便利屋68:3 テラーズ・オブ・ザ・スペクトル 作:まーろう
ゲッコウを迎えた五人はどんどん中心へ突き進んでいく。辺りを舞う砂埃は身を隠してくれるだけでなく、五人の足音も聞こえずらくしてくれて不意の遭遇戦は避けられていた。それでも薬室には弾を込めて、いつでも発砲ができるように構えていた。
背後から羽音が遠く響いてくると、五人はそれぞれ身をかがめた。吹き降ろす風が頭に当たると、周りの砂埃を一層巻き上げる。アルはもう少しでむせてしまうところだった。見上げると巨大な刃物のような主翼がついた電車一両ほどの大型ヘリコプターが頭上を次々に飛び越していく。群れは馬力のありそうな黒い同型ヘリコプター五機で構成されている。だがどの機体も機関砲一門のみの装備というのが不審に思えた。この運用法には覚えがある。重量がある物体を運搬する際に、特殊繊維のワイヤーを引っ掛けて複数機で対象物を持ち上げるというものだ。
やっぱり何かおかしい。こんな瓦礫しかない場所で何を運ぶつもりだろう?アルには見当がつかなかった。
「ゲッコウ、奴らの目的について本当に何も聞かされてないの?」
「私はただの使い走りに過ぎないよ。自分でもおかしな人選だと思ってる」ゲッコウは不満気につぶやいた。
「それにしても、ずいぶん派手にやるんだねえ。きっと恐竜の化石でも発掘するんだよ」ムツキにも狙いはまだ分からなかった。中心部へ進まない事には何も明らかにはならないし、アルはいい加減毒霧から離れて新鮮な空気を吸いたかった。マスクの下の空気も若干濁り始めたように思う。
しばらく歩くと、進行方向に金網の壁が姿を現した。有刺鉄線が茨のように張り巡らされ、周囲を歩哨がうじゃうじゃ巡回している。突撃銃を一挺ずつ装備して、目に見えるだけでも五人以上いる彼らは、一定の間隔を保ちながら左右に流れて見回っている。さらに外周は背の低い四輪駆動車に乗った二人組が、のろのろと車を走らせている。あからさまな警備の増加は、まさにここが重要地点だと喧伝していた。
「警備が多い。中に入り込む価値はありそうだね」
「でもどうするの?ここからじゃ、とても入り込めそうにはないよ」
「入り口が一つとは限らないわよ」
アルは金網が伸びる方向に沿って移動して、警備が手薄な場所を探してみることにした。
五分も歩くと、すぐに手ごろなそれは見つかった。車両進入口と建造物を挟んだ真反対にあったのは、同じ金網の勝手口だった。隣には椅子に腰かけたロボット兵と、電話ボックスほどの大きさの詰所、端にどけたままの大小の瓦礫たち。PMC兵は銃器を分解して、綿棒で隙間に詰まった砂埃の掃除をしていた。無警戒過ぎる。どうぞお入りくださいと手をこまねいているようなものだ。
「さすがアルちゃん。こっちなら並ばずに入れそうだね」軽口を叩くムツキは、妙案を思いついたようでゲッコウに振り返った。「ねー。ここなら簡単そうだし、ゲッコウちゃんやってみる?潜入実習ってやつだよ」
「そんなまさか!」突然の指名に驚いて、ゲッコウは両手を挙げた。「ここからは私一人でやれって言うの?あいつは確かに油断してるけど、いつ仲間が来るか分からないし反撃だって考えられるよ。あいつの頭に拳銃を突き付けて、その後はどうすればいいの。こういうのは私の専門外だよ」
「でも、やってみてもいいわ」アルが言った。「あいつに気づかれないように後ろへ回り込んで、その脇に隠した拳銃を頭に突き付けて、扉を開けなさいと命令すれば大丈夫よ。私たちもここで見ているし、もし危なくなれば助ける。こうして会えたのも何かの縁だし、将来あるかもしれないこういった任務への予行演習にもなる。あなたも変わらなくては駄目よ」
ゲッコウはしぶしぶだがジャケットの下に隠した拳銃を抜くと、姿勢を低くして呑気なロボット兵に近づく覚悟を決めようとしていた。
「あの、カヨコ。この銃はちゃんと動くよね」
不安な顔で振り向くと、銃を受け取ったカヨコは手際よく弾を抜いて、撃鉄を押し下げると引き金を引いた。回転式拳銃が頼もしいカチンという音を立てると、カヨコは樽型の弾倉に弾を込め直す。
「大丈夫。ちゃんと動くよ」
「ええと、銃を向けてから動くなって言うんだよね。武器を捨てさせて、それから扉の鍵を開けさせる」
「そうだね」
「あの……話がこじれたりしたら助けてよ」
「こじれるほど脅かせれば大したものだよ」
アルとカヨコはいつ不測の事態が起こっても良いように黒い銃口を入り口の方へ向けて、臨時社員の勇気を見守った。ゲッコウは特に慎重だった。踵から地面にゆっくりつけて爪先にかけて離す、音を立てにくい歩き方でじりじりと迫っていく。のろのろとした進行だが、着実に距離を詰めていき、あと三メートルほどだった。
急にPMC兵が立ち上がると、ゲッコウは椅子の背に逃げ込んだ。銃器の整備を終えた敵は自動小銃を持つと、なんとアルたちの方に銃を構えた。安全装置を解除して、反り曲がった引き金に指をかけて──。
カチリ。
試し撃ちの動作をした敵は誇らしげな様子で満足すると、構えていた銃を下ろした。アルは身をかがめていたが、緊張の糸がほどけると再び頭を出して様子を見守った。まったく驚かさないでほしいわ!
PMC兵が椅子に振り返ると、ゲッコウは拳銃を向けたまま静かに立ち上がった。PMC兵はちょっと立ち止まったが、それ以上の驚きは見せなかった。よく設計された兵士だ。アルは目算して、ゲッコウはだいたい下腹部の方に狙いを向けているなと考えた。
「よお、もしかしするとあんたは風紀の人間か。そっちも銃の整備は終わったのか」
「動かないで」ゲッコウはまともに取り合おうとしなかった。
「銃を捨てて、扉の鍵を開けて」
「新米か」
「早く」
緊張に気づいたPMC兵は面白くなさそうだった。銃も捨てず、堂々とゲッコウへ近づいていく。
「どうした。威勢が良いのは口だけか」
止めようとカヨコが出ていこうとした時、続けざまに六発の銃声と悲鳴が響いた。大柄のPMC兵は威嚇するように両手をあげて、ぐいと空を仰ぐと、地面に落ちたゴミ袋のような音を立てて倒れた。
沈黙。一呼吸挟んで、誰かがおずおずと咳払いをした。落ち着いた口調でムツキが言った。
「あー、ああいう手合の連中には最適な解決策だったと思うよ。アスもきっと静かな生活が好きだろうからね。整備のたびにやかましくカチカチやられるよりも、この方が良いよ」
出し抜けに危急の事態を告げる鐘がガンガンと騒ぎ出した。遠くでは敵が入ったとか何とか言っている。ここがもうすぐ警備員でいっぱいになることは明白だ。
四人は一斉に物陰から飛び出すと、カヨコは真っ先にPMC兵の骸へ近寄って装備を探る。輪に繋がれた鍵たちを掴むと、扉へ駆け寄って解錠作業に取り掛かった。アルは銃を構えたまま放心したゲッコウを脇に抱えあげると、頼もしい錠が外れる音がした扉へ走り込む。
内部は巨大なヘリ発着場になっていた。黄色い靄の向こうには、先ほど見かけた黒いヘリコプターが駐機している。平坦な整備された場所で、身を隠せるものは何もなかった。
そこまで確認に要した時間は数秒だろう。アルははっとして身を翻すと、すぐ右手に銃口を向けた。
この濃毒霧に関わらず、目の前の女は防具を身に纏っていない。濃茶のダスターコートにタクティカルパンツという姿だった。以前会った時と同じ軍人という風貌だ。背はアルと並ぶほどには高い。光沢のある革靴を履いている。お決まりのように金髪を一括りにして、背骨に沿って垂らしている。
右目の黒い眼帯の上からスクエアサングラスもかけていた。咥えている白い棒状のものから煙が立ち昇り続けている。きつい臭いから煙草だと分かった。積まれた木材に腰を下ろして一服ふかすところは、映画の一コマを取り出したみたいだった。こちらになど気にもかけず、おもむろに煙草を親指と人差し指でつまむと宙に向けて紫煙をゆっくりと吹く。やかんの水蒸気みたいに飛び出した煙は小さな渦を花弁状に描いて消えた。
アルは驚愕した。記憶にあった通りの顔、便利屋が追い続けていた顔だ。特殊機関スペクトルの元メンバー、下尊アスだった。
最後に彼女と会ったのは三ヶ月前の事件で、アルが敵の飛行機に乗り込んだ時だった。あの時のアスはブラックスターと便利屋68を争わせて徹底的に利用し尽くして、アル達は彼女の目論見に最後まで気づかぬままだった。別れ際にアスは椅子に縛り上げられたアルに向かって捨て台詞を吐いて行った。
「次また会う事があっても、私は別に驚かないね」
あの時言ったようにアスは少しも驚く様子を見せなかった。それどころか飄々とした調子で、向けられた銃口にも興味を示さない。仕事終わりのサラリーマンみたいだった。ここに自分を脅かすものはない──便利屋を脅威として認識していないようで、すっかり舐め腐った態度だった。
沈黙は十秒くらいだったか?アルには長い対峙だった。アスはまだ長さの残っている煙草を口からつまみ取った。
「久しぶりだな、便利屋」煙混じりの低い声だった。まだこちらに目を向けない。銃を何の脅威とも見ていないようで、腰に吊った二丁の拳銃が収まったホルスターに手をかける仕草もなかった。
「アス」アルの口から自然と名がもれた。
アスは煙草を右手で顔の高さにつまんだまま、首だけ動かして顔を向けた。眉間にしわが薄く浮かんでいる。この再会にもいい加減飽きたと言いたげだった。こちらの表情を子細に眺めると、やがて腰を上げて向かい合った。
「少し痩せたか?」
向かい合うまでの間に、アルは銃口を逸らさず向け続けたが引き金は引けなかった。それは他の三人も同じようだった。銃を突きつけ合っている訳でもない。それなのにアスのはらむ雰囲気に押されて、アルは無意識にリミッターをかけてしまっていた。見た目は以前と変わらない少女だが、中身がすっかり人間ではなくなったようだ。何か別の上位生物のようにも感じられる。アルの直感だが、今の彼女に銃弾の効き目があるとは到底思えなかった。
攻撃を仕掛けてこない便利屋を見て、アスはフンと鼻を鳴らした。「さすが便利屋。賢い選択だ」
煙草を口に運びながら、一歩近づいてくる。アルは固い意思で後退しなかった。
「だがここに来たのは賢いと言えないな」
アスは狙撃銃の取り回し範囲内にゆったりと歩いて入ると、アルの顔に煙を吹きかける。思わずアルは顔をしかめた。
「キヴォトスでは貴重品だ。お前たちの経営顧問は吸わなかったな」右手で軽く操ると、吸い口をアルの方へ向ける。「アウトローらしく、一回やるか?」
「……遠慮するわ」
アスは煙草を咥え直すと、背を向けて少し離れた。狙撃銃は再び背の真ん中をはっきり狙える。
「銃を下ろせ。そんな武器に名誉はない」
「私たちはあなたをとっ捕まえるために来たのよ。今までの借りを返させてもらう」
ちょっと沈黙。アスは灰が指に来るくらい短くなるまで吸うと、コートのポケットから黒い携帯灰皿を出して煙草を捨てた。最後に大きなため息と共に煙をくゆらせると、腰に差した回転式拳銃をようやく真上に引き抜いた。グリップではなく、樽型の弾倉を鷲掴みにして取り出す。あれでは得意の早撃ちはできない。
撃つために握り直すわけでもなく、アスは醜い鉄片に目をやっていた。あの目はなんだ?長年連れ添った相棒と一生の決別をする決意をした目か。懐かしさや郷愁──もしかしたら友情すら感じているかもしれない。これまでの戦場でこの銃で倒した相手の数を思い出しているのだろうか。キヴォトス人にとって体の一部とも呼べる銃に?
「私もこれとは今日でおさらばだ」
いきなりアルの顔面に向けて拳銃が投げられた。思わず首をすくめると、額に重い石をぶつけられたような衝撃で少し押された。驚いて目をつむってしまったことを後悔するのに一秒弱。しまった!危険信号がアルの足元から脳天まで駆け上った時、アスは狙撃銃をひったくると銃身をアルの鳩尾に向けて槍のように突き出した。息が詰まる。咳き込んだところに額を蹴られた。空を見上げると、後ろへ倒れ込む。視界がぶれる。軽い脳震盪が起こると、手足が自分のものでなくなったように満足に動かせなかった。
カヨコとムツキの間を抜けて飛び掛かったハルカは右手をすでに引き金にかけていた。だが引くより早く奪われた狙撃銃の銃床が散弾銃の銃身を叩き落とすと、発射した弾は地面を抉るだけだった。砂が勢いよく飛び散ると、薬室から大ぶりの弾薬が飛び出す。ハルカがすぐに持ち直そうとすると、アスの右手がショットガンのグリップを掴んでハルカの両手からあっさりと引き抜いた。アスは片手で持つと、目の高さまで散弾銃を構えたりはしなかった。銃身と狙いを即座に同調させると、すぐに指を引き抜く。手が届きそうな間合いで銃口から赤い火がきらめくと、ハルカはがくんとのけぞった。
「ハルカちゃん!」ムツキに慌てて支えられると、ハルカはなんとか踏みとどまった。
カヨコは倒れ込んだアルの壁になるように姿勢を低くして、アスを狙ったが撃てなかった。すでに弾を装填し直したアスは、両手で狙撃銃と散弾銃を構えてカヨコとムツキに向けていたのだ。膠着状態の間にアスは後ろに三歩下がって距離を置く。
「冗談だろアル!私を捕まえるなんて馬鹿も休み休み言うんだな」
妙だ。カヨコは以前にアスの事を、直接対峙したアルやムツキから聞いた。話に聞いた彼女とまるで違う。力はあっても近接戦闘術に長けた人物ではないはずだ。
「いつの間にそんな力をつけたの」カヨコは目の前の人物に問いかけた。
「長年の研究が実を結んだのさ」
「研究?」
「神秘について少しばかりな」
カヨコは面食らった。初耳だ。いや、ひょっとしたらこちらを動揺させる作戦かもしれない。
「アス……大人しく私たちに捕まりなさい」アルはようやく起き上がった。まだ頭が揺れる感覚が残っているようで、カヨコの肩を借りて上体を起こす。
「こちらに得はなさそうだな。久々に顔が見られて嬉しかったよ」
アスは言葉を切った。カヨコが何とか足止めできないかと頭を回しているうちに、アスの構えた二つの銃口が少し下を向いた。
けたたましい発砲音が重なって響いた。目の前に砂埃が覆いかぶさる。アルは手を顔の前にやって、目に埃が入るのを防いだ。たちまち黄砂が視野を隠した。
それでもわずかな陽光が、走り去る人影を透過して見えやすくする。アルはふらつきながら立ち上がると、逃げ去る影に向かって走り出した。
靴に何かがぶつかる。アスに奪われた自分の銃だった。ハルカの散弾銃も投げ捨ててある。腰をかがめて拾い上げると、まだ濃い砂埃の幕の中に飛び込んだ。
人影の背中を目で追うと、耳にヘリコプターたちの唸りが響いてくる。地面は小刻みに揺れていた。ここからが肝心だぞ!鉄鋼虫の羽音は複数に分裂して、世にも恐ろしい群れを成している。かつて雪山で相対した化物ヘリコプターが脳裏を過ぎる。アスはヘリコプターに乗り込んで脱出すると分かっていた。この五人で何機を相手取ることができる?
舗装された黒いアスファルトに出ると、心臓が早鐘のように打っていた。ヘリコプターの一団は、アルたちが想像していた以上だった。どのヘリコプターもカイザーPMCのロゴがあしらわれて、機体は漆黒に塗りつぶされて光っている。すでに主翼が重苦しい音を立てて空転を始めていて、その機体下部に繋がれた頑丈な繋留索が広大なヘリポートの中心へ伸びている。いくつものヘリコプターから交差した蜘蛛の巣の真ん中に黒焦げた隕石が鎮座していた。ゲヘナ学園の一般的な教室よりも大きく、黒いしわだらけの表面には人工物であることを示すように操作盤が張り付いており、安全装置と書かれた手のひらの大きさのハンドルは”オン”にかかっている。
五人の時間が静止した。さらなる混乱が全員の頭を搔き乱す。圧倒的な死の輝き、身を抱き寄せ合った感触、断末魔。記憶が怒涛の荒波のように押し寄せてきた。
何もかも見たままの状態だったカヨコは舌打ちをした。殺人ロケット、ネオ・チャレンジャー号に搭載されていたDA弾頭だ。彼女はあの時、この世にも恐ろしい兵器は爆発の熱で溶けてしまうだろうと考えていた。だが予想は大きく外れた。激しい炎と衝撃でも、このダークマターを形にしたような死神は殺せなかったのだ。
砂利を飛ばす突風が吹き暴れ回り、ヘリコプターの一団は頭をガクンと揺らすと浮き上がった。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた繋留索のたるみが消えて針のようにピンと張ると、積もった砂を落としながら弾頭が引き上げられる。グラウンドゼロに眠る亡霊が呼び覚まされたような悪寒が全員に走った。しかしもう遅い。
アルは繋留索の一本を断ち切ろうと発砲したが、機関車のように巨大な兵器を吊る紐には効果が薄いだけでなく狙いもつけづらかった。適当な一機を全員で滅多撃ちにするが、何食わぬ顔でぐんぐん上昇していく。さては、あの化け物ヘリを量産したんだな!
ついに手の出せない高さまで浮上すると、先頭の機体側面からアスが顔を出した。
「選択を誤ったな。次の人生では同じ運命を辿らないよう祈ってるよ」
続く高笑いは群れの翼に細切れにされて、便利屋の耳に届いた。五人は持っている弾がほとんど尽きるまで撃ったが、とうとうアルは見上げたまま銃を下ろしてしまった。銃声の嵐が止むと、群れは悠々と日の光を浴びながらサイトを大きく越えて南へ向く。飛び去ったヘリコプターが羽虫ほどに小さくなって薄ら消えると、ムツキは何とも言わぬ声をあげた。
「ちくしょう!もう少しであいつを取っ捕まえられたのになあ!しかも私たちが追っている事までバレたとなれば、楽だったのは今日だけで今後は一層厳しくなるだろうね。とにかくサイトからはお暇した方が良さそうだよ」ムツキが話すと、カヨコも頷いた。逃がした魚は大きいが、それでもいくらかのヒントは掴めたはずだと言いたそうだった。
ハルカとゲッコウは神妙な面持ちでアルを後ろから見守っている。敵の影を見送るアルの背中には苛立ちと悔しさが渦巻いていた。突然両頬を手で叩く。アルが編み出した気合を入れ直す方法だ。くじけそうな時は痛みで鞭打って、精神を奮い立たせるしかなかった。
侵入者を知らせるサイレンの音が強まると、出し抜けに焦り交じりの指示が響く。
「総員に告ぐ。レーダーが所属不明機を捉えた。二機、尋常でない速さでこちらに向かってくる。攻撃機だ!」
憤懣やるかたない思いが渦巻いたのはアルだけではなかった。マスク越しの空気はすっかり濁って吸えたものではない。質の悪い空気まで、便利屋をこのサイトから追い出そうとしていた。
攻撃機による大胆な大掃除がもうすぐ始まる。カヨコは幌のないジープが並んでいる駐車場に目をやった。一人くらい鍵を取り忘れる不用心な奴がいれば!拙い希望でもやるしかなかった。歩きでは到底間に合わない。
ジープにかけよると五人で手分けして鍵が差してある車両を探し出した。車の数はせいぜい二十台くらいだろう。ハンドル横の差込口には鍵を差し込むくぼみがあるが鍵はない。次は?これも駄目だ。確認できてない車の数が減るにつれて焦燥感が募っていく。ふと車内に目をやっているカヨコの視野の上を人影が通り過ぎた。カヨコはひょいと頭を上げて、車体の縁に手を置いたままの姿勢でうかがった。ぎょっとした。自分が何を見ているか理解するのに数秒要した。武器を構えるわけでもなく彼女の目は、怪訝そうに鋭くなった。
影の主は、車両に頭を突っ込んで確認するアルの横に立つ色白の少女だった。こちらも防具を身に着けてない。アスも大概だが、こちらはもっと悪環境とのずれがひどい。少女は白衣に膝ほどのスカートを着ている。内側の黒シャツが襟元から見える。しかし一番目を引いたのは、背中から控えめに生えた純白の翼だった。ゲヘナではまず見ることはないだろう。おそらくトリニティにルーツを持つ少女だ。肩にかかる髪までほとんど白が基調な分、紅い両目が差し色として目立つ。
毒霧の黄色い景色、オイルの臭いが漂う駐車場、純白に身を包む生徒──カヨコはこの光景に似た絵画を昔見た気がしたが、いつ誰の作品でどこで見たかが思い出せなかった。
ところで彼女は一体何をしているんだ?カヨコは辺りを見回した。黄色い靄のかかったヘリ発着場には、自分たち以外に人影は一つもない。彼女は一人で来たらしい。
「ここもないわね。カヨコ、そっちは──」言いながら顔を上げたアルと少女の目があった。
沈黙。情報処理が終わると、アルは目の前の少女が仲間ではない事をようやく飲み込んだ。上げかけて行き先をなくした右手をふらふらさせて、口を少しぱくぱくさせてからアルはようやく言葉を捻り出した。
「……会うの初めてよね」
少女はちょっと小首をかしげた。今の言葉の真意を探ろうとしたのだろうか。それからためらいがちに手を白衣のポケットにやると一本の鍵を取ってアルに差し出した。アルは無言のやり取りの意図を汲むと、すぐに鍵を受け取って手近な車両に差し込んだ。どうやらぴったりだったらしい。急いでドアを開けると、ブレーキを踏んでエンジンをスタートさせる。ヘッドライトが点灯して、気力を奮い建てる唸りはやがて小刻みな振動となった。
あとはカヨコの役目だった。五人がジープに急いで乗り込むと、カヨコは運転席に収まった。少女が乗り込まないので手を差し伸べる。だが一歩下がると、生真面目な顔でカヨコを見つめた。
「早く逃げて。あなた達はヘリ発着場に残った私から鍵を見つけた。その鍵でジープを奪って逃げた」
弁解めいた口調で必要な事だけ口にすると、きっと顎に力をいれる。それからこちらが問いかけるより先に、少女は背を向けて走り出した。少女の背はすぐにぼんやりと霧に飲み込まれる。
アルが隣で驚くと、身を乗り出そうとしたところで手を止めた。「待って!」そう言いたかったのだろうが、言葉は喉元まで出かかって止まった。遠くからロボット兵特有のスピーカーを通した声が聞こえる。
「奴らはどこに行った!」
「鍵を奪われたの。ジープで逃げるわ。早く追って、早く!」
それ以上は聞かなかった。カヨコは慣れた手つきでギヤを操作してアクセルを踏み切る。走り出してすぐに後ろから銃弾が飛んできて、四人はそれにひたすら応戦し続ける。晴れてきたとはいえ視界の悪い中を、カヨコは方向感覚だけを頼りにして正門に向けて車を走らせた。
よく響くサイレンの電子音が一層増して、遮るもののない平原に木霊する。残された時間はわずかだ。
カヨコはそれまでの攻撃をかわしつつ出口を目指す運転をやめると、覚悟を決めてハンドルを正面に向ける。危険な運転だが、目指す出口は迷いなく見えていた。しかし敵にもアルたちの姿は見えており、危うく蜂の巣にされかねないといった状況だった。エンジンが悲鳴をあげて最後の一走りを始めると、こちらに気づいた守衛が操作をしたらしく、自動で動く金網のゲートが閉まり始めた。前を狙うよう叫ぶと、ムツキの機関銃が前方の敵を弾き飛ばす。
あと百メートル。アルの長い首のライフルが閉じかかった口の肩顎を狙い撃つと、爆発で片方の金網が大きく外れた。アルがこの素晴らしいアシストに自惚れている間に、車はほとんど速度を落とさずサイトの最重要区画から抜け出した。外はまばらにいるロボット兵たちが上空から迫る敵と地上の侵入者への対応でてんやわんやしていた。
「お先に失礼するよ」空に気を取られていたロボット兵の横を殺人的な速度で走り抜けると、一秒遅れてロボット兵はぶつかられたように跳び上がって驚いていた。
視界が透き通り始めると、毒霧地帯を抜けたことが分かった。乱暴にマスクを外すと、自然のきれいな空気が汗ばんだ頬に当たって冷たかった。
「来たよ!」
後部座席の真ん中にちょこんと収まって後ろを警戒していたゲッコウが叫んだ。アルが振り返ると、地平線に近い青空に黒い影が二機並んで見える。やがて少し影が大きくなると、日を反射した光が空に白十字を作って、それから灰色の猛禽類のような姿が露になる。
「もっととばして!早く!」
カヨコがこの無理な注文を受けて数秒後に、とんでもない欠陥品の掃除機のような音が一瞬で頭上を過ぎると、カヨコにも過ぎてゆく機体の尻が見えた。アスは私たちを徹底的にいじめたいらしかった。過ぎ去る姿は一瞬だったが、これも三ヶ月前に危うくカヨコたちを海の藻屑にしかけたものだと分かった。フライングライドロンというおかしな名前だったが、装備は非常に凶悪なものが揃っていた。アクティブ・ホーミング・ミサイルにバルカン砲、無誘導ミサイルなどを満載した武器庫のようなやつだ。しかもそれが二機!だがカヨコの走馬灯のような思考はここまでだった。あまりの衝撃の波で、見渡す限りの世界全体が震えて見えたからだ。先ほどまで居たキャンプサイトが奥からこちらへ波打っているように見えた。やがて一番奥から巨大なオレンジ色の炎が吹き上がると、今度は一つ手前から、そして毒霧を焼却処理するように火の塊が地面を次々と抉る。激しい熱風が届いて、車はまともに地面を蹴ることもできなくなった。
いったいどういう事なんだ?アルには分からなかったし、それを考える暇もなかった。眼前を覆い尽くして迫る焔の大波が全てだったし、炎に巻き上げられた車から放り出された五人は、次第に地面へ落ちていく。
宿敵の顔が浮かんだ。それから鍵を渡して消えた少女。やがて親しい人たちの顔が走馬灯のように過ぎていった。ムツキ、カヨコ、ハルカ、ゲッコウ、先生……。そんな中にゲンゲツが立っていた。ひどく頭を抱えている。大目玉を食らうのが便利屋だけで済むはずがなかった。
足元に揺れる火の海が、手をこまねくように待っている。アルは頭に激しい熱を受けたまま、手足でもがくこともなく火の海へ吸い込まれていった。オレンジ色と黒がマーブル状に入り混じったような世界へ、仲間と宿敵とこの先の憂うべき運命が溶け合い混ざり合ったまま、燃える世界へ。