逃避行 作:妄想の悪魔
「私に何か用事でも?」
仄暗い路地裏に、冷たい声が反響した。
光が強ければ強いほど、闇もまた深みを増す。繁華街の喧騒とは裏腹に、この場所には濃い影が巣食っていた。
「……大人が子どもの恋路に口出すのは野暮じゃないかな?」
トレードマークである口髭を指先で弄びながら、男は
彼はしがない喫茶店の
ただ、ちょっとだけ。過去に悪魔と戯れる機会があっただけのこと。彼は多くを語らない。それを美徳としている人種だから。
最近では、店の日常を彩るちいさな光景を楽しみにしていた。
雇い主として迎えた娘レゼと、彼女と楽しそうに話すデンジ君。二人の笑顔は、もはや店の風景そのものになっていた。
例え、それが偽りであったとしても。邪魔する輩がいると言うのなら、彼は多少のお節介を焼いてでも、動かずにはいられなかった。
「恋路……?」
マキマは怪訝そうに首を捻る。
「愛を知らない田舎のネズミが、愛に飢えた犬に懐いてしまっただけの事。──滑稽でしょう?」
瞳に映る世界が、二人はまるで違うらしい。
「だから殺すと?」
彼の問いに、マキマは答えず、口角を少し引き上げた。
「あなたの淹れるコーヒーは好きでしたが、もう飲めそうにありませんね」
店主は短く笑う。
「いつでも淹れてあげるさ。あの子達を見逃すならね」
「残念」
その言葉が路地に吸い込まれた瞬間。空を裂くように降ってきた細い槍が、彼の胸を貫く。路地裏を見下ろせる位置で、天使の悪魔が放ったものだった。
店主は冷たい石畳へと膝を折り、周囲を真っ赤に染め上げる。マキマはその様子を一瞥して去ろうとした──が、足を止めた。
「まぁ、待ちなよ」
背後から投げられた言葉は、今し方、血を撒き散らして死んだはずの男のものだった。
「……驚きました。コーヒーの悪魔って、思っていたより強いんですね」
マキマは少しだけ警戒を強める。
死なないにしても、致命傷ではあった筈だ。少なくとも、普通の人間であれば。
「早く彼女を殺さないといけないので、出来ればそのまま眠っていて欲しかったのですが」
それは恐らく、彼女の本心だった。
わざわざ起き上がってまで対峙する、男の思考がわからなかった。折角助かるかもしれない命を、ドブに捨てる行為は理解し難い。
そんな様子のマキマを見て、店主は失笑する。
「なぜそこまであの子に執着するのか、理由は知らないけどね」
店主は懐から銃を取り出して、銃口をマキマへと向けた。
「僕はあの二人のファンなんだ。──行かせると思うかい?」
引き金に添えられた指は、微かに震えている。
彼自身、こんな玩具で彼女を殺せると思っていない。仮に撃ったとしても、彼女の結んでいる契約上、彼女が死ぬ事もないだろう。
これは彼なりの、覚悟の表明だった。
「お願いなんかしていませんよ。──これは命令です、退きなさい」
けれど、何処までも冷たい声が、静かな路地に響き渡る。
マキマに向けられた銃口は下げられ、店主は自身のこめかみに当てる。そのまま彼は引き金を──引くことはなかった。
「断る」
マキマの瞳孔が、僅かに開いた。
支配の悪魔。文字通り、相手を支配できる。──但しそれは、彼女が自身より程度が低いと認識した者のみだ。
「……これは予想外ですね」
マキマは彼を、格上だとも、殺せないとも思っていない。
では、何故支配できないのか。疑問に答えるように、店主は徐に口を開く。
「毒というのはね、本人も気づかない内に身体を侵しているものさ。徐々に、時間をかけて、ゆっくりと身体を
そう。マキマは彼を支配できたはずだ。
彼女が本当に彼を支配しようとしていたのならば、の話ではあるが。
「……なるほど。コーヒーの悪魔ではありませんでしたか」
「僕は一言も、コーヒーの悪魔なんて言ってないよ」
沈黙が降りる。路地を包む焙煎の匂いが、血の匂いとわずかに混ざり合う。
「試してみようじゃないか。どちらの“支配”が深く心に沁みるのか──」
薄汚い、ネズミの巣食う路地裏で。濃密な死の気配が、甘く苦く、混ざり合った。
ハッピーで埋め尽くしてぇ……。
書くつもりはなかった、箸休めみたいなものです。
オマエもマスター最高と叫びなさい!!