届かない星に手を伸ばし、僕は傷つくことを選んだ 作:加賀崎 美咲
軽い足取りで田舎道を歩く。
空は鈍い色で、今にも雨が降りそうだけれど、僕の足取りは軽い。
先日、祥子たちのバンド『クライシック』の演奏を見た。サイリウムを振るってはしゃぎすぎたきらいはあるけれど、とても楽しい時間だった。
演奏から彼女たちの楽しい気持ちが伝わってきて、僕も前を向きたいと、そう思ったんだ。
終わってしまった過去に区切りをつけ、その先へ一歩でも歩きたかった。
ここは東京の郊外。少し遠くを見れば高い山がいくつもあるそんな場所。
ここに僕の父の生家があり、顔も知らない僕の弟と叔母が住んでいる。
「……やっと着いた」
奥まった場所にある武家屋敷。幼い頃に少しだけ住んでいた家は懐かしさすらあった。「ごめんください!」
門をくぐり大きな声で叫んだ。
「ごめんなさい。あかちゃんが寝てますから、余り大きな声は……、え?」
僕の声を聞いて、住人が姿を現した。一年ぶりに再会した叔母は、僕の顔を見て酷く驚いた様子だった。それはそうだろう。お互い、もう二度と顔を見ないと思っていたのだから。
●
「……粗茶ですが」
恐る恐るといった手つきで湯飲みが差し出される。
長い机を挟んで僕と叔母は対面する。
「……ありがとうございます」
温かいお茶の入った湯飲みを受け取り、目をつむって少しずつ口に含む。薄目を開ければ青ざめた顔色の叔母は、まるでしでかしたことがバレてしまった幼い子供のような表情で僕を見ている。
このままでは会話にもならない。意識して何でもない顔を作る。
「……今日は会いに来ようと思ったんです」
「会いに? それはわたしに? それとも……」
叔母の視線がふすまの開いた隣の部屋へ向けられる。中は見えないが大きなベビーベッドがあって、時々穏やかな寝息が聞こえている。
「生まれたって聞いたから、来てみることにしたんです。本当です。顔を見てみたと、思っただけなんです」
穏やかに言う僕に、叔母は驚いた様子だった。
「ヒカルはわたしやあの子のことを恨んでいないの?」
罪状を伝えられる囚人のような表情で、叔母は聞いてきた。
なんだか可笑しくなって、僕は苦笑する。
「どうして、って思ったことはあったけれど。もう過ぎたことですから」
叔母はうつむいて震えている。
やがて、罪を告白するかのように、少しずつ、本当に少しずつ言葉を紡いでいく。
「ごめんなさいヒカル。わたしあなたに酷いことをしたのに、あなたに顔を合わせる資格なんてないはずなのに」
母が僕から離れた後、短い期間ではあったけれど叔母は僕の世話をしてくれた。母に会えなくなった僕にとって、叔母は母の代わりだった。
けれど、叔母と父の過ちがあって、僕に合わせる顔のなくなった叔母は僕の前から姿を消した。幼いながら、叔母が僕に罪悪感を覚えていることは理解していたから、僕はもう会うつもりはなかった。また会ってしまえば、この人に僕はまた『母』を求めてしまうと分かっていたから。
「姉さんを見捨てたわたしを、あなたを放り出したわたしを、許してくれるの?」
すがるように叔母は問いかける。
「出来ることなら、やり直したいって僕は思っているんです」
叔母と甥として。かつての関係には慣れなくとも、違う形なら繋がれる。前に進むってそういうことなんじゃないだろうか。
そう思えるようになったことが、何よりも嬉しい。
「ヒカル……、姉さんに似てきたのね……」
懐かしむように叔母は微笑む。それは僕がクライシックの中に瑞穂さんの残り香を見出したとき、同じ表情をしていたに違いない。
「ヒカル。この子の手を握ってあげて?」
ベビーベッドで寝ていた弟を寝かしたまま抱き上げ、叔母は微笑む。
穏やかに眠ったままの顔は、いつか母に見せてもらった僕の写真にそっくりだった。
半分しか血の繋がっていなくとも、確かにこの子は僕の弟だった。
「……いいの?」
こんな繊細そうで、壊れてしまうそうなものに、僕が触れてしまって良いのだろうか。
「……良いにきまってるじゃない」
泣きそうな顔で、叔母は僕を肯定してくれた。
絶たれてしまったモノを、また繋ぎ直すように、僕はゆっくりとその小さな手に触れようとして。
不意に玄関の引き戸が開かれた。
僕と叔母は二人してそちらへ向く。
誰かがこちらへやって来る。心臓が高鳴った。
目が合う。やはり父だった。一年ぶりに再会した父は、記憶よりもずっと痩せ細っていたけれど、確かに僕の父だった。
父は最初、僕がなぜここにいるのか分からなかったようで、呆然と僕を見つめていた。やがて、僕の指先が小さな弟に触れようとしていることに気がついて、絶叫した。
「何としているんだ! 俺の息子に触るな!」
まるで自分の最期を伝えに来た死に神を見つけたかのように、父は僕を仇のように睨みつける。
弟に触れそうだった手は、強く突き飛ばされ、二度と触れることはなかった。
壁に叩きつけられ、背中が痛い。
でも、今僕が泣きそうになっているのは、きっと違う痛みのためだった。
呆然として父を見上げていた僕に、父はまるで勇気を振り絞るように震えてる。
先ほどの激情はどこにもなく、恐ろしいものと対峙した生け贄のような怯えた目で僕を見ている。
「今すぐ出て行ってくれ……」
父の顔をしたその男は、苦しそうに僕に言う。
胸の内にあった熱が冷めていく。
「アサヒにそっくりなその顔を見ると俺は……、俺は……。なんでお前はそんなアサヒみたいな笑顔を作れるんだ……」
母の名前を忌みもののように言う男は、どうしようもなく他人だった。
僕が思っていた以上に、僕の家族だったものは、既に腐っていた。
まだ大丈夫なように見えてその実、ダメになってしまった部分が何もかもを脆く崩していく。
「頼むから、この子だけは傷つけないでくれ……。俺はどうなってもいい。償いをしろって言うのなら、何だってするから……。やっと幸せになれそうなんだ……」
懇願するように、父は僕の足に縋りつく。
「あんたなんかしらない」
僕自身が驚くくらい、平気そうな声だった。違う、そんなことを言いに来たはずじゃなかったのに。
僕に縋りつく男を蹴り飛ばし、屋敷を飛び出した。
いつの間にか降り出した雨の中、ここから離れたくてただ逃げ去る。やがて泥がこびりついて足取りはどんどん重たく練っていく。
振り返っても、後ろには誰もいない。
顔を伝っていく冷たいものを感じながら、今はただ祥子と睦に会いたかった。
●
どうやって家に帰ったかなんてよく覚えていない。
部屋の中、明かりの一つもない部屋で僕は壁に背を預け、何もしていなかった。
「……どうすれば良かったんだ」
力なく呟く。誰かに教えて欲しかった。また家族になれる方法を。
返事はなく、外で時々雨が降るばかりだ。
「入るわよヒカル。……バイオリンのレッスンサボったわね?」
乱暴に扉を叩いてみなみさんがやって来た。きっとマネージャーさんにも連絡をしていなかった僕の様子を確認しに来たのだろう。
「こんな電気もつけないで……。って、どうしたのその顔」
僕の顔を見たみなみさんは驚いていた。駆け寄り、両手で優しく顔を上げられる。
「……みなみさん。……家族ってドラマの脚本みたいには、上手く戻らないんですよ? ……ふふっ」
なんだか可笑しくなって笑ってしまう。
そんな短い台詞でも、みなみさんには何が起きたか理解するには十分だったらしい。
「……ばか。もうあんな人たち、あなたの人生には必要ないって言ったでしょう?」
「それでも会いたくなったんです。だって家族だったんですよ? 会えば何か良くなるって、子供が期待しちゃいけないんですか?」
「少なくともアサヒが……、あなたのお母さんは生きている限り、あの男はあなたの顔なんか見られないわ。……だから私はあなたが一人でも生きていけるように、演技を教えたのに」
そうして、できの悪い子供を慰めるように、みなみさんは僕を抱きしめて背中をさすってくれていた。
「……ごめんなさい。迷惑をかけました」
「そんな殊勝なこと言うくらいなら、一言相談してからやりなさい。おばか」
みなみさんの言うとおり、一度でも話をしていたら良かったのか。分からない。結局、どんな話をしたって僕はあそこに行っていただろうし、こんな思いをしたのだろう。仮定の話だけれど、僕はきっとそうしていた。
せっかく前を向くきっかけをもっらたというのに、これでは祥子にも睦にも、そして高松さんにも申し訳が立たない。
「……ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」
「……本当に? 最後に見たアサヒも同じ顔をしていたわ」
「本当に大丈夫です。この後、睦たちの練習見に行くんです」
酷いことになってしまったが、僕にはまだ寄りかかれる場所がある。手に入らなかったものの代わりでしかないとしても、僕にとってはかけがえのない場所だった。
クライシックの旋律が脳裏に浮かぶ。それだけで膿んだ胸の内が少しだけ軽くなる。それは嬉しいことだ。
けれど、みなみさんの表情は硬い。彼女には珍しく、言い辛そうにしている。
「……言いにくいけど、睦と祥子ちゃんのバンド解散したって聞いたわよ」
「……は?」
みなみさんが何を言っているのか分からない。
解散? 何が?
固まってしまった僕に、慌てたみなみさんが言葉を続ける。
「ごめんなさい。正確じゃなかったわ。祥子ちゃんが練習に来なくなって、ほとんど活動らしい活動が出来てないって睦から聞いたのよ。……もしかして詐欺の件、聞いてないの?」
「──っ!」
みなみさんが何か言っていたが、そんな余裕はなかった。僕は部屋を飛び出した。
●
今にも雨の降りそうな鈍い色の空の下、祥子を探す。
きっとスタジオに行けば、祥子たちがいつものように練習をしているんだ。みなみさんは何か勘違いしているんだ。自分にそう言い聞かせて、先を急ぐ。
あと少しで、スタジオにたどり着くというところで、信号に引っかかる。
赤い光りがもどかしい。早く変わってくれ。降り出した雨が背中に伝い。悪寒がした。傘くらい、持ってくれば良かった。
青。僕は走り出して、そして足を止めた。
走り出す理由を失ったからだ。雨の中の横断歩道。向こう側から祥子が歩いてくる。
祥子は僕に気がついていない。
彼女は抑えられなくなった涙をたたえて、歩いてくる。みなみさんが言っていたことは本当だったんだ。
「──祥子!」
僕は叫んで、彼女の肩を力いっぱい掴んだ。
どうしてスタジオにいないの。どうして練習をしていないの。バンドのみんなはどうしたの。もう君の音楽を聴けないの。
聞きたいことはいっぱいあった。なのに。
「……ヒカル。お願いだから見ないで……」
「──っ……」
そのか細い声のせいで、たくさんの気持ちが喉で詰まって、言葉にならなかった。
あの時のように、泣いて良いと祥子に言えなかった。押し黙った祥子と何も言えない僕。雨足はただ強くなって、僕らを冷やしていく。
「……帰ろう祥子。風邪、ひいちゃうよ」
「……」
冷え切った祥子の手を引いて、歩いてきた道に引き返す。
祥子の屋敷を目指そうとして、祥子が立ち止まった。
「……あの家には帰れませんわ」
「え、でも……」
僕は困惑する。家には帰れない。なら、どこへ?
何も出来ないでいると、祥子は顔を上げた。でも、目線は交わらない。
「……どこへでも、連れて行って」
繋いだ手が、僕を責めるように強く握られる。手を引いてしまったこと、その責任をとれと、冷え切った指先が震える。
「……うちに帰ろう」
祥子を連れて、空っぽなマンションに戻る。
僕は罪を犯した。あんなにも軽蔑した男と同じことを祥子にした。
泣き疲れてしまい、胸の中で眠る祥子を見下ろしながら、涙が頬を伝う。
鏡に映った僕は、家族と同じ顔をしていた。