賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい   作:パラレル・ゲーマー

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第1話

 その日、橘栞はプロジェクトの最終納品を終え、安堵と疲労が入り混じった深いため息をついた。時刻は午後三時。クライアントからの素早い検収完了通知を受け取り、請求書をクラウドサービス経由で送付する。これでまた、向こう二ヶ月は最低限の文化的な生活が保証された。

 

 彼女の仕事場兼住居は、都心にほど近い、築浅の小綺麗なマンションの一室。フリーランスのWebデザイナーという職業は、世間一般のイメージほど華やかではないが、組織の人間関係という最大のストレス要因から解放されるという一点において、栞にとっては天職だった。元々都心のIT企業で数年働いていた経験と貯金が、その独立を後押しした。以来、彼女は堅実にキャリアを積み上げ、今では指名の仕事だけで十分に生計を立てられるようになっている。

 

 がらん、とした一LDK。生活感の希薄な部屋は、彼女の性格そのものを表しているかのようだ。インテリアは白とグレーを基調とし、余計な装飾は一切ない。リビングの一角を占めるのは、彼女の城であるワークスペース。トリプルディスプレイ構成の大型モニター、静音性に優れたキーボード、手首の負担を計算し尽くされたマウス。そこにだけ、彼女のこだわりと情熱が凝縮されている。それ以外の家具は、食事と睡眠という生命維持活動を最低限こなすための、機能的なオブジェでしかなかった。

 

「さて…」

 

 栞は固まった身体をほぐすように大きく伸びをすると、ワークチェアから立ち上がった。キッチンの戸棚からお気に入りのマグカップを取り出し、ドリップ式のコーヒーを淹れる。窓の外では、九月下旬の穏やかな太陽が、コンクリートのジャングルを平等に照らしていた。ソファに深く身を沈め、淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、栞は思考を巡らせる。次の仕事の着手は明後日からでいい。丸一日以上、完全な自由時間がある。溜まっている積読を消化するか、没頭しているシミュレーションゲームの続きをやるか。あるいは、何もせず、ただぼんやりと時間を溶かすのも悪くない。

 

 そんな、ありふれた日常の、ありふれた午後。

 それは、何の前触れもなく、彼女の目の前に現れた。

 

【――スキル『賢者の石』を入手しました】

 

「…………は?」

 

 栞の整った顔から、表情が抜け落ちた。

 目の前の空間に、半透明のウィンドウが浮かんでいる。デザインは、彼女が普段から見慣れているゲームのUIによく似ていた。ゴシック体の白いフォントが、背景をうっすらと透かしながら、明確な意思を持ってそこに存在している。

 瞬きを数回。目を擦り、もう一度見る。消えない。右に視線をずらせばウィンドウも追従してくる。左も同様だ。どうやらこれは、網膜か、あるいは脳に直接投影される類のものらしい。

 

 VRかARの類だろうか。いや、自分はそんなデバイスを身につけていない。幻覚? 過労だろうか。しかし、彼女の精神は驚くほど冷静だった。数々のバグやシステムエラーと戦ってきた経験が、こういう異常事態への耐性を育んでいたのかもしれない。

 

「スキル…賢者の石…」

 

 口に出して読んでみる。声は震えなかった。

 彼女はコーヒーを一口飲むと、マグカップをローテーブルに置いた。そして、長年連れ添った相棒に語りかけるように、そのウィンドウに向かって思考を集中させた。

 

(スキルを使用する)

 

 まるで、それが当然のコマンドであるかのように、栞は心の中で念じた。すると、ウィンドウの表示が即座に切り替わる。

 

【――代価が必要です】

 

「代価…」

 

 なるほど、と栞は頷いた。やはりゲーム的だ。何かを発動するには、MPやリソース、あるいはアイテムが必要になる。そういうことなのだろう。彼女は室内を見回した。ワークデスクの上、ソファのクッション、読みかけの本。この部屋にあるもの全てが、代価になり得るということか。

 しかし、いきなり大事なものを捧げるのは悪手だ。まずは、失っても惜しくないもの、そして価値が分かりやすいもので試すべきだろう。セオリーだ。

 

 栞は立ち上がると、リビングのチェストの上に置いていた小物入れに歩み寄った。中には、外出時に使った小銭が乱雑に入れられている。その中から、一枚の百円硬貨をつまみ上げた。日本国において、百円という価値は非常に明確だ。自動販売機で飲み物が一本買える。それくらいの価値。

 

「これで、試してみよう」

 

 彼女は百円玉を手のひらに乗せ、再びウィンドウに意識を向けた。

 

(これを、代価として捧げる)

 

 その瞬間、手のひらにあったはずの硬貨の感触が、ふっと消えた。見れば、百円玉は跡形もなく消失している。驚きはしたが、恐怖はない。むしろ、知的好奇心がじわじわと満たされていくのを感じた。

 ウィンドウの表示が、三度変わる。今度は、いくつかの項目がリスト形式で表示されていた。

 

【代価:100円】

【交換可能なリスト】

 

 緑茶(500mlペットボトル)

 

 缶コーヒー(微糖・185ml)

 

 ミネラルウォーター(500mlペットボトル)

 

 チョコレートバー

 

「…………」

 

 リストの一番上にあった「緑茶」という項目を、試しに選択してみる。選択、と意識しただけで、その項目がハイライトされた。そして、確定、と念じると、ウィンドウは消え、代わりに目の前のローテーブルの上に、ぽとり、と何かが現れた。

 見慣れたデザインの、ごく普通の緑茶のペットボトルだった。水滴一つついていない、常温のそれが、まるで最初からそこにあったかのように鎮座している。

 

 栞はそれを手に取った。重さも、ラベルの感触も、本物だ。キャップをひねると、プシュ、と小気味よい音がする。一口飲んでみる。味も、いつも自分がコンビニで買っている緑茶そのものだった。

 

「うーん…等価交換の能力、かしら」

 

 百円玉が、百円相当のペットボトルに変わった。現象としては、ただそれだけだ。だが、そのプロセスは常軌を逸している。硬貨はどこへ消えたのか。このペットボトルは、どこから現れたのか。物質転送? 物質変換? あるいは無からの創造?

 仮説が、次々と頭に浮かんでくる。

 

「なにこれ…面白いわね!」

 

 栞の目に、きらりと知的な光が宿った。

 それは、難解なコードの仕様を理解した時や、複雑なゲームの隠し仕様を見つけた時と、全く同じ種類の輝きだった。

 彼女は、この不可思議なスキル『賢者の石』を、完全に解析してみたくなった。

 

 それから数時間、栞は徹底的に実験を繰り返した。

 まずは、身の回りの目に付くものを、手当たり次第に代価として捧げていく。

 

 ワークデスクの引き出しにあった、使いかけの消しゴム。これを代価として捧げると、表示された交換リストは「鉛筆の芯一本」や「クリップ数個」といった、あまりにも些細なものばかりだった。

 飲みかけで気の抜けた炭酸水のペットボトル。これも、価値はほとんどないようだった。「コップ半分の水」と交換するのが関の山だ。

 読み終えた文庫本、芯のなくなったボールペン、リモコンの単四電池一本。どれもこれも、生成されるリストは大したものではない。

 

「なるほど。代価の価値は、そのものの購入時の価格だけじゃなく、現在の状態や希少性も加味される、と。一種の時価評価額みたいなものね」

 

 呟きながら、栞はタブレットに結果をメモしていく。その姿は、未知の現象に遭遇した科学者のようでもあり、新しいゲームの攻略サイトを作っているゲーマーのようでもあった。

 実験を続けるうちに、いくつかの法則が見えてきた。

 

 第一に、代価の価値が低いと、交換リストの選択肢も極端に少なく、かつ価値の低いものに限られること。

 第二に、「自分にとっての価値」は、あまり評価に影響しないらしいこと。例えば、彼女が気に入っているマグカップを代価にしようとしても、システムが提示する価値は、市場価格と大差なかった。あくまで、普遍的・社会的な価値が基準となっているようだ。

 

「……これじゃ、埒が明かないわね」

 

 数時間の実験を終え、栞はソファに深くもたれかかった。部屋の中の細々としたものを代価に変えても、このスキルの本質にはたどり着けない。もっと大きな、そして基準の明確な価値を持つ代価が必要だ。

 そこで、彼女が思い至ったのは、先ほども使った、最も分かりやすい価値の指標だった。

 

「お金、か」

 

 現代社会において、これほど普遍的で、強力な価値の尺度はないだろう。

 栞は決心した。次は、もっとまとまった金額で試してみる。中途半端な額では意味がない。自分の貯金の中から、動かしても生活に支障がなく、かつ、ある程度の「出来ること」が期待できる金額。

 

「十万円、程度でいいでしょ」

 

 彼女は財布とスマートフォンだけを持つと、億劫な外出も忘れて、マンションの一階にあるコンビニへと足を向けた。ATMで、真新しい一万円札を十枚引き出す。その足で部屋に戻ると、指で数えるのももどかしいとばかりに、その札束をローテーブルの上に置いた。

 

 これが、今の自分が出せる、実験のための最大投資額。

 ごくり、と喉が鳴る。栞は深呼吸を一つすると、札束に意識を集中させた。

 

(十万円を、代価として捧げる)

 

 一瞬の静寂。

 そして、ローテーブルの上にあったはずの十枚の一万円札が、まるで陽炎のように揺らめき、音もなく消え去った。

 同時に、目の前に再び半透明のウィンドウが現れる。

 

 今度のリストは、これまでのものとは比較にならないほど長大だった。スクロールバーが表示されており、その小ささから、項目が数百、あるいは数千に及ぶことが見て取れた。

 

【代価:100000円】

【交換可能なリスト】

 

 最新型ノートパソコン(指定モデル)

 

 国内線往復航空券(指定区間)

 

 高級レストランディナーコース(2名様分)

 

 一ヶ月分の食料品詰め合わせ(高品質)

 

 ブランド物のバッグ(指定モデル)

 

 全身マッサージ(240分)の効果を瞬時に与える(コスト:10000円)

 

 外国語(日常会話レベル)の知識を一時的にインストールする(コスト:50000円)

 

 半径1メートル以内の任意の物体を10cm浮遊させる権利(1回)(コスト:1000円)

 

 ……

 

 ……

 

 念動力(初級)(コスト:100000円)

 

 ……

 

「…………なるほど」

 

 栞は、息を呑んだ。

 リストの前半は、予想通りだった。十万円という金額で、現代の日本社会で享受できるサービスや商品が並んでいる。興味深いのは、後半部分だ。

 マッサージの「効果」だけを抽出したり、知識を「インストール」したり。物理的な商品だけでなく、無形のサービスや、概念的なものまで交換対象になっている。

 

 そして、何よりも彼女の目を引いたのは、リストのさらに下の方にあった、異質な文字列だった。

 

「念動力…」

 

 サイコキネシス。超能力。SFやファンタジーの世界の産物。

 それが、まるで家電製品か何かのように、当たり前のようにリストに並んでいる。コストは、十万円。今、自分が捧げた全額だ。

 

 栞は、他の項目にもざっと目を通した。他にも「身体能力の一時的な強化」や「限定的な未来予知」など、明らかにこの世界の物理法則から逸脱した項目が散見される。

 どうやらこの『賢者の石』は、単なる等価交換スキルなどではないらしい。この世界の法則そのものに干渉し、書き換える力を持っている。

 

 面白い。面白すぎる。

 栞は、迷わなかった。最新型のPCも、高級ディナーも、今の彼女の探究心の前では色褪せて見える。彼女が知りたいのは、この力の限界。この世界の限界だ。

 

(『念動力(初級)』を選択)

 

 彼女がそう念じると、長大だったリストは消え、代わりに短いメッセージが表示された。

 

【代価100000円を消費し、スキル『念動力(初級)』を獲得します。よろしいですか?】

【はい/いいえ】

 

 栞は、躊躇なく「はい」を念じた。

 その瞬間、脳の奥に、今まで感じたことのない情報が流れ込んでくる感覚があった。それは痛みではなく、むしろパズルのピースがはまるような、奇妙な納得感だった。頭の中に、新しい「手足」の動かし方がインストールされるような、そんな感覚。

 数秒で、その感覚は収まった。

 

「……これで、私もサイコキネシスト、ってわけ」

 

 冗談めかして呟いてみるが、心は冷静なままだ。

 彼女は、ローテーブルの上にある緑茶のペットボトルに、意識を集中させた。先ほどまでとは違う、新しい感覚器官を使うように。

 ――浮け。

 心の中で命じると、ペットボトルが、わずかに、数ミリほど、カタ、と音を立てて浮き上がった。

 

「へぇ…」

 

 感嘆の声が漏れる。

 さらに意識を集中させると、ペットボトルはゆっくりと、不安定に揺れながら、栞の手元まで飛んできた。彼女はそれを、空中で掴む。

 今度は、もう少し重いもの。タブレットを浮かせてみる。成功だ。

 次は、ワークチェア。さすがに重いのか、ミシミシと嫌な音を立てるが、それでも数センチは浮き上がった。

 

「なるほど。こりゃ、便利だわ」

 

 引越しや、高いところの物を取る時には重宝しそうだ。使いこなせば、日常生活の様々な場面で役立つだろう。

 栞は、獲得したばかりの新しい力で、しばらく部屋の中のものを浮かせて遊んでいた。しかし、その興奮も十分ほどで急速に冷めていく。

 

「でも、便利止まりね」

 

 これが、十万円。自分の貯金から出した、決して安くはない金額。それで得られたのが、この「ちょっと便利な力」。

 果たして、価値はあったのだろうか。

 

「十万円の価値、ある、これ?」

 

 栞は、空中に浮かべたマグカップを眺めながら、静かに呟いた。

 彼女の探究心は、まだ満たされていなかった。むしろ、飢餓感は増すばかりだ。

 十万円でこれなら、百万円なら? 千万円なら?

 国家予算ほどの代価を捧げたら、一体、どんなリストが現れるのだろう?

 

 窓の外に広がる、きらびやかな都会の夜景。

 それは、数時間前までとは全く違うものに、彼女の目には映っていた。

 無数のビル、行き交う車、蠢く人々。

 そのすべてが、次の実験に使える、莫大な「代価」の山に見えていた。

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