いつもと同じ帰り道がいつもとは違っていた。
喉元にナイフが突き刺さった死体が転がっていた、という点で。
僕は他殺体なんて見たことがない。
けれど、目の前の男が死んでいることくらいは分かった。
血の海に沈んだ男は、まるで幽霊でも見たかのような表情を浮かべたまま、ぴくりとも動かない。
当たり前だ。
彼は死んだ。
幽霊を見たのではない。彼が幽霊になったのだ。
鉄と錆が混じったような匂いがどうしようもなく鼻を刺す。
僕は制服のポケットからスマートフォンを取り出そうとした。
死体を見たら、やることは決まっている。
警察に通報するのだ。
もしもし死体を見つけたんですけど、と言えばいい。
それで全部解決するはずだ。
だがどうもおかしい。
手が震える。
110番、たった三回のタップが出来ない。
ぽんっと、誰かが僕の肩を叩いた。
瞬間、僕の奥底に眠った生存本能が警鐘を鳴らした。
しかし肉体はまるで言うことを聞かない。
足がもつれ、冷たいコンクリートの上に尻餅を付いた。
誰かが、僕を見下ろしている。
逆光で顔はよく見えないが、女だ。
それも僕と同年代くらいの。
普通に考えて、女子高校生は死体が転がる路地裏には生息していない。
だからこの女は普通じゃない。
「ばあっ……ふふっ、キミ、腰が抜けるほどびっくりしちゃったの?そりゃそっか。普通の高校生は、死体なんて見たことないもんね〜」
僕は答えない。
エッチなお店の客引きと怪しい宗教の勧誘には乗るなと言うのが、死んだ両親の教えだ。
そして彼女の声は鈴を転がしたような可憐で、それでいて艶かしく、退廃的なエロスを感じさせた。
つまり何が言いたいかと言うと、彼女からは逃げた方が良いということだ。
早急に。
僕は迷わず、震えて言うことを聞かない足を自分でぶん殴った。
鈍い痛みが大腿部に走る。
しかし同時に、恐怖で失われていた感覚が復活した。
僕はすぐさま立ち上がり、人生の全てを100mに賭ける陸上選手のような気持ちで駆け出した。
走れ、走れ、走れ。
前しか見ない。
世界からあらゆる感覚が置き去りになる。
風を切り、スニーカーの靴裏が地面を叩く音だけが聞こえている。
背後から、女の気配が迫る。
逃げられないかも知れない。
それでも、僕は路地裏を駆け抜けた。
なんとか大通りに出る。
僕は人混みの中に突っ込んだ。
流石に、これほど人目がつく場所で僕を殺そうとはしないはずだ。
僅かな安堵に思わず立ち止まりたくなる。
でも、駆ける。
通り過ぎるサラリーマンと肩がぶつかる。
舌打ちが聞こえた。
すみませんと叫んで、走り続けた。
見慣れた住宅街に入った。
僕は粘ついた唾液を吐き出して、アパートまで全力で走った。
途中で通学鞄から何か落とした気がした。
教科書かもしれない。
どうでもよかった。
単位よりも命の方が遥かに重い。
テスト期間は別として。
盗まれるものなんてないからと、鍵を開けっぱなしにしていた自分を褒めてやりたくなる。
僕はすぐに一人暮らしのアパートに飛び込んだ。
鍵を閉め、チェーンを掛けた。
靴を履いたまま、僕は玄関に倒れ込んだ。
数分間、僕は玄関に寝転がったまま呼吸を整えた。
疲労は限界を超えていた。
火事場の馬鹿力というやつだろう。
死から逃れ、生を掴み取ろうとする僕の肉体がリミッターを外した訳だ。
「そうだ、警察……」
僕はポケットからスマホを取り出して、今度こそ110番に電話をかけようとした。
僕は至って真面目な高校生で、死体を見て黙ったままでいるのは後味が悪かったから。
しかし、悪魔が僕の背中に追い付いたのは、通話ボタンを押そうとしたまさにその時だった。
ぴんぽーん。
「ごめんくださーい。えっと……うーべー?あ、ウーバーイーツでーす!開けてくださーい」
間の抜けたチャイムが鳴り、可愛らしい女の声がインターホン越しに聞こえてきた。
僕は咄嗟に呼吸を止めた。
扉の向こうに、気配がある。
僕は金欠高校生だ。
ウーバーイーツなんて頼んだ覚えがないし、そもそも頼めるほど財布は重くない。
だから扉の向こうにいるのは、奴だ。
視界が揺れた。
僕は確信する。
もう、逃げられない。
順当に考えならこうだ。路地裏の男の死体、あれは間違いなく扉の向こう側にいる女の仕業で、決定的証拠を見えしまった僕を、彼女は消そうとしている。
文字通り、この世から。
一番タチが悪いのは、男を殺したのが僕と同年代の少女だということだ。
この殺人事件は普通じゃない。何か裏がある。
いや、殺人自体普通のことではない。
それは分かっている。
だが、女子高校生が人を殺すには、それなりの事情が必要だ。
「三秒以内に開けないと、無理やり開けちゃうよ〜」
僕は這うようにして玄関から遠ざかろうとした。
立ち上がれない。
おしっこを漏らしてないのが奇跡だ。
僕はなんとか武器になりそうな包丁を手に入れようと、台所に向かおうとした。
「はいっ!さーん、にー、いち」
「ぼん」
熱波、そして爆風。
突如として発生した爆発にやって、僕は凄まじい勢いでリビングへと吹き飛ばされた。
幸運にもソファに激突したため大怪我は免れたが、体中が軋むように痛んだ。
訳が分からない。
一般的な家庭で爆発なんて現象は起こらない。
ぐらぐらと定まらない視界で、どうにか僕は女の姿を捉えようとした。
そこで気付いた。
僕の目の前に佇んでいる存在が、『ヒト』ではないということに。
煙の中から、彼女が現れた。
いや、彼女『だったもの』が。
女の肌は陶器のように滑らかで、しかしところどころに金属の継ぎ目が走っていた。
首筋から伸びるコードが、まるで髪の一部のように揺れている。
頭部の左側には、爆弾の信管のような装置が埋め込まれていた。
赤く点滅する光が、まるで彼女の感情を表しているかのように脈打っている。
瞳は人間のものではなかった。
黒曜石のように深く、冷たく、そして何よりも無慈悲だった。
笑っているのに、そこに感情はなかった。
ノースリーブのシャツは焦げ、破れ、ところどころから機械の部品が覗いている。
だが、それでも彼女は美しかった。
破壊の女神のように、静かに、そして確実に僕の世界を踏み潰しに来ていた。
「レイくーん。おうちデートしにきちゃった♡」
その声は、爆風の中でも鈴のように響いた。
「なんで僕の名前も家の場所も知ってるんだよ」
「だって君、数学の教科書落としたじゃん。近所で犬の散歩してたおばあさんに聞いたら、喜んで教えてもらえたよ!彼女のレゼで〜すって、自己紹介しといた♡」
僕は思わず項垂れた。
死ぬ間際に元カノのことなんて思い出したくはなかった。
大喧嘩をして別れた。
それこそ、二人で長い間抱えていた時限爆弾が爆発したみたいな。
そんな喧嘩だ。
「どうしてくれんだ。それじゃあ僕が、ほいほい可愛い女の子と付き合っては別れるクズ男だと思われるじゃないか」
「えっ……キミ、彼女いたんだ」
「うわっ!なんかあからさまに引いてる!」
「だってさ……キミ、ちょっとおかしいよ。悪魔を前にしてもこうして普通に話している。もちろん私のことを怖がっているし、怯えてもいる。でもさ」
「ーー心のどこかで、死んでも良いって思ってるでしょ」
僕は確信する。
この女は悪魔だ。
僕の静かな平穏を壊し、過去の傷跡を抉り血を吐き出させるためにやって来た、無慈悲な悪魔。
僕はクッションに背中を預けて、静かに息を吐いた。
しかしどうやらこの女ーーレゼは、僕を即座に始末する気はないらしい。
レゼはリビングの片隅に視線を向けた。
そこには仏壇がある。
僕の両親と姉は、銃の悪魔が上陸した時に死んだ。
父と母は仕事に行っている時に死んだから、いまいち実感がない。
でも、姉は僕の目の前で死んだ。
美しかった姉は、怖い夢を見た時、優しく抱き締めてくれた僕の姉は、瞬きの間に細切れの肉片になって、僕の身体中にへばり付いていた。
耐えられない。
胃液が食道を登って喉元に溜まる。
昨日から何も食べていない。
作るのも、買うのも面倒臭かったから。
僕は空っぽの胃を痛めつけるように嘔吐した。
この悪魔のせいで、嫌なことを思い出した。
「キミは……一人ぼっちなんだね。そしてもう、普通には戻れない」
レゼはゆっくりと僕に近づき、そしてすぐ隣に腰を下ろした。
かなりの質量があるのか、ソファーが勢い良く沈み込んだ。
僕はミサイル状の顔と見つめ合った。
異形の悪魔が、互いの吐息を感じられるほど近くにいる。
辞書で今際の際と調べたなら、たぶん僕のアパートが真っ先にヒットするだろう。
「ねえ、私が怖い?」
ざらついた声だった。
でも、不思議と僕の心を覆っていた恐怖は消えていた。
隣に誰かが座っているのは久しぶりで、なんだか懐かしかったから。
「いいや。でもその姿だと、なんだか悲しそうに見える」
「ふふっ……私、キミを殺しに来たのに。そんなこと言ったの、レイくんがはじめて」
「あのさ」
「なあに?」
「殺すなら、痛くしないでね?」
誰もいない部屋で、ご飯を食べても美味しくなかった。
だからほとんど、食事が喉を通らなくなった。
誰もいない部屋で寝ると、決まって死んだ姉が夢に出て来た。
だから、一日に三時間も眠られなくなった。
僕は緩やかな死を迎えていた。
これは少し時期が早まっただけだ。
僕があと何十年も生きられる可能性なんて、そもそもなかったのだ。
レゼは僕の言葉にしばらく黙っていた。
けれど、それからゆっくりと手を伸ばした。
爆弾のような指先が、僕の頬に触れる。
冷たい。
けれど、優しかった。
「……痛くしないよ。そもそも、キミを殺すのは任務じゃないし。それにねーー」
その声は、さっきまでのざらついたものではなかった。
柔らかくて、壊れそうで、まるで誰かに許しを乞うような響きだった。
レゼは、僕を抱きしめた。
爆弾のまま。
悪魔のまま。
金属の冷たさと、爆熱のような体温が混ざった腕が、僕の背中を包み込む。
「私もね、壊れてるの。ずっと前から。誰かに作られて、誰かの命令で動いて、誰かのために人を殺して……それが私の全部だった」
彼女の声が、僕の耳元で震えていた。
「キミのこと、私が飼ってあげる。毎日一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、同じベッドで眠るの。そうしたら、殺さないでおいてあげる」