賢者の石を手に入れた在宅ワーカーだけど、神様って呼ばれてるっぽい   作:パラレル・ゲーマー

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第99話

 午前三時。

 日本という国家が、その機能の大部分を深い眠りに委ねる丑三つ時。

 

 だが、首相公邸の執務室だけは、蒼白いホログラムの光に照らされ、この世のものとは思えぬ異様な覚醒状態にあった。

 

 四つの身体を持つ二人の男――沢村総理と九条官房長官は眠らない。

 神の恩恵によって手に入れた超効率的な肉体は、彼らから人間らしい休息を奪い、国家という巨大な機械を動かし続けるための、永遠の責務を課していた。

 

 その、あまりにも静かで、あまりにも非人間的な執務空間に、慌ただしい足音と共に三人の男たちが招き入れられた。

 

 防衛大臣・五十嵐。

 警察庁長官・高梨。

 そして財務大臣・麻生。

 

 三省庁のトップである彼らは、パジャマ姿から無理やり引き剥がされ、官邸の黒塗りの車で連行されてきたのだ。その顔には「何事か」と訝しむ緊張と、深夜の理不尽な呼び出しに対する隠しきれない不満の色が浮かんでいた。

 

「……こんな時刻に、一体何事ですかな、総理」

 

 財務大臣の麻生が、欠伸を噛み殺しながら、不機嫌そうに口火を切った。

 だが、彼らの目に映った光景は、その不満を瞬時に凍りつかせるのに十分だった。

 

 部屋の四隅に、完璧に分業された体制で、四人の沢村と四人の九条が座っている。いや、立っている。いや、別のモニターで誰かと通信している。

 

 その、あまりにも異常な光景。

 この国の最高機密を知る彼らでさえ、この『分身』という神の御業には、未だに生理的な嫌悪感と、根源的な畏怖を覚えていた。

 

「お集まりいただき、感謝する」

 

 本体の沢村が、重々しく口を開いた。彼の声には、もはや詫びる色はない。ただ、これから投下される爆弾の重みだけが滲んでいた。

 

「九条君。説明を」

「御意」

 

 九条の本体が立ち上がる。

 彼の背後のホログラムモニターに、「最高機密(トップシークレット)」の印が押された、渋谷ダンジョン先行調査の映像が映し出される。

 

「単刀直入に申し上げます。本日、自衛隊の先行調査により、ダンジョン・システムの二つの恐るべき仕様が確定いたしました」

 

 九条は、淡々と、そして無慈悲に、その二つの地獄を説明し始めた。

 

 第一の地獄。『アイテムボックス』。

 

 モニターに、研究所での実験映像が映し出される。隊員の一人がアタッシュケースをアイテムボックスに収納し、空港の金属探知機、麻薬探知犬、そしてガイガーカウンターが設置されたセキュリティゲートを、何事もなかったかのように通過していく。

 

「……なんと」

 警察庁長官の高梨が呻いた。

 

「アイテムボックスの内部は、我々の宇宙とは異なる、完全に隔離された異空間であると断定されます」

 九条は、感情の揺れ一つなく続ける。

「いかなる物理的・化学的・放射線的な検知も不可能です。これは究極の『密輸』ツールであり、そして『凶器の運搬』手段です」

 

 高梨の顔から、急速に血の気が引いていく。空港、港湾、全ての国境防衛システムが、今この瞬間、無力化されたことを意味していた。

 

「そして、第二の地獄。『超人問題』です」

 

 九条は次の資料を提示した。

 並行世界のデータと、渋谷の隊員のバイタルデータを比較した、恐るべきグラフ。

 

「レベルアップによる身体能力の増強は、我々の想像を遥かに超えていた。並行世界の事例では、レベル20の探索者が、時速60キロのトラックと正面衝突しても、HPが半分削れただけで、骨折一つ負わなかったという、笑い話のような、しかし真実の記録が残されています。……半年後、このような『超人』が野に放たれるのです」

 

 執務室は、死のような静寂に包まれた。

 防衛大臣の五十嵐だけが、その武骨な顔に隠しきれない興奮と戦慄の色を浮かべ、「……歩く戦車か」と小さく呟いていた。

 

「この二つの、国家の存亡に関わる脅威に対し――」

 沢村が引き取った。

「我々は、一つの結論に達した。それは、**『超人による新たな治安維持部隊の創設』**である」

 

 その言葉を待っていたかのように。

 それまで沈黙を守っていた防衛大臣・五十嵐と、警察庁長官・高梨が、同時にそして激しく、火花を散らした。

 

「総理! そのご決断、賢明です!」

 五十嵐が力強く叫ぶ。

「これはもはや警察事案ではない! 相手は歩く戦車であり、国境を無視するテロリストです! これは明確な『国防』の問題! 我が自衛隊の特殊作戦群と、つくばの『月読』の魔法技術者を母体とした、防衛省直轄の、全く新しい統合任務部隊を創設すべきです!」

 

「お待ちいただきたい、大臣!」

 高梨が即座に遮る。

「断じて違う! これはどこまでいっても国内の『治安維持』であり、我々警察の専管事項だ! 自衛隊が国内で日本人を相手に武器(魔法)を使用するなど、憲法が許さん! そのような前例を作れば、この国は戦前に逆戻りだ! 新組織は、あくまで警察組織の拡大・特殊化として、国家公安委員会と警察庁の指揮下に置くべきである!」

 

「高梨長官! あなたは、まだ事態が分かっていない!」

 五十嵐の怒声が響く。

「あなたの部下の機動隊員が、その貧弱なジュラルミンの盾で、レベル20の超人のパンチを受け止められるとでも!? これはもはや『犯罪者』ではない! 『脅威』なのだ!」

「だからこそ、法と秩序の番人である我々が、その力を管理するのだ!」

「指揮系統の混乱を招くだけだ! 防衛省が一元管理すべきだ!」

 

 国家の未来ではなく、自らの省庁の主導権(ナワバリ)を巡る、醜い、しかし本質的な泥沼の議論。

 沢村の分身の一人が、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。

 

 その、あまりにも不毛な争いを、氷のように冷たい声が断ち切った。

 

「――お二人とも。その極めて重要な指揮系統の議論は、また後ほど存分になされればよろしい」

 

 声の主は九条だった。

 彼は、それまで沈黙を守っていた最後の男――財務大臣・麻生へと、その冷徹な視線を向けた。

 麻生は、他人事のように腕を組んで、その醜い争いを眺めていた。

 

「麻生大臣。今お二人が議論されている、この『超人警察』構想。これを実現するためには、半年という、あまりにも短い期間で、全てを成し遂げねばなりません」

 

 九条は、まるで死刑宣告でも読み上げるかのように、淡々と内訳を告げた。

 

「全国から一万人の、最高の人材を選抜・スカウトする。

 彼らを収容し育成するための、富士の『月読』と同等、あるいはそれ以上の規模を持つ、巨大な専用訓練施設の即時建設。

 彼らに支給する、魔石と最新技術を融合させた次世代の特殊装備の開発と量産。

 そして何より、彼らが安心して命を懸けられるだけの、法外な危険手当と遺族への補償制度の確立」

 

 九条はそこで一度息を吸い、神の請求書を、麻生の目の前に叩きつけた。

 

「これらにかかる費用として、緊急補正予算概算――三兆円を、今この瞬間、承認していただきたい」

 

「…………」

 

 執務室が凍りついた。

 先ほどまで、あれほど激しく言い争っていた五十嵐と高梨さえも、そのあまりにも現実離れした金額に息を呑み、財務大臣の顔を見つめた。

 

 麻生は、数秒間何も言わなかった。

 その普段はどこか飄々とした顔から、全ての表情が抜け落ちていた。

 

 やがて彼は、ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がった。

 そして彼の口から、この国の中枢を揺るがす、魂の叫びがほとばしり出た。

 

「――今から予算を出すんですか!? 無茶なッ!!」

 

 その怒号は、もはや九条一人に向けられたものではなかった。

 この、あまりにも理不尽な「神の世界」そのものへの抗議だった。

 

「あなた方は正気か!? 沢村総理! 九条長官!」

 彼は、普段の麻生節とは似ても似つかぬ、激昂した声でまくしたてた。

「我が省が、今何に追われているか分かっておられるのか!

 あなたが始めた『ゲート構想』! あの、日本の全てのインフラを百年前倒しにするという狂気のプロジェクト!

 その第一次整備費用だけで、既に国家予算は火の車だ!

 その上で! あなた方は何を始めた!? 『ダンジョン税制調査会』だと!?

 『B案(特例措置)』だの『遡及して還元金を給付する』だの、ふざけたことを!

 あれは国庫から金が出ていく話ではない! 我が国の未来永劫の『歳入』の根幹を揺るがす議論なのだぞ!

 その財源の地獄の調整を、我々財務省に全て丸投げしておきながら!!

 今度は理由も定かではない『三兆円』を、『今すぐ出せ』だと!? ふざけるのも大概にしろッ!!」

 

 彼は肩で荒々しく息をした。

「印刷機でもあるまいし、どこにそんな金がある! お答えいただこうか、総理!」

 

 あまりにも正論で、あまりにも絶望的な魂の叫び。

 執務室は再び、死の静寂に包まれた。

 

 沢村は、その怒りの奔流を、ただ黙って受け止めていた。

 

「……大臣。お気持ちは痛いほど分かります」

 

 静寂を破ったのは、この地獄の設計図を描いた男――九条の、どこまでも冷たい声だった。

 

「ですがこれは『支出』ではありませぬ。『投資』です」

 彼はモニターに、あの並行世界のシミュレーションデータを再び映し出した。

「もしこの三兆円の投資を怠り、レベル20の超人によるテロが東京で一度でも起きれば、その経済的損失は数十兆円規模に達します。三兆円は、その未来の破滅を防ぐための、最も安価な保険料です」

 

「……『投資』か」

 

 麻生は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。

 そして、この数週間で練り上げてきた、唯一の、そして最強のカウンターカードを切った。

 

 彼の顔から、激昂の色がすっと消え失せる。

 そこにあったのは、この国の財政を、その一点のみにおいて守り抜くという、冷徹な『財務省の論理』の化身としての顔だった。

 

「……結構でしょう、長官。あなたの言う『投資』、認可いたしましょう」

 

「ほ、本当か、麻生大臣!」

 沢村が思わず身を乗り出す。

 

「ええ。ただし、条件がございます」

 

 麻生は、冷ややかにその取引条件を突きつけた。

 

「その『投資』の原資は、どこから出すのですかな? 国債ですか?

 これ以上、財政規律を乱せば、我が国の信用は地に落ちる。

 ……九条長官、総理。取引をしましょう。

 

 ダンジョン関連の支出は、ダンジョンで得られる利益から出すべきです。

 我々財務省は、この三兆円を『特別ダンジョン対策予算』として計上することを認めましょう。

 ただし、その財源は一般会計からではない。

 

 半年後に設立される『国際公式ギルド』の日本支部が得るであろう、未来の魔石売却益を担保とします。

 この三兆円は、ギルドの利益から最優先で国家に返済するという、法的拘束力のある覚書を、今この場で結んでいただけるのであれば――許可しましょう」

 

 あまりにも狡猾で、あまりにも完璧な交渉。

 

 九条は数秒間黙っていた。

 彼は理解した。麻生は、この三兆円の支出を認める代わりに、国家の財源を一切傷つけることなく、設立される前のギルドに対して三兆円の『貸し』を作り、その財政の生殺与奪の権を、未来永劫、財務省が握るという恐るべき布石を打ってきたのだ。

 

「…………」

 

 沢村は、その二人の怪物的な官僚の、高度な腹の探り合いを、ただ呆然と見つめていた。

 だが、彼にはもう選択肢はなかった。

 

「……分かった」

 沢村は、力なく頷いた。「それでいい。予算を組んでくれ」

 

 その降伏宣言。

 

 麻生の顔に、初めて、かすかな、しかし明確な勝利の笑みが浮かんだ。

 彼は、この地獄のような会議で、自らの省の予算を一円たりとも傷つけずに切り抜けたのだ。

 

「書類は明朝までに。沢村総理、九条長官。皆様、お疲れ様でした」

 

 彼は優雅に一礼すると、まるで嵐が通り過ぎた後のように、静かに執務室を退出していった。

 

 後に残されたのは、目的の予算は手に入れたものの、その代償として、未来の組織の首に巨大な鎖をはめられてしまった二人の男。

 そして、そのことの意味さえ理解せず、ただ自分たちの縄張り争いが再開できると、そわそわしている二人の大臣。

 

「――さて、総理。長官」

 

 財務大臣が去ったその瞬間。

 五十嵐が、待ってましたとばかりに咳払いをした。

 

「先ほどの話の続きだが、その新組織の指揮系統は、やはり防衛省が一元管理すべきであると……」

「いや、だからそれは警察の専管事項だと、何度言えば分かるのですか、大臣!」

 

 高梨が、即座にその議論を引き戻す。

 

 あまりにも現実が見えていない。

 そして、どこまでも終わりのない、醜い、醜い縄張り争い。

 

 それを、沢村の四つの身体と、九条の四つの身体は、ただただ虚ろな目で見つめていた。

 

 そして八つの口から、まるで一つの合唱のように、完璧にシンクロした、深い、深い、ため息が漏れた。

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