便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル   作:まーろう

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27 決闘

 軽快な起動音と共に、先生の視野いっぱいに水色の光がほとばしった。もう何度も経験しているが、この光だけは未だに慣れず目を細める。光がやがて渦になり、すぐに潮のように引けると、先生は学校の教室に立っていた。壁や天井の一部が崩れて、その向こうには青い絨毯みたいに大海原が広がっている。机が無造作に積まれていて、椅子と合わせて置かれているのは教室の半分にも満たない。

 

 朝も夜も、常にここへ常駐している二人の少女たちには、それで充分だった。先生が気さくに声をかけると、青いセーラー服を着た少女は先生を見て、豆電球に電気をつけたみたいにぱっと笑顔になった。対照的な黒いセーラー服を着た少女も、遅れて先生を視認する。感情の読み取りにくい顔だが、少し安堵の色が見えた。

 

「先生、ご無事で何よりです!心配したんですからね」青いセーラー服の少女が言った。

 

 淡い水色の髪に白いカチューシャをした彼女は、シッテムの箱のメインOSを務めている。アロナは先生の姿を見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 

「ごめん、心配かけたね。でも大丈夫だよ」先生は挨拶代わりにアロナの頭をなでる。ここへ来たときはいつもそうしていた。彼女もまんざらでもなさそうに受け入れている。

 

 白い髪の少女はそれをぼんやりと眺めていた。全身が空色の少女と双子のようにそっくりだが、ヘイローや目の色など違いは一目瞭然だ。自己主張の薄い彼女にも、先生は意思を組んで手を伸ばした。

 

「プラナもひやひやさせちゃったかな。でも二人とも守ってくれてありがとう」

 

 もう一人の白髪の少女──先生にプラナと呼ばれた彼女もまた、アロナと同種のOSだった。とある事件をきっかけに、今は二人でシッテムの箱を管理してくれている。先生の手が頭に乗っても、彼女はずらしたりしない代わりに、どう振舞うべきか分からず混乱していた。

 

「それで先生、ここへいらっしゃったという事は……」

 

「ああ、また二人の力が必要だ。分析は終わってるかい?」

 

 アロナは得意げに親指を上向きに立てた。「もちろんです!私は完璧なスーパーOSですからね」そして手を宙にかざすと、テレビのような大きさのホログラム画面が映った。神秘が戻った便利屋68の四人の姿と、それぞれの詳細な能力のデータが出てくる。

 

 調子を取り戻したプラナが淡々とした説明口調で引き継いだ。「……目標はデカグラマトン級ヒト型兵器。以後、目標をガリバーと呼称します。装備は六門の一二・七ミリ口径マシンガン、ファランガ―F対人用ミサイル・ランチャー。さらに全身を耐久性の高い防弾合金で覆っています」

 

「デカグラマトンなら聞き覚えがある。前に退治したやつとの関係はありそうかい?」

 

「いいえ、解析しましたがガリバーは独立したシステムで機能しています。おそらくエルトセプスが、デカグラマトンの預言者たちを参考に建造したものと予想します」

 

 アロナは純粋に感心していた。「あれだけの大きさの二足歩行メカを作るなんて、エンジニア部の皆さんにも引けを取らない技術ですね」

 

「そうだね。でもいくらロマンに溢れていても、あいつの野望を阻止するには倒さないといけない」

 

「二足歩行メカの弱点は共通です!脚部か関節への集中攻撃が有効な対策ですよ」

 

「先輩に同意します。胸部DAレイは既に大破しており、これ以上の機能存続は不能でしょう」プラナはアロナに同意した。先にこの端末にいたアロナの事を、彼女は先輩と呼んでいた。

 

 先生は二人の意見を聞いて、作戦をまとめた。「分かった、それを採用しよう。主力で戦って貰うのはアル達にして、ヒナとソウには支援に回ってもらいたい。ソウは初めてだけど、指揮の伝達はできる?」

 

 アロナは力強く頷いた。

 

 先生の戦術指揮は、シッテムの箱からアロナ、プラナによって発信される。生徒たちの神秘を伝導体として、指揮を伝達する仕組みだ。戦場での口頭指揮はいくらバリヤーで守られていても危険だし、爆音で届かない事がある。神秘の力と技術の粋を集めた、安全で効率的なシステムだ。さらにこのインタースペースは普段は外界と同じ時間が流れているが、非常時には時空を歪めて時間の流れを急激に加速させることもできる。先生もきちんと計測した事はないが、アロナが言うにはここの一分が、外での一秒になるらしい。おかげで先生は冷静に戦局を見極めて、作戦を立案し、状況に応じた指揮を即座に共有することができた。

 

「それじゃ指揮を始めようか。反撃開始だ!」

 

 先生のかけごえにアロナは乗っかった。プラナも声を大きくしないかわりに、腕を挙げた。先生がホログラム画面の”出撃”を指で軽く叩くと、すぐに俯瞰視点で戦場が表示された。

 

 

 

 アルの頭に唐突に先生の声が聞こえると、指揮の内容が差し込まれてきた。同時に自分がどう動くべきか、明確なビジョンが見えてくる。最初の頃は慣れない感覚と、どこからか聞こえてくる先生の声に驚いていたが、今ではこれがあるだけで格段に戦いやすいように感じる。ガリバーは依然として脅威だが、倒せない存在ではないとアルは思い始めていた。完全に調子の戻った自分たちの敵ではない。これからあいつを解体してやるわ。

 

 ハルカとムツキが同時に駆け出した。ガリバーのマシンガンは足元と背後が死角になっており、二人は掃射を巧みに躱しながら巨人の股下に入った。踏みつけようと足踏みをするが、足の速さに定評のある便利屋68は簡単に捕まらない。ハルカが踵に散弾銃を憎々しげに乱れ撃ち、ムツキはピンを外した手榴弾を膝裏目掛けて投げ飛ばす。いずれも分厚い装甲の隙間に隠れた結合部を破損させる作戦だ。膝を曲げて接続部を隠し、そのまま踏み潰そうと足が降ろされると、再びソウがつっかえ棒のように受け止めた。二人が踏み潰される事はないだろう。

 

 先生が早口で指示を飛ばした。「ムツキ、ハルカ、爆弾を足元で大げさに使って。遠慮はいらない」

 

 名指しされた二人は手を緩めずに攻撃を続ける。接続部はともかく、装甲は爆弾でもダメージは通りにくい。ムツキが顔に悪い笑みをのぞかせた。

 

「何かいたずらでも思いついたの?私たちの得意分野だね、ハルカちゃん!」

 

「はい、全て吹っ飛ばします!」ハルカは嬉々として言った。すぐに足元から火の手が次々に上がり始める。

 

「よし、ヒナは機関銃で上半身をとにかく撃つ。肩に攻撃を集めて、マシンガンを引き付けて揺さぶってほしい。アルは隙を見て、がら空きになった接続部を狙って。カヨコはミサイルとセンサーを撹乱しよう」先生が指揮を続けた。

 

 ヒナが翼を広げると、愛用の機関銃を掴んで宙に舞い上がった。すぐに嵐のような機銃掃射がガリバーを打つ。あちこちで跳弾の火花が散って、すぐに六門の銃口からも反撃が始まった。少しくらい当たってもどうという事はないだろうが、ヒナが注目され続けるのも困る。アルは狙撃銃を片手で持ち上げる得意の体勢を取ると、まず右脇下のマシンガンに狙いをつけた。武装を破損させつつ、隣接するジョイントにもダメージを与える。効率を考えた社長らしいひらめきね!

 

 トリガーを引いた。すぐに狙撃銃の発射音が轟く。弾丸がマシンガンの四角い銃座を直撃し、確実に内部まで届いた。給弾機構にまで引火すると、弾丸本体の爆発があって、さらに線香花火のように銃弾がはじけ飛ぶ。たちまち右脇が傷つき、弾幕が一本止んだ。

 

 貴重な攻撃手段が潰されたのが分かると、背中のミサイルランチャーからすぐに八発の誘導ミサイルが打ちあがった。徐々に高度を下げて、すぐにでもこちらに突撃してくるだろう。しかしアルに焦りはなかった。頼れる課長が一歩前に立って、拳銃を空へ掲げる。すぐに恐怖を煽る叫び声が、黒い口から発せられた。

 

 ガリバーは驚嘆すべき科学技術の集大成だった。最新の複合装甲に、名前負けしない体躯を生きているように操る。しかも人間のように二足歩行なのだ。おそらく指令伝達も人間の脳と神経回路を模した組織で中継し、全身のあらゆる機械を繋いでいるのだろう。

 

 その指令を撹乱する方法をカヨコは持っている。

 

 紫の曳光弾は空高く打ち上げられ、ほどなくして光は消えた。ミサイルは対象を認識して──急に盲目になったみたいに明後日の方向へ飛び上がった。それは対象のヒナやアルには目もくれず、上空で爆発した。ガリバーは苦しむ声を上げて、すぐさま再装填を終えたミサイルを発射したが結果は同じだった。しばらくもがいて、ガリバーは制御を取り戻すと再び怪獣のごとく暴れ始める。

 

「ソウ」先生が呼びかけた。「調子はどうだい?そろそろ距離を置いた方が良い」

 

 ソウは言われるままに機銃を撃ちながら、足元から後退した。ムツキとハルカも爆弾の量を落とさずに離れる。

 

「じっとしてろ、この野郎!」エルトセプスが叫んだ。ガリバーは大破する寸前だった。マシンガンのあった脇下や肩から火花が散って、何かが外れて落ちる。右肩を脱臼したように、腕が垂れるだけになった。ガリバーがよろめき、バランスを取ろうと足を動かす。すると全重量がゆるんだ草原を凹ませて、足が地面に入った。ガリバーが片膝をついたようになり、指令を飛ばす顔面が近くなる。

 

 今だ!全員の息がぴったり合うと、巨大な蟷螂の顔に集中砲火が浴びせられた。ものすごい爆発が起こった。アルの狙撃銃による爆発だけでなく、ガリバーの大脳に当たるマザーコンピュータや動力源が壊れたのだ。エルトセプスが初めて焦りをのぞかせ、金切り声を上げた。顔面の爆発が全身に伝わり、あちこちから火や煙が噴き出す。ガリバーが平原に跪いた。そして巨大なビルが炎上して倒れるように、世界で最も危険な兵器が崩れて、爆発した。

 

 熱と衝撃波があっという間に平原全土に広がり、白い閃光が目の前を覆った。

 

 

 

 アルは白い靄を払って、ようやく目を覚ました。あの大爆発に巻き込まれたに違いない。周りに散らばる瓦礫や装甲からは、火と煙が絶えず昇っている。アルは草原に横たわっていた。手元に狙撃銃がない。コートも脱がされていた。

 

「目が覚めたか、アル」

 

 アルは声のする方に顔を向けた。これが夢か現実か判断に迷った。目の前に立つ女を間違うはずがない。エルトセプスだ。倒し損ねたのか!

 

「見ろ、お前たちの活躍でガリバーはこの有様だ」

 

 アルは体を起こして、腕で上体を支えた。肌が焼けたように熱い。それに不可解な脱力感があった。体が嫌に軽い。首だけ動かすと、ガリバーは修復不能なレベルでスクラップになっていた。もうヒトの形などなく、自動車の廃棄場に横たわったようだ。

 

「残念ね」アルは言った。「あなたの負けよ。計画は失敗に終わった」

 

「私の負けか」エルトセプスは突然笑い出した。

 

 アルは立ちあがった。「何がおかしいの?」

 

「計画が失敗したからなんだ?考えてみれば、これで私の望んだ結末になったんだよ」

 

 アルは困惑してしまった。「何ですって?」

 

 エルトセプスは笑うのをやめると、少し考えてから口を開いた。「洗脳PMC兵、亡霊部隊ERTCEPS、そしてガリバー。一国家にも及ぶ軍事力も、神秘から解放された世界──RAXAも、全ては究極の目的を達成する上での過程でしかなかったんだよ。私が本当に望んでいたのは”自由”だけだ。黒服は話していなかったが、そもそも私は人間ではない。正確には思念体──人間の負の感情から生まれたエネルギーが自我を持ったものだ」

 

 いったいどうして黒服との話をこいつは知っているんだ?それに思念体?アルはますます目の前の人物が分からなかった。代わりに自分がどこにいるのか分かった。大破したガリバーの中心にいる。周りはくすぶった廃物だらけで、仲間の姿はどこにもなかった。

 

「負の感情が生まれる限り、私の生命は保障される。だが実体がなくては、ただお前たちの下界での営みをぼんやりと眺める事しかできなかった。誰にも気づかれず、自分では何もできずに終わる。そんなのは嫌だった。そこで私は悪魔と手を結び、神秘の探求を続けることを条件にキヴォトスへ干渉できる力を持った。ゲマトリアの一員になったんだよ。だが私の研究は同志たちによって剥奪され、私自身も地下へ追いやられた!あげく成果を抹消されてしまえば、契約不履行で私は消える運命だった。アル、お前たちと違って私は次の世代が作れない。一世代のまま輪廻を繰り返す私を覚えていられるのは、常に私自身しかいない。私もこの世に自分自身のものを──私が存在したという証を残したかっただけだ。人々の記憶と、この世の歴史にな。だがゲマトリアの同志たちは、DAとスペクトルすら私から奪おうとしたんだ。だから神々の加護を破壊して、この世界を解放し、存在証明を作ろうとしていた」

 

 アルは口を開いた。「そのために先生も狙ったの?」

 

「それは違う。シャーレへの先生の就任以来、供給される負のエネルギーが少しずつ減少している。あいつも私を滅ぼそうとする潜在的な敵だった。本人に自覚はないだろうがな。しかし計画はお前たち便利屋68に邪魔されて失敗した。だが……私の存在証明はばっちり残りそうだ」

 

「どこに残るの?」

 

「お前の中だよ、アル。お前は勝ち、私は負けた。だがそれで終わりじゃない。勝者は常に敗者の恨みと怨念を背負って生きるんだ。それが生き残った者の定めだ!最後に亡霊を生き永らえさせたのは、皮肉にも亡霊を駆り立てていたお前自身になったわけだ」

 

 アルは何といっていいか分からず、ただ拳を握りしめて、エルトセプスの言葉が続くのを待った。

 

「さあ、陸八魔アル。これで正真正銘の最後だ。亡霊と便利屋68の戦いは終わった。最後に私とお前だけで、個人的な決着をつけようじゃないか」エルトセプスはアルに指を向けて、声を荒げた。「ここはリングだ。分かるな?」

 

 アルもようやく自分の体に起きたことが分かった。ここにはガリバーのDAレイ──遡るとネオ・チャレンジャー号の弾頭だったものが散らばっていた。DAの残滓が二人を蝕み、神秘の力を封じ込めているんだ。遮るもののない草原の上で、二人は武器も神秘もなくしたまさに丸裸の状態になっていた。

 

 エルトセプスはまっすぐ仁王立ちになった。

 

 素手の戦いね。エルトセプスがどれだけ強いかは予想できないし、アルも素手での決闘は初めてのことだった。やらねばならないが、勝てる自信がない。普段は武器の特性上、後方で立ち回ることが多いし、腕っぷしはハルカ頼みだったからだ。神秘も守ってくれない。一歩間違えれば重症か、むごい死が待っている。

 

 ふとアルの懐で重い感触が主張しているのに気づいた。手でそっと取り出すと、オアの銃弾の重く固い感触が伝わる。拾った時に奇妙な友情を感じた金属片が、今度はなんだか励ましてくれているように思えた。「行け──終わらせて来い、アル」頭の中に彼女の声が響くと、次々に仲間たちの応援が聞こえてきた。ムツキ、カヨコ、ハルカ。それからこれまでの長い戦いを助けてくれた人たち、遠くへと旅立った人たち……そして先生。先ほどまで孤立無援に感じたが、今はもうそうは思わない。アルはオアの銃弾を固く握りしめて、コートの近くにそっと置いた。行ってくるわ、皆。鈍く輝く弾に頷くと、アルは立ちあがりエルトセプスに向き直った。

 

 エルトセプスは右目に手を伸ばし、とうとう黒い眼帯を取ると投げ捨てた。露になった右目は、血のように濃い紅だ。死者の証だ──オル、ソウ、レイも右目だけ紅になっていた。

 

 アルとエルトセプスは同時に地を蹴った。思い切り腕を振りかざした彼女の懐へ、アルは飛び込み肩でタックルをかました。エルトセプスはよろめいたが、離れ際にアルの背中を強打した。思わず前につんのめると、エルトセプスはパンチを繰り出して、ブロックしようとしたアルの頬に届いた。すかさず次のパンチが別の頬に命中する。アルはつかの間茫然としたが、背後から両手で首を強く締められる。指が深く入ってきた。呼吸困難になりながらも、アルは首元の手首を掴むと少しずつ引き離す。腕と背筋が悲鳴をあげたが、すでに限界を越えている以上お構いなしだった。拘束から逃れると、アルは腰を落として連続でパンチを見舞った。反撃の隙を与えず、強烈な右フックを顎に喰わせると、エルトセプスは地面に転がった。

 

 二人は数分間殴り合った。形勢はほぼ互角で、一歩も譲らない引き分けの戦いが続く。初めはきれのあった二人の動きも、度重なる攻撃と疲労で徐々に鈍ってきた。

 

 エルトセプスは唸りを上げて、大ぶりの打撃を浴びせた。アルは防御して、間隙をぬって乗り出した。エルトセプスに掴みかかり、至近距離で顔を殴り、腹を蹴った。だが引きはがされると、正面からの蹴りでアルは仰向けに倒れ込んだ。全身がとめどなく痛み、あえぐような口呼吸をする。それでも気合いだけで、アルはぼろぼろの体を持ち上げた。

 

 自分自身に鞭打つたびに二人は叫び、拳をぶつけ、蹴りを交わす。繰り出した腕が交差すると、互いの顔面に直撃した。足がもうまともに動かない。二人はよろよろともつれるように倒れた。

 

 もう気合だけで立ち上がるのは困難だ。なんとか体を立ち上げようともがくエルトセプスの姿を、アルは何も考えられないまま見ていた。二人の息遣いと、自分の心臓の音しかない。それなのにやかましいくらいうるさく感じた。

 

 アルは滅多な事では弱音を吐かなかった。それは自分の信条からしても、アウトローではない。それに言葉は霊的な力を持っており、後ろ向きな言葉を出せば不運も寄ってくると常々そう思っていた。それから社長である自分がそんなことを口にすれば、ついてきてくれる仲間にも不安を与えてしまう。こういった理由から、アルはマイナスな表現は常に肚の中に仕舞い込み、やむを得ず出そうな時も心の中で言うに留めていた。今、満身創痍のアルの脳内を、無意識に弱音がよぎった。

 

 もう無理──なるべく考えないよう蓋をしていた言葉が、自然と頭の中で再生された。体の力を奪うと分かっていても、繰り返し反復してくる。耳にこびりついてしまいそうだ。

 

「アル様なら勝てます!私はアル様を信じます!」ハルカの声だ。こんな私を信じて、鼓舞してくれている。

 

「ここで諦めるなんて、社長らしくないよ。社長は必ず勝つ──私も信じてるから」これはカヨコの声だ。私の諦めの悪さを、カヨコは信頼してくれている。

 

「大丈夫!しぶといアルちゃんなら、何があっても立ち上がってくれるからね!」ムツキの声も聞こえた。意地を張った私のしぶとさを、昔から彼女はよく知っている。

 

 とめどなく痛みが湧いて出る腕を、アルは地面に立てた。大丈夫、どこも欠けてはいない。手足も、首もちゃんと動く。目も緑色の草をはっきりと認識していて、耳もちゃんと聞こえる。あとは意志の力だけだ。

 

 アルはもう一度、三人の顔を考えた。ぐっと意地が湧き起こってくるると、腹の底から一度唸りを上げる。歯を食いしばって、何倍にも重くなったような体で不器用に立ち上がった。赤黒い苦痛の波に溺れてしまいそうになるのを、首を振って堪えた。

 

 エルトセプスは驚いたように見上げて、触発されたようにふらふらと立ち上がった。血のシャワーを浴びたようだった。しばらく息をしたまま、無言で見つめ合う時間が続いた。

 

 アルは再びこいつと殴り合う決心をした。だが今度の勝負はすぐに片が付くだろう。二人の様子は、明らかに限界だ。びっこを引くように、アルは少しずつ間合いを詰めていく。エルトセプスも一歩ずつ、踏みしめて近づいて行った。拳の上がる動作が、スローモーションのようにのろく見える。間合いに入った。

 

 アルは思い切り腕を引き、相手の顔に拳を叩きつけた。

 

 エルトセプスは後ろによろめき、体を揺らした。何か言おうとして手を伸ばし、アルの目を見つめた。

 

 アルはその手を取りたい衝動に駆られたが──最後の最後で衝動を押さえて立っていた。

 

 因縁の相手は遂に草原に倒れ込み、横たわった。

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