便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル 作:まーろう
「金が入ったら、飯にでもいこうか」なで肩を強張らせて開きながら、長い金髪を背中に垂らした女は気負いこんでいった。「この前の仕事で、良い店を知ったんだ」
目の前で低い座席に収まっている白髪の女は、この一言で初めて顔を上げた。夜にはあまり目立たないグレイの目が、しきりにこちらの顔を覗きこむ。アスは今の取るに足らない発言を不用意に出したことを後悔した。気まずい沈黙が流れる間も、アスはグレイの目に負けじと向き合っていた。しかし一度車が大きく揺れるとアスは唸って、それきり流れる夜の草原に顔をそむけてしまった。背の高い草を眺めるふりをしている間も、目の前の人物は少しも顔を逸らさない。どうやってこの沈黙を破ろうか巡らせている考えまで、すべて見透かされているようだった。やがて視界の隅の方で、顔を傾げるおなじみの動きが見えると、人形のような端正に整った顔は遠ざかった。腿に肘を支えにやって丸まっていた背筋を立てて伸ばす。嫌な熱をはらんだ夜風が当たると、寝室のベッドにかかる薄銀のレースのように髪がなびいた。こんな稼業に手を出さなければ、彼女はきっとその寝室で静かに眠り込んでいるはずだ。この精巧な人形みたいな人物は、どうして戦場に身を置くことにしたんだろう?
アスのこうした儚い思考は、目の前の十五ほどの少女──天唯オアの刺すような一言で遮られた。
「アス、私たちは成金連中とは違う。奴らが使うような店に行っても、子どもだと笑われるだけだ」
この指摘は怖いくらい的を射たものだった。アスが開発資源を一手に握る社長との難しくない仕事の後で連れていかれたこの店は、中世王朝の素晴らしい建築様式の本流に沿ったもので、テーブルに置かれた金の装飾がついた食器までもが高級な空間全体に説得力を持たせていた。アスは至ってくつろいで、この仕事に見合わない最高の恩恵に預かったが、社長はずっと冷ややかな目でこちらを見ていた。社長だけでなく給仕たちも社長には相応の態度を取っていたが、アスにもまた相応の態度で接していたのだ。アスには歓迎されてない事が分かっていた。その空間にいる人間全員が、迷い込んだ猫を見るような哀れみの目をアスに向けていた。アスは結局食事が済むまで頑張ったが、契約が切れるとさっさとオアの元へ帰ったのだ。逃げるように出てきてしまったことを、しばらくして後悔したがどうしようもなかった。思い出せば出すほど、言葉の節々や態度に馬鹿にしたような印象がついて、人間の真似をする見世物の猿にされたようだった。
オアはこちらの考えを言い当てても、得意の色一つ出さなかった。むしろ冷ややかな声で続けた。「RAXAもかなりの規模になった。いまでは学校の垣根を飛び越えて、様々なルーツの者たちがいる──この場合、最も良い例はゲヘナとトリニティだな。こちらの人員は多種多様だ。少し前にもミレニアムの腕力自慢が転がり込んできただろう。私達は上に立つ人間として、ふさわしい振る舞いをしなくちゃいけない。誰かに舐められたり、馬鹿にされてそれを放置するような事はあってはいけないんだ。分かるか?そいつらは潰す。理由は後からなんとでも付けるとして、とにかく私達を貶すような連中は世界にいてはいけないんだ。アスもその時には、加わって大きい面をできないようにしてこい」オアは白い右手でアスの肩に触れた。「だが振る舞いで看板に泥を塗らなかったのはさすがだ、アス」
アスは何も言わなかった。ただ一度、静かに頷くだけでよかった。アスは長い付き合いになる傑物に、常に好意を持っていたし向こうもそれを承知しているだろう。オアの堂々とした振る舞いは常に一団体を率いる長としての立派なものであり、自ら被った傭兵会社という仮面に傷がつかないよう腐心している結果のものでもあった。だが、それでも自分に向けられた短い賛辞に、アスはくすぐったくなった。この女には敵わないな。そんな事を考えると、またオアの目つきが少し変わった。今のも見透かされていたのか?
車は舗装された道に乗り上げると、トンネルに吸い込まれる。短いがひんやりした場所で、アスはここを通るのが好きだった。出口へ抜ければ、落ち着ける場所が待っている。根無し草から始まったRAXAも気がつけば大所帯になっていた。オアとアスの話し合いで、居を構えることになったのだ。選んだのは、古ぼけた倉庫だった。オアはこれで構わないと言っていたが、少し不服だったアスが勝手に改装を始めたのだ。気がつけばオアに黙認される形で引き受けた建物整備も進み、今では不動産屋に並んでも謙遜ない見た目になっている。少し前には緑地計画の一環で花でも植えようとしたが、さすがにオアが黙っておらず緑地計画はなくなった。岩ばかりの不毛の地、ハイランダー生まれのアスは、自然物に対して一種の性にも似た憧れがあった。それを承知してもいたオアは、代わりに半メートルほどに伸びた苗を届けさせた。種類は言わなかった。知りたければ、枯らさず育ててみろということだ。アスはこの挑戦を引き受けることにした。
トンネルの出口が近づいて、最初に異変に気付いたオアは目を大きく開いて、しきりに闇の中を見回した。それを見てアスにも、ようやく普段と様子が違う事が分かった。恐ろしい熱さと、何かが焼ける臭い。気づいた時には、目の前をオレンジ色に光る火の粉が舞い始めた。出口の外が、昼のようにまぶしい。やがて四輪駆動車はトンネルを抜けると、激しく熱い草原へ飛び込んだ。炎と煙の壁が車を囲うように昇って、遠くでは建物がゴーゴーと音を立てていた。先ほどまで暗い夜の世界の一部だった背の高い草も、木も、小池も、パチパチいって赤くなっている。アスは見たままの光景が現実だとは思えなかった。だが熱気と、赤い光に灯されるオアの横顔が見えると、アスの右手は勝手に腰に吊った拳銃へ伸びていた。
「拠点へ近づけろ」オアが短く命令すると、運転手はギアを上げて、車は炎の間を縫うようにくぐり抜ける。オアは銃身の長いライフルの代わりに軽機関銃を手に取った。炎の唸りに紛れて、叫び声が耳に入る。あと数百メートル近づけば、乱戦の中へ飛び込むことになるのは明白だった。赤黒く染まった夜空に、パンパンと銃声が響いてくる。巨大な赤いスクリーンに、回転する主翼のついた不格好な虫の姿が写った。アスの頭は、これから戦う相手共の事しかなかった。PMCか、それとも学園の戦闘部隊か。心当たりなどいくらでもあった。腹の中に黒いものが渦巻くと、アスは大きく舌打ちをして、この荒々しい宣戦布告に派手な返事をしてやろうと決め込んでいた。
炎の中から迷彩柄のロボット兵が二人、こちらへ走ってきた。二人とも自動小銃を持っている。彼らは敵だ。この戦で大将首を取って、戦果をあげてやろうというのだ。アスはかっとなると、稲妻の速さで銃口をあげて二度火を吐かせた。二人のロボット兵が同時に後ろへつんのめると、別の方向から飛んできた銃弾が車体に当たって激しい音を立てる。運転手が反射的にブレーキを踏むと、今度はヘッドライトの片方がガシャンといって割れる。オアはアスに背を向けて車体のへりに足をかけると、炎で揺れ動く草地へ飛び出した。アスも減速する車から降りようとしたが、突然の銃弾の雨に車がさらされると席の下に身を隠すしかなかった。バラバラと車体に弾が撃ちつけられて、今では乱戦で興奮した者たちの叫びがあちこちから聞こえた。「来るぞ」とか「逃がすな」とか言っている。
傭兵として戦場を渡り歩いてきたアスは、これらの言葉は聞きなれたもののはずだった。ところが銃弾で揺らされる車体に隠れて聞いているうちに、アスは初めてこの叫びに身震いした。誰がこんな品のない言葉を叫んでいるんだ?人間は他人事ではいつまでも無関心でいられるが、自分がやられて初めて御免被ると感じる。よほど思慮深い人格者でもない限り、他人の痛みに共感こそすれど、結局真に痛みを理解には当事者になる以外ではありえないのだ。
こちらを狙っていた銃声がほんの数秒だが止むと、アスは車から前転で飛び出して、敵に向けて二発撃つ。頭に当たった。だがすぐに、また別の方向から銃声が響いて、アスはその場で四つん這いに伏せる。身をかがめて、煙の隙間から見えた制服姿へ撃つ。黒と赤のセーラー服はトリニティの正義実現委員会だ。だが車体の下から見た、最初の攻撃の犯人はゲヘナの制服だった。そして先ほどのPMC製ロボット兵。敵は徒党を組んで襲ってきたに違いないと、アスは肚の中で決めつけた。汗と埃で、きっと海賊のような人相になっていただろう。
炎がこちらを睨むヘリコプターの姿を照らすと、すぐさま激しい機関砲の嵐がアスに迫ってきた。間一髪で身を翻すと、徹甲弾の雨は車に容赦なく穴を開けていき、メラメラと炎が車体にそって立ち昇った。六つ円状に並んだ穴が、こちらに向けられる。こんな兵器を相手にして、拳銃一挺で何が出来るんだ?アスはとっさに横へ跳んで、せめてコックピットの奴を狙おうとした。だしぬけに主翼の根元部分に銃撃が集中して火花が飛び散ると、バランスを崩したヘリコプターは尾を振りまわしながら地面に激突した。炎の中から出てきたオアは、アスの体を無理やり引き上げると耳元で叫んだ。
「引け!」
アスは到底気が収まらなかった。あの連中に最後の一蹴りをくれてやりたかったが、オアは体当たりするように無理やり押し出すと、まだ傷のない四輪駆動車に数人の無事だった部下を誘導する。車のそばまで来ると、弾を撃ち尽くしたオアの軽機関銃が唸りを止めた。放り出すと、ここまで背負っているだけだった二メートル以上のライフルに持ち変えて、ひときわ大きな銃声を轟かせた。黒い鉄の筍のような弾は炎上する高層の塔に命中すると、根元で大爆発を起こして建造物を傾ける。出来損ないの聖火台のように倒れ込んでできた炎と鉄くずの壁で攻撃が止むと、オアも車に掴まった。オアが乗ったことを確認すると、部下はすぐさまギアを三速に入れて、車は恐ろしい地獄からトンネルの方へ顔を向けて走り出した。
逞しいエンジン音も、今の惨状の後では虚勢を張っているようにしか聞こえない。仲間がやられた、拠点も燃えた、あの木だっておそらく……アスは燃え上がる一杯の視野に、怒りしか湧いてこなかった。オアや仲間が乗っているにも関わらず、アスは炎に向けて身を乗り出すと思いつく限りの悪態をついた。
オアはずっと下を向いていたが、誰かに話しかけられたみたいに急にぱっと顔を上げた。何かに驚いているようだった。周りに座っていた部下たちに、しきりに自分に話しかけたか聞いたが誰も身に覚えはない。幻聴でも聞こえたのだろうか、無理もない。オアは怪訝な顔をしたが、次に肩が跳ねると運転手の方へ叫んだ。
「トンネルは避けろ。待ち伏せされてる!」
運転手がブレーキを踏むキーッという音。車はトンネルに入る直前で停止したが、すぐに奥から強力な前照灯がつくと、ラグビーボール程の炸薬弾がくぐもった発射音を連れてきて、最初の激突音が響いた。
香辛料の効いた熱光線のようなクラフト・コーラを二杯やったアスは、照明を吊るしたロッジ型テントの中で数年前の出来事について考えていた。
銃を握る事を生業としてきたアスにとって、あの戦いも過去のちょっとした事件の一部という認識になっていただろう。人と戦うためには、まず自分がいつ死んでも良いといった身支度を整えて、次に倒した相手の事はそれきり忘れてしまうという二つの秘訣がある。これはアスが長年の経験から、培ったものでもあった。つまり銃を握って生きるためには、まず死に対して無感情で接しなければならないのだ。墓に入るのが自分だろうと相手だろうと──またその者の人生や関わってきた人たち全てに対して無感情になる事が、この仕事には必要なのだ。勝者には、勝利の数だけ敗者の亡霊が付きまとう。一番の解決策は、端から相手にしないことだ。
では今の自分はどうだろうか?あのネオ・チャレンジャーの雪山事件で、スペクトルは全員が死に追いやられた。鉄くずと雪にまみれながら生きながらえたアスは、一晩で大勢を失った。だが一度死に対して無感情を決め込めば、その後は楽だった。もう三ヶ月前になるブラックスター事件では、一切の関心を覗かせずに目下の敵を葬ったのだ。大した成果だ。アスは一人ほくそ笑むと、残ったシロップをこそぎだして、最後の炭酸水で割ると一気に飲み干した。
しかし本心を明かせば、アスはスペクトルの死に納得などしていなかった。だからこの大規模な計画を打ち立てたのだ。天唯オア、上我オル、天独ソウの顔を、ふとした時に思い出す。これは何なんだろう?亡霊があの世から、私を引きずり込もうとしているのだろうか?
仕切りが開くと、ヘルメットを被った兵士が入ってきた。テーブルの向こうから、単調な声で言った。
「準備が整いました」
「よし」
アスはグラスを置くと、テントを出て駐機したヘリコプターに向かう。後には同じ武装をした人型のロボット兵一個大隊が続く。アスはこの大隊の長のように胸を張って堂々と歩を進めた。かつてオアがそうしたように、今度は自分が組織をまとめ上げる立場となって、ある計画のためにこれから飛び立とうとしていたのだ。
ヘリコプターの前で振り返ると、ロボット兵たちはこれから出てくる素晴らしい話をじれったそうに待っていた。彼らの角ばった肩には、かつての所属を示すカイザーPMCのロゴが彫られていた。アスは全体を見回すと、背筋が伸びるような声で言った。
「運命はいつでも神々が握ってきた。しかし運命に捕らわれた姉妹達を解き放つ時が来たのだ。いいか諸君、