便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル   作:まーろう

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 ガリバーの顔が持ち上がると、恐竜みたいな大きな唸り声がサイロに響き渡った。こいつは音響効果もついているのか!大きな図体と合わせても、随分と凝った仕掛けだ。

 

 サイロのスポットライトを浴びて影を帯びた顔で見下ろされると、さすがのアルも恐ろしい眺めだと認めざるを得なかった。武装も脅威だが、何よりも人を脅かすために設計されたものだ。こいつが世界に解き放たれれば──夜中に唸り声を挙げながら山々の間を闊歩するガリバーなど、迷信深い人間に効果は絶対的だ。しかしこうして間近で見上げても素晴らしい作品であり、また世界を終わらせる悪夢の兵器でもあった。一体どうすればこいつを倒せるんだ?

 

 鋼鉄でできた右腕が持ち上がると、次の瞬間にはサイロの壁面に思い切り叩きつけられた。凄まじい地震が足元を震わせて、反響する破裂音と合わさり、地獄のような騒ぎを起こす。輪状通路はたちまち崩されて、はるか下層へ落下していった。

 

 さらに岩が引きずられるような轟音が頭上で始まると、徐々に天蓋が左右二つに開いてくる。隙間から吹雪が入り込み、冷気の両手がガリバーの目覚めを迎えて讃えていた。

 

 目の代わりに装備されたマシンガンが火を噴くと、アル達はばらばらになって避けた。マシンガンの弾幕が壁に当たり、粉々にしたコンクリートの破片を散らす。

 

 ムツキが横っ飛びになりながら、バッグからチャフグレネード──金属薄片手榴弾──を二つ取り出して投げつけた。ECM(電子対抗手段)として使用されるチャフグレネードなら、ガリバーのレーダーを撹乱できるかもしれない。ガリバーの首元に当たると、爆発して金属片がサイロにばらまかれた。だがアスの笑い声が響くだけだった。

 

 さらに左腕が持ち上がると、今度は観測窓ぎりぎりを狙って振り下ろされた。壁が破裂して、がらがらと瓦礫が道を塞ぐ。油断したら落ちてしまいそうだ。

 

 煙が晴れると、アルは輪状通路の上に膝をついていた。揺れが繰り返し足場を揺らすせいで、思うように体勢を立て直せない。それに先ほどからサイロに響くアスの笑い声とガリバーの駆動音で、考えが邪魔されてばかりだ。攻撃か?それとも一時撤退か?

 

 カヨコが拳銃をガリバーの頭部に向けた。戦艦を輪ゴムで撃つようなものだと承知した上で、頭部へ向けてトリガーを引いた。

 

 アスの笑い声が響く。「それが役に立つとは思えないな、カヨコ。全員生き埋めにされたいのか?」

 

 アルはガリバーのマシンガンが発射される前に立ち上がり、トリガーにかけた指に全ての意識を集中させる。鉄の蟷螂と目が合った。これでも受けてみなさい!左腕で頼もしい衝撃を受け取ると、ガリバーの顔が隠れる爆発が起こった。その隙にアルは散らばった四人の仲間に声をかけた。

 

「ここじゃ不利だわ。ヘリポートまで戻って、上空から迎撃するわよ」

 

 言い終えると、すぐに煙の中からマシンガンの弾が飛んできた。すぐさまムツキがもう一個のチャフグレネードに手をかけると、今度は巨大な顎下に投げ込んだ。頭上から入り込む吹雪ですぐに吹き飛ばされないためだ。再び金属片が宙に舞うと、五人は元来た一本の通路へ引き返す。

 

 背後からアスが嘲笑った。「そうとも、鼠らしく穴へ引っ込むんだ!こそこそ逃げまわるがいいさ」

 

 アルはむかつきを押さえつつ、出口を目指して走った。異常事態の興奮作用と通路の閉塞感が、焦りをさらに加速させる。生き埋めにされるのではないか?ちょうど通路の中間に差し掛かる直前で、不安が現実になった。背後で肝をつぶす爆発音が反響すると、今来たばかりの道が塞がった。これでもう後はない。ヘリポートにたどり着かねば、生き埋めか永久凍土の仲間入りだ。

 

 最後の十数メートルを無我夢中で走りきると、アルはヘリポートに積もった雪の中へ頭から飛び込んだ。全力疾走して熱を持った身体に、雪の冷たさが心地よい。続けざまに雪に倒れ込む音が四つ、耳に入った。全員無事だ。

 

 だが顔を上げると、さらに次の不運が襲った。駐機していたヘリコプターがいない。確かにそこにいたはずなのに!

 

 一瞬騙されたのかと思ったが、山中に響く羽音でまだ遠くに離れていない事が分かった。先ほどまで明るかったヘリポートが、皆既日食が起こったように急に暗くなる。ガリバーの巨体がヘリポートの目の前に着地すると、ヘリポート全体が掴んで揺さぶられたみたいな衝撃が来た。ガリバーの目のような二門のマシンガンがこちらを睨む。

 

 拡声されたアスの声が鐘のように響いた。「鼠が巣穴から出てきたらしいな。覚悟はできたか?」

 

「そんな大掛かりなものまで用意して、ただの歓迎用じゃなさそうね」アルは精一杯言い返した。「あなたの雇い主──ERTCEPSはそれをどうするつもりなのかしら」

 

「何?まさかその程度の知識で私を追っていたのか。やはり貴様は馬鹿だな!」

 

「あなたの企みに付き合わされるのはもうたくさんよ!いいから答えなさい」

 

「亡霊の事なら、あの世に送ってやるから亡霊に聞いてみろ!」

 

 この言葉と共に、後頭部から八発のミサイルが打ちだされて飛んできた。各々が飛び、あるいは迎撃して最悪の直撃は免れたが、すぐさまマシンガンの銃弾が吐き出された。ハルカが一番前線に立ち塞がって、マシンガンの雨をもろともせずに携帯した散弾銃を見舞う。だがガリバーの複合装甲には、通常の銃弾は効き目がないのは明らかだ。高性能の爆薬か、バズーカのような成形炸薬弾でもあれば!

 

 ヘリコプターの羽音が山中を反復して、幾重にも聞こえる。吹雪とガリバーの猛攻で気づかなかったが、ヘリコプターはガリバーの背後の辺りを飛び回っていた。この怪獣がいるせいで着陸も回収もできず、虫か鳥のようにただ飛び回るしかできていない。

 

 その様子を見ていたカヨコが何かを思い出すと、アルに向かって叫んだ。「そうだ社長、ヘリコプターの中に無反動砲があったはず!」

 

 無反動砲!それを使うしか手がないわ!

 

 ネオ・チャレンジャー基地に向かうヘリコプターの室内で、ムツキはいくらか装備を物色していた。その中に壁に取り付けられた立派な大砲が確かにあった。だがこの砲兵器は持ち運ぶには重いし、かさばる。サイロが閉鎖的な空間という事もあり、機内にそのまま置いてきてしまった。

 

 アルは着陸後に無反動砲だけ降ろしておくという案を思いつけなかった事を激しく後悔した。しかし嘆いてばかりはいられない。反撃手段が全くないわけではなくなった。一筋の勝ち目が見えてきたのだ。ならば次はどうする?機体がヘリポートに降りて、全員が乗れるようにしなければならない。機体を宙で安定させて、高度を下げて全員が乗り込むまで三十秒──いや、吹雪だからもっとかかるか?その間ガリバーを遠ざけて足止めしなければいけない。

 

 これをやり遂げるには、まずガリバーをどうにかしてこの場から動かす必要があった。しかし体育館ほどの広さもないヘリポートでは、動かすにも限界がある。アスの笑い声が響くと、再装填を終えたミサイルが宙へ飛び出した。頭がこちらを狙いすまして、勢いよく推進剤を燃やして迫ってくる。アルが狙撃銃で二発迎撃すると、残りをムツキが機関銃で薙ぎ払った。

 

「さっきまでの威勢はどうした?」アスが嘲った。「たった五匹の蟻が恐竜に勝てると思うか。それともダビデとゴリアテの例えの方がいいか──おっと!これは縁起が悪かったな」

 

 歓談の間にもとめどなくマシンガンが火を噴いて、アルの足元に穴を開ける。アルはあちこちに走り回って、蚊が刺すような攻撃しかできなかった。アスはこちらをいたぶっているんだ。あっさりヘリポートを崩落させてやることもできるのに。アスはただこちらを怖がらせたいだけのようだった。

 

 アルがコンクリートブロックの影に滑り込むと、そこには先客のゲッコウが縮こまっていた。腰くらいの高さしかないコンクリートの壁が、大口径のマシンガンとミサイルに対して遮蔽になるかは怪しかったがずっと走り回るわけにもいかない。顔に当たる雪が熱を程よく取ってくれる。ゲッコウも既に息が絶え絶えだった。

 

「アル社長、どうしよう。このままじゃ」

 

「今はあいつの足元をすくう方法を探すわ。必ず何かあるはずよ」

 

 ガリバーが背後で吠える。ムツキ、カヨコ、ハルカが応戦していた。

 

「……アスの言ってた通りだよ」ゲッコウがつぶやいた。「私はずっと逃げてばかりだ。今だって皆が戦っているのに、私はここで隠れる事しかできない」

 

 ゲッコウはこれが本当の自分だと言いたげに、顔をうずめて小さく丸まってしまっていた。足や拳銃を握る手が震えている。

 

「ゲッコウ。昔にここで一緒に戦ってから、私はあなたの事を良く知ってるつもりだわ。あなたは卑怯者なんかじゃない。ただ一度の失敗をしただけよ」

 

「どうしてそこまで庇ってくれるの。皆からも逃げて、風紀委員会も裏切っているのに」

 

「私はあなたは社員だと思ってる。それだけよ」

 

 その言葉にゲッコウは反応した。顔が持ち上がって、横目でこちらを見る。「アル社長は人が好過ぎるよ、それに皆も。私にはもったいないよ」

 

「私を社長と呼んでくれてるけど、あなたは違うの?」

 

「そんなことない。ここから助け出してくれて、皆と一緒にいた時間は楽しかった。でも皆の優しさを受け取るたびに、ソウが重なって見えてくるような気がしたの。今だって同じだよ。私は私自身に憑いた亡霊をずっと祓えなかった」

 

「ゲッコウ」アルはつぶやいた。

 

「アスに言われてようやく理解できたよ。皆の優しさに背いて、裏切って……自分がどんな人間か思い出したの。アル社長たちにまた優しくしてもらって、何もできない私はどうしたらいいの?皆みたいに強くないし、これ以上私の事で誰かを失望させたくない。迷惑をかけたくない」ゲッコウは喉に絡む声で、最後の言葉を絞り出した。「もう……どうしたら良いかも分からない」

 

 アルは自分でも驚くほどの剣幕で言い放った。「私を見なさい!」

 

 両手でゲッコウの肩をがっしりと捕まえて向き合うと、少しずつ顔が持ち上がった。初めて見せた怒りの色に唖然としている。大声に身体をびくつかせたのを最後に、震えもぴたりと止まった。

 

「やってしまった失敗を今更恐れて、何もしないのならあいつの思う壺よ。本当に後悔しているなら、また向き合えば良いだけよ。あなた一人で難しいなら、私たちが助ける。互いに支え合って、苦難を乗り越えるのが仲間でしょう!」

 

 水色の瞳がうるんでいる。内心では少し躊躇ったが、返事を聞くまで肩を離すつもりはなかった。彼女は変わらなければならない。そのためにも、絶対にここで逃がしてはいけない。絶対に。

 

「……私を、まだ仲間と呼んでくれるの?一度逃げた、弱い私を」

 

「風紀委員会に入った事を、私は逃げたなんて思ってない。あなたは外の世界を見て、新たな居場所を見つけた。それはとても勇気のいることで、そんなあなたが弱いわけない。そしてここがあなたのもう一つの居場所であることに変わりはないわ。私にとってあなたは便利屋68臨時社員であり」言葉を切って、強調した。「私たちの仲間なんだから」

 

 片手を離して目の前に差し伸べる。ゲッコウはその手を見て、そして掴んだ。ようやくアルの顔がほころぶと、ゲッコウも涙をこらえながら顔をしっかり向けた。決意した目だ。ようやくわだかまりが解けて、彼女に深く突き刺さっていた棘が抜け落ちたのだ。九ヶ月も錆びついて止まっていた歯車が、音をたてて回り出した。

 

「さあ、もうひと踏ん張りよ。便利屋68全員で生きて帰りましょう!」

 

 アルは立ちあがって、ゲッコウをすっと引き起こした。重くはなかった。ゲッコウも自力で立ち上がったからだ。

 

「念仏が済んだようだな」アスの声が木霊した。「ではそろそろ終わりにしようか!」

 

 ガリバーのミサイルが次々に射出される。ムツキが何個目になるか分からないチャフグレネードを爆発させると、目標を見失ったミサイルは遥か頭上を飛び過ぎて白い山肌に着弾した。雪が舞い上がって、アル達に降りかかる。

 

 だがここでさらなる自然の猛威が襲い掛かった。ばりばりと音を立てて、白くコーティングされていた山肌が一気にひび割れて滑り落ちてきた。雪崩だ!雪の大軍がサイロに向かうトンネル上に差し掛かると、今度は滝のようにヘリポートに流れ落ちる。アルとゲッコウは辛うじて飛び出して難を逃れたが、雪の重みで地面が揺れて、あっという間にトンネルは隠れてしまった。

 

 このヘリポートはどれくらい頑丈だろう?手つかずの人工物が重みに耐えられず崩落する危険がアルの頭をよぎる。しかし出し抜けに妙案が浮かびあがった。

 

 天唯オアと繰り広げた狙撃戦で、アルは向こうの雪山に隠れたオアにひどく苦戦した。しかし逆にその状況を利用したのだ。山頂付近を狙撃して爆発を起こす事で、雪崩を引き起こしてオアを呑み込み仕留めた。直接攻撃せずとも、自然を利用して勝利を勝ち取ったのだ。

 

 あの手法がもう一度使えるかもしれない。アルはガリバーの背後にそびえる山を見た。オアが潜伏していた山だ。九ヶ月という時間はアル達には長いが、地球からすれば瞬きみたいなものだろう。果たして同じ勢いを起こせるだけの力が溜まっているか?賭けてみる価値はあった。

 

「皆、アスを足止めして!」アルの掛け声に全員が即座に反応した。

 

 ムツキはおそらく最後のチャフグレネードを手に取ると、惜しげもなくガリバーに投げつけた。ちょうど顔の前で爆発させると、薄片が飛び散るが吹雪によってすぐに攫われてしまう。

 

「どうやら悪あがきだったようだな」アスがせせら笑ってヘリポートを見下ろす。

 

 Hの文字の中心で、カヨコが拳銃を天に向けていた。サプレッサーは既に取り外されている。カヨコの準備は整った。アルもガリバーが狙いの邪魔にならない位置に移動して、狙撃での一騎打ちを思い出して山頂に狙いをつけた。

 

 二人のトリガーが同時に引かれると、悪魔の叫びにも似た銃声が山脈に轟いて木霊した。紫色の光を浴びたガリバーは、目が見えないかのようによろめいている。センサーに異常をきたしたようで、アスは制御に必死のようだ。巨大な鉄の腕は空を切ってばかりだった。

 

 その後ろでやや間があってから、山頂付近で炎の花がぱっと開いた。さあ、果たして雪は充分に積もっていたか?もしなければ一貫の終わりだ!

 

 アルの耳に入った恐ろしくも頼もしい雪の唸りは、ガリバーの背後でますます大きくなってきた。見ると山肌から次々に白い煙が上がって、一面が削り取られたように直滑降を始めている。ネオ・チャレンジャー基地での最後の切り札は、再びしっかりと発動した!ゴーゴーという特急列車がトンネルを駆け抜ける時みたいな唸り。木立ちも何もかもを攫って死に誘う雪の棺桶が、ガリバーのアキレス腱に狙いを定めた。さあ、これでも食らいなさいアス!ダビデだってゴリアテを倒せるのよ!それとも不死身のアキレスと呼ぶべきかしら!

 

 距離を確認する間もなく、雪崩がガリバーのアキレス腱にぶち当たった。アスはガリバーの閉鎖空間にいたためか、アル達にも聞こえるほどの轟音に気づかなかったらしい。最初の一撃で派手に足元をすくわれると、ガリバーは大きくよろめいた。続けざまに脛の裏まで雪がぶつかると、制御を失って、大袈裟にのけぞった。両手で何かに掴まって踏ん張ろうとして、右の巨大な鉤爪がヘリポートに振り下ろされた。爆発に似た衝撃と同時に、大規模な地割れが広がる。間一髪潰されずに済んだが、ヘリポートはぱっくりと二つに折れて、アルたちの立つ僅かなへりも今にも崩れ落ちそうになった。

 

 だが先に崩されたのはガリバーの方だった。重力に引かれるまま仰向けに倒されると、山脈全体を揺るがす地震を起こす。衝撃でさらにヘリポートの崩壊も進んでしまった。ガリバーは何とか立ち上がろうとしたが、すぐに新たな雪崩が覆いかぶさってガリバーを逃がすまいと谷底に押さえつけた。

 

 中心から真っ二つに割れたヘリポートの端に五人は避難していた。Hの文字が書かれていた場所は既に谷底へ落ちて、底へ向かって雪も滑る。アルも壁の端に掴みかかっていたが、いつ足元が崩れるかも分からなかった。下を見てはいけない。足がすくんだら最後だぞ!

 

 そう言い聞かせると、遠くからヘリコプターが待ちかねたように一目散に飛んできた。蠅みたいな大きさから鴉くらいになってくると、まず向こう端に逃げたムツキとゲッコウを回収しにかかった。それが済むと急旋回して、こちら目掛けて飛んでくる。だいぶ素早い救助だが、それでもじれったく思えた。

 

 主翼の風に体勢を崩されないよう踏ん張る。開けっ放しの扉から、ムツキとゲッコウが名を呼んで手を伸ばした。まずハルカが二人に手を取られて機内へ。すこし機体がずれて、今度はカヨコの番。スロープから落ちそうなくらい身を乗り出したゲッコウを、機内でハルカがしっかり捕まえている。カヨコもゲッコウの手を取って、スロープによじ登った。

 

「アル社長!」ゲッコウが主翼のローター音に負けないよう叫ぶ。

 

 さらに大きな叫びが、アルの伸びかけた手を一瞬止めた。恐竜のような機械の唸り声。ガリバーは被さった雪を払いのけて、立ち上がろうとしていた。姿が見えた瞬間、足元から嫌な音がして唐突な浮遊感が襲った。

 

 身の毛がよだつとは、この瞬間を言うのかもしれない。同時にアルは動物的な本能で、すぐさま壁を全力で蹴った。空中に自らを投げ出した。反射的に蹴らなければ、オアの眠る暗い谷底へ真っ逆さまだった。両手を必死に伸ばして、仲間の手を取ろうともがく。だが望みは届かなかった。数十センチメートル落下して、高さが足りなかった。伸びきった手は身体ごと機体の下へ潜り込む。目に入ったのはヘリコプターの鉄棒みたいな足だった。

 

 冷たい感触が手に伝わると、アルは全神経をかけて掴みかかった。スキッドが彼女を落下死の危機からすくい上げてくれたが、両腕が抜けそうな痛みに悲鳴を上げた。だが、必死に捕まっていた。これが最後の命綱で、アルはそこにぶら下がって、振り子みたいに揺られていた。

 

 頭上の機内からアルの名を繰り返し叫ぶ声が聞こえた。心配させまいと自分の無事を大声で知らせると、身を乗り出していたゲッコウと目が合った。無事だと分かるや、安堵の声。ムツキが扉から顔を出して、こちらを見た。

 

「アルちゃん!良かった──」言い切る前に機体が急上昇を始めた。凄まじい風圧と雪に身体が蝕まれていく。寒さで手の感覚は既になかった。必死にスキッドによじ登ろうとするが、鉄パイプに腕を絡ませるのが精いっぱいだった。下半身は完全に空中へ放り出されており、腕の力だけでしがみついていた。

 

 ずっと下を見ていたゲッコウが叫んだ。「ガリバーが来る!」

 

 アルが下を見ると、立ち直ったガリバーがこちらを無言で睨み上げていた。すぐに八発のミサイルが打ち上げられて、こちらに突進してくる。ムツキがすぐに機関銃を手に取ると、機体側面で固定して掃射を始めた。次々に空中で爆発が起こり、脅威の排除を完了したムツキが機内へ引っ込んだ。

 

 無防備になった獲物に狙いをつけたハイエナのようで、次の瞬間ガリバーは地面を踏み切って大きく跳躍した。距離が大きく縮まって、アルの眼前まで巨体が迫ってくる。右手を伸ばして、いまにもヘリコプターを握り潰そうという勢いだった。

 

 噴射音が耳に入ると、足元で突然ガリバーが火に包まれて狙いは中断された。炎は次第に黒煙になって、それも吹雪に攫われていく。アルが見上げると、スロープに足をかけて無反動砲を肩で構えたハルカが立っていた。

 

 ヘリコプターは急速にネオ・チャレンジャー基地から遠ざかっていく。空中で爆撃を受けたガリバーは、再び地に落ちていた。みるみる小さくなるこちらを見ながら、一度大きく恐竜みたいに叫ぶ。恐怖を煽る唸りが山脈に木霊していた。巨体は雪に紛れて、次第に見えなくなっていった。

 

 ガリバーの姿が見えなくなると、上からゲッコウに呼びかけられる。先ほどまでと違う晴れやかな顔で、こちらに手を伸ばしていた。今度はアルがその手を受け取ると、身体はスロープに引き上げられてすぐに機内へ転がり込んだ。全員が室内に入ったのを操縦士が確認すると、すぐに扉は折りたたまれて閉じた。

 

 吹雪が止んで、室内に温かい空気が入ってくる。アルは凍える両手をこすり合わせて、体温を取り戻そうと暖を取った。口が勝手にかちかちと動いてしまう。まつ毛も凍って固くなっていた。

 

 座席に座ったアルにムツキが抱き着いた。「ああ良かった!アルちゃんが見えなくなった時は、もう駄目かと思っちゃったよ」

 

「心配かけたわね。でも何とか全員無事よ」

 

「アル様、ご無事で何よりです……」ハルカが言った。

 

 カヨコも安堵していた。無事に全員生きて帰れそうだ。

 

「アル社長」ゲッコウが言った。「ありがとう」

 

 アルは笑みをこぼした。この言葉が聞けただけで、彼女はもう大丈夫だと心から思えたからだ。ゲッコウの顔から迷いはすっかり消えていた。とてもすっきりとした表情だった。

 

「ゲッコウ」アルは優しく呼びかけた。「あなたは月光(ゲッコウ)。例え暗い世界でも輝けるのよ」

 

 目の前の彼女はふっと笑った。照れ隠しに乱れた銀髪を手でかき分ける。瞳は澄んだ空色だった。

 

 ヘリコプターは山脈を抜けて、人の営みがある場所へと戻って来た。生者の世界だ。電波が通じた途端、アルだけでなく全員の携帯電話が一斉に通知音の合唱を始めた。カヨコが確認して、画面をこちらに向ける。ゲンゲツからの不在着信が大量に届いていた。

 

「繋げてちょうだい」アルが言うと、カヨコはゲンゲツへ電話をかける。

 

 ややあってゲンゲツが電話口へ出た。「カヨコ?今どこに居るんだ、こっちは随分探し回ったんだからな!皆もそこにいるかい?」出発前の不穏な気配はすっかり鳴りを潜めていた。

 

「ゲンゲツ、今ネオ・チャレンジャー基地に行ってきたわ。そこにアスとガリバーがいたの」

 

 ゲンゲツが驚きの声を挙げた。「何だって?どうして、よくそこまで行けたな──いや、それどころじゃない。こっちは大変な騒ぎになってるんだぞ!」

 

「もしかしてレイ?」カヨコが聞いた。

 

「ああ、そうだ。精密検査のためにレイが向かった病院がPMC兵に襲撃されたんだ。被害者数は馬鹿にならないし、肝心のレイの姿が見当たらない。とにかくすぐ戻ってきてくれ、アスの話はまた後で聞く!」

 

 忙しそうに話すと、すぐに電話は切れた。ゲンゲツの声の裏では救急車のサイレンがしきりに鳴っていた。おそらく現場に出ていたのだろう。

 

 アスはレイが奪還されれば、すぐに計画を開始すると言っていた。そしてそれは達成されてしまったのだ。間もなくアスの計画──テラーズ・オブ・ザ・スペクトルが始まる。これは疑いようもない事実だった。

 

 しかしアルも今ではかなり核心を掴んでいた。アスはガリバー、亡霊部隊ERTCEPS、洗脳PMC兵を携えて、明らかに世界へ宣戦布告をしようとしている。かつてオアが望んだ理想郷を実現させるつもりだ。そしてもう一つ、アル達をネオ・チャレンジャー基地にけしかけた人物のこともある。初めは便利屋68を陥れる罠かと思ったが、結果的にアスと相まみえる形になった。電話口のゲンゲツは明らかにこの事を知らないという様子だった。となると、あれはアスと敵対している何者かだ。しかしなぜ正体を隠す?だがゲンゲツの件はともかく、アル達には一つだけはっきりとした事実があった。アルは深刻な声色でつぶやいた。

 

「これはスペクトル──ひいてはRAXAの再建よ」

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