けれどそれは穏やかなものではない。
罪を背負う懊悩は、その人だけのものだから。
HF後の桜、その生活のワンシーンの小説。
買い物帰りの足を止めて、空を見上げる。青を広げた空にはすこしばかりの雲が乗っていた。その縁を、住宅から伸びた枯れ木が彩った。もうこんな季節になったのか、と白い息を吐いてまた足を進める。
冬木新都からの帰り、深山町の長い坂を上る。重くなった買い物かばんを背負い直し、足元に影を引き連れて家路を急ぐ。
時間はぎりぎりだ。急いで帰れば夕食の支度も間に合う。早く帰って、早く先輩たちのご飯を準備しないと。頭の中で今日のメニューを考え、喜んでもらう姿を思うと急ぐ足が軽くなった。頬がほんのりと赤く、笑みを浮かべている。
坂を上り切るその時、交差点に人影がうずくまっているのに気づいた。荷物を落としたみたいで、果物や食品がそこら中に転がっていた。
「大丈夫ですか」
私は急いでいたことも忘れ、さっと駆け寄った。鞄をおいて、落ちている荷物を一つ一つ拾い上げる。困っていただろう本人も「ありがとう」と頭を下げてきたので、私は「いえいえ」と落ちたものを片付けていく。
「本当にありがとうねえ。助かったわ」
ゆっくりと起き上がった女性は年のころは四、五十代だろうか。後ろ手に結っただけの髪は白髪が混じり、穏やかな目元の皺を深くして微笑んでいた。
「あなたはやさしい子なのね」
「そんな、当然のことをしたまでです」
手を差し出すと女性はそれをとって立ち上がる。
「ほんとうに、ほんとうにやさしいのね」
「いえ……」
なにか、ざらりと胸の裏側から撫でるようにして、感謝の言葉が突き刺さる。
「ほんとうに」
女性は手を放そうとしない。振りほどけない。いや、私の腕が、凍りついているのだ。
そっと背筋が違和感を巡り、息を呑んだ。
「やさしい」
女性が顔を上げる。優し気な笑みを浮かべたまま、けれどその笑みはまるで紙に鉛筆で描いたような笑みだった。
「じゃあ、なんで」
ああ、とようやくここに至って私は状況を理解した。認知した。
これは、夢なんだ。
けれど体は動かない。ぴったりと張り付いたよう凍ってしまっている。
このあとの展開は分かっている。動かない四肢のなかで、私は迫りくる恐怖を受け入れるしかない。いつまでも、慣れることのないその感情を。
描いたような笑顔のまま、女性は告げる。
「私の息子を殺したの」
私の影が、女性に伸びたのはそのときだった。
体が跳ね起きる。なにが起こったのかわからないまま、胸が早鐘を打つ。肺が激しく呼吸をし、それだけに体中のすべてが奪われて、部屋の暗闇すら恐ろしく感じてしまう。汗に濡れた背中に寝間着が張り付いて、気持ち悪い。
心臓の暴れるままに何とか息を繋ぐ。数呼吸もすると正常をとり戻し始め、思考に余裕が生まれた。
心臓も体も、身の置かれた状況が少しずつ分かり始めた。辺りを見渡す。ここは自分の部屋で、今はベッドの上で、月光が自分を照らし出していた。その影が自分の手にかかる。
「――あ」
生まれた空白が、埋められていく。
影に。笑みに。罪に。
「あ、あ」
心臓も、肺も、体の熱が途端に冷え切って、奥深くの穴から溢れる泥に溺れる。
「あ、ああ、ああ」
自分で自分を抱きしめる。けれど、抱きしめる体が本当にあるのかすら怪しい。分からない。すべての輪郭があやふやで、この感覚を信じることができない。揺れ始めた輪郭が、体の機能をマヒさせていく。呼吸もままならない。浅い息のようなものだけをかろうじて吐きだす。吐き出された空気を、迎え入れるやり方が、分からない。
分からないままでいたい。
呼吸をすることすら、浅ましい。
そう、あの笑みが私を見ている。
きいん、と耳鳴りがする。遠くで「桜!」と誰かが叫んでいる。汚濁のような空気が、空気のような何かが、鉄の重さで体中にのしかかっている。
指先が腕に突き立てた感覚があるはずなのに感じない。震える唇を噛み締めた。
「桜!大丈夫ですか!」
声がする。温かな何かが背中に当たっている。何かが覗きこんでいる。触れているのも、覗きこまれているのも私のはずなのに、私じゃないみたい。
痺れ落ちる感覚の中で、真っ白な唇から言葉が漏れた。
「せ」飲み込む。
ダメ、と私は私に言った。
私の罪なんだ。私が背負わなきゃいけない。
助けてほしいなんて、思っちゃダメ。
私にそんな資格なんてない。
いっそう強く、唇を強く噛んだ。けれど血だけは流さない。その力加減だけはなんとかできた。
視界が歪んだ。それは零したくない涙があふれたからだった。
嗚咽もなく涙が流れる。
「桜……聞こえて、いますか」
月明かりの中、桜がこたえるまでライダーは、ただそこにいた。
あの冬から、もう少しで一年が経とうとしていた。
「久しぶりね、ライダー」
雪の降る気配を感じ始めた12月の下旬、遠坂凜は衛宮邸に赴いた。正面の門を開けたライダーはその変わらない雰囲気に頬を緩めた。凜のライダーへの警戒と感謝をない交ぜにした煮え切らない視線が心地よい。
凜は長旅の疲れを感じさせない振る舞いで門を抜ける。赤いコートにスラックスのラフな姿だ。
「お久しぶりです、凜。また少し背が伸びましたか」
「そうかしら。確かに、最近スラックスの裾を直したのよね」
これまでの快活なツインテールは降ろした。それだけの長髪でとたん落ち着いて大人びた雰囲気に変わっていた。それはロンドンでの生活故か、それとも……。
挨拶もそこそこに凜は正門を抜けて勝手知ったるように玄関に向かう。赤いコートを脱ぐと、まわりを見渡した。
「ここも、全然変わらないわね」
「ええ。桜と大河が管理していますから」
「実質桜だけじゃない、それって」
苦笑しながら、ごもっともとライダーも釣られた。「私も手伝っています」
そう、と頷く。庭は落ち葉ひとつなく、窓には指紋ひとつない。軒先には何かを刈り終えたようなプランターが数個並んでいる。一見しただけでも屋敷は丁寧に守られていた。それが逆に凜にとっては不安だった。その美しさが強迫的にすら感じられてしまう。
「……ライダー、桜の様子は」
ようやく、といったふうに凜は切り出した。かちゃりと眼鏡を上げるライダーの顔は静かになる。
「それを知っても、あなたはまたここを離れてしまうのですよね」
「そうよ」
皮膚をつねるようにライダーが視線をやるが、凜は涼しげだった。彼女もまた先ほどの温かな表情を潜ませている。そんな凜の姿に、この人も変わりませんねと独り言ちた。
「やらなきゃいけないからね」
遠坂の魔術師として、冬木のセカンドオーナーとしてこの一年、凜は文字通りの方々に出向いては話を片付け、探し物をしていた。桜やライダーがここである種の平穏を享受できているのは、凜が表立って動いてくれているおかげなのだ。
そんなことはライダーも承知している。目を細めながら、この姉の毅然とした姿に口を閉ざした。
「で、桜は元気かしら」
「……夏ごろにくらべれば、だいぶ」
「そう。ならよかったわ」
よかった、の言葉にライダーは思わず瞳を開いてしまった。反射的な行動であった。
殺気となった視線は間違いなく凜に突き刺さったはず。けれど凜は知らんぷりに続けた。
「もしかしたら一緒に行くかもしれないから。それぐらい元気なら、いいわ」
「……」
努めて事務的な物言いに、凜という人間を思い出しながら眼鏡をかけ直す。この人は、こういうところがあるのだ。
もう少し可愛げがあったほうがいいのに、と思いながらも姉妹の離れていた時間と重責を考えると、致し方ないのかもしれない。
「失礼しました」
「あら何のことかしら」
「いえ。恐らくは旅行には耐えられるでしょう」
がらりと玄関を開けた。
「あとは桜から聞いてください。私は仕事に行きますので」
「ありがとう、ライダー」
彼女なりの気づかいだと凜も理解していた。敷居をまたぎ、懐かしい衛宮の家の香りを胸に吸った。
「……本当に、ありがとう」
「大丈夫ですよ、凜」
本当に不器用な姉妹だとライダーは笑ってしまう。凜が背中を向けていてよかった。
「では、姉妹水入らずで」
凜を迎えた桜はすぐに居間へ通し、向かい合って座った。桜は薄化粧に柔らかなピンクのチークを目元に入れている。化粧ができるくらいには元気らしい。
濃厚な数週間の記憶が蘇るその居間には、賑やかだった面影は驚くほどにない。桜がお茶を入れる音がうるさいくらいだ。
その静けさに耐えきれず、凜は口を開いた。
「藤村先生はお元気かしら」
「はい。姉さんが帰ってくるのを聞いたら『あ~、私用事思い出したから~』って言ってましたよ」
「あら残念ね。よろしく伝えてくれる」
茶葉を入れたポットを盆にのせて、いつもの白いワンピースと髪にリボンを付けた桜はキッチンから戻ってきた。ガラスのポットは彼でも藤村先生でもない可愛らしいセンスで、桜が置いているものだろう。香る紅茶の匂いにハーブが混じっている。ふと、庭先に見慣れないプランターがあったのを思い出した。
よくよく見れば、茶葉以外の欠片がポットの中で踊っている。
「ハーブでも始めたの、桜」
「はい。手慰みに。今年はもう全部刈り取っちゃいましたけど、また暖かくなったら植えようかなって」
「ふうん、いいじゃない」
そのまま桜の煎れたお茶をすする。紅茶の重く高貴な味わいを、ミントとレモングラスが華やかにしている。軽い飲み口で、熱くなければ飲み干してしまっていただろう。
「姉さんは元気でしたか」
「いやもう、ロンドンは大変よ」
正座だった足を凜は崩す。桜は居住まいをそのままに耳を傾ける。
夏には冬木を出て行って、もう半年近くが経つ。この邸宅を守る桜にとってみれば凜の土産話は刺激に満ちたものだった。魔術師の総本山である『時計塔』のこと。その目をこっそり掻い潜り、方々で二人の目的のことを調べていること。異邦の文化だったり新しくできた友達(凜はけして友人とは言わなかったが)のこと。桜にしか話せないことを凜はとうとうと語り、桜は笑みと驚きと呆れを浮かべながら聞いていた。
語りながら、そんな桜の姿に凜は口元を緩めた。
「ねえ桜、最近の調子はどう?」
そう訊ねると、桜はやや眉を下げた。
「どう、といっても。変わりありませんよ。元気にやってます」
「ふうん。体調の変化とかもないの」
「ありませんけど。どうしてです」
小首を傾げる桜。その様子からは少なくとも大病や大変な病状などはないようだ。
「ちょっと色々調べていたら、ヒントになりそうなものがあったの」
「……先輩の件ですね」
「そうよ。『人形』を作れる魔術師を探しているんだけど、この人に繋がりそうな場所があるのよ。ちょっと桜とも一緒に行きたくてね」
「私、ですか」
急な申し出に桜は戸惑った。だが凜は有無を言わさぬふうに続ける。
「そう。だってこれは私たちの問題だから。桜にも一緒に来てほしいの」
「……分かりました」
頷いたけれど、顔には不安がこぼれるほどに満ちていた。桜はこの冬木からほとんど出たことがない。不安になるなと言う方が無理だろう。
それでも断らなかったのは、そうする必要があるのを分かっているからだ。その義理堅さをついてしまったことに、さすがの凜も少し申し訳なさを抱いた。
「固くならないで。段取りは私が組むから。桜には付いてきてほしいだけ。ちょっとした、海外旅行だと思って」
「……はい」
あちゃ、と凜は内心で苦虫をつぶした。強引すぎたかな、と反省する。でもこれは必要なことだし、仕方ない。仕方ないので話題を変える。
「また細かいことは連絡するから。それはそれとして、あいつはどこ?」
「あいつ……あ、今は土蔵にいます」
「あそこか。あいつらしいわ」
凜はぐいと紅茶を飲み干すと、そのまま立ち上がった。
「姉さん?」
「ん、挨拶に行こうかなって」
あいつ、というのは衛宮士郎の魂である。
冬木の聖杯を巡る騒動の中で、彼は肉体を失った。だが、如何なる秘術によってか、彼は魔法によって命を繋いだ。
魂の物質化。第三魔法、天の盃。
カビの匂いと底冷えする寒さ、散らばったままのガラクタたちの中に小さなテーブルと布を被せられた鳥かごがある。この鳥かごの中で、魂となった衛宮士郎は眠りについている。
彼の復活。受肉させるべき肉体を探すこと。これが二人の悲願であった。
「先輩は土蔵で長い時間を過ごしたみたいで、ここが一番安定するみたいです」
「そうね。ライダーが結界を敷き直してくれてるみたいだから大丈夫そう。暇なときに私もちょっと点検しておくわ」
いまだに信じがたいけれど、それでもこの鳥かごを前にするとどこか懐かしい心地が蘇る。ついで、「さっさと出てきなさいよ」というイライラが湧いてくるくらいには、遠坂凜は平常心であった。
ふと隣の桜を見やる。口を真一文字にしめ、ただでさえ白い肌がより一層白く見ていた。その瞳は、目の前の鳥かごを見ながら、どこか遠くを眺め、けれど、どこにも定まっていない。凜の存在すら、今の桜には見えていないようだ。細い首すじが、飴細工のように透き通っている。
いたたまれなくなり、視線をあいつに戻す。二人の間に静謐な沈黙が流れた。
「……ねえ、桜。本当に大丈夫?」
ようやく、凜の言葉が心から溢れた。柔らかな音に桜は振り向く。
「え、大丈夫ですけど」
「眠れてる?」
たったそれだけの質問なのに、桜は答えに窮した。彼女のことを見ていないけれど、どんな表情か手に取るようにわかる。
「たまに眠れない日もあります。でも、体調は本当にいいですよ。海外だって行けるはずです」
「……そう」
嘘はなさそうだ。凜の視線は目の前の男に注がれている。気付けば凜は拳を握りこんでいた。
「さて、そろそろ私は行こうかしら」
勢いよく、振り切るようにくるりと回って凜は土蔵を出た。そのあとを桜があわてて追いかける。
「どこにですか」
「自宅よ。もう半年も放ってあるんだから、様子を見なきゃいけないじゃない」
「ああ、そうですよね」
「じゃあ、夕方くらいには戻ってくるから」
「夕食は一緒にできますか」
桜の声に喜色が混じる。
「ううん。泊まるわ」
「え?」
「ここに泊まるの」
振り返る凜は、相も変わらずの強引さで不敵に笑いながら宣言した。
「姉妹二人、一緒に寝泊まりするのもいいじゃない」
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