便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル   作:まーろう

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20 執務室へどうぞ

 透明なガラス窓の向こうでは、青空の向こうに陰りが見えていた。薄らとよどんだ灰色の雲が、青空の隅から少しずつ滲んできている。もうすぐ曇りか、それとも雨になる予報だった。

 

 先生は空模様を目視で確認して、予報がだいたい正確になりそうだと予想した。白い制服はやはり楽に着崩していて、未決書類の溜まった机から目を背けて立っている。昔はもっと長時間のデスクワークも難なくこなせたが、さすがに学生ばかりに囲まれる中では年の影響を感じてしまう。仕事の合間に立ち上がって、ぼうっと空を眺めるのは彼の日課になっていた。

 

 連邦捜査部シャーレのオフィスビルは、連邦生徒会が拠点を構えるD.U.地区からは外れた郊外にある。これは学園都市の中でも超法規的権限を持つ先生の仕事場としてはふさわしくないと思われるかもしれない。しかし連邦捜査部は立場上では連邦生徒会の直轄であり、言葉を選ばずにいえば下請けのような機関だ。先生の就任以来、シャーレは立場的中立を保ちながらも各地の事件に積極的に介入し解決に導いてきたが、現在では連邦生徒会から回される仕事も含めてかなりの量が回っている。今では日ごとに当番を決めて、各学校の生徒に手伝ってもらう制度を採用してから少しは楽になった。

 

 ところがなんとか回っていたシャーレの業務は突然滞ってしまった。アスのRAXA再建の企みが確定してから、連邦生徒会から回ってくる仕事もアスやPMC離反兵に関するものばかりになったからだ。どの書類にも最優先を意味する赤い星のマークが左上についている。この印の書類が増えすぎたせいで、どの赤い星から潰せばよいかと連邦生徒会に質問をしに行った時には嫌な顔をされた。

 

 連邦生徒会がここまで注力している一方で、キヴォトスの住民たちには反PMCの立場を取る者がすっかり多くなった。元々莫大な利益を欲しいままにしているPMC各社への視線は良いものではなかったが、銃社会では必然と需要もある事で黙認されていた。PMC産業は需要と嫌悪の微妙なバランスで成り立っていたのだ。どちらに傾倒しても良い影響を生まない。

 

 ところがこのバランスが徐々に崩れて──嫌悪の方へ傾いている──きて、世論は反PMCが主流となっている。度重なる離反兵の暴動や事件、そして一向に手綱を握れないPMC本社の権威失墜により、PMC産業の営業を停止すべきだという考えが広まった。拍車をかけたのは、連邦生徒会の拠点であるロイヤルビル前で先生を狙った銃撃戦だった。連邦生徒会のお膝下のため迅速な対応はできたが、さすがに中心街で事態を隠しきることはできなかった。メディアがPMCの悪辣さを扇動する形で報じたために、これまで溜まっていた大衆の鬱憤が噴出したのだ。

 

 各地で反PMCを謳う集団が運動を展開して、その業火はD.U.地区にも広まった。ロイヤルビル前の大通りでPMC各社の営業停止処分を巡るデモが発生し、連邦生徒会はデモへの対応にかかりきりだった。その影響がシャーレにも飛び火して、普段では考えられない量の仕事が押し付けられるという事態になっていた。

 

「先生」アルの声がした。

 

 振り返ると豪壮なロングコートが目に入った。書類を抱えたアルは、外をぼんやりと眺める先生に心配そうな表情を見せた。一会社の社長として書類仕事に慣れているアルも、この異常な紙の山を前にしては嫌気がさすだろう。それでも経営顧問である先生の心身への負担を気遣ってくれていた。

 

「悪いね、手伝って貰ってるのに」

 

「水臭いこと言わないで。私たちはいつでも力になるから」

 

「そうだね、ありがとう」

 

 先生の執務室には、アルの他にムツキ、カヨコ、ハルカ、ゲッコウがいた。普段なら当番は一人の生徒だけだが、この日だけは事情が違う。シャーレの仕事量の多さが一人分の労働力ではカバーできなくなったのもある。今の先生に五人分の力は確かに頼もしかった。しかし本当の所は、彼女たちを連邦生徒会から匿うためだった。

 

 ネオ・チャレンジャー基地から帰還した便利屋68の話を聞いたゲンゲツは蒼白な顔になって、すぐにどこかへ行ってしまった。それから事の知らせを受けたリンは、勝手にアスと対峙した便利屋に我慢がならなくなった。アルはゲンゲツの事は伏せていた。アスの居場所を教えてくれた彼女と別人であるのは明らかだったし、本人は珍しく寝坊をしただけでそれ以上の事はないと言っていた。彼女の事は後だった。リンは便利屋68が勝手に行動しないよう監視をつけようとしたが、運悪く(いや、アル達にとっては幸運なことだ!)建物前のデモが悪化していた事で人員は一人残らず駆り出されていた。そこへ運よく(これは確かに幸運だった!)先生が現れた事で、シャーレが便利屋68を監視するという名目でオフィスへ連れ帰り、アル達は窮地を救ってくれた礼に仕事を手伝ってくれているという顛末だった。

 

 先生からすれば猫の手も借りたいところに、五人の労働力が天から降ってきたようなものだった。双方の利益が合致した事で、便利屋68はデモの餌食にされることなくシャーレで保護されていた。

 

「シャーレに駐在している数少ない職員の子たちをなだめるのも大変だったよ。これじゃ連邦生徒会の職務怠慢に他ならないってね」

 

「向こうもアスの確保に躍起になってる。机に張り付いてられないんでしょ」カヨコが素っ気なく言った。

 

 アスとの因縁が一番深いのが便利屋であることは先生も承知していた。それが連邦生徒会が本格的に動き始めてから、便利屋68はまるで邪魔者扱いだ。足並みを揃えずに独自で動く不安要素を消しておきたい連邦生徒会の抜け目ない采配だった。以前までは最低限の情報のやり取りはあったらしいが、トレス山脈でアスとガリバーを逃したことが連邦生徒会の怒りを買った。帰還してから、便利屋68は完全にのけ者にされていた。

 

 顔には出さないが、アルも皆も納得するはずがない。今だって本当なら無限に思える書類整理よりも、外に繰り出してアスを探し回りたいだろう。先生もできれば何とかしてやりたかったが、シャーレの立場上リンには逆らえなかった。

 

「良いですか先生?万が一彼女たちを逃がすことがあれば、先生の監督責任問題になりますからね」

 

 去り際の忠告が頭に反響する。ここは一人の大人として責任を全うするべきか、それとも先生として彼女たちの好きにさせるべきか……。そうこう考えている内に、先生は自然と外を眺めてしまっていたのだ。

 

「先生」アルが尋ねてきた。「先生は私たちがアスを捕まえようとしていることを何とも思わないの?」

 

 先生には質問の意図が分からなかった。「どういう意味だい?」

 

「ほら、先生って全ての生徒の味方って立場じゃない?それならアスの事も気になってたり、もしかしたら守ろうとしたりするのかと思ったから」

 

 先生の表情は難しいものに転じた。「……正直判断に迷ってるよ。先生としては皆が仲良くできるのが理想だけど、どうしたって反りの合わない相手はいる。特にアスの場合は過激だからね」

 

「立場上の話を聞きたいわけじゃないわ。先生個人の本心を知りたいの」

 

「同じだよ。私も一人の人間として、皆が仲良く年相応に笑い合える世界を作りたい。そのためにここで働いているからね。でも個人としてアスの本心は知りたいかな」

 

「本心?」

 

 先生は執務用の椅子を全員が見える位置にずらして腰かけた。「アスが一大軍団を作って、RAXA──つまり昔存在した傭兵会社を再建したいというのは分かった。でもそこまでRAXAに拘る理由は何なんだろう?昔壊されたものを取り返したいというには、少々過剰だと思うんだ」

 

「そ、そういえば、考えたこともありませんでした」ハルカがつぶやいた。

 

「んー、面白いから?傭兵会社なんてやってたんだし、戦闘を楽しんでる感じだったじゃん」

 

「それでも亡霊部隊なんて作って、死人まで使い始めるのはさすがにおかしいって事じゃないの」

 

 ムツキとカヨコがにべもなくつぶやく。ゲッコウは口をつぐんでいた。ソウの事が気がかりなのだろう。

 

 執務室の自動ドアが滑らかに開くと、尊大な声が背後から飛んだ。「まさに先生らしい疑問だ。答えを教えてやるかい?」

 

 先生はアルと共に振り返った。全員の視線の先には、連邦生徒会の制服を着た紫色の髪の人物が立っていた。

 

 常闇ゲンゲツ。すみれ色の油断ならない目つきで、こちらを見据えている。だがその姿を見た便利屋68の表情が変わった。それもそうだ。ゲンゲツも立場があるから、今は連邦生徒会防衛室の仕事にかかりきりのはずだ。ここにたどり着くどころか、建物を抜け出すことも難しいはずだった。

 

「おっと、銃を向けるなよ。ここじゃ大切な経営顧問に被害が及ぶ」ゲンゲツは真っ先にショットガンを手にしたハルカを手で制した。

 

 今のゲンゲツはとても防衛室副官とは思えない尊大な振る舞いをしていた。ポケットに手を突っ込んだまま、アル達の厳しい視線にも臆せずぶらりと先生に近寄る。連邦生徒会の制服を着ている人物では、まず見ない貴重な光景だった。

 

「止まりなさい」アルが語気を強めた。「あなたは偽物の方のゲンゲツね。わざわざ何の用なの」

 

「おいおい」ゲンゲツは悠然としていた。「そうかりかりする事じゃないだろう。私の言った通りアスは居たんだからな。そんな警戒せずとも、危害は加えんよ」

 

 ゲンゲツはアル達の信頼を得る言葉を口にした。しぶしぶだがアル達も矛を収めたみたいだった。ゲンゲツは満足そうにして言った。「ところで座っても?」

 

 先生は頷いて席を進めた。人数が多いためムツキとハルカが避けて、ゲンゲツは先生とアルと向き合う席に座った。立ったままのハルカに先生が座るよう促すと、ゲンゲツが続けた。「先生、ハルカはしっかり手元に置いといてくれよ。そいつには二度やられた」

 

「何のこと?」

 

「昔の話だよ」ゲンゲツは話を区切った。「ところで本題に移ろう。まず気づいている通り、私は常闇ゲンゲツではない。しかしこの女の顔が随分役に立つから使わせてもらった」

 

「なら素顔を見せなさい。そっちだけ顔を出さないのは不公平よ」

 

「言われなくても。その前に鍵をかけて、それから窓も閉じてくれ。どんな目や耳があってもいけない」

 

 先生は言われるまま立ち上がって、机のボタンを押す。白い自動ドアに赤い光がかかってロックされた。これは重要な話し合いや仕事のために、入室を一時的に制限するための機能だった。それから操作をすると、透明だったガラス窓にシェードがかかって外の景色が見えなくなる。執務室は完全に外界と隔離された空間になった。

 

 ゲンゲツらしき人物は両手を軽く挙げて、降参の姿勢を取る。するとゲンゲツの顔が一瞬のうちに黒いマネキンになった。驚く先生やアルを意に介さず、変幻自在の黒い覆面を摘まみ取った。

 

 素顔が露になると、まず紅白のメッシュが入った黒髪が目に入った。次に控えめな角。先生はゲヘナの生徒だろうと当たりを付けた。狡猾な表情を取り繕おうともせず、口元は残忍そうに歪んでいる。絵にかいたような悪人面だった。

 

「まともなセールスではなさそうだね」ムツキは肩をすくめた。

 

「そうとも、私もお前たち便利屋68と同じく裏社会で生きるセールス──情報の売買を専門にしている。つまり情報屋だ」

 

「情報屋?」カヨコは何か引っかかったようだった。「もしかしてハヤテが言っていた……」

 

「そうだ、私が逆道スライ。元ヘルメットライダー団だ」懐かしそうに口にした。「レイとスワン空港の情報を大将──ハヤテと呼んでいたな──に流したのは私だ」

 

 先生は名前を聞いてようやく把握した。スライと言えば、書類にあった情報屋だ。しかし名前が出てくる事自体が少なく、出てきてもほんの二言三言しか触れられてないため気にかけてはいなかった。

 

「大将の事は残念だったな。負傷したとか」スライの声には何の感傷もなかった。

 

「私は大将からお前たちをサポートするように言われていてね。あと別の依頼者から、先生と引き合わせて欲しいという頼みも受けている」

 

「依頼者?」先生は首を傾げた。

 

「なんでも旧知の仲だと。声を聞けば分かるかもしれないな」スライは白い制服のポケットから黒い端末を取り出した。シガレットケースほどの大きさで、スライの手にちょうどよく収まっている。側面のボタンを押し込むと、細かい光の線が照射されて、宙にホログラムの画面が出てきた。

 

adam shchor(アダム・シャホ)を」

 

「合言葉は?」機械的な女性の声だった。

 

「亡霊は」

 

「二度死ぬ。繋ぎます」ホログラムは砂嵐になる。

 

 スライは端末を机の中央に置いた。噴水みたいに出ている光の線の束が不規則に動いている。アルは今の映画みたいな淡々としたやり取りにいたく感心していた。そのうち事務所に入るためにも合言葉が必要になるだろうなと先生は考えた。

 

 やや間があって、不規則だった光が収束すると姿が浮かんでくる。スライが依頼主──またadam shchor(アダム・シャホ)と呼んでいた人物の姿が現れると、先生は鳥肌が立つのを覚えた。

 

 その人物は先生と似たような仕事机に腰かけて、両腕を顎の下に据えていた。黒いジャケットに黒い顔、顔にはひび割れた模様が浮かんでいる。

 

 先生は驚きの声をあげた。「黒服」

 

「お久しぶりですね、先生」黒服と呼ばれた大人は気味悪い低い笑い声を発した。

 

 この人物と顔を合わせることはもうないと思っていた。自身の研究のために生徒を食い物にする彼のやり口は狡猾で、全ての生徒の見方を主張する先生の立場とは相反するものだったからだ。アビドス地区でホシノを攫った時から、この人物にはまるで良い印象を持っていなかった。だがこの状況で、先生はある出来事を思い出した。

 

 先生が黒服と会ったのは、一ヶ月前の事件が最後だった。その時はやむを得なかったが、色彩に対処するための打開策を黒服は先生に示してくれた。彼の情報がなければ、今日のキヴォトスがあったかも分からない。それでもあまり関わり合いになりたくない事に変わりはなかった。

 

「少し細くなりましたか?あまり根を詰めすぎると、お体に障りますよ」

 

「そっちこそ、もう傷は大丈夫に見えるね。前はどこまでが顔か分からないくらいだったのに」

 

「その節は大変失礼しました──さて、本題に入りましょうか。お察しのように私が彼女に依頼をして、こうして話の場を設けてもらいました。本当なら直接お会いしたかったのですが、ゲマトリアが解散してから我々も表立って活動しにくくなりましてね。このような形となった無礼をお許しください」

 

「悪事を働きにくくなったなら、願ってもないんだけどなあ」

 

「ご心配せずとも、また何かの縁があれば相まみえるかもしれませんよ?話を戻しましょう。あなた方に私からお話ししたかったのは、今キヴォトスを騒がせている下尊アスについてです」

 

 アル達の目つきが変わった。目の前のもう一人の大人は、その様子を見て満足そうだった。

 

 先生は正直なところ、この男の話をアル達の耳に入れたくはなかった。生徒を利用した前科が、彼に不気味な底知れなさを与えている。だがアスについて、情報が欲しいのは先生も同じだった。危なくなったら止めよう。先生は続きを促した。

 

「耳を傾けてくださるとはありがたい。彼女が所持しているDeath for Angelは、我々の研究対象に良くない影響を及ぼしそうですからね。そこで我々としても彼女を止めて頂きたいのですが、皆さんは”ERTCEPS”という言葉に聞き覚えはありますか?」

 

「もう何度も聞いたわ。亡霊部隊の事をアスがそう呼んでいたとか」アルが返した。

 

「ほう、そうですか。なんとも奴らしい……」

 

「何が言いたいの?」

 

「おや、失礼しました。アスは亡霊部隊の二人、オルとソウをERTCEPSと呼んでいた。しかしもう一つ、ERTCEPSはDAの開発者であり、かつて奴も我々と同じゲマトリアの一員でした」

 

 先生の目が開かれた。執務室は沈黙したが、それぞれ肚の中で衝撃をかみしめていたに違いない。

 

 黒服は続けた。「ゲマトリアが神秘を探求する集団だった事はご存じでしょう。エルトセプス(便宜上ERTCEPSと区別しますよ)も、かつては同胞として共に神秘の研究に携わっていました。その過程で色彩の存在が明らかになり、我々も兼ねて対抗手段を模索しておりましたが、エルトセプスは色彩への対抗手段としてDAを生み出しました。我々の中でも頭抜けて早い成果でしたが、箱の中身は神秘に干渉して細切れにしてしまうという極めて恐ろしい物でした。色彩が神秘を狂気に陥れる光とすれば、DAは神秘に直接作用して破壊するといったものでしょうか。我々は奴の研究成果を拒否しました──それは色彩の到来前に悪い結果をもたらすと何度も警告したんですよ?しかし奴は我々を納得させるために、あろうことか人体実験まで始めてしまいましてね。キヴォトスの生徒たちから数人をサンプルとして選びとり、実験台にしたんですよ。実験は成功し、確かに神秘への作用が証明されました。しかしその後になって、サンプルに予期せぬ後遺症が現れ始めたんです。神秘は生徒にとって魂が表出したようなものであり、それをDAで人為的に操作する事は人格破綻や精神疾患、超能力の発現なども引き起こしかねない。それを知った我々は奴──エルトセプスを追放しました。この技術はかえって同族に近い色彩の到来を早めかねません。動物の縄張り争いの原理はご存じでしょう?開発者を追放して、残ったのは奴が保険として当時CLGという会社に譲渡したDA、そして実験台にされた生徒たち──スペクトルでした」

 

 アルが眉をひそめた。先生も初耳だった。

 

「不本意でしたが、彼女たちも処分をしなければなりません。そこで妙案を思いつきましてね。この会社はDAを悪用しようとしていましたので、ちょうど私が協力関係を結んでいたカイザーPMCにほんの少し働きかけてみたんですよ。そしたら先方が大変乗り気になってくれまして、自社戦力のスペクトルを派遣してロケットの破壊まで命じてくれました。後はスペクトルがロケットを発射してくれれば、全ての火種が消える手はずでした。便利屋68の皆さんの参戦は予想外でしたが、結果的に両者とも倒れてくれたので問題はありませんでしたよ」

 

 話を聞くうちに、先生は怒りがふつふつと湧いてきた。何が問題ないだ。話が全て正しければ──そしてDAの副作用にある人格破綻などがあったなら、スペクトルも被害者じゃないか。だが黒服は意に介さず長話を進めた。

 

「私ばかり話して申し訳ありません。話はもうすぐ終わりますよ──それで全ての火種が消えるはずでしたが、予定外の事が起こりました。追放後に暗殺されたはずのエルトセプスが、あろうことか倒された下尊アスの身体に乗り移ったんです。奴はアスに成りすまして、完全に我々の追跡から姿をくらませてしまいました」

 

「乗り移ったですって?それじゃ今のアスは」

 

 黒服はアルの疑問に即答した。「ご明察。今の彼女は身体はアスのものですが、中身はエルトセプスであり全くの別人です」

 

 ゲマトリアは神秘を追及するためなら生徒を利用する事も躊躇はしない。だがエルトセプスの場合はただの私欲だ。この行動を嫌悪しているのは先生だけでなく、黒服も気に入らないと言いたげな態度だった。

 

「奴は最後にカイザーPMCに向けて、ふざけたメッセージだけ残していきましてね。それからは完全な亡霊(スペクトル)になりました。後は皆さんも知っての通りですよ」黒服は長い話を終えると、ようやく一息ついた。

 

 つまりアスの中身は元ゲマトリアのエルトセプスという事だ。アスは誰かの命令で動いていたのではなく、アス自身が全ての根源だった。

 

「黒服はそれを伝えるために、わざわざスライを雇ったのか」先生が尋ねた。

 

「敵情把握は大切でしょう?それにあなた達の敵はただの生徒ではない、とお伝えするためですよ。相手は我々と同じゲマトリアで、しかもキヴォトスにとって危険因子です。もし先生や皆さんが少しでも奴に情けをかけていては困ります──殺して貰わなくては。そう、まさに”亡霊は二度死ぬ”ことになりますね」

 

 黒服は何度目かの低い笑い声を立てた。だが先生には笑い事ではなかった。つまりこいつは、自分たちに遠回しに殺しの依頼をしている。それも絶対に拒否できない状況でだ。中身が別人とはいえ生徒を殺すなんて真似を、先生が許せるはずがない。だが状況は、無慈悲にもその行為を強要してきている。レイが奪われた以上、エルトセプスが動くのは時間の問題だ。これ以上DAの悪用を許すわけにもいかない。道徳心と使命の板挟みになった先生を、黒服が嘲笑った。

 

「やってやるわ」

 

 空耳か幻聴を疑ったのは、生徒の口から出てくるのを望まなかったからかもしれない。空気が張り詰めて、一同は声の主を見た。アルは厳しい目つきでホログラムの黒服を見ていた。

 

 先生は首を横に振った。「よすんだ、アル。こいつの言う事を真に受ける必要はない」

 

「先生、殺人兵器の開発者を逃がすわけにはいかないわ。それに一連の不幸がエルトセプスによってもらたされたなら、必ず元凶を断たなければならないのよ。それにアスも死人なら遠慮することもない」そう言い放つアルの手は硬く握られていた。

 

 先生として、生徒に殺人を許可するなど到底できない。彼女たちはまだ子供だ。この殺しが後々尾を引くことは間違いない。

 

 先生は悲痛に訴えた。「やめるんだ、アル」

 

「それに先生、私たちは荒っぽいやり方の方が得意なの。知ってるでしょう?」アルは首を少し傾げた。

 

 黒服は笑っていた。「おやおや先生、どうやら彼女の方が決断力はあるようですね」

 

 先生は黒服を睨みつけた。彼の言う事が正しいのかもしれない。しかし一つだけ言わなければならない事があった。

 

「命を奪う以外の方法もきっとある。私の生徒を汚すような事はさせない」

 

 黒服は至って愉快そうだった。先生の宣言も気にせず話をたたみにかかった。「そうですか……では伝えるべき事は全てお話ししましたので、あとをどうするかはお任せしますよ?先生、そして便利屋68」

 

 その言葉を最後に、ホログラムは細い光の線となって消え失せた。彼の意地悪い笑い声が執務室全体に響くかのようだった。

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