けれどこの絶望は、私しか抱けない。
誰の言葉もこの心には届かない。ただ、光差すだけ。
HF後の桜、その生活のワンシーンの小説。
体中を蹂躙する感覚。
何かが、私の体を喰らう汚辱。
蟲たちが私の全てを犯す凌辱は、もう何度も繰り返されてきた。文字通りの這い蝕む嫌悪はいつまでたっても慣れることはない。心を閉ざし感覚を封じてモノになる。人形(ヒトガタ)になる。蟲たちに貪られる贄になる。
内臓が裏返る嫌悪感に、ああ、これは夢だなと理解した。
理解はしたけれど、目は覚めない。
覚めて。早く。
私に、この先を見せないで。
けれど悪夢は続く。何百時間という凌辱を一瞬に封じ込め、汚泥が臓腑に、骨格に、指先にまで染み渡る。
なすすべなく、目を見開かされ、私の恥を見せつけられる。
それは蟲に犯されることとはまた違う悪夢だ。
なんどもなんども忘れようとした記憶を、再び見せつけられる。
そして場面が変わる。
どこかわからない。ただ、蟲たちの気配は消え、体には名残があっても嫌悪は少しずつ引いていった。
両手をゆっくり持ち上げると、黒い液体で濡れていた。てらてらと粘度のある液体はまるで血のようだ。なんなのか、分からなかった。
辺りを見渡す。ここはどこかの路地だった。薄暗い暗闇で、室外機がからからと鳴っている。どこかへネズミか何かが走っていった。私の視線はさらに先の、奥まった路地に伸びた。そこはまるで舞台のように光がスポットライトが当たっている。
影が浮かんでいる。
おかしい。光が当たれば影は消えるのに。
その影は影法師だった。誰かが立ち竦み、逃げ出そうとし、怯え震える姿を写し取った影法師。
肉体は、もうない。
私が、食べたのだから。
胃袋が鳴いた。おなかがすいた、と。
ああ食べなきゃ。
行っちゃダメ、と叫ぶ。声は出ない。体は勝手に動いていく。
また一つ奥の路地、照らされた街頭にマネキンたちが立っていた。デパートの一角のように思い思いの姿勢で立っている。その質感は求肥のように白くもちもちとしてやわらかそうだ。
ああ、なんと柔らかそうな。そう思うと意思に反して唾が溢れてきた。
ダメ、と思っても止まらない。
影が伸びた。
マネキンに伸びた。
そのまま包んだ。
音もなく、直立のマネキンたちは真っ黒な影に飲み込まれると、悲鳴をあげるように手を突き上げ、苦悶に足を走らせた。それぞれが勝手に、逃げようとし、怯えて丸まり、呆然と突っ立っていた。
黒い影が、ぱっと消える。
後に残ったのは、影だけだった。人のような、影だけだった。
ああ、と天を仰いだ。
赤い空に穿ったような大穴の太陽が昇っていた。
どろどろと泥を零しながら。
見渡せば人影が無数に立っている。ただ人の形をしたそれらが、表情も分からないのに私を見ていることは分かった。その視線の一つ一つが、私を貫いている。
息を忘れる。
忘れたい。
なぜ、私は息をしているの。
体が跳ね起きる。なにが起こったのかはわかる。胸が早鐘を打って、忘れていたように肺が激しく呼吸する。部屋の暗闇の中で浮かぶ影が、あの影を思い起こさせる。汗に濡れた背中に寝間着が張り付いていて、気持ち悪い。
今回は数度の呼吸で落ち着きを取り戻した。汗で顔に張り付いた髪をかき上げる。頭皮もじんわりと濡れ、冷たい。
その手を広げる。白い、白い手が月光に浮かぶ。
「……」
大きなため息が漏れて、眠気もすべて吹き飛ばした。
きんと静かな部屋は自分の鼓動がうるさい。
もう少し呼吸を整えた。今日はすぐに平常心に戻れた。
このままでは眠れないから寝間着を変えようと身じろいだ時、そこにいる気配にようやく気付いた。
「……姉さん」
部屋の扉を開けて遠坂凜が柱にもたれてながら立っていた。鋭い目を細めて、小さな唇を真一文字に結んでいる。桜は思わず俯いた。
「やっぱり、ね」
「……」
無言で返す桜に凜は近づいて隣に座った。
「やっぱり眠れてないじゃない」
「でも、それだけです。体調は本当にいいんです」
「そうなの」
覗き込む。はい、と桜が答える。彼女の目は嘘はついていないようだ。
「ならいいけど。あの時は大変だったからね」
「……はい」
聖杯戦争の一件が終わったあと、様々な後処理があった。だが、桜の身体も限界を来していた。聖杯との接続による魔術の行使の代償。その揺り戻しは倦怠感や魔術回路の異常励起となって襲ってきた。さいわい、これらの症状はひと月もするうちに回復した。
だが、それだけではない。
なによりも聖杯戦争の傷跡が桜を蝕んでいた。
その傷によって桜は夜も眠れず、悪夢にさいなまれ続けた。食事はまともに喉を通らず粥を口にできたのはひと月は経った頃だった。無理をして笑みを浮かべては、時に半狂乱となって叫び、またある時は自分を責め立てながら泣き続けた。それを支えたのがライダーと凜であった。二人の献身的な介護で、夏のころには落ち着きを取り戻し、何とか日常生活を送ることはできるようになった。
「でもまだ夢は見るのね」
「はい」
「毎日なの」
「いえ、そこまででは」
伏し目がちに応えるけれど、この様子だとほぼ毎日見ているのだろう。化粧の隅けしが妙に濃かったのはこのためか。化粧のない薄明りの中で、桜の目元は暗い。
静かに沈黙が降りた。耳をつんざくような沈黙ではなく、柔らかな真綿のような暗闇だった。二人は触れそうな距離の中で、言葉を探す。
「……姉さん」
絹を切り裂いたような、か細い声で桜は呟いた。凜はそちらを向くと、彼女の後姿が見える。川のような豊かな髪が、白い寝間着に流れている。その背中が、とても小さく見えた。
「姉さん、こんなこと言っちゃいけないのは分かっています」
ためらいがちに桜は言う。肩に力が入って少しだけ膨れた。
「……つらい、です」
静かな、聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。言葉は水銀のように暗闇に溶け、シーツを弛ませた。凜がシーツを握ったからだ。
「分かっています。こんなことを言うのはいけないって。でも、つらいんです。生きていたく、ないんです」
桜を責めるのは、彼女の罪であり彼女自身だった。
聖杯戦争で桜は数えきれない人間を殺した。あと形もなく、肉の一片もない。そのため現実では行方不明と処理され、彼女の行いを責め得るものは誰もいなかった。
が、間違いなく彼女が殺し、その肉を喰らったのだ。
汚辱は耐えられる。自分だけの恥だから。けれど、この罪はあまりにも重すぎた。この贖いはあまりにも暗すぎた。
私の罪は、誰にも裁くことができないのだから。
「死んでしまいたい、です」
凜は自分の身を震わせる。腹の奥が鉛のように苦しい。桜の言葉に呼応して、言葉が水泡のように湧いた。けれどその全ては弾けて、喉で詰まってしまう。唇だけが言葉だったものを形作った。
桜もまた、己を抱き、絞めた。爪を突き立てるように強く肩を抱いた。震えた肩に、髪がはらりと落ちる。その姿を見て、凜は手を伸ばす。
「分かってるんです。分かっているんです。そんなことをしても自己満足だってことも。背負って、生きなきゃいけないのも。こんなことを言う資格だって、ないんだって」
「桜……」
「でも!」
血のにじんだ叫びが部屋にこだました。
「私は、死ぬべきなんです……でも、それも怖い……」
凜の手が、そっと彼女の背中に触れた。生糸のような髪と背中越しの熱と一緒に震える嗚咽が伝わってきた。
「姉さんといたい。ライダーといたい。先輩に、会いたい。会いたいよう」
桜には、その涙を流すことすら罪なのだ。生きて、食べて、呼吸をして、笑って、悲しむこと。桜の生きる全てが罪で、贖いなのだ。その命は罪であり、贖罪であった。彼女の命は、なかった。
誰もがその罪を裁けない。桜だけが背負わなければいけない。
その手を桜の手に回し、凜は抱き寄せた。自分の胸に熱く震える妹の頭を抱いた。寝間着に妹の涙がこぼれて濡れる。
もしも桜の対場なら、私はきっと罪を背負うだろう。遠坂の人間として、魔術師として、その倫理と矜持を持って生きてきたのだから。だから、そうでない人間にはきっと酷なことだろう。
――ほんとうに?
もしも、ボタンをかけ間違えていた、私たちは入れ替わっていた。
汚辱と罪科を抱え、苦しみに嗚咽するのは私だったのかもしれない。
そのときも同じように思えるだろうか。
そう考えたとたん、凜は桜を強く抱きしめていた。いっそう、桜の涙が流れ、声を殺した吐息がこぼれる。
凜の脳裏に、一人の男と赤い背中が思い起こされた。
ねえ士郎、あなたならどうするの?
朝の明かりに目が覚めた。瞼が浮腫んでいて重い。
ゆっくり体を起こすとベッドが狭いことに気付いた。目の前に別の誰かが寝ている。
「姉さん」
遠坂凜が無防備に寝ていた。すうすう、と口元で髪が揺れている。
なぜ、と思ったところで昨日のことを思い出した。途中から記憶がなく、どうやら泣き疲れて寝てしまったみたいだ。
「……」
またやってしまった、と桜は頬が熱くなるのを覚えた。最近は一人で過ごせていた夜を、久々に姉に助けてもらったのだ。
その寝顔を、桜はじっと見つめる。うらやましくて、どこかうとましくて、のろっていた姉の寝顔。
今だってどこか、うらめしい気持ちはある。けど、今はそれよりも、ずっとずっと、誇らしくて大好きな姉。
先輩の繋いでくれた、大切な絆。私を繋ぐ大事な愛。
きっと、罪悪に負けてしまって命を絶ってしまえば楽になるだろう。誰も責めないだろう。
けど悲しむ。ライダーは消えてしまう。先輩を助ける責任と義務を、姉さんが背負うことになる。きっと背負いきれるだろう。そういう人だ。強くて憧れの、私のヒーローなのだから。
だから、そんなことはできない。苦しくて負けそうになっても、この人がいるから、私はまだ生きていける。
しんとした土蔵は、黴の匂いも埃の匂いもなく、時が止まっていた。朝の陽ざしは扉を閉めてしまえば、あとは明かり窓からの心許ない光だけだ。
身震いをして桜は布をかぶせられた鳥かごの前に立つ。彼女の日課だった。起きれた朝も眠れぬ夜を明かした日も、桜の一日は彼に挨拶をしてはじまる。
どこか影を落とした表情に口を閉じていた。胸元で握る手がかじかんで赤い。血の色が薄い皮膚を通して見えた。
桜が毎朝ここに通うのは、心のよりどころのためだった。罪を忘れないためだった。
愛のためであった。
砕けそうになる心をつなぎとめるために。つぶれそうになる心をそっと守るために。痛みに鈍感になりそうな心の痛みを思い出すために。
だから、彼女の顔には喜びだけではなく、影よりも深い影が差している。
唇が開くと白い吐息が流れた。
「先輩」
彼女の声にこたえる者はない。
「おはようございます」
独り言のように語りかける。分かっていた静寂に、目の端に水が浮かんだ。
静々と近づいて、その布に手を触れた。冷え切って固くなった布地は埃を含んでざらざらとしていた。
「――」
のどが震えた。零れそうな、たくさんの感情が喉元にあふれた。こぼさないように桜はばっと己の身を抱きかかえてうずくまった。
震える。そう抑え込まないと自分が保てなくなるくらいの震えだった。
どうか。
どうか、誰かのために、生きさせてください。
自分のために生きるなんて、私にはまだ辛すぎるから。
だからどうか、どうか、誰かのために生きさせてください。私の大切な人を悲しませないために。その人たちが幸せに生きていけるように。
いつかまた、あなたに会うために。
いつか、いつか、私が、私のために生きていいと思えるまで。
消えないこの罪と傷痕を受け入れるようになるまで。
この生き方を、許してください――
声にならない懺悔を、桜は叫んだ。
震える背中をつぼみのように丸ませて、彼女は叫んだ。
その告白は朝の空気の中で静かに響く。採光窓からの陽が彼女を照らしていた。
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