便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル   作:まーろう

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10 苦い記憶の下へ

 連邦生徒会は公用車を持っていなかった。移動は専ら電車か、緊急の場合にはヘリコプターを呼んでいる。拠点が移されてからは、近くにある別の建物のヘリ発着場を借りるしかなかった。それでも便利屋68が使うには人目がありすぎる。便利屋68は箱型のバンに乗って、スワン空港への高速道路を飛ばしていた。

 

 運転席にハヤテが収まり、車の中に五人だけが乗った。ハヤテの取り巻きたちには行き先を告げて、中心街で適当に時間をつぶさせている。アルは目立つ大人数での移動はなるべく避けたいと考えていた。グラウンドゼロの一件があってからでは、またよからぬ企みがあると勘ぐられかねない。バンに乗り込んでからも、アルはたびたび尾行を気にしていた。

 

 高速道路は車の影もまばらでバンが速度を出すために問題はなかった。日が照り返す黒いアスファルトの上を一目散に走っているため、車内にもエンジンの低い駆動音がかすかに聞こえている。

 

「それにしてもよくバンを借りられたね」後部座席からムツキが運転席のハヤテに話しかけた。

 

「これもスライのおかげさ。相当儲けが良いらしい」

 

 ゲンゲツが仕事に戻った後で、屋上から地上へ降りる前にハヤテはスライに通信をかけた。連絡先の番号も毎月変わるようで、繋がるまでに多くの安全装置がある。それが済むと少女が電話口に出た。ハヤテは車が一台いることと、目立たないよう表ではなく裏の通りにつけてくれと矢継ぎ早に言うとすぐに通話は切れた。それが済んで地上まで降りてから、表の通りを無視してビルの裏手に回り込むともうバンは用意されていた。ここまで車を運んできた運転手の姿もない。カヨコもどういうトリックなのか訳が分からなかった。ハヤテに尋ねたが、中心街だから手配しやすいという答えしか得られなかった。

 

 アルは車窓を流れていく山の細かい木々の模様を眺めていた。すでに中心街を脱出して、かれこれ十五分ほど自然に囲まれた道路を走り続けている。中心街からは空港行のシャトルバスが出ており、前にアルとハルカはバスを使って空港へ向かった。しかし今日は悠長にバスを待っている訳にもいかなかった。

 

 空港にいる監視からの真新しい報告はない。バンを走らせ始めた辺りで、レイとPMC兵が地下基地に繋がるボイラー室へ入っていくという知らせをしたきり、定時報告はずっと「まだ出てこない」を繰り返すだけになっていた。既に空港を出ているという線も考えられるが、ここまでの移動に使用したと思われる車両は空港駐車場に残されている。空港の周りは飛行機の離着陸の障害とならないよう開けた地形になっているから、レイはまだ地下基地から出てきていないと踏んでいた。

 

「ハヤテ。あと三キロ先で降りたら道なりに走って」カヨコは助手席で地図を広げて言った。

 

「カヨコは親切だな」

 

「運転して貰ってるから、このくらいはね」二人はそれぞれの持ち場──ハヤテは路面状況、カヨコは地図──から目を離さずに声を交わす。

 

 ムツキは前列二席の間に顔を出した。「クフフッ、二人とも運転ありがとう!お礼に後でなでなでしてあげるね」

 

 ムツキはこういう事へのお礼に必ず撫でを出す。されて悪い気持ちはしないが、ハヤテに効果があるのだろうか。

 

「そいつは夢のある話だが、これは大きな貸しになるぞ。足の調達もしたんだから、こっちは倍にしてくれよ」

 

「えー、ならハヤテちゃんは特別に両手でなでなでしてあげるよ!」ムツキはちょうど例を示すみたいに、隣に座ったハルカの髪をわしゃわしゃと両手で撫でた。ハルカは満更でもなさそうだった。

 

「よし!カヨコ、どこで降りようか」

 

「落ち着いて。まだ出口は一キロ先だよ」カヨコは冷静に返した。ハヤテの根の部分はどうやらムツキに近いようだ。

 

 長いこと疾駆させ続けたバンを休めるように、速度計は百から九十、七十へと下がっていく。下り坂の先には一般車両も見え始めた。もう車を飛ばせそうにはない。合流すると、道路の両脇は田園になった。黒く伸びた道路は緑の大地の真ん中を突っ切るように伸びている。見晴らしの良い景色の奥に、ひときわ目立つ箱型の建造物が見えてきた。

 

 建造物の壁面はガラス張りだった。傾き始めた日を受けて白く光る箱みたいだった。上空で小さい旅客機が高度を下げ始めて着陸の姿勢になると、機影は徐々に大地へ迫り、腹から伸びた足が触れる。勢いそのままに滑走を続けると、機影はやがて建造物の影に隠れた。

 

 スワン空港は既に機能を取り戻して、交通の要所として再稼働を果たしていた。三ヶ月前の爆発事故で滑走路の大部分が使用不能になると、それでも残りの路を使って受け入れ数を減らすことで機能を完全停止させなかった。交通インフラとしての機能復旧が急がれて、各所からの募金も甲斐あって今では怪我の後はすっかりなくなっている。カヨコはサンクトゥムタワーの話を思い出して、連邦生徒会も募金で再建費用を集めれば良いのではないかと考えた。後でゲンゲツに提案してみるのもいいかもしれない。

 

 バンは空港の駐車場に入ると、建物の近くへ横づけで止まった。セーラー服を着た女性が車へ近づいてきた。

 

「リーダー、レイとPMC兵はまだ出てきていません」

 

「これから迎えに行く。車の番を頼む」ハヤテが指示すると、いきなり後部座席のドアが開け放たれた。

 

 アルは狙撃銃を隠そうともしなかった。それに倣ってカヨコも車を降りると、拳銃を片手で持ち、中には入らずガラスの壁に沿って小走りを始めた。アル、ムツキ、ハルカ、ゲッコウが後に続く。これでは中から武装が丸見えだろう。衆目は免れないという自覚はあったが、ここまで来れば些細な問題だった。

 

 後ろからハヤテの驚愕する声が聞こえた。「本気か!全員とも社長譲りのアウトローだな」褒められてるのか判断に迷ったが、目下の問題はレイの確保だ。後ろからドアを叩きつける音が聞こえると、集団の最後尾に間もなくハヤテが合流する。

 

「こっち!」カヨコが先導して建物の角を回ると、赤く塗られた扉が現れた。上には「ボイラー室」、鍵穴近くの把手の辺りに「関係者以外立ち入り禁止」とある。把手を捻って引くと、風雨に晒され続けた扉は軋む音と共に開いた。鍵をかけ忘れたか、先客がいるかのどちらかだ。

 

 扉に入ると、右に折れて地下へ伸びる階段があった。赤い警告灯や配電盤らしき箱の黄や緑といった光だけが、足元の段差を彩色豊かに染めている。階段の奥底からは、ボイラーの低い駆動音が耳に届いた。目に見える先に人気はない。

 

 カヨコは地下基地へ続く道に一歩踏み入れた。手元の武器の安全装置は既に解除してある。護衛のPMC離反兵と戦闘になることは確実だろう。

 

 カヨコがサプレッサー付き拳銃を構えて先頭になると、アルの先にムツキが入った。狭い通路では狙撃銃は取り回しが難しく、咄嗟の会敵にはムツキの機関銃の方が都合が良かった。アルの後に散弾銃を構えたハルカ、そして大口径リボルバーに手をかけたゲッコウと機関拳銃を持つハヤテが続いた。こんなに通路が狭いなら全員じゃなく、半分ほどの人数で来るべきだったとカヨコは少し反省した。特にアルの狙撃銃は狭い室内で肉薄されたら最後、圧倒的に不利だった。

 

 カヨコは階段を降り切ると、少し広い部屋に出た。蛍光灯の光が隅々まで行き渡っている。誰もいない。ボイラー室の名の通り、車のエンジン機構をそのまま巨大化させたような物体が四つ奥に向かって並んでいた。空間には絶えず機械の唸りが反響し続ける。壁に縦横に張り巡らされた配管は迷路のように入り組んで、いずれも光の届かない天井に向けて伸びていた。

 

 拳銃を水平に構えたカヨコは、足音を殺して動力機関の横を通った。大木みたいな機械の横を通るたびに、駆動音が耳を埋め尽くす。

 

 しかしそれも終わった。部屋の奥にさらに扉を見つけた。カヨコはそろそろと扉に近寄ると、把手を捻った。こちらも難なく開く。奥は通路だった。

 

 こちらも敵はいない。カヨコたちは難なく通路を進んでいった。天井の蛍光灯が通路の見通しを良くしてくれている。

 

 行く手は暗かった。蛍光灯は途中で途切れていて、それより先は全く光のない闇だ。カヨコはポケットから小さな懐中電灯を取り出すと、左手で目線の高さに上げて床を照らした。

 

 円形の光が映し出したのは、くすんだ赤いビロードだった。複雑な模様は瓦礫と埃に隠れてほとんど分からなくなっている。カヨコは見覚えがあった。光を壁、天井へぐるりと円を描くように向ける。廃墟と化したホテル客室の廊下のようだ。壁沿いには等間隔で扉が配置されて、それぞれ部屋番号が割り振られている。壁は漆喰だが、これも修復が不能なレベルで痛んでいた。リフォームの際に壁をまるまる取り換えるしかないだろう。天井には電球を埋めるためのくぼみがあったが、明かりの元は地面に落ちて割れている。光を当てると細かい破片がきらきらと照り返した。

 

 カヨコは愕然とした。苦い記憶が目の前によぎる。ここはブラックスターの地下基地でも客間として使われていた区画だった。しかし客間とは名ばかりで、本当の顔は攫ってきた者を監禁するための贅沢な牢獄だ。それぞれの扉の向こうには広々としたリビングがあり、寝転べるほどの大きさのソファにシャワールームまでついていた。一見高級ホテルの一室みたいだが、牢獄らしく扉の内側には把手がついておらず中から開けることはできない。それから当然だが地下なので窓もない。空港の地下にあることを気取られないよう部屋には防音設備が敷かれていて、自分が動かない限り物音はまったくしない異様な空間となっていた。

 

 カヨコもここでしばらく過ごしたことがあった。しかしすぐに気づけなかったのは、かつて見た光景から生命が全く取り払われた無機質な廃墟となり果てていたからだった。

 

 盛者必衰とはまさにこの事だろう。かつては栄華を極めたブラックスターがいなくなって、この地下基地には全く手が入らなかったに違いない。天井と壁のぶつかる角には蜘蛛の巣が張っている。滑走路のアスファルトで蓋をされたからか、空気はひんやりとして濁っていた。

 

 カヨコは扉の一つに近寄ると、少しだけ開いて中を覗いた。見える家具の配置は同じだが、電気が通っていないため真っ暗だ。またも忘れかけていた記憶が蘇ってくる。

 

 ブラックリスタの罠に嵌って拉致されてから、この部屋で目を覚ましたカヨコはアスと再会した。アスはブラックリスタの下に収まって、彼女の指示を受けて動いていた。カヨコはアスと一対一の対話で、なぜ生き延びていたのかを聞いたことがある。アスの答えは「亡霊は死なない」というものだった。

 

 今思えば不可解な返事だが、その時の自分は異様な空間も相まってそれ以上追及しなかった。ブラックスターの基地からどう脱出して、仲間たちと合流するかに全神経を傾けていた。だが本当に駆り立てるべきはアスの方だった。ネオ・チャレンジャー基地の対決で、アスはヘリコプターに乗ったまま墜落に巻き込まれている。あれからどうやって生き延びたのか、彼女の秘密を聞きそびれたのだ。

 

 背後からアルの声がした。「行きましょう、カヨコ」

 

 カヨコは先頭に戻ると、慎重に歩を進めた。

 

 通路は真っ暗だったが、カヨコは全く迷う気がしなかった。足元が悪くなければ、きっと明かりを消しても動き回れるだろう。

 

 通路の突き当りには、やはりエレベーターがあった。不思議な事にこのエレベーターだけは電力が通って動作している。ブラックスター壊滅後に、ここだけ誰かの手が加わったことは間違いなかった。

 

 確かこのエレベーターは直通だった。今いる客室階と下の階を結ぶだけの箱だから、行き先で迷うことはない。ボタンを操作すると、滑らかな駆動音が聞こえてからすぐにドアが左右に割れた。さすがに武器を構えた六人全員では一度に乗れなかった。

 

「二回に分かれよう。私とハルカ、ゲッコウで先に行く」

 

「分かったわ。待ち伏せがあるかもしれないから気をつけて」

 

 それだけ言葉を交わすと、カヨコたちを乗せた箱は地下二階へ向かった。

 沈黙が訪れた。下階へ着くには少し間がある。カヨコはゲッコウに控えめに話しかけた。「ゲッコウ。ずっと私たちに付いてるけど、風紀委員会の仕事は大丈夫なの?」

 

「気にすることはないよ」ゲッコウは躊躇いがちに言った。「実は、風紀委員会に入ってからしばらく頑張っていたんだけど、ソウが言ってた事が何となく分かった気がしたの。幹部の人たちはともかく、ほとんどは皆委員長にすっかり頼り切りになってる」

 

「まあ、あの強さじゃそうなるよね」

 

 カヨコはため息をついた。便利屋68も風紀委員長の空崎ヒナには何度も苦しめられている。逆にヒナがいなければ、風紀委員会はどうとでもできる連中だった。ヒナに頼って訓練を疎かにしている者も少なくないだろう。

 

「それで思ったんだ。私たちがどんなに頑張っても、結局事を解決するのはいつもヒナ委員長。ひょっとすると私は、いや風紀委員会はヒナ委員長一人いれば必要ないような気がするんだ」

 

 ゲッコウは目を合わせないまま話した。カヨコは何も言わなかった。ゲッコウはかつてソウが悩んだ同じ道を辿っている。グラウンドゼロでも風紀委員会の仲間は助けに来ていなかった。たまたまカヨコたちが出くわして事なきを得たが、これも風紀委員会への不信感を高める要因になっていた。

 

 ゲッコウの気持ちは便利屋68と風紀委員会のどちらに傾いているのだろう。彼女はネオ・チャレンジャー基地でもカヨコたちに助けられて、そこで便利屋68の臨時社員という役職を貰った。解決後は風紀委員になったが、今はまた臨時社員を自称している。善と悪。追う者と追われる者。二つの狭間を行き来する内に、彼女の中で境界線があいまいになり余計に苦悩することになっているのかもしれない。だが私は便利屋68の課長だ。突き放すようだが、自分たちにとって風紀委員会など猟犬(ハウンド)以外の何でもない。風紀を守るため、鼠たちを追い回すゲヘナの飼い犬。それが風紀委員会だ。仮に風紀委員会が解体されたとしても、自分たちに不都合など一つもない。事切れる寸前のソウに似た話を聞いてフォローをしたこともあったが、あれは残された時間が少ない者への手向けに過ぎない。ゲッコウには時間がたくさんある。悩み抜いて自分なりの解を見つけてほしいという親心に似た思いがカヨコにはあった。

 

 エレベーターが終点に近づくと、カヨコはハルカと共に銃をドアにまっすぐ構えた。ゲッコウも気を取り直すと銃に手をかける。ハルカがドアの目の前に立った。エレベーターが急に動き始めて、敵が出口で警戒している可能性がある。もしそうならドアが開いてすぐに制圧しなければいけない。

 

 エレベーターが止まる。引き金に指がかかった。緊張が最大に高まると、ドアは静かに開いた。

 

 先は照明のない暗い体育館みたいな空間だった。広い部屋の中央には長い机が置かれている。

 

 敵の姿はなかった。カヨコは明かりで部屋の奥まで照らした。この部屋は特に崩落具合がひどく、奥は完全に崩れて滑走路のアスファルトが小山を作っていた。

 

 まさか逃げられたのか?カヨコは部屋を壁伝いに進んで、隠し通路のようなものがあるか探した。部屋の角につくと、懐中電灯で部屋の隅々を照らして状況を調べた。ここはとても静かだった。静かすぎる。

 

 カヨコの頭に一つの強い記憶が蘇ってきた。そうだ、あの部屋だ。ここはかつてブラックリスタに食事に招かれた部屋だった。金持ちの夕食を前に、ブラックリスタ本人から自身の生い立ちと計画の全貌を悠然と語られたことを思い出す。あの時は美術館のような雰囲気に圧倒されたが、それもたった三ヶ月でこの有様だった。

 

 巨大なシャンデリアは天井もろとも落下して押しつぶれている。さらに下にある机も衝撃で割れてしまっていた。椅子は倒れて、飾られた陶器は散乱している。長らく手が入っていない証拠だ。

 

 壁に光をやると巨大な絵画が浮かび上がった。学生寮一部屋分はある大きさの絵画は壁にかかったまま放置されていた。だがその中で一つだけ、床に落ちて壁に寄りかかっているものがあった──白い長髪にグレイの目の人物の絵だ。かつてカヨコが座った席の裏に飾ってあった絵だった。

 

 意味ありげに立てかけられた絵に光を向けて近づく。この絵だけ被っている埃が薄かった。抜き足で近づいてみて、カヨコは慌ててライトを消した。絵画と壁の隙間から光がもれている。二人にそこを動かないよう伝えると、壁に背を張り付けて少しずつ光の線に近寄った。かすかに会話の断片が聞こえてくる。電子音特有の響きからPMC兵だと分かった。

 

「──本当に運の良い奴だよ。ボスに気に入られている」

 

「それなのに再洗脳とはな」

 

「グラウンドゼロで例の連中を逃がしたらしい。裏切られる前に服従させようってことだよ」

 

「本当に裏切ろうとしたのか?あの変わった姿の特殊部隊だって彼女が作ったんじゃないか」

 

「真偽は分からん。だが連中が彼女を探し回ってるって噂だ。奪われる前に洗脳して、関わった記憶をきれいさっぱりなくさせたいんだろう」

 

 カヨコは聞き耳を立てながら考えた。

 

 再洗脳、変わった姿の特殊部隊、記憶の抹消。

 

 エレベーターが再び開くと、アルとムツキとハヤテが合流した。これで全員揃った。

 

「社長、狙いが分かった。レイに再洗脳をかけて、アスに関わる記憶を消させるつもりだよ」

 

 アルははっとした。「なら早く助けなきゃ。彼女は重要参考人よ。記憶を消されたら苦労が台無しになるわ」

 

 カヨコが絵と壁の隙間から漏れる光を指し示すと、全員が近づいた。いよいよ戦闘は避けられない。

 

「絵をどかす必要がある」カヨコが説明すると、アルは頷いた。絵画の脇に隠れると、ムツキがC-4爆薬を取り出した。粘着テープをはがして、絵画の中央──描かれてる人物の股下に貼り付ける。スイッチを弾くと、リモコンを手にしてアルの脇に隠れた。ボタンを押した瞬間に爆発する。ムツキはこの瞬間を何よりも好んでいた。ムツキの指がボタンに乗ると、「おめでとう」と小声でつぶやいてボタンを押した。

 

 爆発音は思ったほどではなかったが、広い食堂に反響した。だが上の空港で気づく者はいないだろう。

 

 反対に破壊された絵画の奥は大騒ぎだった。壁に開いた穴に立ち込める分厚い煙と雲の奥に明かりが見える。

 

 カヨコが拳銃を構えると、PMC兵のシルエットが一人現れた。突然の爆発の原因を確認したいが、危険を冒すのを躊躇って煙の中に踏み込めないでいる。先ほどの会話の相手らしきもう一人のシルエットが加わった。

 

 残念だったね、二人とも。ライトで照らされて、こっちからは丸見えだよ。

 

 サプレッサーを装着した拳銃の発砲音は静かだった。冷静に頭部を狙いすましたカヨコの手の中で銃が二度跳ねると、二人のPMC兵はぐいと上を向いてどさりと倒れた。

 

 カヨコはしばらくそのままで、他に襲撃者の正体を確かめようとする仲間が来るかどうか見極めていたが、とうとう仲間は来なかった。カヨコは穴へ入ると、埃を左手で払って明かりの差す方へ進んだ。何メートルか進むと空気は澄んできた。

 

 穴の向こうには小さな物置くらいの空間が設けられていた。カヨコもブラックスターの地下基地にこんな隠し部屋があるとは気づかなかった。以前に食堂へ来たときは巧妙に隠されていたに違いない。アスは知っていたのか、もしくは一部が崩落した地下基地を再び訪れて、この部屋を見つけたに違いない。

 

 部屋の中央奥に小さな椅子が置かれて、それに一人の少女が座らされていた。

 

 誰かが息を飲む音が聞こえた。容姿を見てカヨコだけでなく、アルやムツキ、ハルカ、ゲッコウも確信した。白髪に小さな翼。グラウンドゼロで見た少女が手や足首を縄で縛り付けられていた。ひどいことに目隠しと猿ぐつわまでされている。PMC兵は再洗脳と言ってたが、これでは電気椅子に縛られた死刑囚だ。

 

 先ほどの爆発に続く襲撃音が聞こえても、拘束された少女は少しも動揺していない。この襲撃があることを賭けてもいいくらいに確信しているようだった。

 

「助けに来たわ」アルが言い放ったが、反応はなかった。そこは「攫いに来た」と言うべきではないかとカヨコは思ったが黙っておくことにした。ムツキが後ろからアルを見上げてにやついていた。

 

「し、失礼します」ハルカが白髪の少女に近寄ると、目隠しと猿ぐつわをほどいた。少女は項垂れたが、すぐに目の前に立つアルの顔を見上げた。

 

 上永レイは無表情だった。記憶通りの紅い目には何の光もなかった。

 

 レイの格好はグラウンドゼロの時と変わらなかった。白衣にスカート。控えめな翼はやはりゲヘナでは見慣れないものだった。ムツキやゲンゲツが言っていた通り、おそらくルーツはトリニティにあるだろう。

 

 カヨコはレイの冷静な様子が気になった。こんな人目の届かない場所へ連れ込まれて、拘束されて洗脳されかけていた。通常なら平常心でいられるはずがない。こちらがやってきた時も助けを求めて身をよじったりするものだと思っていた。しかしレイは屍のように動かず、アルの言葉にも反応を示さなかった。もしや遅かったのか?既に洗脳が実行されて、彼女の脳内に眠るアスの手がかりは消えてしまったのか。光がなく狂気らしきものを宿した目。あの虚ろな目には覚えがある。ブラックスターに洗脳されていた者たちも、皆濁ったような目になっていた。あの場で生き生きとしていたのはブラックリスタとアスだけだった。それとも長く拘束されていたために、弱っているか死にかけているのか。彼女の呼吸は浅かった。よく観察すると、呼吸による肺の膨らみが小さい事に気づいた。いずれにせよ正常な状態には見えなかった。

 

 ハルカが手と足首の縄をほどくまでに、カヨコはここまでの推理をすると大切に脳内の引き出しに収めた。次いで口を開くと、「あなたが上永レイで間違いない?」

 

「ええ、でもまさかこんな辺鄙な場所まで探しに来るなんて驚いた」

 

 声には驚きや動揺は微塵も含んでなかった。この違和感はなんだ?ただ洗脳された訳じゃない──彼女の発音ははっきりとしていた。

 

「ええ、驚いたでしょうね」アルは同情するように言った。「悪いけどあまり時間がないの。詳しい事情は後で話すから、まずはあなたをここから連れ出さなきゃいけない。歩けるかしら?」

 

「足がしびれてるの。あいつらに何か打たれた。なんとか歩けるけどもたつくかもしれない」

 

 胸にずっと居座るもやの原因は何だろう?カヨコはレイの目を見つめた。アルは作戦が半分成功した事で、すっかり浮かれている。ハルカが担ぎ上げようとするまで、レイの紅い目がアルの事をじっと捉えていた。紅い瞳に、一瞬だけ紅蓮の輝きがのぞいた。焼き窯や溶鉱炉の扉がつかの間開いたようだった。炎が消えた。すぐに扉が閉じられて、彼女の瞳は再びどんよりと濁りが戻っていた。今の輝きに気づいた者はいるだろうか──カヨコは振り向いたが誰も気づいてはいなかった。ムツキやハヤテも気づいてない。

 

 狂気がのぞいたのは間違いなかった。カヨコはレイを見下ろしつつ、今の狂気の出所を予想した。洗脳を受けた可能性が半分、心のバランスを崩した可能性が半分だった。先ほどまで受けていたかもしれない痛ましい仕打ちを考えれば納得はいく。いずれ完全に壊れてしまいそうだ。狂気に全てを支配されてしまう。情報源が壊れてしまう前に、連れ帰ってアスの詳しい情報を聞き出さなければならない。ゲンゲツに頼んで、連邦生徒会にカウンセラーを呼んでもらった方が良いかもしれない。

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