学校の渡り廊下をその少女は少し早足で歩いていた。
短く切った黒髪に、わずかに目じりの上がった猫目。そんな少し冷たさを感じさせる容姿も、その口元がほころんでいることで逆に愛らしい。
カツカツと廊下を歩く音が響く。彼女はブラウスの上に灰色のセーターと制服のブレザー着ている。そして、歩くたびにスカートが揺れている。
何故かその手元には一つだけゼリー飲料が握られていた。パッケージに入ったそれには飲み口が付いていて、吸うように食べることができるのだ。しかし、それは多少奇妙でもあった。
少女の横を同じく学生だろう、男子高校生が欠伸をしながら通り過ぎていく。今はお昼休みなのである。だからこそ「食事」をする必要があるのだが、少女はあくまでゼリーしか持っていない。
少女、七咲 逢はお弁当を忘れたのであった。それも自分の分だけでなく、今から会う人物に内緒で作ってきたお弁当も一緒にだった。それが七咲には多少残念ではあったが、別段作ってくる約束をしているわけでもなかったので仕方ないとあきらめた。
「……はあ」
それでも歩きながら七咲はため息をついた。実は、彼女自身は朝から今まで一度も弁当について忘れたことはなかった。単に彼女の弟が間違って持って行っただけなのだ。しかし、それを怒ったところで今は意味がない。
七咲は今からとある人物とお昼ご飯を一緒に食べる約束をしていた。だからこそ購買にも寄らずに早足で向かっているのだ。だから水泳部の活動の前に食べようと思っていたゼリーだけは申し訳程度に持っていた。
「先輩……」
それでも七咲の表情は明るい。「先輩」はまともなお昼ご飯を持っていないことでは怒る人間ではないし、それにその顔を思い浮かべるとちょっとだけにやけてしまう。もちろん恥ずかしいので、我慢もしている。
廊下の角を曲がって七咲は歩いていく。
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がちゃりとドアノブを握って、七咲は高鳴る胸をそのままにドアを開ける。ばっと風が隙間から入ってきて、七咲の髪をなびかせる。彼女は片目をつぶって外へ出る。
青い空がそこに合った。ここは輝日東高校で一番高い場所、つまり屋上である。
それなりに広い空間は手すりで区切られている。陽は高く、中天にかかっている。ぽかぽかとした陽気に七咲は心地よさを感じた。
七咲はきょろきょろとあたりを見回す。昼休みも始まってすぐだからか、まだ誰も来てはいない。つまり、彼女の約束をした者もいない。
「先輩? ……どこにいるんですか?」
それでも七咲は探した。彼女の頭の中にある「先輩」だったら、もしかすると隠れている可能性もある。そんな子供じみた性格も彼女は好きなのだが、そんなことは言わない。
しかし、今日は本当にいないらしい。七咲は髪を片手で押さえる。そうしていると風の音が聞こえる気がした。彼女は壁に寄りかかって、ゼリーの飲み口についた蓋を開けようとするが、一応としても「昼ごはん」なのだから待ち人が来てからだとやめた。
ふうと息をはいて、お腹を撫でる。彼女は水泳部に所属していることからわかるように、それなりに食べる。若いこともあるが、運動をしていることが大きいのだろう。本当ならば購買部で何かしらのパンを買ってきたかったがこちらを優先した。
「……おそいですよ」
誰に言うでもなく七咲は口にする。いや、心の中にいる彼に言っているというほうが正確なのかもしれない。それでも彼女は「ふふ」と口元を綻ばせる。遅いと言っているが彼女は、怒っているわけでない。
彼女は壁によりかかったまま、眼を閉じる。頬を撫でる風を優しく感じることができるのは、彼女が落ち着いているからだろう。
だから自分の心音も聞こえる。七咲は胸元でゼリーの容器を両手で握る。
目を閉じているからとくとくと心臓の音が緩やかに聞こえる。緊張しているのかと自分に問いかけてみるが、「そんなことはありませんよ」とまるで他人に返すように思った。緊張というよりは期待と言った方がいいのかもしれない。
ドアの開いた音がする。遠くで誰かの声がする。もしかしたら待ち人なのかもしれないが、ここは学校である。知らない誰かの声かもしれない。七咲はもう一度息を静かに吐いて、ゆっくりと眼を開ける。
目の前に息を切らして両手を膝についている男子高校生がいた。彼は屋上の真ん中にいて、壁に寄りかかっている七咲には気づいていないようだった。その姿を見て、彼女は想わず声をかけようとした。だが、やめた。
「あ、あれ、七咲?」
男子高生が彼女の名前を呼ぶ。でも答えてあげない。だから彼は気づかずにきょろきょろとしている。まさか後ろにいるとは思っていないのだろう。
七咲は口を手で抑えて、小さく笑う。ふふっと声が漏れそうになるが、こんなに面白いことを今やめる理由はない。
男子高校生は息を切らしたまま、手すりに歩いていきそれによりかかる。何故かそこから顔を出して、下の様子を窺っている。まさか、そこに自分がいるとでも思っているのだろうかと七咲は思って、吹き出しそうになる。
しかし、いつまでもこうしていては始まらない。七咲は彼女が見つからないことで、後ろ向きのまま頭を掻いている彼へ静かに近づく。後ろから近付いているからか、彼は全く気が付いていない。彼が動いた拍子に手首にかかっているビニールがくしゃりと鳴るだけだ。
七咲はその後ろに来るとポケットにゼリーを入れて、両手を構える。静かに、そう静かにしていないと気付かれてしまう。だが、今回はうまくいったらしい。
「せんぱいっ」
「うわっななさきっ!?」
がばっと七咲は後ろから「先輩」に抱き付く。彼は驚いて身を反らすが、後ろには七咲がいて下がれない。しかも彼女の両手はちょうど彼の両目を覆うようにされている。背の低い彼女がそれをしているから、かなり密着している。
先輩こと橘 純一は振り払うわけにもいかず、それどころか柔らかい感覚がもったいなくて慌ててしまう。小さくて可愛らしい手が自分の眼を塞いでいるが、その肌から甘いにおいがする。
「な、七咲。うしろにいたのか!?」
「はい、まちくたびれてました」
明るい声が後ろからする。純一の背中にすりすりと何かが当たる感触があるが、七咲が頬を擦り付けているのかもしれない。もちろん純一には見えない。暖かな肌の温度が、直に伝わってくる。
「ご、ごめん。ちょっと寄ってくるところがあったから、走って行ってきたんだ」
「そうですか……先輩。先輩がお昼休みが始まったらすぐに会おうといわれたのですよ?」
首元から声がする。温かい吐息がかかる。ぞくぞくするような気持ちが純一の背筋を走る。しかし、ぱっと目の前が明るくなったと思った瞬間には背中からの圧迫感も消えていた。
純一が慌てて後ろを振り向くと、そこにはぱちくりとつぶらな瞳で七咲が見てきた。両手を後ろで組んで、腰を少しだけかがめた姿勢なので、少々上目づかいになっている。
七咲はにこっと笑う。
「ふふっ、遅刻ですね。先輩」
「えっ?……あっ、ごめん。こ、購買が混んでて……」
「……そうですか。購買にいってきたのですか」
「あ、ああ。そうなんだ。ちゃんと買えたんだけど……ほら」
純一は手首に引っかかったビニール袋を七咲に見せる。それをみて、じとっとした目で彼女は純一を見てきた。流石に彼には、七咲が自分を優先してゼリーしか持っていないとは気が付いていない。それに気が付いたとしても、水泳部の節制の為かそれでなくともダイエットかと思うだろう。
それでもせっかく購買に行くのも我慢して来た七咲には、不満であることは変わらないのだ。
「そうですか」
だから、ちょっとだけ拗ねたように七咲は横を向いた。
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昼休みは長いわけではない。二人は屋上の一角に並んで座った。純一はビニール袋から大きなカツの挟まれたパンとパックの牛乳を取り出した。七咲は無論のことゼリー飲料である。はたから見ると侘しい食事風景である。
ちゅううとゼリーのパッケージを両手で持って、七咲は飲み口から吸う。急いで食べれば数秒で食事は終了だが、別に急がなくても数十秒も持たないだろう。当然のように純一は疑問に思った。
「七咲。お昼ご飯それだけなの? だめだよ。食事はちゃんととらないと部活もあるんだから」
「……」
純一の言葉に七咲はすぐには答えず、じゅううと吸ってからさらに勿体ぶって飲み口を離す。桃色の唇を小さな舌が嘗める。それでも何も言わない。
「お、怒っているの? ど、どうして」
「怒ってませんよ。ただちょっと」
「ちょっと?」
「……やっぱりなんでもありません」
ふーんと横を向く七咲。ちらっと片目だけを開けて純一をみる仕草は本気で怒っているわけではない現れなのだが、彼は何故七咲が少々ご機嫌ななめなのかわからない。しかし、これは喧嘩というよりはじゃれているようなものだろう。甘えているといってもいい。
困惑する純一だが、自らも食事をとるために大きなパンズにこれまた大きなカツの挟まれたカツサンドを手に持った。小さく七咲の喉が鳴ったが、無論誰にも気づかれないほど小さなものだ。
「じゃあ、いただきまー」
大口を開けてパンを食べようとした純一だが、ぴたっと止まる。なぜならばいつの間にか向き直った七咲がじとっとした目で見ているからだ。無言だからこそ妙な圧力がある。
「ど、どうしたの?」
「いえ、べつに。……どうぞ先輩。私なんて気にせず食べてください」
「う、うん。じゃあ、改めていただきまー」
七咲はまだ見ている。それで純一はまた止まる。変な汗が流れてくるのは何故だろう。どことなく七咲は睨んでいるようにも見えないこともない。
「何で止まるんですか? 先輩。早くしないとお昼が終わってしまいますよ」
「そうなんだけど、なんか七咲がこっちをみてきているような」
「そんなことはないです。わたしはただ――」
――くぅ。
そんな音が七咲のお腹から響く。可愛らしいそれに純一は一度七咲をみてから笑った。逆に黒髪の少女はその白い肌を紅くしていく。あまりに正直に鳴ってしまったことが、凄まじく恥ずかしい。
「ははは。もしかして、お腹がへってるの? 七咲。やっぱりゼリーじゃ足りないよね」
「……いえ」
顔を紅くしたまま、七咲は眼線を外して横を向く。口を少しだけとがらせているのは、少女らしいといえばそうだろう。しかし、純一はその表情が可愛くて仕方ない。だから彼は両手でパンの両端を持った。
「じゃあ、僕のこれを半分こしようか」
「えっ、そんな。いいですよ」
「いいから、いいから」
そういって純一はパンに力を込める。それでも、カツサンドは真ん中に硬いカツを挟んでいるから中々割れない。さらに力を込めてみるが、それでも割れない。めちめちと音を出してカツが千切れる音はする。
「だいじょうぶ……ですか? 先輩」
「い、いいがら」
爪をたてて純一はカツサンドを千切ろうとやっきになる。本気で力を入れれば簡単にちぎれるだろうが、それは半分こではなく、単なる破壊だ。それを七咲は心配そうに見るのも仕方ないだろう。
「ほっ」
変な掛け声で力を入れる純一。しかし、それがよかったのだろうかカツサンドは真っ二つになった。比率でいえば7対3程度の歪な「半分こ」である。彼は両手に持ったカツサンドを交互に見て、それから七咲を見た。「うわぁ」と小さく言っている。
純一は大きな方を七咲に差し出す。
「じゃあ、これ」
「せ、先輩。こっち大きな方ですよ。わたしは、その。お腹が減っているわけではないのでそっちでも」
「いや、僕は男だからね。こんな時にはやっぱり我慢してするべきだと思うから」
「……せんぱい」
七咲は純一の顔を見て、そのまま見つめる。感動しているようにみえるが、実際はそうではない。たかがカツサンドを半分にする程度の話で「男がうんぬん」と言われておかしいのだ。
「ぷっ、ふふ」
七咲は思わずあわてて笑ってしまう口元を隠しても、肩が震えているので意味がない。それどころか先ほどの様に声を押し殺すことができず、愛らしい笑い声が漏れる。
「ふふっ、……っ。せ、せんぱい、こ、こんなことで」
ツボにはいってしまったようで顔を別の意味で紅くして、ころころと笑う七咲。それでも純一は先ほど彼女がしたように、少し拗ねて言う。
「だ、だってほら。これで大きいほうを取ったら器が小さいみたいじゃないか!」
「う、うつわ……?」
そこで七咲はもう一度吹き出してしまった。カツサンド半分こで「男の器」が計れるのである。笑わない方が可笑しいだろう。そもそも、大きいほうを取ったくらいでそのようなことを言うほうが滑稽である。
だが、そこがいいのだ。七咲はそう思う。
やっと笑いを収めて、彼女は少し胸を張る。顎も上げているので、ほんのちょっぴりだけ偉そうに見える。
「わかりました先輩。そこまでいうなら、もらってあげてもいいです」
「えっ!? 七咲が……えっ?」
もらう立場の七咲はふふんと腕を組む。なぜ偉そうにと困惑した純一だが、ここで渡さなければ男ではないだろう。彼の言葉の通りであればだが。しかし、七咲は一言だけ付け加えた。
「かわりに……今度、私がお弁当を作ってきてあげますよ」
「それならもちろん!」
とたんに元気になった純一を見て、彼女は目をぱちくりさせる。それでも先ほどとは違う、穏やか笑みを浮かべて、くすりとする。自分でもおかしいとは思うのだが、七咲はこの「彼」のこんなところも好きなのである。
それにお弁当を作ってくる「約束」もできた、七咲は満足この上ない。
純一は大きなカツサンドを七咲に渡す。大きいといっても一人分を半分にしているので「多く」はない。彼女はそれにお礼を言って、貰い。口を開けて頬張る。口の中に肉汁が広がるのがおいしい。
横では純一が小さなサンドをもそもそと食べる。彼は手元にあった牛乳のパックに付属のストローを指して飲む。透明なストローの中を白い液体が通っているのを見て、七咲は思った。よくよく考えれば飲み物を彼女は持っていないのだ。
「先輩」
「ん?」
呼ばれて純一は口からストローを取る。七咲はそこでいたずらっぽい表情を浮かべて、いきなり明後日の方向を見た。口ではやはりわざとらしく「あっ」などと言っている。彼女は遠くの空を指さして言う。
「あそこ、ポケモンジェットが飛んでますよ」
「え? どこ??」
そんなどうでもいい七咲の嘘に引っかかった純一は遠くの空を見る。そのせいで手元がおそろかになっているのには、気づけていない。だから簡単に七咲に牛乳パックを奪われてしまう。
驚いて七咲を見る純一だが、もう彼の飲み物は一つ年下の女の子に握られている。彼女はいたずらが成功した子供のような顔をしてからパックを口に近づける。
「パンが半分こなら、これも半分こですよね」
七咲はちゅうと牛乳を飲む。
次は二週間後、まったり楽しんでいただけば嬉しいです。