていいですか?」
「……まあ」
何かを求めるような瞳につい許可をだしてしまった。このままではだめだ。関係が深まる。俺が俺だとバレてしまう。
「桜井さんってあまり笑わないですよね。あ、いや別に悪いとか言ってるんじゃないですけど」
「……別にそんなつもりは」
関係が深まる。脳で理解しても、体が勝手に動く。
久しぶりの再会に体が、心が喜んでいるんだ。
「もっと笑った方が良いと思いますよ。桜井さんは可愛いんですから!」
「──え?」
「……可愛いからもっと笑った方が良いと思います」
「……ぅ」
いきなりなんてことを言うんだと思った。
今となっては懐かしい記憶。
『葵は僕の一生の親友だからな』
『……』
そうだ。こいつはこんなセリフも恥ずかしげなく言える奴だった。
逆にこっちが恥ずかしくなってくる。顔が赤くなっていると思えるほど熱い。
懐かしい状況。
「……ふふ」
「あ、笑いましたね」
今だけは過去に戻ったかのように感じられた。