賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい   作:パラレル・ゲーマー

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第79話

 その日、日本の、いや世界の歴史が、静かに、そして不可逆的に、その新しい一ページをめくった。

 東京の空は、まるでこの歴史的な一日を祝福するかのように、どこまでも高く、青く澄み渡っていた。

 だが、その穏やかな空の下、日本の政治の中枢である永田町一帯は、平日の喧騒とは全く異なる、まるで巨大な獣が息を殺しているかのような、極限の静寂と緊張に支配されていた。

 

 国会議事堂を中心とした半径1キロメートルは、前日の深夜から特別警備区域として、完全に封鎖されていた。

 バリケードと物々しい装甲車両が道路を塞ぎ、上空には、所属不明のドローン一機の侵入さえ許さぬと、最新鋭の対空防衛システムが、静かに空を睨んでいる。

 その厳戒態勢の中心、国会議事堂前の広大な前庭。

 普段ならば観光バスや修学旅行生で賑わうその場所に、今、世界の運命を左右する舞台が設えられていた。

 

 今日の主役は、政治家ではない。

 科学者でもない。

 一つの、現象。

『国家空間輸送網整備計画』、通称『ゲート構想』。

 その、人類史上初となる公開実証実験が、全世界に向けて、生中継されようとしていた。

 

 会見場には、国内外から選抜された数百人のジャーナリストたちが、まるで判決を待つ被告人のように、指定されたプレスエリアで、固唾を飲んでいた。

 彼らの視線の先、議事堂の重厚な中央玄関を背にして、二つの巨大なオブジェクトが鎮座している。

 高さ約5メートル、幅3メートル。白銀色の滑らかな金属でできた、シンプルな長方形のフレーム。

 まだ、それはただの巨大な金属の枠にしか見えない。

 だが、これが、東京と箱根、約80キロの空間を一瞬で繋ぐという、奇跡の『扉』の片割れだという。

 

「……黒崎さん。信じられますか、あれが本当に…」

 テレビ局の特設ブースで、若い女性アナウンサーが、興奮と不安が入り混じった声で、隣に座る男に問いかけた。

 男の名は、黒崎謙司。国民的討論番組『サンデー・クロスファイア』の司会を務める、日本を代表するジャーナリスト。

 その百戦錬磨の彼の顔にも、今日ばかりは、隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。

 

「信じる信じないの段階は、もう終わったよ」

 黒崎は、マイクのスイッチを入れながら、静かに言った。

「我々は今日、神話の目撃者になるか、あるいは国家ぐるみの壮大な詐欺の共犯者になるか。

 そのどちらかだ。…どちらに転んでも、歴史的な一日になることは間違いない」

 

 日本中の、いや、世界中の人々が、テレビやスマートフォンの画面に釘付けになっていた。

 ゲート構想が、沢村総理の口から発表されて以来、日本は熱病に浮かされていた。

 期待、不安、嫉妬、そして欲望。あらゆる感情が渦巻き、国中が、その是非を巡る大論争に明け暮れた。

 だが、それはあくまで、紙の上の、画面の中の話だった。

『ワープ』という、SF映画でしか見たことのない概念が、自分たちの日常と、どう繋がるのか。

 ほとんどの国民にとって、それはまだ実感の伴わない、遠い未来の物語だった。

 

 今日、その物語が、現実になる。

 あるいは、ただの絵空事で終わる。

 その分水嶺に、一億二千万の国民が、そして世界が、固唾を飲んで注目していた。

 

 午前10時きっかり。

 全ての喧騒が、ぴたりと止んだ。

 壇上に、沢村総理と九条官房長官が、硬い表情で姿を現した。

 沢村の顔には、この数ヶ月の心労が、深く刻まれている。

 だが、その瞳の奥には、自らが開けようとしている、パンドラの箱の重みを、全て背負う覚悟の光が宿っていた。

 

「――国民の皆様。そして、この歴史的瞬間を、世界で見守る皆様」

 沢村の声が、マイクを通して、静かに、しかし力強く響き渡った。

「本日、我々は、約束の日を迎えました。

 我が国が、そして人類が、距離と時間という、絶対的な制約から解放される、その第一歩。

 ゲート構想・第一次公開実証実験を、これより、開始いたします」

 

 その言葉を合図に、彼の隣に控えていた九条が、何もない空間に向かって、静かに、しかし明瞭に告げた。

「KAMI様。準備、整いました。いつでも、どうぞ」

 

 その、場違いな呼びかけ。

 記者たちが、何事かとざわめいた、その瞬間。

 沢村と九条の間に。

 何の兆候もなく。

 音もなく。

 あのゴシック・ロリータ姿の少女が、すぅっと姿を現した。

 

「――ッ!?」

 シャッター音が、嵐のように炸裂する。

 映像で、何度も見た。

 だが、生身の、本物の『KAMI』が、日本の総理大臣の隣に、当たり前のように立っている。

 その、異常で、そして神々しい光景。

 だが、当のKAMIは、そんな世界の驚愕など全く意に介していない様子で、退屈そうに一つ、あくびをした。

 

「ふぁ〜あ。…で、始めちゃっていいの?」

「はい。いつでも」

「じゃあ、ちゃっちゃと終わらせましょ」

 

 彼女はそう言うと、二つの白銀のフレームに向かって、まるでリモコンのスイッチでも押すかのように、ぱちんと軽く指を鳴らした。

 

 その瞬間、世界は息を呑んだ。

 それまでただの金属の枠でしかなかった、二つのフレーム。

 その内側の空間が、陽炎のように揺らめき始めた。

 そして、その中心に、小さな光の点が生まれる。

 光は、美しい幾何学模様を描きながら、凄まじい速度で、しかし音もなく、その内側の空間を埋め尽くしていく。

 

 やがて、光が収まった時。

 そこにあったのは、もはやただの枠ではなかった。

 二つの『扉』の内側には、まるで水面のように、しかし垂直に立った、銀色に輝く液体のようなものが、静かに揺らめいていた。

 その表面には、時折、星々が流れる銀河のような光の粒子が走り、その奥は、どこまでも深い、しかし決して不気味ではない、神秘的な蒼色に染まっている。

 

 それは、もはや科学でも、魔法でもなかった。

 ただ、美しい、芸術だった。

 神が作り出した、未知への入り口。

 

「はい、起動完了」

 KAMIは、もう仕事は終わったとばかりに、くるりと沢村の方を振り返った。

「じゃ、あとはよろしく。私、あっちの箱根の方で待ってるから。景色良いし」

 

 そして彼女は、こともなげに、その銀色の水面の一つに、ひょいと足を踏み入れた。

 彼女の身体は、水面に落ちた小石が波紋を広げるように、銀色の液体の中に、すぅっと吸い込まれて消えていった。

 

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、目の前で静かに揺らめき続ける、二つの奇跡の扉だけだった。

 

「……では」

 呆然とする世界を、我に返らせたのは、九条の冷静な声だった。

「これより、最初の『旅行者』に、この扉を通過していただきます」

 

 壇上に、あらかじめ選ばれていた三組の国民が、緊張した面持ちで、歩み出た。

 一組は、未来の象徴。幼い子供の手を引いた、若い夫婦。

 一組は、歴史の象徴。互いを支え合うように寄り添う、金婚式を迎えたという老夫婦。

 そして最後の一組は、困難の克服の象徴。電動車椅子に乗った、若い女性と、その介助者だった。

 彼らは、この国の、ごく普通の、名もなき人々。

 だが今日、彼らは、人類の新しい歴史を、その足で踏み出す、コロンブスであり、アームストロング船長だった。

 

「皆様。準備は、よろしいですかな」

 沢村が、父親のような優しい声で語りかける。

 三組は、こくりと、深く頷いた。

 

「では、まず、Aの扉へとお進みください。

 その先は、箱根です」

 

 若い夫婦が、子供を真ん中にして、手を取り合う。

 そして、意を決したように、ゆっくりと、その銀色の水面へと、足を踏み入れた。

 彼らの身体が、水面に触れた瞬間。

 何の抵抗もなく、すぅっと、その中へと吸い込まれていく。

 まるで、霧の中へと歩み入るかのように。

 そして、完全にその姿が消えた。

 

 数秒の、心臓が止まるかのような沈黙。

 日本中が、そして世界中が、固唾を飲んで、もう一つの扉を見つめていた。

 Bの扉。

 その、銀色の水面が、ぽちゃん、と。

 小さな波紋を立てた。

 そして、その波紋の中心から。

 先ほどの若い夫婦が、子供と共に、何事もなかったかのように、ひょっこりと、その姿を現した。

 

 彼らの背後に広がる風景は、もはや国会議事堂の荘厳な石造りの建物ではなかった。

 どこまでも広がる青い空。雄大な富士山のシルエット。

 そして、穏やかな芦ノ湖の水面が、秋の陽光を浴びて、キラキラと輝いている。

 箱根だった。

 彼らは、確かに、ワープしたのだ。

 

『――お、おお……!』

『着いた…! 本当に、着いたぞ!』

 

 中継先の箱根の会場から、割れんばかりの歓声と、アナウンサーの興奮しきった声が、スピーカーを通して、永田町に、そして全世界に響き渡った。

 永田町の会場もまた、遅れて、爆発的な歓声に包まれた。

 

「うおおおおおおお!!!」

「やった! 本当にできたんだ!」

 

 記者たちが、その冷静さをかなぐり捨て、子供のようにはしゃぎ、互いにハイタッチを交わしている。

 黒崎もまた、その口元が興奮に震えるのを、抑えることができなかった。

 

 続いて、老夫婦が。

 そして、車椅子の女性が、次々とAの扉をくぐり、そして数秒後には、Bの扉から、箱根の美しい風景の中に、その姿を現した。

 車椅子の女性が、介助者に支えられながら立ち上がり、震える足で、生まれて初めて、箱根の土を踏みしめる。

 その瞳からは、大粒の涙が、止めどなく溢れ出ていた。

 

 その、感動的な光景。

 日本中が、泣いた。

 それは、単なる技術の成功ではなかった。

 距離が、時間が、そして身体的な障害さえもが、人の想いを阻むことのできない、新しい時代の、優しい幕開けだった。

 

 

 

 その日の午後。

 日本は、完全に祝祭のムードに包まれていた。

 実証実験は、大成功に終わった。

 その後、沢村総理自身も、閣僚たちを引き連れてゲートを通過し、箱根で待つKAMIと共に、記念撮影に応じた。

 その映像は、この国の新しい時代の始まりを象徴する一枚として、未来永劫、歴史の教科書に掲載されることになるだろう。

 

 ゲートは、もはやSF映画の中の絵空事ではなかった。

 それは、現実だった。

 自分たちの日常の、すぐ隣にある、確かな未来だった。

 

 渋谷のカフェ。

 高校生のカップルが、スマートフォンの画面に映し出されるゲートの映像を見ながら、目を輝かせていた。

「…すごい。ねえ、これ、もし渋谷と原宿にできたら、もう歩かなくて済むじゃん」

「ばか。それくらい歩きなさいよ。…でも、もし、あたしの家の近くと、あんたの家の近くにできたら…」

「…毎日、会えるな」

 二人の間に、甘い沈黙が流れた。

 

 北海道、札幌の時計台の前。

 雪虫が舞い始める季節。コートの襟を立てた老夫婦が、街頭の大型ビジョンに映し出される箱根の光景を、感慨深げに見上げていた。

「…お婆さん。わしらも、もう一度、行けるかもしれんなあ。新婚旅行で訪れた、あの箱根に」

「ええ、お爺さん。今度は、あなたの足が痛むのを、心配しなくてもいいんですものね」

 老夫婦は、そっと、皺の刻まれた手を取り合った。

 

 大阪、道頓堀。

 グリコの看板の下で、たこ焼きを頬張っていた若者たちが、歓声を上げていた。

「やったで! これで東京まで、終電気にせんで遊びに行けるやん!」

「アホか! 逆や! 東京の奴らが、こっちに金落としに来るんや! 大阪の時代が、来たんやで!」

 

 日本中が、実感していた。

 自分たちの生活が、これから、根底から変わっていくのだと。

 これまで、地理的な制約によって諦めていた、あらゆる可能性の扉が、今、目の前で、大きく開かれようとしているのだと。

 

 もちろん、議論がなくなったわけではない。

 むしろ、ここからが本番だ。

 ゲートの設置場所を巡る、醜い誘致合戦は、さらに激化するだろう。

 セキュリティや、法整備の問題も、山積みだ。

 だが、その議論の質は、今日この日を境に、完全に変わった。

「もし、できたら」という仮定の話ではない。

「いつ、どこに、どうやって作るのか」という、具体的な、そして自分たちの未来に直結する、切実な議論へと。

 日本は、一つの巨大な夢を、確かに、共有したのだ。

 

 官邸の執務室。

 全ての公務を終えた、沢村と九条は、その四つの身体で、静かに、窓の外に広がる東京の夜景を見下ろしていた。

 モニターには、今もなお日本中を覆う、祝祭の熱狂が、無数の光点となって映し出されている。

 

「……終わったな、九条君」

 沢村の本体が、この数ヶ月で、最も穏やかな声で言った。

「ええ。終わりました。…そして、始まりましたな、総理」

 と、九条の本体も答えた。

「これからが、本当の地獄ですよ。一億二千万の、具体的な欲望と、我々は向き合わねばならんのですから」

 

 その言葉に、沢村は、ふっと笑った。

「ああ。そうだな。…だが、不思議と、今日の地獄は、少しだけ、楽しめそうな気がするよ」

 

 その顔には、もはや疲弊しきった中間管理職の姿はなかった。

 自らが描いた未来の地図を手に、これから始まる大航海へと、その胸を躍らせる、一人の冒険家の顔が、そこにあった。

 

 神が不在のまま。

 人間たちは、自らの手で、自らの未来への、確かな一歩を、今、確かに、踏み出したのだった。

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