ビモク・シューレイ 対 アイリス・ミドガル。今年のブシン祭に於いて最も注目されていた試合は、観客たちの期待を裏切ることなく大会史を振り返ってみても類を見ないほどの盛り上がりを見せていた。
試合開始直後、耳を劈くような金切音が響いた際に一度静まり返った観客たちだったが、次第にそれが刀を抜いたビモクによるものだと理解すると今まで以上の歓声を上げた。ビモクが何をしたのかを正確に理解する者はいなかったが、アイリスの行動がそれを証明していた。
ビモクは目にも留まらぬ速さで刀を抜き、遠く離れた闘技場の壁を切り裂いたのだ、と。
そして今もなお試合は続いており、アイリスが果敢に攻め込むのをビモクが流れるように受け流し、時に異音と共に闘技場を切り裂いていく。その目にも留まらぬ斬撃をアイリスが紙一重で回避しまた攻めるというわかりやすい構図になっているため、観客たちも声が枯れることも気にせず思い思いの歓声を上げていた。
会場のボルテージは最高潮にまで高まる中、唯一身体の震えを抑えながら怯えるように試合を観戦している者がいた。
「(じ、冗談じゃない……! 何なのだ、一体何なのだあれは……!!?)」
高位貴族のみが入ることを許される(シドみたいに招待されただけの例外もいる)特別観覧席で興奮気味に試合を観戦する人々の中、手や脚の震えを必死に抑え込みながら座る一人の男——ドエム・ケツハットは、冷や汗を垂らしながら心の中でそう叫ぶ。
ドエムは噂で耳にした芸術品のような美しさを持った魔剣士を一目見ようと、軽い気持ちで観覧席に残っていた。アイリス・ミドガルという個人を警戒している教団の一員として、皮肉にも彼女の勝ちを疑ってすらいなかった。そのため一目見たら席を立とうとまで思っていたのだが、ビモクの容姿から細やかな所作に至るまでの全てがドエムを魅了した。
特に予定もないし最後まで見てみるか、という軽はずみな気持ちで席を離れなかったことを彼は一生後悔することになる。
遅れて入場してきたアイリスの強さが依然と比べて上がっていることにも驚いたが、何よりも試合開始直後に見せたビモクの攻撃に腰を抜かした。
ドエムはビモクが何をしたのかを正確には理解できなかった。しかし辛うじて一瞬だけビモクの姿がブレたように見えたのだ。その直後耳を劈くような金切音が響き、闘技場の壁に斬撃痕が生まれた。あの時声を上げなかった自分を褒めてあげたい。
離れた場所に斬撃を当てられる魔剣士をドエムは知っていた。しかしそれはあくまで彼の持つ魔剣の効果に他ならない。
つまりあのビモクという魔剣士は、己の剣の技量だけで魔剣の効果を再現して見せたということ。しかも闘技場に刻まれた斬撃痕を見る限り、少なくともそれ以上の技量を持っているということになる。
「(何故このタイミングで、あんなバケモノが現れる……!? 『シャドウガーデン』以外にも、警戒すべき組織がいるというのか……!!?)」
ドエムは自分が主導する計画実行中に現れた未知の強者の存在を嘆いた。
これはなにかの悪い夢だという淡い期待を込めてリング中央へ視線を向けたドエムだったが、現実はいつも非情。藁にも縋るかのような小さな期待は、要警戒戦力であるアイリス・ミドガルをまるで子供のようにあしらっているビモクの姿という現実によって引き裂かれた。
絶望で光を失うドエムの瞳に、ビモクという『絶対的な強者』に果敢に挑み続けるアイリスの姿が映った。
「…………頑張れ」
消え入りそうなその言葉は、自然とドエムの口から漏れ出ていた。
そして一度堰を切ったそれは、もう止まることを知らない。
ドエムは立ち上がり、ふらふらとした足取りでガラスの前まで歩いていった。観覧席に座る多くの貴族たちがドエムの動向に注目する中、ガラスの前で足を止めたドエムは息を大きく吸って心に溜まった全てのものを吐き出すように叫んだ。
「がんばえぇぇえぇえええ!!!」
ドエムにとって憎きアイリス・ミドガルという存在は、ビモクという未知の強者を唯一屠れるかもしれない最大の希望の光となったのだ。負けないで勝ってほしい、あわよくば殺してほしいという願いが、ドエムの身体を脇目も振らず動かした。
「やれ! そこだッ! いけぇ!! 頑張れッ!!」
高位貴族が集まる特別観覧席で唯一大声を上げて他国の王族を応援するドエムの姿は貴族たちに感銘を与え、同盟の未来は明るいと国の行く末を楽観させるのに十分なものだった。
◆◇◆◇◆
右足を踏み込み左下からの斬り上げ——左足を軸に足を引き、半身で躱された。
斬り上げた『流れ』を殺さず半月を描くような軌道で腕を回し、ビモクの背後に剣を叩き込む——鞘に納まったままの刀を左手首を器用に使ってクイっと上げるようにして防がれた。
防がれた剣を逆手に持ち替え、滑らせるように身体を回す。ガガガガッと鞘と剣の擦れる音が鳴った。
回転で付いた勢いをそのままに、左の後ろ回し蹴りをビモクの後頭部に叩き込む——大きくしゃがんで躱された。
瞬間、世界が色を失った。
回し蹴りの態勢のまま目線だけでビモクを捉えると、彼はいつの間にか身体の向きを私へ変えてしゃがんでいた。
——軸足を斬られる!
そう直感した私は左脚に勢いを更に上乗せし、それと連動させる形で腰を大きく捻った。結果、腰の動きに釣られる形で右足も浮かせることに成功した。
——ギュキィィィイイイン!!
衝撃音が響き、世界が色づくのを知覚しながらも攻撃の手を止めない。
空中で身体を更に捻ることで回転を加え、過分に魔力を込めた右足をビモクの頭上へ蹴り下ろす——しゃがんだ状態から後ろへ跳ぶことで躱された。
——ドゴォォオオオン!!
私の蹴りが地面を蹴り付けるだけに終わり、轟音が響いた。
すぐに態勢を整えて土煙を魔力を乗せた横薙ぎの風圧で散らし、ビモクの姿を捉えると全速力で駆け出した。
身体の節々が痛みを訴え関節が悲鳴を上げようとも、内側から焼けるような熱が湧き出し鼻血を流そうとも、魔力の過剰酷使により魔力回路が痛みを発しようとも、決して足は止めない。一度足を止めれば、もう二度と動くことはできないとわかっているから。
あの色の無い世界は、驚異的な状況対処能力を発揮するがその一方で、肉体的・精神的両方に多大な負荷が掛かる。
それも当然、あれは決して時間がゆっくりになっているのではなく、あくまで脳の働きを瞬間的に早めて知覚時間を延長しているだけに過ぎない。しかも私はつい数分前にこの世界へ足を踏み入れただけで制御なんて一切できていない。ただビモクの殺気に対して勝手に身体が反応してしまっているだけなのだ。
既に限界を迎えているにも関わらず、身体は勝手に死を回避するためあの世界に入り込む。体力はとっくの昔に尽きており、もはや魔力と気力だけで運動能力を支えている状態だ。動くことを止めたら意識を持っていかれるだろう。
だから走る。
ビモクに攻撃の隙を与えず、手数で押し切るしか今の私にできることは残されていないのだ。
助走の勢いに乗り、右手に握った剣を左に構え横薙ぎ——ビモクが左手に持った鞘入りの刀で受け止めようとしているのが“見えた”。
目元に熱を感じながらも咄嗟に横薙ぎの軌道を上に逸らし、山を描くような軌道で上段から振り下ろす——赤く染まっていく視界で、ビモクの瞳が少し見開いたように“見えた”。
入る!
——ガギィィィイン!!
私の剣がビモクの左手に持った鞘入りの刀で受け止められた。が、攻撃の手は決して緩めない。
手首を使って剣の軌道を横に、ビモクの刀を滑らせるように——。
「——ッ!?」
しようとしたら、剣が何かに阻まれて動きを止めた。
薄い赤色に染まった視界でよく観察すると、私の剣はビモクの刀の鍔に阻まれていた。
「(
驚愕で身が硬直した一瞬に、ビモクは鍔と右手で私の剣を挟むようにして刀の柄を握った。
「ッッ!!?」
抜刀がくる! と直感した私が剣を引き戻そうとしたが、逆に身体ごと引っ張られてしまう。ビモクが私の剣を巻き込む形で大きく刀を腰に引き寄せ、無理やり抜刀の構えを取ったのだ。態勢を崩して前のめりに傾く私の目の前には、いつでも解き放てる状態の彼の刀があった。
——死。
今まで以上に濃い死の気配を感じ取り、世界が色を失った。
そこは、これまでとは桁違いに緩慢な世界だった。まるで時間そのものが静止したかと錯覚するほどの静寂。正真正銘、私の人生最後の猶予時間——そう思えた。
このまま何もしなければ間違いなく私の首が飛ぶ。避けようにも前のめりに倒れている今の態勢では、辛うじて一歩踏み出せるかどうかといったところだ。そして踏み出せたところで、不十分な態勢ではまともに回避行動すら取れやしない。
残りの魔力を全て肉体強度に回して賭けに出る?
——無理だ。いくら強化しようとも、闘技場の頑丈な壁を粘土細工のように斬り裂くとあっては意味がない。
前のめりに全力で転がり込む?
——無理だ。辛うじて一歩踏み込めたとしても初速が足りず、刀の軌道からズレる頃には背中が半分以上割かれているだろう。
まるで走馬灯のように、生存へ繋がる可能性を探して思考が巡る。
——だが、どの選択も圧倒的な死を覆すには足りなかった。
そして、永遠とも思える時間は終わりを告げる。赤く染まった視界で、限界まで引き絞られた至高の一閃がゆっくりと解き放たれるのが“見えた”。
◆◇◆◇◆
——ドゴォォォオオオン!!!
本日何度目かの轟音が鳴り響き、リング内を土煙が覆い隠した。
先ほどまで歓声を上げていた観客たちは、今か今かと土煙が晴れるのを待っていた。しかし今までであれば数瞬もしない内に土煙が晴れ、アイリスが追撃を仕掛けるという光景が見られたのにも関わらず、今回は『そう』はならなかった。
次第に観客たちの熱狂は困惑へと変わり、会場の至る所からどよめきが上がり始めた。
誰もが固唾を呑み、リング中央へ視線を注ぐ中、ゆっくりと晴れていく土煙の奥に人影が浮かび上がった。
「ハハッ、いいね、君……最高にイカれてるよ」
土煙が晴れた先で、ビモク・シューレイは心底愉快そうに笑っていた。
そして、ビモクの視線の先。
闘技場の壁際に、もうひとつの人影があった。
両腕は力なく垂れ下がり、右手に握った——否、辛うじて指に引っ掛かっているだけの剣は、今にも地面へ落ちてしまいそうだ。虚ろな瞳にはもはや意思の光はなく、どこから流れたものかもわからない血が顔中をべったりと濡らしていた。顎先から滴り落ちる赤い雫は途切れることなく、足元に出来た小さな血溜まりを広げ続けている。
——アイリス・ミドガルだった。
そんなアイリスの様子を視界に収めながら、ビモクは先の攻防を静かに振り返っていた。
抜刀の瞬間、ビモクの目は確かに捉えていた。
——振り抜かれる刀へ、自ら飛び込むアイリスの姿を。
刃を躱すには、辛うじて踏み出せる一歩では足りなかった。前のめりに崩れた態勢からでは、回避は決して間に合わない。だから彼女は別の道を選んだ。
迫りくる斬撃と同等の速度を持つものを推進力にして、自らの身体を強引に刀の軌道から押し出す方法を。幸いにも『それ』は、すぐ目の前にあった。
構造上決して斬られることのない絶対不可侵の領域——刀の石突である。
アイリスは、あの灰色の世界の中でさえ視認できない速度で迫る石突へ頭から突っ込む選択をした。
失敗すれば頭蓋が砕け、成功したとしても決して無事では済まないことを、アイリスは理解していた。それでもアイリスは迷わなかった。残された魔力を全て脚と首、そして額へと集中させ、一分の望みを懸けて全力で飛び込んだのだ。
結果として彼女は生き残った。
文字通り紙一重で、『己の生存』という道を掴み取って見せたのだ。
ビモクですら、この行動は予想していなかった。
今回の『アイリス育成計画』では、アイリスに死を乗り越えた先にある領域へ導くことが目的だった。だから殺気をぶつけたし、殺すつもりで攻撃をした。仮に命を落としたとしても、ビモクにはそれを引き戻せるだけの技量があったため気兼ねなく殺しにいった。
結果としてアイリスは新たな領域へと足を踏み入れ、飛躍的な成長を遂げた。
そして試合を終わらせるため、確実に殺すために放った最後の一撃。
もちろん多少の手加減はしていた。
予め決めていた身体強化の上限を超過することはなかったし、居合に対応できるよう溜めを作って目線や刀の角度などで狙いを明確に示したりもしていた。それを考慮しても尚、ビモクは最後の一撃を回避されるとは予想していなかったのだ。
自身の予想を上回るほどの急成長を遂げたアイリスを前に、ビモクはもう一度愉快そうに笑みをこぼした。
観客たちは誰も声を発せず、ただ黙ってアイリスの姿に目を奪われていた。
闘技場の壁は大きく崩れ落ち、周囲には瓦礫が散乱している。その光景は先ほどの衝撃の凄まじさを物語るには十分過ぎるものだった。
そしてその前に立つ王国最強と謳われた魔剣士の姿。
血に濡れ、意識も朦朧としているはずなのに、決して剣を手放さない。今にも倒れそうなほど満身創痍でありながら、それでもなお立ち続けているアイリスの姿に、人々は『英雄』の姿を幻視した。
誰もが息を呑んでその姿を目に焼き付けていると、突如として糸の切れた人形のようにアイリスの身体が前のめりに傾き始めた。咄嗟の事に誰かが小さく悲鳴を漏らす中、ビモクがその身体を優しく抱き留めたことで皆が一様に息をついた。
「しょ、勝負あり! 勝者、ビモク・シューレイ!!」
ビモクに目を向けられハッとした審判のコールが、静まり返った闘技場に響き渡る。それを聞き届けたビモクは、アイリスを横抱きにし救護室へ運んであげることにした。途中こっそりと魔力による回復を施しながら。
ビモクが選手入口へ向かう途中、静まり返っていた闘技場にひとつの拍手が響いた。それは瞬く間に広がり、やがて会場全体を包み込む。
誰一人として声を上げない。
ただ二人の魔剣士へ惜しみない敬意を送るように、人々は拍手を続けた。
万雷の拍手は、二人の姿が選手通路の奥へ消えた後も鳴り止むことはなかった。
前半超好きw