機動戦士ガンダムSEED DESTINY REBIRTH 運命の再生――運命に抗う少年と、崩れゆく世界―― 作:屠龍
第八十四話 選ばれなかった感情――殴れなかった拳が、真実を疑い始める――
アグネスが怒りに任せて立ち去った後、艦内の空気は、目に見えない針のようなものを帯びていた。
それは露骨な敵意でも、明確な非難でもない。ただ、視線が一拍遅れてニコルから逸らされる。言葉が途中で切り上げられる。誰もが「何か」を察しながら、口にしない。
ミーアに熱を上げていたヴィーノは、明らかに苛立った様子で通路の壁を蹴り、ヨウランも肩をすくめて視線を伏せた。
妹のマユを裏切られた形になったシンは、怒りよりも困惑が勝っているようだった。
(……殴らない)
それが、ルナマリアには一番の異変に思えた。
いつものシンなら、感情が先に出て、理屈は後回しだ。殴ってから後悔することも多い。
だが今のシンは、拳を握りしめたまま、動かない。
(信じたい。でも、信じ切れない)
そんな顔をしていた。
ニコルを信じたいという感情と、妹を裏切った不実な男という単純な図式が、どうしても結びつかない。
その“結びつかなさ”が、シンを止めている。
アグネスの怒りは、当分収まりそうにない。
「女は選び放題」という言葉は、普段のアグネスそのものだった。強くて、皮肉で、自分が選ぶ側だと疑っていない。
それだけに、自分を選ばないニコルに向けた苛立ちは、深く鋭い。
(……もっと、素直になればいいのに)
ルナマリアはそう思うが、今それを言えば、火に油を注ぐだけだとわかっていた。
アグネスは、指摘されるほど頑なになる。
ルナマリアから見ても、アグネスはニコルに憧れていた。
尊敬と反発が入り混じった、やや歪んだ感情。
ニコルにとってマユ以外の女性は恋愛対象外――そう理解した上で、アグネスは一度、割り切ったのだと思っていた。
それなのに。
ニコルがミーアとデートしているのを見て、アグネスは“変化”を拒絶した。
自分ではない。
マユでもない。
そして、あまりにも象徴的な存在――歌姫ミーア。
(……混乱するよね)
アグネスでなくても、混乱する。
ルナマリアは、足早に歩いていく背中を追った。
カツン、と。
靴底が廊下の金属床を打つ音が、やけに大きく響く。
「……ねぇ、アグネス!」
声をかけると、アグネスはぴたりと足を止めた。
だが、振り返らない。
「……何?」
短く、突き放すような声。
「ちょっと、落ち着きなって。あんた、さっきの態度……どう見ても八つ当たりじゃない」
言った瞬間、しまったと思った。
案の定、アグネスは鼻で笑った。
「はぁ? 八つ当たり? 私が?」
乾いた笑い。
けれど、その声は、ほんの少しだけ震えていた。
「ルナってば、面白いこと言うのね。だったら何? 私が嫉妬したみたいな言い方、やめてよ」
振り返った瞳は鋭い。
けれど、その奥にあるのは怒りよりも――悔しさだ。
「別に選ばれたいわけでもないし。ただ、失望しただけ」
「失望したなら、もっと冷静に接すればいいじゃない。あんな風に責めて……」
「責める?」
吐き捨てるように言い、ようやくルナマリアを正面から見た。
「私は事実を言っただけよ。フェイス様はもう特別なんでしょ? 普通の男じゃなくなったの。それなのに、あの子のとこに戻らない。裏切りって言われて当然じゃない?」
棘のある言葉。
けれど、その棘は、誰かを刺すためというより、自分を守るためのものに見えた。
「……まぁ、フェイスになったら、色々変わるのは事実だけど。でも、あれは……」
ルナマリアは言葉を探す。
だが、見つからない。
アグネスは“選ばれなかった”ことを、まだ受け止めきれていない。
それを認めてしまえば、自分の価値が揺らぐからだ。
「突き放す? 違うわ」
アグネスは自嘲気味に笑った。
「もう期待しないって決めただけ。あの人が特別になった時点で、私も特別になりたかった。でも……結局、選ばれるのは私じゃない」
その声は、強がっているようで、どこか幼かった。
「……アグネス……」
ルナマリアは、かける言葉を失った。
慰めれば嘘になる。
否定すれば、傷を広げる。
「とにかく、もう関わらない。裏切ったのは向こうだし。女は選び放題の男のために、感情なんて抱かない」
言い切って、アグネスは歩き出す。
振り返らない。
「……じゃあ、そうね」
ルナマリアは、その背中を見送るしかなかった。
(もし、素直になれていたら……)
そんな仮定は、意味がない。
今のアグネスには、絶対に届かない言葉だからだ。
廊下の照明が、静かに明滅する。
ミネルバは変わらず、次の命令を待っている。
けれど、確かに何かがずれていた。
誰も間違っていない。
誰も嘘をついていない。
それなのに。
(……このままじゃ、取り返しがつかなくなる)
理由は言葉にできない。
ただ、胸の奥に、冷たい違和感だけが残っていた。
アグネスの背中が角を曲がり、完全に見えなくなったあとも、ルナマリアはその場を動けずにいた。
金属床に残る足音の余韻だけが、いつまでも耳の奥に残っている。
(……みんな、傷ついてる)
それぞれ別の理由で。
それぞれ別の形で。
深く息を吐き、踵を返そうとしたときだった。
「……ルナ」
低い声。
振り向くと、少し離れた通路の影に、シンが立っていた。
「シン……」
いつものように怒鳴り込んでくる気配はない。
腕も組んでいない。
ただ、所在なさげに立っている。
「……アグネス、行ったか」
「……うん」
それだけで、会話が止まる。
何を聞けばいいのか、何を言えばいいのか、二人ともわからなかった。
「……さ」
シンが、ぽつりと続けた。
「俺、さっき……殴れなかった」
自嘲するような笑い。
でも、笑えていない。
「いつもならさ、マユのことだったら、絶対に殴ってた。ニコルが誰だろうが、関係なく」
「……うん」
ルナマリアは否定しない。
それがシンだ。
「でも……今回は、なんか……」
言葉が途切れる。
シンは拳を見下ろした。
「殴ったら、全部“嘘”になる気がしてさ」
ルナマリアは、息を呑んだ。
「嘘……?」
「ニコルの顔、見ただろ。あれ……逃げてる顔じゃなかった」
怒りでもない。
開き直りでもない。
「……覚悟、決めてる顔だった」
それが一番、シンを混乱させていた。
「マユを捨てた顔じゃなかった。俺、ああいうの……戦場で何度も見てる」
死を覚悟した兵士の顔。
引き金を引く前の表情。
「だから余計、わかんなくなった」
声が、少しだけ震える。
「裏切ったなら、殴れる。でも……裏切ってないなら、なんであんなことしてるんだよ」
答えを求めるような視線。
けれど、ルナマリアにも答えはない。
「……ルナ」
「なに?」
「マユ……泣くかな」
その一言で、ルナマリアの胸が締めつけられた。
「……泣くよ。でも、あの子……ちゃんと話を聞こうとすると思う」
「……だよな」
シンは壁に背を預け、ゆっくりと滑り落ちるようにしゃがみ込んだ。
「だったらさ……余計、殴れねえよ」
妹の顔が浮かぶ。
ニコルの顔も浮かぶ。
どちらも、嘘をついているようには見えない。
「……俺さ」
小さく、弱音のように。
「ニコルが悪者だったら、楽だった」
ルナマリアは、その言葉を否定しなかった。
「でも、違う気がする」
それが、シンの“違和感”だった。
まだ言語化できない。
でも、確かに胸に残っている感覚。
「……だから俺、今は何も言えない」
「……うん」
それでいい、とルナマリアは思った。
何も言えない時間が必要なときもある。
ミネルバの奥で、どこかの扉が閉まる音がした。
艦は静かに、次の命令を待っている。
けれど、人の心だけが、取り残されていた。
次回予告
幸せだと思った。
誰かに必要とされて、歌って、笑って。
それだけで、世界はこんなにも明るく見える。
だから、疑わなかった。
この歌が、誰の代わりに響いているのか。
この笑顔が、誰の痛みを覆い隠しているのか。
私はただ、歌っているだけ。
祝福されているだけ。
――そう信じることが、いちばん楽だったから。
次回。機動戦士ガンダムSEED DESTINY REBIRTH 運命の再生
第八十五話
『祝福の歌姫――その歌は、誰の犠牲の上に響いているのか――』
幸せは、疑わない者にだけ与えられる。
その代わりに、何かが静かに切り捨てられていくことを、
私はまだ、知らない。