「今日、私の家に来ない?」
午後のホームルームが終わり、やっと家に帰れると思った矢先に、ネオはいつものように長い銀髪をたらし、のぞくようにこちらを見ながら、自分に向かってそういった。自分の友人のみならず、教室全体の生徒がぎょっとして、ネオと自分に視線をむけた。自分は周りの視線に気を取られるばかりで、ほとんど何も考えずに、わずかに頷いた。
「じゃあ、いいってことね」とネオは言って、いつものようにすたすたと教室を出ていった。彼女がいなくなったことで、生徒たちの注目は自分だけに向けられ、やがて教室中からがやがやと声が聞こえはじめた。
「おまえって、そんなにネオと親しかったの?」と自分の真横で話していた友人は驚いた様子でいった。
「たまに一緒に遊ぶくらいだよ」と自分は言った。「映画館とか、美術館にいったり」 教室がいっそう騒がしくなった。
「初めて知ったよ。お前とネオがそんな親しかったって」と友人は言った。「たしかに一緒に遊んでるって話は、たまに聞くけれど・・・」
─
自分は煩わしい教室からとっとと抜け出して、ネオを追いかけていった。彼女は長い髪をなびかせて、放課後のにぎやかな廊下を、足早に歩いていた。
「待ってよネオ、家って言っても、君が住んでるところなんて知らないよ」
「こないだ行った映画館の付近にある」と彼女は振り向きもせずにそういった。
「そうだったの?」
「うん」とネオ。「このまま学校帰りに行く?」
「いいけど、どうして急に家?教室のみんな驚いてたよ」
「そういう気分だから」と彼女はまた振り向きもせずにそういった。
「気分って・・・普通カフェとかで話したりするのが普通じゃない?いつもの俺たちだったら・・・」
・・・するのが普通?
そう言いだしそうになって、自分は急に言葉に詰まった。
「そう?」とネオはきょとんとしていった。
「いや、なんでもない」
「じゃあ」とネオは言った。「いっしょにいこう、私の家」
─
しばらく経って、ネオの家に着いた。彼女の家は至って普通の、街中にある一軒家だった。家の中は静寂に包まれていて、やや薄暗く、人の気配はしなかった。他人の家の匂いがした。階段を登って二階に行き、彼女の部屋の扉を開いた。
「ここがネオの部屋なんだね」
彼女の部屋は非常に綺麗で、整理整頓がされていた。映画のポスターやおしゃれな服が飾ってあり、本棚には種々雑多な小説や映画のケース、アルバムが丁寧に配列されていた。
「いいよ、全然入って」
ネオはそう言った。自分は辺りを少し見渡してから、近くにあるベットに慎重に腰かけた。
「綺麗な部屋だね」と自分は言った。
「まあね。これ、見せたかったやつ」
彼女はそういって、壁に掛けてあったTシャツを手に取って、自分に見せた。
「バイトで貯めたお金で買った」
「ああ、さっき電車の中で話していたやつね」と自分は言った。「いいね、それ。これは?」
自分は棚の上にやや適当に置かれてあったケースを手に取った。
「ああ、それ」とネオは言った。「最近観た映画。『ローラーとバイオリン』」
それからしばらくの間、彼女と他愛のない話をしていた。彼女は本当にいろんなものを持っていて、よく話し、楽しそうだった。そうしていつしか沈黙が訪れ始めた。
部屋の窓に目を向けると、すでに夕暮れ時で、淡い陽の光が窓にから見えていた。部屋は静寂につつまれていて、薄暗がりの部屋の中に、自分と彼女はいた。ネオと沈黙を共有しても気まずくはならなかった。彼女だけがそうした関係になれた。時計の秒針の音が無感動に部屋に響いていた。子供の声や、カラスの鳴き声が、わずかに窓の外から聞こえていた。
そういえば、彼女はある時、自分の学校に転校してきたということを、なぜだかふと思い出した。印象深い髪と、どこか浮世離れした雰囲気──自分の近くの席に座って、しばらく彼女をじっと見つめていた、そんな些細な記憶──
「ねえ」とネオはいった。青く澄んだ目──じっと見つめてくるその目は、いつもと変わらない。いつ見てもきれいな瞳だった。何か物言いたげな瞳だった。彼女の柔らかい手がベッドの上の自分の手に触れた。
なぜだか今日のネオは、いつにも増して魅力的に見えた。彼女の呼吸の音がわずかに耳に触れる。時間の流れが遅く感じた。心臓の鼓動が早い。彼女の唇は艶めかしく、髪の毛は柔らかい匂いがする。お互いなぜか見つめあったままだった。
そのまま自分は立ち上がった。自分の手を、彼女の手の中からするりと抜いた。
「・・・もう帰るの?」とネオはいった。
「うん」
自分はただそう言った。
「そう」とネオは言った。「じゃあ、駅まで見送る」
─
自分とネオは特に会話を交えずに、やや雨の降る夜の道を歩いて行った。辺りは真っ暗になっていて、駅や商店街の明かりが物悲しく光っていた。雨は急に降ってきたために、傘はなく、二人とも雨に濡れてしまった。しばらくして駅の付近に到着した。
「じゃあ、また」と彼女は言った。声音には抑揚はなかった。
「うん」
自分は手を振って彼女と別れた。彼女の表情は夜の闇で見えなかった。いつまでも彼女の視線が、自分のうしろにある気がした。自分は振り返りもせずに、ただまっすぐに駅に向かい続けた。
友人たちと話に興じる学生や大人が、絶え間なく自分の横を通り過ぎていた。自分がぼんやりと駅を歩いていると、偶然学校の友人と出会った。
「お前、なんでこっちにいるの?」と彼は驚いて言った。
「そっちこそ、なんでここに?」
「塾の帰り。ああ、ネオの家に行ってたのか。あいつの家、こっち方面らしいね。それで、なんかあったの?」
「いや、なにも」と自分は言った。
「そう」と彼はいった。「おまえの表情から見るに、本当にそうだったんだろうね。おまえたち付き合ってるの?」
「違うよ」
「そうなの?」と友人は不思議そうに言った。
「うん。ただの友達」と自分は言った。向こうで電車の扉が開く音がした。しばらくすると向かいの階段から人がぞろぞろと登ってきた。
「うそつけよ。本当にただの友達だったら、普通一緒に家に行ったりとかしないだろ」
「ネオはそういう子だよ」と自分は言った。「ずっと黙りこくってると思えば、急に何か言い出して、どこかに誘ってきたりする」
「そうか」
友人は少し考え込んでいるようだった。すると何か思いついたようで、突然言い出した。
「なんで付き合わないの?」
そう言われて、自分は何も言えなかった。
「そう」と彼は言った。「お前とネオの距離って、なんか普通の友達って感じはしないよな。考えてみろよ、ネオってもっと静かで、あんまり人と話さないだろ?誰と接するにもどうも冷たすぎるというか。けれどお前といる時のネオって、たまに微笑んでて、楽しそう」
友人がそんなことを話していると、電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえてきた。彼はやや慌てはじめた。
「俺、電車乗るから、また」と彼は言った。
「ああ、気をつけて」
彼は手を振りながらだんだんと遠ざかっていった。自分は手を下ろして、ただ駅の通路に立ちすくんでいた。
──カフェとかで話したりするのが普通でしょ?
学校の廊下で話した時、自分はネオにそう言いかけた。けれどもなぜだか言葉に詰まってしまい、そう言い切ることはできなかった。
あれでよかったのか?と自分は考えていた。彼女のあのときの瞳をなぜか思い返していた。あの時の瞳、髪の匂い、白く柔らかい肌、肌の感触、手──
そんなことを考えながら、自分は駅のプラットホームまで歩いて行った。しばらくして、自分が乗る電車がやってきた。遠くで赤のランプが点滅していた。踏切の音がかんかんと鳴り響いていた。