目を覚ますと、まず目に入ってきたのは見慣れない天井だった。
辺りに充満した薬品の匂いが鼻につき、背中に感じる柔らかなベッドの感触は疲労した今の私にとってとても心地よく感じられた。
「……ここは」
「救護室だよ」
聞き慣れた声に顔を向け、僅かに目を見開いた。
椅子の背もたれを逆にして抱え込むように座り、目元に白い包帯を巻いて視界を塞いだビモク・シューレイがいた。記憶を遡っても彼が目元を怪我した場面が思い至らなかったため、少しばかり動揺した。彼ほどの実力者が一体いつ怪我を負ったのだろう、と。
「あぁ、これ? 流石に未婚の王女様の寝顔を眺めるのはマズいかなって、ちょっとそこで拝借しただけだよ」
「そ、そうでしたか……お心遣いありがとうございます」
私の動揺が伝わったのだろう。彼は何ともないようにその包帯の経緯を説明してくれた。
私は上体を起こし軽く頭を下げる。
そして下げた頭に連動するように、先の試合の最後の光景が脳裏に浮かんだ。
態勢を崩した私に迫る濃密な『死』の気配。
それを覆そうと灰色の世界で考えを巡らせていた時の感覚。
藁にも縋る思いで石突へ飛び込んだ記憶。
そして——。
「……私は、負けたのですね」
「うん」
即答だった。
さも当然といった風に、彼は現実を突きつけてきた。
「まあでも、思ってた百倍くらい頑張ったよ」
「……慰めですか?」
「いいや」
今度も即答だった。
その言葉に私は顔を上げ、ビモクの包帯に巻かれた目元の奥を見る。
「本当にそのくらい頑張ってた」
冗談のような口調だったが、その言葉には有無を言わせない強い意志のようなものを感じた。彼は何の誇張もなく、本心からそう思っているのだというのがわかった。
「正直、最後は死ぬと思ってた」
「……そ、そうですか」
「うん。だからさすがの僕もびっくりしたよ」
ビモクはそう言ってケラケラと笑った。
私は仮にも王族である私の目の前でそれを言う彼の胆力にこそ驚いた。いくら刃を潰してあるとはいえ、彼の居合ではそれすら意味を成さず容易に命を刈り取れる。
私は今生きてここに居るという事実に、心の底から安堵した。
「普通、あそこで逆に突っ込もうとは思わないでしょ」
「私も二度とやりたくありません」
「だよね」
そうして二人で少し笑い合った。
今思い返してみても、あの選択は狂気以外の何物でもなかった。だが、あの瞬間にはあれが一番生存する可能性が高かったのも事実。責めるのであれば、それ以前の行動を責めるべきだろう。
柄で剣を受け止められた事実に、もっと早く気付いていれば……。
もっと言えば、柄で剣を受け止められたことに動揺しなければ取れる選択肢は広がっていたかもしれない。
沈黙が落ち、無数に湧き出てくる『たられば』が頭の中を巡る。
それは瞬く間に『後悔』という形を持って、私の心に積み重なっていった。
「……悔しいです」
「うん」
「何一つとして、あなたに届かなかった……」
「うん」
「……全力でした」
「知ってる」
静かな返答だった。
ひとつひとつ言葉をこぼす度に、握りしめる拳に力がこもっていく。一度堰を切った感情が溢れ出し、瞳からも雫となって零れ落ちた。ビモクが目隠しをしているという事実に今はただ、心の底から感謝した。
私の全部を出し切ったとはっきりと言える。これまでの鍛練で培ってきた全てを以って、勝利を手にしようと足掻いた。
——それでも、彼には届かなかったのだ。
「私は……弱い」
「いや、強いよ」
ビモクは即座に私の言葉を否定した。
まさか否定されると思ってもみなかった私は顔を上げ、目を瞬かせながらビモクを見た。相変わらず目元を包帯で覆ったその顔は、先ほどまでのヘラヘラとした雰囲気とは一変して真剣みを帯びたものになっていた。
「少なくとも今の君は、この国でも上位の実力者だ」
「ですが、あなたには……」
「僕を基準にしちゃ駄目だよ、参考にならないから」
至極当然のように言われた。そこには慢心も増長もなく、ただ事実を口にしているだけのように感じられた。
「……自分で言いますか」
「だって事実だし。僕と君とじゃ見えてる景色が違いすぎる」
私は別の意味で痛む額を押さえた。
大きな括りで言えば、以前までの王国最強という名に誇りを持って勝利を疑わなかった私は彼と同類だったのではないかと今更ながらに思う。しかも私の場合、実力不足でありながら分不相応の立場で威張っていただけの小物だったわけで……。
私は羞恥に頭を抱えた。
「ねえ、アイリス」
不意にファーストネームをビモクに呼ばれ、ビクッと身体が強張った。
顔を上げればビモクは真剣な雰囲気を纏っており、包帯で遮られているはずの視界で私をしっかりと捉えているように感じた。
「君さ」
「……はい」
「今日、死ぬの怖かった?」
彼のその言葉は、スーッと私の身体の内側に入ってくる感覚がした。
そしてその質問をしっかり噛み締めた後、私は静かに本心を口にした。
「はい、怖かったです」
今でも鮮明に思い出せる、あの灰色の世界で感じた圧倒的な死の気配。
私の人生の中で感じたこともないほど、純粋で濃密な恐怖だった。
「でも……」
今思い出しただけでも身体が震える。
その震えを押し殺すように、ギュッと強く拳を握って顔を上げた。
「——逃げたくはありませんでした」
これも、紛れもない私の本心だ。
試合中何度も死の恐怖に曝されながらも、私は心と身体に鞭を打って勝利のために行動した。結果は負けてしまったけど、今生きてこの場にいるのは、間違いなくあの時立ち向かったからに他ならない。
私の言葉を聞いたビモクは、少しだけポカンとした気の抜けた顔をした。顔の半分ほどは見えていないはずなのに、私でもそれを読み取ることができて少しおかしく思ってしまう。
そしてすぐに、満足そうに笑って「そっか」と短い返事を返した。
「なら、大丈夫だ」
「何がです?」
「君はもっと強くなる」
ビモクは迷いのない声でそう断言した。
「今の君なら、間違いなくその先に手が届くよ」
私はビモクの言葉を静かに噛み締める。
圧倒的——否、絶対的な強者からのこれ以上ない賛辞。こんな言葉を貰って、めそめそと立ち止まっているわけにはいかなかった。
「……次は、勝ちます」
「うん」
「必ず」
「うん」
ビモクは心の底から楽しそうに笑った。
「楽しみにしてるよ」
その言葉に、私もまた小さく笑みを浮かべることで返した。
◆◇◆◇◆
あれからしばらく、私とビモクは色々なことを話した。
世間話の一環としてビモクが排他的な村の出身であることや、ブシン祭が終わったら村に帰らなければいけないこと、無断で出てきたため帰ったら面倒事が残っていることなど、彼についてより詳しく知ることができた。ブシン祭が終わったら騎士団に勧誘しようかと密かに計画していたため、少し残念に思ったのは内緒だ。
その他にも普段の剣の鍛練方法だったり、魔力操作の重要性やその訓練方法、先の試合で踏み入れたあの灰色の世界の制御方法などを聞いたりと、実に有意義な時間を過ごさせてもらった。
特に魔力操作に関しては極めれば致命傷なんかも治療できると聞いて、驚愕と共に腑に落ちた。
私の身体は先の試合の見る影もなく、隅々まで治療が施され既に完治していた。聞けばこれはビモク自らが治療をしてくれたらしく、あれほどの傷を短時間で完治して見せた魔力操作の有用性には正直驚かされた。恐らくシヴァもこの技術を高水準で習得しているのだろうと、合点がいった。
「っじゃ、僕はそろそろ戻るよ。お大事にね」
「あ、はい。何から何までありがとうございました」
「いいって、いいって」と後ろ手に手を振るビモクはそのまま扉に手を掛けるが、「あ、そうだ」と言って救護室に備え付けられた棚を漁り始めた。そしてしばらくして目当ての物を見つけたのか、手に持った小さなビンを私にひょいっと投げ渡してきた。
「? これは……?」
「増血薬。魔力による回復じゃ、さすがに失った血までは戻せないからね。それ吞めば明日には楽になってると思うよ」
「なるほど……ありがとうございます」
私の言葉を聞いたビモクは満足そうに頷いてから再度扉に手を掛けた。そして扉を開いて退出する直前、ビモクは一度私に振り返り笑みを深めてから静かな声音で言った。
「明日は君にとっても実りのあるものが見られると思うから、それまでには身体を治しておくことをおすすめするよ」
「明日……あなたの対戦相手は確か、ジミナ・セーネンでしたね……彼はあなたから見て、どのくらい強いのですか?」
ジミナ・セーネン——今日の試合で元『ベガルタ七武剣』のアンネローゼを破った実力者だ。
私の目からは彼の実力の底を垣間見ることすらできなかったが、ビモクにはそれが見えているのだろうか。それに加え、ただの好奇心から彼のジミナに対する評価を純粋に聞いてみたくなったので尋ねてみた。
「え? さあ?」
「さ、さあって……」
とぼけたように言ったビモクにガクッと力が抜けた。
明日の試合はビモクとジミナを除けば、学園代表であるローズ王女に代わって選ばれたクレア・カゲノーと、騎士団所属の若手騎士の試合のみ。正直言って、彼の言った実りある試合というのはビモク 対 ジミナ以外に考えられなかった。
少し張り詰めていた空気を崩された私の反応がお気に召したのか、ビモクがケタケタ楽しそうに笑っていた。
「彼は力を隠すのが上手いからね。ただ見ただけじゃ、僕でもはっきりとした力量までは読み取れなかったよ」
その言葉を聞いて納得した。
確かにジミナを一言で表すなら——『不気味』。剣筋、姿勢、重心、視線……そのどれもが彼を『弱者である』と示していた。しかしアンネローゼさんとの試合で見せた最後の一撃……あれが本来の彼の剣筋だとすれば、油断ならない相手であるのは確かだ。
「だけど、これだけは言える」
思考の海に沈みかけた私の意識は、ビモクの言葉によって現実へ引き戻された。
「明日の僕は、——
そう力強く宣言したビモクに、私は息を呑んだ。
威圧ではなかった。ただ自然と漏れ出ただけの覇気に、私は気圧されたのだ。
「……それは……あなたも、負ける可能性がある、と……?」
自分で言ってあり得ないことだと思った。
しかし同時に、あり得るかもしれない可能性も脳裏に過った。
扉を潜るタイミングで彼の背後へと投げ掛けた問いに、ビモクは後ろ手で扉を閉める直前に振り返って笑みを浮かべた。
「勝つさ」
その言葉を最後に、ビモクの姿は扉の奥に消えた。
救護室に静寂が戻っても、私はしばらく閉じられた扉を見つめ続けていた。
——明日の僕は、本気だ。
あの言葉が頭の中で何度も反芻する。
今日の試合、私は間違いなくビモクに全力以上の力を引き出された。
死を予感させる神速の斬撃、今まで受けてきた中で別格の殺気、私の攻撃を冷静にいなし自身の攻撃へ繋げる圧倒的技量、そのどれもが私にとっては手の届かない超一線級のものだった。それらが全て——。
「……本気では、なかった……?」
呟いた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
そして今日の試合の最初、彼の言った言葉が脳裏を過る。
——元々準備運動がてら身体動かすつもりだったし、付き合ってあげる。
彼は『準備運動』と確かに言った。
ならばそれは何に対しての準備運動なのか……決まっている。
「ジミナ・セーネン……」
私は知らず知らずの内に拳を握り締めていた。
今日の試合で見せた神速の居合。
私には最後までその全貌を捉えることができなかった。
あれですら本気ではないというのなら……。
ジミナ・セーネン——彼は一体どれほどの強さを持っているのだろうか……。
明日の試合だけは、何があっても見届けなければならない。そのためには今はこの身体を治すことに専念せねば。
そう思い私はビモクから受け取った増血薬に視線を落とした。
——そして私はあることに気付いた。
手に持った小瓶には確かに『増血薬』と書かれていた。これをビモクは棚を漁って見つけ出し、離れた場所にいる私へ正確に投げ渡してきた。あの、
「——ッッ!?!?!!」
そこまで考えたところで耐えがたい羞恥心に襲われた。熱を持った顔面を両手で覆い、ボフッと勢いよくベッドのシーツに顔を埋め、身をよじって悶えた。それは紅の騎士団の面々が救護室に駆け込んで来て、何があったのかと執拗に訊いてきたことでやっと終わりを迎えた。
私の人生で最も消えてなくなりたいと望んだ瞬間であった。
私は絶対に忘れることはないだろう。
試合で負けたことも、泣いてしまったことも、そしてそれを見られてしまったことも……特に最後は絶対に忘れない。
私は必ずビモクに一泡吹かせてやると、より強く心に誓ったのだった。
羞恥に顔を赤らめ、涙が溜まった目で睨みつけるアイリス様……かわいいです。
戦闘描写の最中に更新が空き過ぎると緊張感まで吹っ飛んじゃいそうなので、次は章完結まで書き終わってから連日投稿するつもりです。
ブシン祭編(第四章)は後3話くらいで締める予定です。プロット自体は出来ているので7月の第一週のどこかで出すと思います。もうしばらくお待ちください。