TAKAMURA廻戦   作:日三汐理

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 その老人の正体を知る者はいない。

 

 いつからこの地にいるのか。

 どこに住み、何を目的に動いているのか。

 

 誰も知らない。

 

 ただ一つだけ、確実に言えることがある。

 ──彼は、強い。

 

「~~~~~~~~~」

 

 何かを口にしている。しかし、誰にも聞き取れない。

 

 山の麓で車を降りた老人は、曲がった腰をゆっくりと伸ばし、日本刀を手にしてから歩き出した。

 

 山を登りはじめて五分ほど経ったころ。

 あたりの木々が無残になぎ倒されている場所に出た。

 まるで災害の跡のようだが、その中心には何もない──ように見える。

 

 老人は静かに足を止めた。

 そして、鞘に収まった刀へと手を伸ばす。

 

 ただ風が震え、光が一筋、走った。

 

 再び鞘に刀を戻す老人。

 まるで素振りでもしたかのような、静かな動作。

 

 だが、老人の視線の先──およそ百メートル先の木々には、赤い線が走っていた。

 そこから漂う焦げた匂い。

 

 あまりに速く、鋭い一撃だったため、木々はまだ自分が切られたことに気づいていない。

 

 老人は道を引き返す。迷っている足取りではない。ここにもはや用はないと言わんばかりに、決然として山を降りてゆく。

 

『見える』人間には両断された異形の化け物が苦憫の表情で消えていくのが見えただろう。

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 

 

 

 

 夜の高専事務棟。

 

 書類の山を前に、夜蛾は静かにコーヒーを啜っていた。資料の一番上には「篁」の文字。内容は補助監督が書いた特級呪霊の討伐報告だ。日付はつい先日のものだった。

 

「何か面白い資料でもあったの?」

 

 後ろから軽い声がした。五条悟だ。いつものように目隠しをしたまま、横から書類を覗き込む。

 

「あ、篁さんか。また特級を討伐したんだね」

 

「悟、お前は篁がいつから高専に所属しているか知っているか?」

 

「え、何急に。いつからって、ここ10年ぐらいの話じゃないの? 僕が学生だった頃は多分まだいなかったし」

 

「いや……それがどうやら、“ずっと前から所属してる”らしい」

 

「なんか曖昧じゃない?」

 

「詳細な記録がないんだ」

 

 机上の資料には、記録の抜け落ちた経歴、古びた写真、そしてかなり過去の報告書がある。そこにも篁の名前があった。

 

「七海、なんか知ってたりする?」

 

 彼もまた、夜蛾に呼ばれていたらしい。スーツの袖を整えながら、資料の一部をめくる。

 

「名前は聞いたことがあります。ですが……姿を拝見したことは、一度も」

 

「まあ、それはそうか」

 

 五条が肩をすくめる。

 

「しかし、何か問題があるのでしょうか? 彼はあくまでこちら側。何も問題行動は起こしていないように見えますが」

 

「あぁ。俺もそう思う。だが、素性がわからない強者というのは上にとって都合が悪いようだ」

 

「強さが特級術師に相当する老人。任務以外はまともにコミュニケーションも取れてないっぽいし、確かに気になる存在ではあるよね」

 

「あなたは彼の強さが気になるだけでしょう」

 

「まあね」

 

「高専に呪力が登録されていれば、その時期などは分かりそうなものですが、その記録も残っていないのですか?」

 

「それがな……」

 

 夜蛾が眉をひそめる。視線の先には個人情報が記されている書類がある。

 

「登録されていないようだ」

 

 篁の資料は抜けが多かった。年齢不明、住所不明、呪力特性不明というように、不明のオンパレードであった。

 

「どういうことです?」

 

「呪力はあるにはある。これは間違いない。だが、観測ができない。呪力が少なすぎて観測ができていないという風に結論付けられている」

 

「それでこの討伐数、ですか」

 

 七海が書類の山を見つめる。夜蛾がかき集めた資料だ。彼の経歴に関するものは少ないが、その功績を示すものであればたくさんあった。階級を問わず、数多くの呪霊が彼によって葬られている。まるで呪霊を殺すための機械であるかのように。

 

 不気味ではあるが、その力が役立っているのも事実。誰も彼を追放することを言い出すこともできないのだ。

 

「呪具の使用報告がありますね。登録上は日本刀型。呪力に乏しくても、これによって呪霊に攻撃が通っているようですね」

 

「游雲同様に術式が付与されていない呪具だがな」

 

「この程度の代物で、これだけの規模の攻撃をやってのけているとは。にわかに信じられないですね」

 

 七海が手に取っている写真はつい最近彼が出向いた現場を映している。呪霊による破壊の跡とは別に、鋭い斬撃の痕跡が見て取れる。別の写真には赤い線のような物があるが、補助監督によるとこれは摩擦熱によるものらしい。斬撃を放ってから少しの間、断面にこのような跡が残るようだ。

 

「多分、呪力は少ないわけじゃない」

 

 五条がつぶやく。

 

「呪力特性なのか、それとも他の要因なのか呪力が透明で観測ができていないんだよ」

 

「六眼ではそのように見えたのですか」

 

「いや、ただの勘だよ。六眼でも恐ろしいくらい何もわからなかった」

 

「確かに簡易領域を使っていたという報告がある。呪術を使える以上は一定の呪力量があると見ていいだろう」

 

 その報告によると、篁は日本刀が欠けた時に簡易領域を使って切れ味を補っていたようだ。日下部曰く、そのような使い方ができるのは彼を含めた数人のみのようで、篁の技量の高さが伺える。

 

「一つ、気になる話がある」

 

 夜蛾が続ける。

 

「篁の任務に同伴した補助監督の多くが同じことを言うのだ。彼の発する言葉は聞き取れないというのに、なぜか漠然と意味がわかる時があると。まるで独自の言語体系を築いているかのような」

 

 五条の顔が強張る。

 

「……ねぇ、学長。それって、本当に“人間”なの?」

 

 夜蛾は答えず、窓の外を見た。夜の風が木々を揺らしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い山道。冷たい風が木の葉を震わせるだけで、そこに音はないはずだった。

 

「~~~~~~~~~」

 

 ──声が聞こえた。

 

 真人はその違和感を肌で感じ取った瞬間、血のように冷たい恐怖が全身を駆け抜け、体の自由を奪われた。視界の端に立つ白髪の老人。髪はオールバック、スーツを着ているがジャケットのボタンは開け放たれ、ゆっくりとした歩みで迫ってくる。しかし、その動きの遅さがかえって異様な威圧感を放つ。何かをつぶやいているが、離れているせいか聞き取れない。

 

 だが、そんなことを今は問題ではなかった。

 

「な、なんだ……これ──」

 

 声にならない声を上げ、真人は逃げ出した。枝を蹴り、落ち葉を蹴散らし、斜面を滑り落ちるように駆け下りる。だが、視界は低く、世界が自分を拒むかのように歪む。足が地面に届かず、体が思うように動かない。理性はすでに遠く、ただ「逃げろ」という本能だけが全身を支配した。

 

 さらに、焦げ臭い匂いが鼻腔を突いた。切られた木々の断面から漂う熱と同じ匂いが、自分の両足からも立ち上っている。──足が、切られたのだ。

 

「く、くそっ……!」

 

 叫ぶことすらままならず、真人は体をあらゆる形に変形させながらも必死に逃げる。猫のように四つん這いになり、蛇のように地面を這う。恐怖が理性を完全に飲み込み、もはや反撃を考える余地さえなくなっていた。視界に映る赤い線、焦げた匂い、木々の間の影──すべてが死の前触れに思えた。

 

 心臓の鼓動が耳の奥で響き、呼吸は乱れ、体は震え、絶望が全身を覆った。真人の魂に「逃げろ」という命令以外、何も残っていない。

 

 その瞬間、闇の向こうから無数の気配が押し寄せる。数えきれない呪霊群──夏油が送り出した千の囮だった。真人はほんのわずかに生存の希望を感じる。すぐそばを斬撃が通るが、それは真人を狙った攻撃ではない。老人が周囲を覆う呪霊群を振り払うさえに払った攻撃の余波だった。

 

 その隙に真人は必死に距離を稼ぐ。思考の断片を必死につなぎ合わせ、真人は瞬間、小動物の姿に変わった。軽く、素早く、地面に溶け込むように消え去る。

 

 山道には赤い線が点々と残る。呪霊群はまるで最初から存在しなかったかのように消えてなくなっていた。篁はゆっくりと刀を鞘に収め、動じた様子もなく、言葉を発さなかった。

 

 ──真人は生き延びた。しかし、その胸の奥に刻まれた、理性を失った恐怖は、決して消えない。

 

 

 

 

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