便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル   作:まーろう

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29 それぞれの明日

 信じられないかもしれないが、初めに彼女が認識したのは「私は眠っている」という状態だった。その後に自然と、自身の名が認識できた。ひどく脳を回されて、ばらばらになっていた意識が、急速に集まり出しつつある。

 

 詰物が溶解するみたいに、周りの音が聞こえてきた。意味の分からない──確実に聞き覚えのある言語だ。黒い靄がゆっくりと晴れてきて、今度は視界が白み始めた。彼女はぼんやりと耳を澄ましながら、二度目の人生に目覚めた。

 

 差し込んできた光があまりにまぶしかったので、思わず喉の奥で唸った。一度目を閉じて、体の感覚を探る。曲げた指の先に、布が擦れた。刺激に対して鋭敏なおかげで、足の指先が少しくすぐったい。暑苦しいとまではいかないが、かなり衣服を重ねて着たように暖かかった。ようやく理解が及んだ。そうか、ここはベッドの上なんだ。

 

 そっと目を開けると、白い清潔な天井が見えた。羽のついたファンが静かに駆動して、消毒液を薄めた独特の臭いがついた空気をかき回している。首を少し傾けた。両隣をカーテンで仕切られている。足元の辺りで、動き回るものがあった。首を曲げて、視界に捉える。白衣を着た女性がぱたぱたとせわしなく動いていた。ああ、ここは病院か。

 

 頭を枕に下ろすと、動き続けるファンをぼんやりと眺めて、記憶の断片を辿り始めた。どうしてここにいるんだっけ?何かひどい怪我か病気をしたのは分かっていた。しかし記憶のピースを一部だけごっそりなくしたせいで、そこに何があったのか、全く推理できなかった。しばらく瞼の裏を見続けてから、目を開いて、周りにあるものから手がかりを得ようとした。右に簡素なテーブルがあり、そこに置かれた手編みの籠に果物と名刺のようなカードが一枚入っていた。手は届かないが、小さく68と書かれているのは分かった。

 

 白衣が視野に入ってくると、小さく呼びかけられる。さきほどの女性が顔をのぞきこんできた。

 

「聞こえますか?」

 

 私は尋ねられている。返事をしなければと思ったが、先ほど見た数字が意味ありげに存在感を放っている。何か大切なことに繋がる手がかりな気がしてならなかった。あれを思い出せなければ、重大な見落としをしてしまうかもしれないという不安が湧き起こってくる。

 

「ゲッコウさん、聞こえてますか?」

 

 再び尋ねられた。大丈夫、はっきりと聞こえているよ。頭で返事をすると、こちらを心配そうに見下ろす顔が認識できた。突然輪郭がぼやけてきて、二本の角が生えた。段々髪色が桃に近くなると、心配そうな表情に覚えがある気がしてくる。この眺めは前にも見たぞ。どこで?横たわった草原の青い臭いが蘇ってきた。

 

 そうだ、私は平原にいた。気が付いたら倒れていて、彼女は私を抱えて言葉をかけてくれた。

 

 爆竹みたいな音が脳裏に響いた。赤く汚れた手、目まい、名を呼び続けた声。目の焦点が合ってくると、一瞬だけ記憶の中の人物が目の前に飛び出した。

 

 ゲッコウは唖然として、すぐに返事が口をついて出た。

 

「アル社長、私は大丈夫だよ」

 

 目の前の人物は、記憶の中の恩人とはかけ離れた姿になっていた。病人のうわ言にぽかんとしていたが、とにかく役割を果たそうと大急ぎで部屋の外へと出ていった。誰かを呼んでいる。お医者の先生かな?誰かも分からぬ人を待つ間、ゲッコウは意識を失う直前までの記憶を整理して、体だけじゃなく思考が問題ないか探ることに没頭し始めた。

 

 グラウンドゼロからの事のあらましをすらすらと語れるくらい思考の整理が終わると、ようやくドアが開いた。ゲッコウは顔を上げてみた。

 

 空崎ヒナは医学部のナースに続いて、部屋に入って来た。武器は持ち込まない。こちらの顔を一目見ると、ナースと短い確認のやり取りをしていた。面会は五分よね。ええそうです、くれぐれも患者に負担をかけないようお願いします。分かってるわ、様子の確認に来ただけ。悪いけど、内々の話をするから外で待っててくれない?はい、では時間になったらお知らせしますからね。おおよそ、このような会話の後にナースが出ていくと、部屋にはヒナとゲッコウの二人だけになる。

 

 ヒナはゲッコウのベッドのわきに来て立った。「体はどう?」

 

「悪くはないです。頭もはっきりしてきました」

 

「そう。あまり居座るとセナから苦情を言われるから、手短に用件だけ話しましょう。良いわね?」

 

「もちろんです」さっきの回想で頭はすっかり回るようになっていたが、ゲッコウはこれ以上ないくらいはっきりさせようとした。

 

「まず結果から話すわ。あなた達の敵だった下尊アスは、便利屋の陸八魔アルに倒された。それから全ての元凶も倒されたわ。あの戦いは取りこぼしもなく幕を下ろした。あなたが撃たれた後に、神秘が一時的に消失して、その結果あなたの体内のDAはほどなく死滅したらしいわ。まったくの強運ね。それからは救急医学部の応急処置で命を繋ぎとめて、あなたはここで目を覚ました」

 

 ゲッコウは弱々しく笑った。「それで、これで皆幸せということですね」

 

「そうね、でも私たちは別よ。アスに洗脳をされていた風紀委員は一人や二人じゃなかったせいで、ゴルゴダから引き上げてもそっちの事後処理が山のようにあるわ。司令塔が倒れて洗脳は解除されたけど、まだあぶり出せてない子がいるかもしれない。でもこれはモグラ探しじゃなく、対応が必要な子を探しているというだけよ。根っからのスパイはここには一人もいなかった」

 

 ヒナは首を横に振った。ゲッコウは力のない声で必死に言った。「委員長……ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。委員長とアル社長に言われて、自分の間違いに気づけました」

 

 ヒナは用心深く聞いた。「なら聞かせて。あなたは便利屋と風紀委員のどちらなの?」

 

「両方です。風紀委員の立場だけじゃなく、狭間にいたからこそ分かる事がありました。それにやはり、私にとって便利屋の皆は恩人なんです。それをなかったことにはしたくありません」

 

 室内を沈黙が支配した。今の主張を精査して、それからヒナは厄介そうにため息をつくと、ゲッコウを見返す。ゲッコウもヒナの顔を見たが、何も読み取れなかった。今の発言は、少し図々しかったかもしれない。否定したくない思いがあったとはいえ、ゲッコウは少し申し訳なく感じた。

 

「そうね」小さな口から出たのは、短いが、深みのある言葉だった。「洗脳された中には、脳にダメージが残って後遺症を治療している子もいる──人員を大幅に見直す必要が出てきたの。それで良い機会だから、風紀委員会もまともに機能するよう作り変えようと考えてる」手を振って言う。「皆がこんな調子じゃ、私は過労死してしまうわ。例え微力だろうと、一人でも多くの手を借りられればこんなありがたい事はない。風紀委員として動いてくれる子たちのおかげで、私も仕事ができるのよ」

 

「……委員長」

 

「元気になったら、顔を出しに来なさい」

 

 ヒナはそれだけ言い残すと、ドアを引き開けて、するりと部屋から出て行ってしまった。廊下で二言三言の会話があってから、再びドアが横に開かれた。

 

 ゲッコウは面食らった。天独ソウはシンプルな黒いスーツ姿で、溶解したパワードスーツを被った怪物の面影はすっかり消えていた。右目は紅く染まったままだ。それに額から右頬にかけては、ただれてしまった皮膚の跡が残っている。それでも昔の記憶と違わぬ、強さと優しさを備えたままの姿だった。

 

 目を覚ましたこちらの姿を見て、ソウはよろよろとベッドの側へ来ると、わきに膝をついてしまった。ゲッコウの手が自然と伸びて、ソウの頭を抱えて、顔に引き寄せる。ゲッコウは心を込めてつぶやいた。「よかった、ソウ」

 

 ソウは両手をゲッコウの背に回して、苦しくない力加減で抱き返した。「ルナ……辛い思いをさせた事を、本当に申し訳なく思ってる」

 

「謝らないでよ。自分の意思で決めた事だから」本心からそう思えた。「ソウもずっと、自分自身と戦ってたんでしょ?私も一緒だよ。間違えて、迷って、ソウの事が分かった気がした。だから……もう一度会いたかった」

 

 自然と涙が出てくる。ゲッコウはなんとか堪えようとした。わっと泣きたいが、強くなったところを見せたかった。

 

 ソウは力なく首を縦に振ってから、口を開いた。「実は、少しだけ長く生きられることになった。寿命が延びたんだ。それでこの猶予をどう生きるべきか考えていたんだが」ソウは体を離すと、顔を上げて、ゲッコウを見つめていた。傷なんて関係なく、これまでで一番きれいに見える。「残りの人生は、ルナと生きるべきだと思うんだ。一緒にいさせてくれないか?」

 

 ルナははっとして、ソウを不思議そうに見つめた。声が震える。「それ、本気?」

 

「本気だ。心から願っていることだ」

 

 ルナは我慢が効かなくなって、わっと泣き出した。泣きながら、ソウの手を取って大きく頷いた。子供のように泣きじゃくるルナを、ソウはただただ抱きしめていた。

 

 奇妙な確信めいたものが二人の間にあった。やっと落ち着き、これからの人生が素晴らしいものになり、しかも自分一人ではなく分かち合うものになるんだという感じだ。この新しい人生が好きになりそうな気がする。

 

 

 

 立花ハヤテは何日ぶりのコーヒーを、ゲヘナの店で買った。とにかく濃いものが欲しかった。D.U.地区にもいくらかの店はあるが、あそこには長く居るわけにもいかなかったし、たいていは雑誌や口コミがつけまくる星々で汚されいる。都市の味というものを、ハヤテは全く信用していない。

 

 その点でゲヘナの方は、これこそ満点に近い点数をやれるだろう。ブランドを気取った店ではなく、少し愛想がないくらいがいい。飾らない佇まいは、自分の目で見て判断するには都合が良かった。店の香りからも期待できそうだ。ただ一人しかいない店員が振り向いて、カップをカウンダ―で渡してくる。”どうぞ、ごゆっくり”と機械的に言うと、さっさとカウンター奥に引き上げてテレビを見始めた。なんとも自由と混沌が売りのゲヘナらしい。

 

 カップを持って外へ出る。テーブルに向かうと、ハヤテは思わずにやりとした。今日ここで待ち合わせている人物がしっかりと席に収まっている。めっきり外に出ないから半信半疑だったが、こういうところは律儀だ。

 

 席に収まると、向かい合うように座った女がサングラスを外した。紅白メッシュを入れた黒髪──その下からずるそうな赤い目で、ハヤテの姿をざっと見回す。視線がふと左腕に向けられた。

 

「調子はどうだ、大将?」

 

 ハヤテは言った。「ああ、問題ないよ。強いて言うなら元の腕の感覚が残ってるのと、昔のあいつにそっくりなのが気に入らないな」

 

 左腕をテーブルに置くと、ガチャンという音を立てた。上腕から指先まで金属に置き換わっている。まだ異物感があるが、きっと時間が解決してくれるだろう。

 

 功労者は元気そのものだった。逆道スライはカフェオレをちびちびと啜っている。「ブラックリスタのデータから作った義手だ。これほどのものを作れる人材は限られてるから、大将は運がいいな」

 

「本当に運が良ければ、そもそも片腕にならずに済んだんだぜ」

 

 ハヤテは身を乗り出して、苦言を呈した。「アル社長に協力してくれたのは感謝してるが、本人たちから聞いたぞ。協力の見返りに殺人兵器を要求したらしいな」

 

 スライは苦笑いした。「私についての悪い評判を聞いたらしい」

 

「お前に節操がないのは良く知っている」ハヤテは続けた。「しかしどういうつもりだったんだ?」

 

 スライは顔をしかめた。「大したことじゃない。ただで助けてくれるのが当然と思う頭に、一発かましてやっただけだよ。あとは私的のささやかな仕返しさ」

 

 スライはけらけらと笑った。決着から三日経ったが、世界は変わらずに回り続けている。少し違うとすれば、彼女が白昼堂々と外にいることだろう。

 

 あれだけの大仕事をしたにも関わらず、便利屋68には一切の手当てがなかった。連邦生徒会が正式な事件としての記録を一切残さず、なかったことにしたからだ。シャーレに送られていた大量の書類仕事もさっぱり消えてなくなったそうだ。

 

 連邦生徒会は事件の隠ぺいに躍起になっている。身内が不祥事に一枚嚙んでいたとなれば、世間の目は厳しくなるだろう。PMC離反兵の事件は収束したが、いつどこで再び起こるか分からない騒ぎに世間はぴりぴりしている。PMCへの業務停止命令案もすぐに取り下げられた。

 

 これから繁盛するのは間違いない。風紀委員会にも口外禁止の連絡が出されたが、ゴルゴダに集まっていた人間は百を超えている。いつかは誰かの口からぽろっと出たり、騒ぎを聞いていた者から噂が広まったりするだろう。亡霊が残した禍根は、当分は消えそうにない。

 

 ハヤテは半分ほど残ったコーヒーにミルクを加えた。漆黒みたいな黒に白い波が混じり、少しずつ柔らかい色へ変わっていく。

 

 ハヤテは口を開いた。「スライ、いつからアスと繋がっていたんだ?」

 

 スライの手が止まった。額にしわを寄せて、ハヤテをちらりと見た。「さすがだな、大将。あんたが気づいた時よりも前さ。いつ分かった?」

 

「前に会った時だ。アスについて嫌に詳しいとは思ってたが、グラウンドゼロ空爆の犯人をアスだと決めつけてただろう。それからアル社長たちの事は一度もお前に話した記憶がないのに、知人を便利屋68だと断定したな」ハヤテは穏やかに問い詰めた。

 

 スライは手を挙げて降参した。「うっかり口が滑ったか。大将がずっと追っているから、私も影で手助けしたくなったのさ。まさかアスとの繋がりに気づいたから、私に手助けを頼んだわけか?」

 

「お前は信用できると思った」ハヤテは付け加えた。「もちろん情報屋としてだぞ」

 

「一言多い辺り、全く素直じゃないな」

 

「ところで名誉を回復した気分はどうだ?悪徳情報屋から、世界を救った片棒担ぎへの栄転は?」

 

 スライは考える素振りをした。「……そうでもないな。悪い評判が恋しいね」

 

「そっちの方がお似合いか?じゃ、そういう事にしようか。頼んでいたものは?」

 

「持って来ているさ、表に止めてある。それとこれが必要だな」スライはバイクの鍵をポケットから取り出して、テーブルに置いた。

 

「また旅に戻るのか?」スライは尋ねた。

 

「ああ、今度は怪我をしないように気を付けるよ」

 

「次は苦しまないように首根っこを折れるといいな、大将。そうなれば私も精々する」

 

「そういきり立たなくても、お望みなら一緒に乗せてやるよ」

 

 ひとしきり笑ってから、ハヤテは鍵を取って立ち上がると、スライの肩を軽く叩いてやった。スライは昔と変わらぬリーダーの後ろ姿を席から見守る。やがて最後の別れに手を振ると、きらりと鉄の義手が日を受けて輝いた。

 

 エンジンの唸りと路上の砂埃が収まると、スライは深く椅子に座り直して、旅立っていった人物の名残を見納める。それから勘定を済ませて店を後にすると、一通の連絡を入れ始めた。

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