時は戦国、天羅の大地。
永きにわたり戦乱のうち続くこの大陸にも、ぽっかりと無風は、ある。
これはそんな、小さな村の話。
柔らかい春の微風が、
うっすらと汗の浮かんだ肌が、心地よく冷やされる。
彼女はひとつ息をつき、また歩きはじめた。
花を愛でるような余裕こそ、この戦乱の世では多くの人々にとっては無縁なものの、それでも春が過ごしやすい季節であることだけは太古の昔から変わらない。
暑からず、寒からず――なのに彼女が汗をかいている理由は、背に負った、小柄な少女の姿を見れば明らかだった。
小柄といっても、年の頃は十五、六。
相応に成長している体の重みを支えながら、彼女は黙々と歩いていった。
彼女――香澄はといえば、二十代なかばの、すらりとした四肢が特徴的な女性。
筒袖の上着に袴という、どちらかといえば男性的な着物に身を包んで、長い脚を今はいささか重たげに動かしている。
だが、彼女を見た誰もが真っ先に目を奪われるであろう事実は、その立ち姿でも目鼻立ちのはっきりした顔でもなく、全身の肌を覆う文様であった。
「サムライ先生!」
土手の下、田植えの終わった田の中から、そんな声がかけられた。
香澄はわずかに、気取られないほどかすかに眉をひそめて、声の方向へ振り向いた。
日々しっかりと食事をとれていることをうかがわせる、力強い手足をもった農夫が、彼女に陽気に笑いかけていた。
「またみなしごですか? まあ割合大きいようだから、そう長く面倒を見なくてもいいかもしれませんやね」
「孤児かどうか、知らないけどね、そこで行き倒れてたんだ。放っておくわけにもいかないだろう」
「へえ、そうですね」
一度は引いた汗が、立ち止まったことで空気の流れを受けられなくなり、また肌にまとわりついてきたようだった。
彼女は一度身をゆすって、背後の少女を、少しでも支えやすいような位置に動かそうとした。
「重たくないですか――って、おサムライ様には言うこっちゃないですね。
まあ、こっちも野良仕事をさっさと終わらせないと、また女房にどやされる。それじゃま、なんかあったら後で」
香澄は了解のしるしに、手を挙げてみせ、再び歩き出した。
少女の息づかいが、首筋にくすぐったい。
彼女はふと、苦笑を浮かべた。
サムライ――それは、全身の
その刺青と
言われている、という理由は単純で、多くの者が施術中に命を落とし、感想を語ることもできなくなるためだ。
そして一方で、施術に耐え抜くほどの強靱な精神と肉体を持つ者たちは、それほどの苦痛であってもさしたることはないと感じ、ことさら自慢げに語ることは少ないためでもある。
そんな称号をどう思っているのか、彼女はただ黙したまま、足を運び続けた。
と、そのとき、背後の少女が小さく声をこぼした。
「あ……」
透明な声に、香澄は何かを期待するように立ち止まり、肩越しに背負った少女の顔をうかがった。
少女はわずかに身を動かし、ぱちりとつぶらな目を見開いた。
一度、二度とまばたきをし、ようやく意識がはっきりしてきた様子で前を見る。
と、目の前の香澄にようやく気づいたようで――少女はあわてた表情で、両手を額に当てた。
「うわっ?」
急な重心の変化に、香澄がよろめいた。
少女の両手は、額にゆったりと巻かれた布の上で硬直していた。
白く細い指の間から、栗色の髪が幾筋か流れている。
布地の感触を確かめて、少女は安堵した様子で、ふと吐息をこぼした。
「ったく……急に動かないでくれ、いくら女たってそれなりに重いんだから」
なんとか体勢を立て直した香澄は、かろうじて相手に聞き取れるかどうかという声で、ぼそりとつぶやいた。
そんな小さな声でも意味ははっきりととらえられたようで、少女の表情が申し訳なさそうなものになった。
伏し目がちに相手を見る姿勢の素直さに、香澄の顔までが、かえって困惑の気配を漂わせた。
「すいません――つい」
「いや、まあ、いきなりだったからな。しょうがないっちゃ、そうだろうさ」
「あの……」
「わたしのことかい? あたしは香澄、見てのとおりのサムライさ。と言ったって、あんたは見たこともないかもしれないけどね。
ちょっとそこらをぶらついてたら、あんたが行き倒れてたから、ついつい拾ってきちまったってわけ」
「ありがとうございます」
素直に言って、少女が頭を下げた。
背に負った状態でもぞもぞと動かれたためか、それとも違う理由によってか、香澄は若干くすぐったそうに唇を曲げた。
その表情を隠そうとするかのように、言葉を続ける。
「……で、だ」
「え?」
「無理にとは言わないけど、気がついたなら自分の足で歩いてくれると助かるんだがな。あ、いや、もちろん肩は貸すけど」
そう言われて、少女はまたあわてたように身を動かした。
ぱたんと軽い音をさせて、彼女の足が地に触れた。
その仕草に、行き倒れという言葉から予想されるほどの弱々しさはなく、意識を失っていた間に体力は回復していたことをうかがわせた。
「すいません、ありがとうございました」
きちんと姿勢を正して、少女が礼を言う。
香澄はその澄んだ瞳から、つと視線をそらして、文様の彫り込まれた頬を掻きながらまとまらない声を返した。
それから、目は合わせないままで問いかけた。
「あんた、名前は?」
「あ――エル、といいます」
「エル、ね。少々変わった名前だな」
「それは、その……本当の名前を思い出せなくて、でも母さんからもらった名前を捨てて新しい名前を使うのも悲しくて。
そう思っていたら、とりあえず仮の名前ならいいだろうって言ってくれた人がいて――」
エルと名乗った少女は、まだ意識を取り戻したばかりでどこか
相変わらずその視線を受け止めかねて、遠くを眺めたまま香澄は生返事を返す。
「なるほどね……大変なんだな」
気のない風の声に、エルがはっとした表情を浮かべた。
「あ、わたしのことなんて、いきなり言ってもうるさいだけですよね」
「いや、まあ、そんなことはないんだがね」
香澄は苦笑してみせつつ、ちらりとエルの服と柔らかい顔の線に視線を走らせた。
エルは何であるかは分からないが、何かを感じ取ったというような、微妙な緊張の気配を漂わせた。
彼女の白い両手が、自分を守るように組み合わされて胸を押さえた。
「ともかくずいぶんと、急いだ旅をしてきたみたいだな。長いこと食ってなくて飢えてたってよりは、疲れてぶっ倒れただけのようだし、服も裾ばっかりが汚れてるし」
エルの足が、一歩後ろに下がった。
怯えた様子の彼女を、香澄はようやく真っ向から見つめた。
しかし、その表情には悪意の影はなく、むしろ
「誤解しないでくれよ、だからどうってわけじゃないんだから」
「……」
「そうか、あんたは気を失ってたから聞いてないよな。あたしはこの村で、みなしごを集めて世話してるのさ。
だからまあ、あんたが疲れてるってんなら、少しくらい泊めてやるよ」
「い、いいんですか? そんなことをしてもらって、迷惑じゃあ」
「なに、ちょっとの間ひとり増えたくらいで、手間が変わるもんじゃないよ。むしろなんかしら手伝ってもらえそうだし、それにあいつらも、外の話を聞きたがるだろうしな」
「そう――ですね」
何を思い出したのか、こっくりとエルがうなずいた。
その手を、さっと香澄が取る。
「それじゃ、決まりだ。行こうか」
そう言って、彼女は足取りも軽く歩きはじめた。