機動戦士ガンダムSEED DESTINY REBIRTH 運命の再生――運命に抗う少年と、崩れゆく世界―― 作:屠龍
第七十六話 私が選ばれない理由――強いはずの心が、折れた夜――
シンと街を散策してからルナマリアはホテルに戻る。
シンとの会話と笑顔の記憶がまだ胸に残る。潮風の匂い、焼き菓子の甘さ、ぎこちなく並んで歩いた足音。それらが一つひとつ、まだ体の奥に温度として残っていた。
――こんな顔をしていたら、きっとアグネスにからかわれる。
そう思い、ルナマリアは無意識に頬の力を抜いた。
部屋はアグネスと同室。
静かなノックの音に、返事はなかった。
胸の奥に、小さな嫌な予感が落ちる。
ルナマリアは一拍置いてから、そっとドアを開けた。
室内は照明が落とされ、窓の向こうの街灯だけが、薄く床を照らしていた。
ベッドサイドのランプも点いていない。
その光の中に、アグネスが立っていた。背中を向けたまま、窓の外を見つめている。
カーテンの隙間から流れ込む橙色の光が、彼女の細い輪郭だけを縁取っていた。
声をかけようとして、ルナマリアは言葉を失った。
振り向いたアグネスの目元は赤く、睫毛の先がわずかに濡れている。口紅は落ち、頬のラインもどこか荒れていた。
何度も拭ったのだろう。なのに消しきれなかった痕。
それなのに――彼女はいつものように、勝気な笑みを作ろうとした。
「……遅かったじゃない、ルナ」
その声は、いつもより少しだけ低く、少しだけ脆かった。
張り付けた強がりの裏で、喉が擦れているのがわかる。
(あ……)
ルナマリアは、その一瞬で悟る。
これは“仮面を被った強い女の子”ではない。
泣いたことすら、必死に隠そうとしている――年相応の、迷っている少女の姿だ、と。
「何ヨその顔。愛しのシンとのデートは楽しかった?彼女持ちの男にいつまで恋してるのよ」
そう言ってアグネスは笑おうとしたが、最後まで笑えなかった。
口角が中途半端に震え、視線が一瞬泳ぐ。
アグネスの脳裏に楽しそうに笑うニコルとマユの姿が思い浮かぶ。
並んで歩く二人。無防備な距離。
まるで世界が最初から“そこに配置した”かのような、自然な並びだった。
彼女持ちの男に惹かれている自分に、ルナマリアを笑う事など出来なかったのだ。
「そっちこそ酷い顔じゃない。泣いてたの?」
「はあ!?何で私が泣くのよ?」
「気づいてないの?あんた酷い顔してるわよ」
口紅は塗り直してある。けれど目元だけは、どうしてもごまかしきれなかった。
睫毛の先に残るわずかな湿り気と、うっすらと赤い瞼。
――泣いたあとを隠そうとした痕跡だけが、かえって痛々しかった。
ルナマリアはそれ以上責めず、黙って珈琲をいれる。
ポットから立ちのぼる湯気が、冷えかけた部屋の空気を少しだけ緩める。
アグネスの隣に立ち、コーヒーを手渡し、一緒に窓から街を見た。
街灯がともっていき、そろそろ日が暮れる頃だ。
人の気配は薄れ、代わりに夜の気温がゆっくりと侵入してくる。
しばしの無言を破ったのはアグネスからだった。
「ねえルナ。今から言う事他人に話したら殺すから」
「ん、いいよ」
「恋愛なんて奪い合いなのよ。魅力のある者が勝つ」
それはまるで、長年信じてきた“自分自身の教科書”を読み返すような言い方だった。
「……うん」
「家柄もいいしピアニストとして才能もある、顔だっていいし性格だっていい。ヤキン・ドゥーエの英雄で、ザフトでも数人しかいないフェイスになるくらい信頼と実績がある」
「ニコルさんは凄い人だよね」
「そんな男の隣は私が相応しいはずなのに、どうしてあのちんちくりんなのよ」
ちんちくりんとはマユの事だと、ルナにはすぐわかった。
「どうしてニコルの隣が、私より年下で、小さくて、平凡で、何の才能もない、女としての魅力もないあのちんちくりんなのよ」
今までずっと“選ぶ側”だった。
恋愛は優れている者が勝つ勝負のはずだ。
人一倍努力して、女を磨いてきたし、今まで奪えなかった男なんていない。
いつしか男は、アグネスにとって自分を飾るアクセサリーと化していた。
なのにニコルはアグネスを見ない。
よりによってあんな子供が選ばれているの?
初めて選ばれる側になって、選ばれなかった。
ただ女を見る目がない馬鹿だと思っていたのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?
「私は“選ぶ側”なのよ。なのに何で“選ばれる側”になってるの?なんでニコルは私を選ばないで、あんなちんちくりんを選ぶのよ!」
マユは平凡な少女だ。
容姿端麗だがアグネスほど大人でもなく、身体つきもまだ幼い。
マユに劣っている所など何もないはずだ。
こんな気持ちは初めてだ。
あんな、私の価値もわからない男なんて放っておけばいい。
それなのに……。
「それなのに……嫌いになれないのよ」
アグネスの声は震えていた。
「私の価値がわからない馬鹿な男なのに嫌いになれないのよ。ニコルの事を考えると苦しいの」
アグネスは自分でも何を言っているのかわからなかった。
言葉は感情の後ろを這うだけで、整う気配がない。
ルナマリアはそんなアグネスを見て、深くため息をついた。
アグネスに、それは恋だと言うのは容易かったが、それは言わない。
言えばアグネスは絶対に拒絶し、さらに深い傷を負う。
だからこう言った。
「マユちゃんと比べる必要なんてないじゃない」
ルナマリアは、メイリンに接するときのように穏やかに話す。
メイリンが落ち込んだ時も、ルナマリアはいつも隣で聞き役だった。
「選ばれたからって勝ちじゃないし、選ばれなかったからって負けでもない。アグネスの価値はアグネスの物でしょ」
その言葉に、アグネスは目を見開いた。
そんな当たり前のことを言うなんて、馬鹿な相手だ。
アグネスはそう思って、ルナマリアを軽蔑しようとした。
……できなかった。
自分は、世界で一番“選ばれるはずの人間”だったはずだ。
なのに、どうして選ばれない。
どうして、あの人の気持ち一つで、こんなにも苦しくなるのか。
理由がわからないのが、一番、腹立たしかった。
アグネスは俯いたまま、しばらく黙り込んでいた。
唇を噛みしめ、指先がわずかに震えている。
「……ルナ」
呼ばれた声は、いつもの強気な調子ではなかった。
「今は……一人にして」
それは命令でも、拒絶でもなく、ただの“弱音”だった。
ルナマリアは一瞬だけ迷い、それから何も言わずに頷いた。
「わかった。無理しないで」
それだけ告げて、部屋を出る。
ドアを閉める直前、振り返ったルナマリアの瞳には、心配と――それ以上の、言葉にできない何かが浮かんでいた。
扉が閉まり、部屋にはアグネス一人だけが残された。
窓の外では、街の灯りがさらに増え、夜が静かに深まっていく。
アグネスは、コーヒーの表面に映る自分の影を、ただじっと見つめていた。
そこに映るのは、“選ぶ側”の女ではなく、
選ばれなかった理由もわからぬまま、感情だけを抱えて立ち尽くす、一人の少女の姿だった。
次回予告
夜の静けさの奥で、見えない糸が音もなく張り巡らされていく。
微笑みの向こうで、誰かの人生が静かに配置されていく。
優しさに包まれた言葉ほど、人は疑うことを忘れてしまう。
救いの声に手を伸ばしたその瞬間、檻はすでに閉じていた。
選ばれた者は光に立たされ、
選ばれ続けることを、永久に強いられる。
逃げ道は与えられない。
与えられるのは、役割だけ。
そして今もまた、誰かが“希望”として差し出されていく。
議長の微笑は、あまりにも穏やかで――あまりにも、恐ろしい。
次回。機動戦士ガンダムSEED DESTINY REBIRTH 運命の再生
第七十七話
『手のひらの上――歌姫とフェイス、選ばれた者の檻――』