届かない星に手を伸ばし、僕は傷つくことを選んだ 作:加賀崎 美咲
「……ヒカル、どこか調子悪い?」
隣に座って紅茶を手にした睦が不思議そうに僕を見ている。
「……え?」
「……私と何を話していたか憶えてる?」
聞かれ、本気で思い出せない自分に驚愕する。
「え、えっと……。何の話だっけ?」
恒例となっているみなみさんの呼び出しを受け、家を訪ねたことまでは憶えている。
呼び出した張本人は睦を置いて何処かに雲隠れした。お手伝いさんも一緒に消えた。良く分からない行動をする当人たちを横目に睦の煎れてくれた紅茶に舌鼓をして……。
今分かるのは、困った顔でこちらを見る睦だけだ。
「あっ……。そうだった。何か相談したいって言ってたよね」
「……本当に話を聞いていた? ヒカル、すごいぼんやりしてる」
「あぁ、うん。ごめんなさい」
「……別に謝って欲しい訳じゃない。……先週から祥と連絡が取れない」
「祥子と?」
祥子の名前を出され、顔が強ばったことを自覚する。祥子の父、清告さんが168億という巨額の詐欺にあったことを睦は知っているのだろうか。
その一件以来、祥子は豊川の屋敷を飛び出し、追放された清告さんと赤羽の古いアパートにいる。詐欺の負い目で身を持ち崩した清告さんは何度か警察のお世話になっている。それは祥子のバンド活動を妨げ、彼女は父親を選びバンドを諦めた。
僕が祥子と遭遇したのはその帰りだった。祥子がどんな気持ちでクライシックの仲間たちに別れを告げたのか、僕は本人から聞いている。
「……ヒカル、何か知っている?」
ハッキリと態度に出てしまっていたらしい。睦は確信めいた表情で僕に尋ねていた。
はたして、祥子の状況を伝えてしまって良いのか。祥子は家庭の事情の一切を伝えず、クライシックを抜けた。そこには祥子の意思があるはずだ。涙を流しながら、一切合切を白状した祥子を思いだし、僕は胸が苦しくなる。
「……祥子が何も言っていないなら、僕からは何も言えないよ」
「やっぱり知ってったんだ……。私だけ、何で……」
何も知らされておらず、蚊帳の外にいることに表情を曇らせる。彼女にそんな顔をさせてしまうことも苦しい。でも、僕にどうしろと言うんだ。
「なら、睦ちゃんを連れて行けば良いんじゃない?」
「えっ──」
いつの間にか戻っていたみなみさんがつまらなさそうに頬杖をついて、そんなことを言ってのけた。
「連れて行けば良いって……」
「祥子ちゃんと清告くんが今どこにいるのか知ってるんでしょう? どうせ、いつまでも隠し通せないんだから、知っていてもらった方が祥子ちゃんも楽でしょ」
祥子の状況を知っているくせに、いっそ無神経と言えるほど軽く言ってのけるみなみさん。
「……祥子の気も知らないで」
「あら、睦ちゃんの気持ちは考えたの?」
心臓が跳ねた。睦はうつむき、時々僕の顔を見ている。その両手は硬く握られて、スカートに大きな皺を作る。
ああ、そうだろうよ。睦だって心配なんだ。幼なじみが音信不通で、どう考えたってろくでもない状況にいると知って、僕は何もしないでいられるだろうか。
出来るはずがない。現に僕は祥子に会って、その日はずっと、彼女が泣き止むまで一緒にいた。
「……分かった。でも、祥子に聞いてから。それが最低限」
「……。本当にあんたは祥子ちゃんが大事なのね」
皮肉っぽい笑みを浮かべたみなみさん。仕方がないわねと、その表情が物語っている。恐らく、みなみさんは僕と祥子がどうなっているのか察している。それなのに、昨日の今日で僕に睦との取り次ぎをさせる心情が理解できない。
祥子に簡単な経緯をメッセージで送ると、すぐに返答が来る。
──構いませんわ
思っていたよりも、あっさりとした内容だった。てっきり断られると思っていた僕は少し面食らう。
「……祥子、来ても良いって言ってるけど。……どうする?」
「……行く」
断って欲しいと思いながら睦に問いかけても、睦の意思は固かった。
●
電車を乗り継ぎ、繁華街から離れた裏路地のような町並み。物静かというよりも澱んだ空気を纏った街を僕と睦は歩いていた。
祥子に指定された住所に向かいつつ、睦が不安げに呟く。
「本当にこんな場所に祥は住んでいるの?」
「……そう思われるのが嫌だから祥子は、居場所を伝えなかったんだと思うよ」
「あっ……」
自分の行動が、少なからず祥子の思いを傷つけようとしていることを自覚したようで、顔を青くする。
「気にするなって言っても無駄だと思うけど、祥子は睦には会ってもいいって思ったから……」
「ヒカルは知ってたの?」
足が止まる。後ろに立っている睦に服の裾を引かれている。
「……知ってたよ。ただ、ここに来るのは初めてだよ」
「ヒカル、さっきから歩きに迷いがない……。何度も来てるの?」
「……分かっちゃうんだ」
嘘があっさりとバレてしまい乾いた笑いが漏れ出る。背中に軽い衝撃。
背中に当たる固い感触。時々漏れる吐息が暖かい。睦が頭を押しつけていた。その格好のまま、確かめるように睦は呟いた。
「ヒカルのこと、いつも見てるから」
宣告のように聞こえるそれは、どう受け取ればいいのだろうか。
「……ははっ。……睦には嘘はつけないね」
「そうしてくれたら嬉しい」
受け止めかたが分からなくて、茶化して答えてしまったけれど、睦は至って真剣な声色だった。
「……ごめん」
「……? どうして謝るの?」
「何となく?」
曖昧に答える僕を、睦は不思議そうに見つめていた。
そうしてしばらく歩いていると、たどり着く。
木造の、少なくとも僕らの両親よりも年季の入ったアパート。
インターホンを鳴らせば、すぐに祥子が出た。
「……本当に来ましたのね」
そう言う祥子の声色は固い。どうして睦を連れてきたのか、祥子の視線は僕を責めている。
「……祥、ヒカルを責めないで。連れて行って欲しいとお願いしたのは私」
「別にそういうつもりでは……。はぁ……、なんでもいいですわ。あがってくださいまし」
促され、ときどき軋む木張りの床を歩いて、日当たりの少ない小さな居間に通される。横目に見える台所には袋いっぱいになったビールとかの空き缶がいくつもあった。
部屋にそれほど匂いが残っていないのは、客人を迎える祥子の矜恃のせいか。
いずれにしても、祥子にとって良い状況ではないのは誰の目にも明らかだった。
想像もしていなかった幼なじみの置かれた状況に、睦は絶句していた。
祥子しても、痴態といって差し支えない状況を見られて俯いてしまった。
「清告さんは……」
沈黙が痛々しく、せめて場を繋ごうと僕は口を開いた。
「クソ親父でしたら、その辺で飲み歩いてますわ」
「……そう」
憎々しげな祥子の声色に、僕は何も言えなくなる。『クソ親父』なんて、一生祥子の口から聞きそうにない単語が、いかに彼女が追い込まれているか分かってしまう。
「……元気そうで良かった」
「……っ! これのどこが良いと!?」
睦の小さなつぶやきに、祥子が大きく激高した。
「……祥子。睦は多分、祥子の顔を見られて良かったって言いたいんだと思うよ。清告さんがどうこう言うつもりはないよ。でしょ、睦?」
「……うん。ごめんなさい祥。怒らせたかった訳じゃ……」
「はぁ……、本当に睦はいつも言葉足らずですわ。私やヒカルがいない時に、何か起きていないか気が気ではなくてよ」
「……っ」
祥子の言葉に、隠し事が見つかった子供のように睦の肩が小さく跳ねた。
普段余り表情の変わらない睦の表情が、明らかに青ざめていく。
「……何か言ってしまいましたのね」
何も言えないでいる睦の様子を見て、祥子は合点がいった様子だった。みなみさんが言っていたクライシックがほとんど活動をしていないことと、睦がやったのだろう失言は無関係ではないのだろう。
「……ごめんなさい」
「先に脱退した私に、睦を責める資格はありませんわ」
二人の会話を見つめながら、身勝手なことを考えていた。もう、クライシックの優しい音楽を聴くことは出来ないんだな。そう、気がついた時には胸の奥が冷えていく。
ああ……、なんだかどうでも良くなってきた。
「……とにかく。今の私はお父様の面倒を見るので精一杯ですわ。……バンドのことはもう。……今日はもう帰ってくださいまし」
祥子の表情は酷く疲れている。これ以上話していても、彼女に余計な負担をかけてしまうばかりだ。
「睦、今日はもう帰ろう。祥子の顔も見られたんだから、いいでしょう?」
「……うん。祥、押しかけてごめんなさい」
「もういいですわ。連絡をしていなかった私も心配をかけましたし……」
それだけ言って僕らは祥子の家を後にした。
●
睦とも別れ、マンションに帰る。ソファーでぼんやりしているとインターホンが鳴った。扉を開けば小さな肩掛けカバンを持った祥子が足っていた。
「バイトが終わったついでに寄っただけですわ」
何に言い訳しているのか、開口一番祥子はそう言った。
「別に来たかったら、いつ来ても良いんだよ?」
「お父様と顔を合わせたくないだけですわ」
皮肉を多分に含んだ口ぶりで、祥子は手慣れた様子で玄関を上がっていく。
乱暴にソファーに座り込む祥子を尻目に、カップボードからティーセットを取り出して紅茶を煎れる。
ソファー前のローテーブルに湯気が立ち上るティーカップが二人分並ぶ。静かに紅茶を飲む祥子は微妙な顔をする。
「……睦が煎れた紅茶の方が美味しいですわ」
「僕もそう思うよ。今から睦を呼んで煎れてもらう?」
半目で僕を睨みつける祥子がテーブルにカップを置く。陶器が小さく鳴いた。
「そんなこと出来ないと知ってるくせに……」
腹立たしそうに言って、祥子は僕に体重を預けるように頭を押しつけてくる。シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐっても、ちっともどきどきしない。
嫌なことを思い出して、祥子の声色が暗くなる。
「昨日、また警察からお父様を迎えに来るように電話がありましたわ」
「昨日ってことは今月で2回目?」
「4回目ですわ。……いつも迎えに行くとお父様、私になんて言うと思いまして?」
「……来て欲しくなかった?」
不正解を咎めるように祥子は首を横に何度も振る。その度に胸に重さがのしかかって痛む。
「私は立派で、自分はダメな奴だって……。娘に向かって……」
真面目で仕事に一生懸命だった清告さんを少しだけしか知らない僕にだって、彼が堕落して胸が痛くなる。肉親である祥子には、そんな身内を見せつけられる苦痛は僕が思う以上に苦しいのだろうか。
先日顔を合わせたあの男を思い出す。僕はあの時、ただ失望した。そうなったのは、僕があの男に対してもう期待もしていなかったからだ。
けれど祥子は違う。祥子は清告さんが昔のように戻ってくれるとどこかで考えてしまっている。期待していたから家を離れて清告さんを追いかけていったし、他のものを手放した。
「……祥子は優しいから。見捨ててあげられないんだね」
「あんなのお父様なわけないですわ……」
言って、祥子は顔を伏せる。泣くことを耐えるような表情を見られまいとして、弱いところを見せようとしないのは祥子の長所でも欠点でもあった。
「そういう祥ちゃん好きだよ」
少し気が抜けて、昔のように祥子を呼ぶ。
両腕でゆっくりと祥子の頭を抱える。胸の中で聞こえてくるのは、小さくすすり泣く声。見てあげないようにして、しばしそのまま。
やがて落ち着きを取り戻した祥子は少しだけ泣き腫らした目で僕を見上げる。
「……祥ちゃんって、子供みたいに」
不満そうに唇を尖らせた祥子は子供っぽくて。
「……ずっと子供の時のままだったら良いのにね」
言って、僕は泣きそうになる。あの男と母と家族に戻れると、根拠もなく期待できていたあの頃に戻りたかった。
「……そんなこと無理だって分かってるでしょうに。……でも、今だけは、嫌なこと、全部、忘れさせて。あなたも、忘れて……」
小さな吐息。唇に柔らかいものが当たって息が出来ない。胸の中にある傷ついた大事なものを壊さないよう抱える。
僕たちは横に倒れて。やがて月明かりが雲に隠れてしまった。