途切れた旋律の先で 作:ピックって高くね…?
夜の街を歩く人々の声が遠ざかり、棗はただ一人、足を止めていた。 胸の奥で、昼間から鳴り止まないざわめきが続いている。
――セカイ。
あの日を境に、二度とその名を口にすることはなかった。 あの“音”が途絶え、伊波藍がこの世からいなくなったあの日から。
——あの頃、確かに“セカイ”は存在していた。 音が重なり、言葉が混ざり合い、誰もが自分の居場所を見つけられた。 だが、伊波藍が逝ったあの日を境に、そのセカイは音を立てて崩れ落ちた。 ステージも、練習室も、彼らの心にあったはずの浜辺の風景さえも。
藍と仲が良かったミクも、いつものように笑いながら消えた。
『藍ちゃんが寂しがるから、もう行くね!』
なんて口にして、俺たちのことを置いていった。
残された楽譜のタイトルは、白紙に戻っていた。 それまで藍が名付けた曲名はすべて消え、ただ“untitled”の文字だけが、無言のままそこに残っていた。 何も言葉を残さずに去った藍が、最後に伝えた沈黙。 それが、彼らにとっての“終わり”の合図だった。
あの場所に戻ることは、過去を掘り返すことに等しい。
だが、誉はあえてその言葉を口にした。 「今夜、セカイに来てくれ」と。
逃げる理由も、行かない理由も、もうない。 ――行くしかないだろう。
深く息を吸い、棗はプレイリストの奥に眠る『untitled』を選択した。
* * *
気づけば、そこはもう現実ではなかった。
柔らかな光に包まれた空間。
終わりのないステージと、漂うような旋律の残響。
“セカイ”――それは、彼ら三人の音楽が生まれ、そして終わった場所。
かつては陽光にさらされた浜辺だったそれは、今では月明かりに照らされた幻想的な空間へと変化していた。
ステージの中央には、既に誰かが立っていた。
小豆沢誉。
手には、あの頃と変わらないギターがあった。
「……来たか」
その声は静かで、それでいて確かな決意を含んでいた。
「まさか、お前がここに先に来てるとは思わなかった」
「僕もだよ。もう二度とここに立つことはないと思ってた」
視線は手に持つギターに。
「ギター、持ってきたんだな」
「お前こそ」
棗の手には、あの頃のベースが握られている。
互いに言葉を失う。 ただ、響くのは波の引く音だけ。
棗がゆっくりと問いかける。
「……で、話ってのは?」
誉は少し俯いてから、目を上げた。 その瞳の奥に、確かに迷いと痛みがあった。
「棗。――IAには会ったか?」
「IA……?」
突然出てきた名に、棗の眉がわずかに動いた。
「大学の帰りに出会った。歌を歌う灰髪の少女だ。……けれど、最初に声を聞いたとき、信じられなかった」
誉は小さく息を吸い、指先で弦を弾いた。 その旋律は、かつて藍が歌っていた曲のイントロだった。
「その歌声が――藍に、あまりにも似ていたんだ」
棗の心臓が跳ねる。
懐かしい、そして痛いほどに鮮明な記憶が胸を突き上げる。
藍の笑顔、彼女の声、そして最後に交わした約束。
『次は、もっといい曲を作ろうね。』
あの日、交わしたはずの言葉。
果たされることなく、途切れた旋律。
「……そのIAが、藍の“残響”なのか?」
「分からない。彼女が、僕をこのセカイに導いた」
藍の活発さを象徴するような陽光は消え、浜辺に打ち付ける波も静かだ。まるで、藍を亡くして熱を失った自分たちのように。
「正直言って、彼女が何者なのかはわからないし、どうでもいい。でも、あの歌を聞いた瞬間、また弾かなきゃと思った」
誉はそう言って、ギターを構える。
「お前に言いたかったのは、それだけじゃない。 ――もう一度、音を合わせないか」
その一言に、棗は目を見開いた。
「……俺たちが、か?」
「そうだ。あの日の続きを、今度こそ」
セカイの空気がわずかに揺れる。 まるで、失われた旋律が再び息を吹き返そうとしているようだった。
棗はゆっくりと目を閉じ、懐の中のピックを握りしめる。
――もう一度、あの音を。
ゆっくりと目を開け、誉の隣に立つ。
二人の視線が交わる。
長い沈黙の後、棗が小さく笑った。
「……勝手に先行ってんじゃねぇよ」
「悪い、待ちくたびれたんだ」
軽口を交わした次の瞬間、二人は弦を鳴らした。
違う音が、同じ場所で重なる。
懐かしく、そして新しい響き。
その旋律が空へと昇ったとき、遠くでかすかな声が聞こえた。
――“また、会えたね”
棗と誉は同時に顔を上げる。
セカイの光の中、淡く透けるように立つ少女。
その姿は、かつての仲間――伊波藍に、あまりにも似ていた。
「お前は…」
「やはり君か、IA」
こちらを見て微笑む少女の髪は、月明かりに反射して銀色のようにも見える。
「久しぶり、誉。棗は初めましてだよね?」
「…ああ、そうだな。知ってるみたいだが、浅葉棗だ」
「うん、知ってる。会えて嬉しい」
IAは静かに二人の間に歩み寄った。
その足取りは、まるで波打ち際を踏みしめるように、音もなく柔らかい。
近づくほどに、その姿が藍と重なっていく。
けれど、その瞳には――藍のものとは違う、確かな“今”が宿っていた。
「よかった。これで、Rebearlion復活だね。ねえ、また三人で音を奏でてよ。あのときみたいに、心を重ねて」
その声に、誉はわずかに目を伏せる。
懐かしさと痛みが、胸の奥で静かにせめぎ合っていた。
それでも彼は、ゆっくりと首を横に振る。
「……いや、再結成はしない」
IAの瞳が一瞬だけ揺れた。
けれど誉の声には、迷いよりも、どこか穏やかな確信があった。
「Rebearlionは、あの時で終わりだ。もうライブでの演奏はしない」