届かない星に手を伸ばし、僕は傷つくことを選んだ   作:加賀崎 美咲

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3話

 間接照明と月光がプールを照らしている。

 

 祥子も睦もみなみさんもいない今日、僕は静かに水の中を泳いでいく。

 

マンションの二階に備えられたプールは住人であればいつでも使えるように準備されている。暇な時、僕はここに足繁く通っていた。

 

 指先でかき分ける温水。

 

 暖かく、僕を包み込んでくれる。それはまるで母の胎の中にいるようで、許されるならずっとここに沈んでいたかった。

 

 そういうこともあって、泳いでいる時は安らかな気持ちで、考え事をする。

 

 思い出すのは、仕事のこと。

 

 朝ドラの収録も終わり、しばらくは休憩期間だとマネージャーさんは言ったいた。

 

 ――休みをもらったって、何をして休んでいろと言うのだ。

 

 思い出すのは友達のこと。

 

 睦は特に変わったことはない。旅番組でもらった珍しい茶葉は今度あそびに行った時に持って行こう。祥子は燈さんとバンドの話をしていた。新しい友好関係は順調らしく、ギターとして睦も誘うとか。

 

 ――祥子は停滞をやめ、前へ進んでいる。

 

 思い出すのは家族のこと。

 

 叔母の子供が生まれた。僕にとっては戸籍上の弟にあたる。

 

 ――……。

 

 水を蹴る足が止まった。推進力を失い、僕は静かにプールの底に沈んでいく。

 

 やがて背中が底にたどり着き静寂が僕を包む。聞こえてくるのは僕の吐き出す息だけ。

 

 思い出すのは苦しいこと。

 

 ――このまま呼吸をずっと止めてしまえば、楽になれるのかな。

 

 目を開いて水面を見上げれば、月の光を反射して白く光っている。

 

 無音の静謐に、月光のメロディが割って入る。

 

 ――祥子からだ。

 

 足に力を入れて、僕はゆっくりと浮上する。

 

 プールサイド。サイドテーブルに置かれた携帯が震えている。

 

 電話は切れてしまっていて、代わりに一件のメッセージが届いていた。

 

『明日、お時間をいただいてもよろしくて?』

 

 ――一体、どんな用事なんだろうか。

 

 

 

 ●

 

 

 

「誰、こいつ?」

 

 祥子に指定された場所に行ってみると出会い頭にそんなことを言われた。

 

 いきなりそんな冷たいことを言われるとは思っていなかったから、対人笑顔のまま固まる。

 

 スタジオと思われる部屋に行ってみると、祥子と睦を含む五人の女の子がいた。そのうちの落ち着いた雰囲気の子が端正な顔立ちを強ばらせて僕を睨んでいる。

 

「昨日話した、もう一人の幼なじみです。紹介します幼なじみの紺野ヒカルですわ。テレビなどで見たことがなくて?」

 

 顔が怖い子と困惑する僕の間に立って、祥子は僕を紹介した。

 

 僕の顔を見ていた柔らかい雰囲気の子が、合点がいったように手を合わせる。

 

「あっ、クラスの子が話してたかも。朝ドラが……、出てるんだっけ?」

 

「見たことあると思ったら芸能人? 何でそんな奴が……?」

 

 顔が怖い子が更に眉をひそめて、困惑する。

 

「立希さん、昨日お伝えしたでしょう? 燈が本番で緊張しないよう、練習の時から誰かに見てもらいましょうと」

 

「ああ……、それで……」

 

 祥子は細部を伝えていなかったらしい。顔が怖い子は立希さんというらしい。

 

「ヒカル、仕事は大丈夫なの?」

 

「もう収録は終わってるから、しばらくは忙しくないよ」

 

「なら、いい。みなみちゃん、ヒカルが来てくれなかったって、昨日言ってたから……」

 

「みなみさんが? なら、今日の帰りに顔を出していこうか」

 

「……喜ぶと思う」

 

 睦はそういうとギターの練習に戻った。相変わらずマイペースなところがある。視線を感じうると、柔らかい雰囲気の子が、僕と睦のやりとりを見つめていたことに気がつく。

 

「……どうかしました?」

 

「え!? いや、睦ちゃんって本当に芸能人の家の子なんだなーって……。疑ってたわけじゃないけれど、睦ちゃん家のこととか話さないから。……あ、わたし、長崎そよっていいます」

 

「うん……、睦も祥子もそれなりに長い付き合いなんだよ。まあ、それはともかく、よろしく長崎さん。紺野ヒカルです。それと……」

 

「お……。…………」

 

 柔らかい雰囲気の子、もとい長崎さんと話していると、先ほどから押し黙っていた子と目が合う。何か言おうとしているけれど、言葉にならないようで、目線を下ろしてそのまま黙ってしまった。

 

「君は……、祥子が話していた高松燈さん?」

 

「おっ……、高松燈です……」

 

 それだけ言うと高松さんは黙ってしまう。スタジオと置いてある楽器の配置から考えると彼女がボーカルなのだろうか。だとしたら、確かにこれは重症だ。

 

 どうしたものかと考えていると、祥子が待ったをかけた。

 

「ヒカル? 燈は確かに内気なところはありますが、彼女の言葉……、詩は凄いんですのよ?」

 

「祥子にそこまで言わせるなんて……、ならとりあえず観客に徹するよ」

 

 邪魔にならないよう、スタジオの隅っこに陣取り体育座り。

 

 呼ばれた理由を考えてボーカルの高松さんを見ていた方が良いかと視線を向けてみると思いっきり目線を逸らされる。ちょっと、しんどい。僕一人と目を合わせられないなんて、これでステージに立つなんて夢のまた夢だ。

 

「……それでは始めますわ」

 

 僕らの様子を見かねた祥子が苦笑とともに手を叩いて、一曲目が始まった。

 

 親切なことに僕の分も楽譜が用意されていた。題名を見れば祥子の字で『春日影』と書いてある。オリジナルなのだろうか。

 

 祥子のキーボードが優しい旋律を奏で、四人の音と声が重なっていく。

 

「凄い……」

 

 思わず溢れた独り言。

 

 四人の旋律に、高松さんの言葉が響いていく。

 

 影の中にいる自分。陽光はみんなと一緒になれない自分を、無理矢理曝していく。その中で温かい光が『僕』を優しく連れ出していく。

 

 僕は高松さんをよく知らない。けれど、彼女の歌は、彼女の書いた詩は、周囲に合わせられない、だけどそう在りたいという叫びだった。

 

 ただの音の羅列が、こんなにも誰かの心を伝えられてしまうのか。信じられなかった。

 

 だからこそ、僕は思わず呟いたんだ。

 

 高松さんの訴える優しい誰かの手。同じものを僕は知っている。

 

 かつて瑞穂さんが僕に与え、そして今はもう失われてしまたもの。それが祥子の旋律と高松さんの詩に形を変えて、そこに存在していた。

 

 例えそれが僕に向けられたものでなくとも、失われていなかったことが嬉しい。

 

 そんなことを思いながら、演奏が終わった。終わってしまった。

 

「さて……、いかがでしたかヒカル……。って、泣いてますの?」

 

 演奏を終え、恐る恐るという様子の祥子が驚いている。言われて目尻に触れると、暖かく濡れていた。

 

「え……、あっ……。ごめん、ちょっと待っていて……」

 

 拭っても、拭っても、水気はなくならない。

 

 こんなにも、心というものは揺さぶられるのか。涙を流すなんて、いつ以来だろうか。誰にも見てもらえないから、止まっていたものがあふれ出す。

 

「ごめんなさい。……ちょっと止まらなさそうだから、見ないで……」

 

 涙のおさまらない顔を見られるのが恥ずかしくて、手で覆って下を向く。

 

 感動して抑えが効かなくなっていることが微笑ましいようで、祥子の勝ち誇ったような笑い声がした。

 

「言いましたでしょう? 燈の詩は凄いんですのよ?」

 

「ちくしょう……。見くびってて悪かったよ」

 

「……よしよし」

 

 マイペースな睦に、幼子のように慰められる。酷い恥の上塗りだ。初対面の女の子3人に、僕は幼なじみに慰めてもらっているのを見られているわけだ。睦に悪気はないのだろうけれど、僕を羞恥で殺す気なのだろうか。

 

「……睦。もういい。おさまった」

 

「もう少しやっても良いよ?」

 

「みんなに見られているのが恥ずかしいの」

 

「……みんながいない時に続きをして欲しい?」

 

「そうじゃない!」

 

「……ふふっ」

 

 僕と睦の漫才めいたやり取りを小さく笑う声がした。高松さんだ。小さく肩を震わせ、僕を見ないよう顔を伏せている。

 

「……帰る」

 

「あっ……、ごめんなさい」

 

 勢いよく立ち上がり、僕はキビキビと帰り支度を始める。

 

 気を悪くさせてしまったと勘違いした高松さんが何やらまごついているが、僕はいたって平常で怒ってなんかいない。羞恥で赤くなった顔を見られてしまうのがいたたまれないだけだ。

 

 スタジオを出る際、足を止めた。振り返って高松さんの目を見る。今度は視線を逸らされなかった。

 

「……ライブの日にち決まったら教えて」

 

 ぽかんとした顔の高松さん。それだけ言って僕は足早にその場を後にした。

 

 どこに行くかは決まっている。

 

「……サイリウムってどこで買えるんだ?」

 

 五本は買わなきゃいけないんだ。

 

  

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