TAKAMURA廻戦 作:日三汐理
その老人の正体を知る者はいない。
いつから術師をしているのか。
誰に呪術を教わり、どこで剣を学んだのか。
そもそも、どこで生まれ、今はどこに住んでいるのか。
呪術高専の関係者でさえ、誰一人として正確な答えを持っていなかった。
記録だけは残っている。
しかし、いずれも断片的なものばかりだった。
ある報告書には、山間部に出現した呪霊を単独で祓ったと記されている。
別の報告書には、ある呪術師の任務へ同行し、対象を斬ったとだけ書かれている。
さらに古い資料にも、その名はあった。
篁。
ただ、それだけだった。
年齢も、出身も、術式も不明。
術師として活動し始めた時期さえ分からない。
誰かが気づいたときには、老人はすでにそこにいた。
そして、気づけば呪霊を斬っていた。
呪術界の誰もが彼を知っている。
だが、誰も彼について知らない。
ただ一つだけ、誰も否定できない事実があった。
――篁は、強い。
「~~~~~~~~~」
老人が何かを呟いた。
しかし、その言葉を聞き取れる者はいなかった。
◇
山の麓に、黒塗りの車が停車した。
舗装された道路はそこで途切れ、先には細い獣道だけが続いている。
時刻は午後四時を少し過ぎた頃だった。
空はまだ明るいはずだが、山を覆う木々が光を遮り、道の先には薄暗い影が落ちている。風が吹くたび、湿った葉が擦れ合い、不快な音を立てた。
後部座席の扉が開く。
先に地面へ下りたのは、鞘に収められた日本刀だった。
続いて、白髪の老人がゆっくりと車外へ出る。
曲がった腰。
皺の刻まれた顔。
使い込まれた黒いスーツ。
足取りだけを見れば、山を登るどころか、平地を歩くことすら危うく思える。
運転席に座っていた補助監督は、慌てて車を降りた。
「篁さん。任務の詳細について、もう一度説明します」
「~~~~~~~~~」
「……はい?」
老人は補助監督を見ない。
山へ続く道を眺めながら、口の中で何かを呟いている。
車内でも何度か声をかけたが、まともな返答は一度もなかった。
補助監督は手元の資料へ視線を落とした。
「山中で、登山客六名が行方不明になっています。その後、捜索に入った地元警察の方が二名負傷。高専が現場を確認したところ、呪霊の存在が確認されました」
反応はない。
「暫定等級は一級。ただし、現地を調査した術師から、特級に近い可能性があるとの報告が出ています。すでに帳は下ろされていますので、一般人が入ってくる可能性は――」
老人は歩き出した。
「あ、篁さん」
呼び止めても、足を止めない。
補助監督の説明を聞いていなかったのか。
それとも、聞いたうえで必要ないと判断したのか。
その区別さえつかなかった。
「……お気をつけて」
補助監督がそう言った頃には、篁の背中は木々の間へ消えようとしていた。
老人の歩みは遅い。
それにもかかわらず、奇妙なほど距離が離れるのが早かった。
補助監督は追いかけようとはしなかった。
今回の任務において、彼に同行することは命じられていない。
むしろ、絶対に山へ入るなと念を押されていた。
篁の任務に同伴する補助監督の役目は、現地までの送迎と帳の管理。
それだけである。
戦闘を観測する必要もない。
討伐を確認する必要さえない。
篁が山から戻ってきたなら、対象は祓われている。
戻ってこない場合については、指示書に何も書かれていなかった。
◇
篁は山道を登っていた。
足元には、雨を吸った土と落ち葉が積もっている。
老人の革靴が泥へ僅かに沈み、そのたびに湿った音が鳴った。
「~~~~~~~~~」
相変わらず、何かを呟いている。
人の気配はない。
鳥の鳴き声も聞こえない。
帳の内側へ入ってから、山は不自然なほど静まり返っていた。
山を登り始めて五分ほど経った頃、篁は開けた場所へ出た。
そこだけ木々が薙ぎ倒されている。
太い幹が根元から折れ、地面にはいくつもの窪みが生じていた。周囲の岩には何かを叩きつけたような亀裂が走り、土の一部は赤黒く変色している。
災害の跡にも見えた。
だが、風や雨によって生じた破壊ではない。
何か巨大なものが、ここで暴れた痕跡だった。
篁が足を止める。
老人の視線の先には、何もない。
少なくとも、普通の人間にはそう見えただろう。
だが、その場所には巨大な呪霊がいた。
周囲の木々と見分けがつかないほど膨れ上がった身体。
全身を覆う、濡れた樹皮のような皮膚。
顔に当たる部分には、上下左右の区別なく無数の眼球が埋まっている。
呪霊は老人を見下ろしていた。
これまで山へ入ってきた人間とは違う。
呪霊にも、それだけは分かった。
目の前にいるのは、小さく、老いた人間である。
呪力もほとんど感じられない。
それなのに、本能が警告を発している。
近づいてはならない。
逃げなければならない。
しかし、呪霊にはその理由が理解できなかった。
理解できないまま、無数の眼球が一斉に見開かれる。
地面が隆起した。
土中から木の根に似た触手が飛び出し、篁を四方から包み込む。
篁は動かない。
触手が老人の身体を押し潰す、その直前。
篁の右手が、日本刀の柄に触れた。
風が震えた。
光が一筋、山中を走る。
音は後から届いた。
硬いもの同士を擦り合わせたような、甲高い音。
篁はすでに刀を鞘へ戻していた。
抜刀した瞬間を見た者はいない。
巨大な呪霊も、自分が斬られたことを理解していなかった。
篁へ迫っていた触手が止まる。
呪霊の身体に、細い横線が生まれた。
その線は呪霊の胴体だけに留まらず、背後の木々へと続いている。
一本。
二本。
十本。
百メートル先まで並ぶ木々に、同じ高さの線が走っていた。
焦げ臭い匂いが広がる。
斬撃の速度と摩擦によって、断面が赤熱しているのだ。
呪霊の上半身が僅かに傾く。
同時に、並んでいた木々も同じ方向へずれ始めた。
遅れて重い音が連続する。
木々が倒れ、地面が揺れた。
斬られた呪霊は声を上げることもできなかった。
苦悶の表情を浮かべたまま、その身体が黒い塵へ変わっていく。
篁は最後まで見届けなかった。
すでに踵を返し、来た道を下り始めている。
迷いのない足取りだった。
ここにはもう用がない。
そう言わんばかりに、老人は山を下りていった。
「~~~~~~~~~」
木々が倒れる音の中でも、老人の呟きだけは途切れなかった。
◇
夜の東京都立呪術高等専門学校。
事務棟の一室には、淹れてから時間の経ったコーヒーの匂いが漂っていた。
夜蛾正道は机へ向かい、山のように積み上げられた資料を読んでいた。
その大半が古い紙だった。
年月が経ち、端が黄ばんだ任務記録。
一部が黒く塗り潰された報告書。
文字が滲み、日付さえ判別できなくなった資料もある。
一番上には、つい先ほど届いたばかりの討伐報告書が置かれていた。
暫定一級。
再調査により、特級相当と判定。
討伐完了。
人的被害なし。
所要時間、推定十分未満。
担当術師の欄には、二文字だけが記されている。
篁。
「随分と古い資料を引っ張り出したね」
扉が開く音もなく、背後から軽い声がした。
夜蛾は振り返らなかった。
「ノックをしろ、悟」
「したよ」
「聞こえなかった」
「じゃあ、聞こえないくらい優しくしたんだろうね」
五条悟は悪びれる様子もなく、夜蛾の机へ近づいた。
目隠しをした顔を傾け、報告書を横から覗き込む。
「ああ、篁さんか」
その口調は軽い。
「また特級を祓ったんだ。最近多いね」
「暫定では一級だった」
「篁さんに持っていかせておいて、一級でしたは無理があるでしょ」
「現地調査が不十分だった。山中であることに加え、対象が気配を隠していたらしい」
「それで、結果がこれ?」
五条は現場写真を一枚持ち上げた。
山林の一部が、巨大な刃物によって薙ぎ払われたように消失している。
写真の奥では、数十本の木が同じ高さで切断されていた。断面には、撮影時点でも赤い熱が残っている。
「相変わらず滅茶苦茶だね」
五条の口元が僅かに笑う。
「悟」
「何?」
「お前は、篁がいつから術師をしているか知っているか」
五条が写真から顔を上げた。
「急だね」
「答えろ」
「知らない」
五条はあっさりと言った。
「僕が学生だった頃には、名前くらいは聞いたことがあったかな。任務で会った記憶はないけど」
「硝子や歌姫にも確認した。結果は同じだ」
「じゃあ、それより前からじゃない?」
「いつからだ」
五条は答えない。
机の上へ視線を落とす。
「その調査をしてるってこと?」
「ああ」
夜蛾は、一冊の古びた記録簿を五条の前へ押し出した。
「篁の経歴を確認するよう、上から指示が出た」
「上が?」
五条の声から僅かに軽さが消える。
「今更?」
「今更だからだ」
篁は数多くの呪霊を祓ってきた。
その中には一級や特級に分類されたものも少なくない。
にもかかわらず、その素性は不明なままだ。
これまでは、役に立っているという理由で黙認されてきた。
だが、正体不明の術師が特級呪霊を単独で、しかも継続的に討伐している。
上層部がそれを無条件に受け入れ続けるはずもなかった。
「それで、何か分かった?」
「何も分からんということが分かった」
夜蛾は短く答えた。
五条が笑う。
「学長、それ格好つけて言ってる?」
「資料を見ろ」
夜蛾が睨むと、五条は肩をすくめた。
机には、篁に関係するとされる資料が年代順に並べられている。
最近のものは比較的詳細だった。
任務地。
対象となった呪霊。
討伐に要した時間。
周辺被害。
しかし、古くなるにつれて記述は急速に曖昧になっていく。
篁という名だけが記された紙。
討伐済みという一文だけが書かれた報告書。
同行した術師の死亡記録に、篁らしき人物の存在が付記されたもの。
「これ、日付は?」
五条が一枚の紙を持ち上げる。
「判別できん。保管場所から考えれば、少なくとも数十年前の資料だ」
「本人だって確認は?」
「取れていない」
「じゃあ、同姓の別人かもしれない」
「その可能性もある」
「随分曖昧だね」
「篁に関する資料は、すべてそうだ」
夜蛾は眉間を押さえた。
「術師として登録された時期が分からない。高専へ入学した記録も、どこかの家系に所属していた記録もない。師に当たる人物も不明だ。それにもかかわらず、過去の任務記録には何度も名前が出てくる」
「誰かが勝手に任務へ出してたとか?」
「それを指示した者の記録もない」
「じゃあ、本人が勝手に呪霊を祓って、後から報告だけ足されてた?」
「分からん」
「困ったね」
そう言いながら、五条はあまり困っているようには見えなかった。
むしろ、面白い玩具を見つけた子供のように資料を眺めている。
「七海。お前は何か知らないか」
夜蛾が部屋の隅へ声をかける。
窓際に立っていた七海建人が、手にしていた資料から顔を上げた。
「名前は以前から聞いています」
七海はスーツの袖を整えながら答える。
「ですが、直接会ったことはありません。任務地が重なったこともないはずです」
「噂は?」
「任務を確実に遂行する老人。言葉は聞き取れず、意思の疎通も難しい。日本刀を使用し、術式は不明。私が知っているのは、その程度です」
「僕より有名だったりして」
「あなたとは有名になる理由が違います」
「褒めてる?」
「いいえ」
五条は笑った。
七海は相手にせず、古い報告書へ目を戻す。
「しかし、今になって経歴を調べる理由は何ですか」
「上層部が警戒している」
夜蛾が答える。
「素性の分からない強者は、連中にとって都合が悪い」
「彼が問題行動を起こした記録は?」
「確認できる範囲ではない」
「任務拒否は?」
「それもない」
「であれば、少なくとも現時点で問題視する必要はないように思えますが」
「上にとって、従う理由が分からない者は、従わない者と同じなんだろう」
七海は僅かに眉をひそめた。
「相変わらずですね」
「まあ、気持ちは分からなくもないけどね」
五条が一冊の資料を持ち上げる。
「篁さんが何を考えて動いてるのか、僕にも分からないし」
「あなたにも?」
「ちゃんと会ったことはないよ。遠くから見たことならあるけど」
五条は軽い口調で言った。
「六眼で見ても、びっくりするくらい何も分からなかった」
室内が静かになった。
七海が五条を見る。
「何も、というのは?」
「そのままの意味」
五条は自分の目隠しへ指を当てた。
「呪力がないわけじゃない。完全なフィジカルギフテッドとも違う。術師である以上、呪力は持ってる。実際、簡易領域を使ったって報告もある」
「それにもかかわらず、六眼で観測できない?」
「できないというより、掴めない」
五条は少し考え、言葉を選ぶ。
「普通、呪力は流れとして見える。身体のどこから生まれて、どう動き、どこへ向かってるか。術式を使えば、その構造もある程度は分かる」
「篁の場合は違うと?」
「うん。何も見えないわけじゃない。でも、見ようとした瞬間には、もうそこにない」
「呪力を隠している?」
「それだけなら僕には見えるよ」
五条が笑う。
だが、その笑みは先ほどまでとは違っていた。
「多分、隠してるんじゃない。無駄がなさすぎるんだ」
「無駄?」
「人間の身体からは、どれだけ制御しても多少は呪力が漏れる。でも、篁さんにはそれがほとんどない。呼吸するみたいに、必要な瞬間、必要な場所に、必要な分だけ呪力を置いてる」
七海が手元の資料へ目を落とす。
「それが、この身体能力の理由ですか」
「さあね。それだけじゃ説明できないと思う」
現場写真には、異常な斬撃の痕跡が残されている。
日本刀型の呪具を使用。
術式の付与は確認されていない。
呪具そのものの等級も、特別に高いわけではない。
にもかかわらず、篁はその刀で特級呪霊を一撃のもとに両断している。
「游雲と同様、術式の付与されていない呪具だ」
夜蛾が言う。
「耐久性と呪力伝導率は高いが、刀そのものに特殊な効果はない」
「つまり、やってるのは本人か」
五条は写真を机へ戻した。
「単純に速く、単純に強く、単純によく斬れる」
「単純という言葉で済ませるには、規模がおかしいですね」
七海の言うとおりだった。
斬撃は呪霊だけではなく、その背後にあった木々を百メートル近くにわたって切断している。
しかも、飛ぶ斬撃に類する術式の使用は確認されていない。
刀を振った結果として、そこまで刃が届いた。
報告書は、そのように結論づけていた。
「簡易領域については?」
七海が尋ねる。
「日下部に資料を見せた」
夜蛾が別の報告書を取り出した。
「任務中、刀身が欠けた際に使用したと見られている。簡易領域を刀の周囲に極端に狭く展開し、刃の欠損を補ったらしい」
「刃そのものを領域として扱っている?」
「正確な原理は分からん。日下部も、自分が扱うものとは別物だと言っていた」
「我流ってこと?」
五条が興味深そうに身を乗り出す。
「誰にも教わらず、自分であの形にした可能性が高い」
「簡易領域を刀に纏わせてるなら、接触した術式を中和できるかもしれないね」
五条は、まるで独り言のように続けた。
「結界の必中を消すだけじゃない。術式そのものへ刃を差し込めるなら……」
「悟」
夜蛾が制止する。
「何?」
「楽しそうにするな」
「してないよ」
「しています」
七海が即座に否定した。
「いやあ、だって気になるでしょ」
五条は笑った。
「それが本当なら、僕にも届くかもしれない」
「試そうとするな」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔に書いてある」
夜蛾は深く息を吐いた。
篁の資料を調べ始めてから、疑問は増える一方だった。
出自不明。
年齢不明。
術式不明。
呪力特性不明。
活動開始時期不明。
呪術の習得経路も不明。
分かっているのは、彼が日本刀を使うこと。
呪霊を祓うこと。
そして、任務へ向かわせれば、必ず対象を斬って帰ってくることだけだった。
「一つ、気になる証言がある」
夜蛾が言った。
「篁の任務に同行した補助監督から、何度も同じ報告が上がっている」
「言葉が聞き取れないって話?」
「それもある」
篁は常に何かを呟いている。
しかし、何を言っているのか誰にも聞き取れない。
声が小さいだけではない。
録音機器を近づけても、雑音のようにしか記録されない。
口の動きを読もうとした者もいたが、意味のある言葉にはならなかった。
「だが、補助監督の中には、篁の言葉の意味が分かったと証言する者がいる」
「聞き取れたんですか?」
「いや。言葉自体は聞き取れていない」
夜蛾は報告書の一節を読む。
「何を言っているのかは分からなかった。しかし、そのとき篁が帰ると言っていることだけは、なぜか理解できた」
「随分と感覚的な証言ですね」
「別の者は、危険だから下がれと言われた気がした、と証言している」
「気がした?」
「ああ」
「単に状況から推測したのでは?」
「その可能性もある」
夜蛾が頷く。
「だが、同様の証言が多すぎる」
聞き取れない。
理解もできない。
それでも、ごく稀に、篁が何を言っているのかだけは伝わってくる。
会話と呼べるものではない。
呪言のような強制力も確認されていない。
ただ、老人の発した何かが、言葉としてではなく、意味だけを相手へ残すことがある。
「独自の言語体系……というのも違うか」
五条が呟く。
「本人が言葉を伝えているというより、聞いた側が勝手に理解させられているようにも見える」
「術式の可能性は?」
七海が尋ねる。
「否定はできん」
「でも、術式なら僕に何か見えてもいいはずなんだよね」
五条は目隠しの奥から、机上の資料を見つめていた。
それまで浮かべていた笑みが消えている。
「学長」
「何だ」
「篁さんの戸籍は?」
「存在しない」
「家族は?」
「不明」
「住居は?」
「不明だ。任務を伝達するときには、いつの間にか指定された場所へ現れる」
「連絡手段もない?」
「少なくとも、こちらから直接連絡を取る手段は確認されていない」
「それでも任務には来る」
「ああ」
「誰が伝えてるの?」
「分からん」
短い沈黙が落ちた。
窓の外で風が吹く。
夜の木々がざわめき、枝が窓ガラスを細く叩いた。
五条は机の上にある古い写真を手に取った。
白黒の写真。
背景は山林。
複数の術師と思われる人影の中に、刀を持った人物が写っている。
顔は不鮮明で、篁本人であるかは判別できない。
ただ、写真の裏には一文字だけ、名前が記されていた。
「ねえ、学長」
五条が静かに言った。
「それって、本当に人間なの?」
夜蛾は答えなかった。
七海も資料から顔を上げない。
部屋の時計が秒を刻む音だけが、奇妙なほど大きく響いていた。
◇
薄暗い山道。
冷たい風が木の葉を震わせている。
山の一部を覆っていた帳は、すでに解除されていた。
特級呪霊の消滅によって、任務は完了した。
本来なら、そこにはもう何も残っていないはずだった。
「~~~~~~~~~」
声が聞こえた。
真人は足を止めた。
最初は風の音だと思った。
木々が擦れる音。
遠くで枝が折れる音。
その中へ、人間の声らしきものが僅かに混じっている。
「誰かいるの?」
真人は笑いながら振り返った。
返事はない。
少し離れた山道に、白髪の老人が立っていた。
黒いスーツ。
開かれたジャケット。
手にした日本刀。
曲がった腰で、何かを呟きながらゆっくりと歩いている。
呪力はほとんど感じない。
ただの老人にしか見えなかった。
それにもかかわらず、真人の足は動かなかった。
「……何?」
老人の視線が、自分へ向けられている。
ただ見られているだけだ。
殺気を浴びせられたわけではない。
呪力をぶつけられたわけでもない。
術式を発動した気配もない。
それなのに、真人の魂が震えていた。
人間の感情から生まれた真人は、魂の輪郭を理解している。
肉体の奥にある、本質。
通常の術師が触れることのできない領域。
無為転変は、そこへ手を伸ばす術式だ。
だからこそ、真人には分かった。
老人は自分の身体を見ていない。
その視線は肉体を通り越し、さらに内側へ向けられている。
自分の魂を、直接見ている。
「……見えてるの?」
真人の声が僅かに震えた。
「俺の形が」
「~~~~~~~~~」
老人が呟く。
聞き取れない。
聞き取れないはずなのに、真人の中に一つの意味が落ちてきた。
汚い。
「は?」
真人の口元から笑みが消えた。
「今、何て――」
篁の右手が動いた。
刀へ触れただけだった。
真人の視界が大きく傾く。
何が起こったのか分からない。
地面が近づき、顔が落ち葉へぶつかった。
一瞬遅れて、自分の身体が膝から下を失っていることに気づく。
「……え?」
両脚が切断されていた。
切断面から焦げ臭い匂いが立ち上っている。
真人は反射的に魂の形を変えた。
失った脚を再構築しようとする。
いつもなら、それだけで肉体は元に戻る。
肉体は魂に従う。
肉体がどれだけ破壊されても、魂の形さえ保たれていれば致命傷にはならない。
だが、脚は戻らなかった。
「何で……?」
真人はもう一度、術式を使う。
魂の輪郭を整え、切断された部分を復元しようとする。
激痛が走った。
「――ッ!」
肉体ではない。
魂そのものから生じる痛みだった。
自分の魂の両脚に当たる部分が、肉体と同じように断ち切られている。
真人は初めて理解した。
老人は肉体を斬ったのではない。
肉体と、その内側にある魂を、同じ一撃で両断した。
「な……」
老人が歩いてくる。
一歩。
また一歩。
速くはない。
走ってもいない。
それでも真人には、死そのものが近づいてくるように見えた。
「何なんだよ、お前……」
篁は答えない。
「術式か? 俺の魂を斬ったのか?」
「~~~~~~~~~」
「何て言ってるんだよ!」
真人は両腕を地面へ突き立てた。
脚の形を再構築できないのなら、別の肉体を作ればいい。
腰から下を蛇のように変形させ、地面を這う。
そのまま木々の間へ逃げ込んだ。
反撃するという考えはなかった。
触れれば殺せる。
相手がどれだけ強くても、掌で魂へ接触できれば無為転変は発動する。
本来の真人なら、そう考えただろう。
だが、老人へ近づく自分の姿が想像できなかった。
触れるより先に斬られる。
頭ではなく、魂がそう理解している。
真人は木の根を掴み、無理矢理に身体を前へ押し出した。
「くそっ……!」
背後から声が聞こえる。
「~~~~~~~~~」
振り返ってはいけない。
そう思いながら、真人は振り返った。
老人はまだ遠くにいる。
刀も鞘に収まっている。
追いつかれる距離ではない。
そのはずだった。
篁の指が鍔へ触れる。
真人は反射的に身体を横へ捻った。
光が通過した。
隣にあった木が滑るように倒れる。
真人の左腕も、肩から消えていた。
「――ああああああッ!」
魂を直接削られる痛み。
これまで肉体をいくら変形させても感じたことのない苦痛だった。
失った腕が戻らない。
術式を使うたび、切断された魂の断面が焼けるように痛む。
死ぬ。
その言葉が真人の中に浮かんだ。
人間が死を恐れる姿を、真人は何度も見てきた。
魂の形を変えられ、逃げ惑い、泣き叫ぶ人間たち。
彼らの恐怖を面白いと思っていた。
くだらないと思っていた。
肉体へ執着し、自分という形が失われることを恐れる姿を笑っていた。
今、その感情が自分の中にあった。
「嫌だ……」
死にたくない。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……!」
真人は身体を変える。
蛇から犬へ。
犬から鳥へ。
鳥から小さな虫へ。
だが、どの形になっても魂につけられた傷は消えない。
姿を変えるたびに痛みが増す。
視界の端へ赤い線が走る。
焦げた匂いが漂う。
木々の影が揺れる。
そのすべてが篁の斬撃に見えた。
老人の姿を見失っても、声だけは聞こえてくる。
「~~~~~~~~~」
近い。
さっきよりも近い。
真人は地面を転がりながら、残った腕で身体を前へ押し出す。
足はない。
片腕もない。
魂を切断された箇所は再生しない。
反撃など考えられない。
理性はすでに遠ざかっていた。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
真人の魂に残っているのは、その命令だけだった。
篁が刀へ手を掛ける。
次は外さない。
なぜか、真人にはそう分かった。
老人が何を狙っているのか。
どこを斬ろうとしているのか。
言葉も、表情も、視線の動きさえ分からない。
それでも、次の一撃が自分の魂を完全に断つものであることだけは理解できた。
その瞬間。
山の奥から、無数の呪力反応が溢れ出した。
低級呪霊。
準二級。
二級。
一級に近い個体まで混じっている。
数百。
否、千に迫る数の呪霊が木々の間から現れ、一斉に篁へ襲いかかった。
人の頭部から無数の脚が生えたもの。
巨大な口だけで地面を這うもの。
樹木と同化し、枝の先へ眼球をつけたもの。
呪霊の群れが山道を埋め尽くす。
篁の姿が、その濁流の中へ消えた。
真人は、それが誰の仕業であるかを考えなかった。
助かった。
その一念だけで身体をさらに小さく変形させる。
鼠ほどの大きさになり、落ち葉の下へ潜り込む。
背後で音が鳴った。
刀が鞘を走る音。
たった一度。
次の瞬間、山全体を白い光が横切った。
呪霊の声が途絶える。
木々が揺れる。
山道を埋めていた呪霊の群れは、ほぼ同時に切断されていた。
一体ずつ斬ったのではない。
一度の抜刀によって、斬撃の範囲に存在したすべての呪霊が魂ごと両断された。
赤い切断面が闇の中へ浮かび上がる。
千に迫る呪霊が、最初から存在していなかったかのように消えていく。
篁はゆっくりと刀を鞘へ戻した。
老人の前には、切断された山道だけが残っている。
真人の姿はない。
呪霊の群れが作った僅かな隙に、小動物へ変じて逃げ去っていた。
篁は追わなかった。
逃走した方角を、濁った瞳で見つめている。
「~~~~~~~~~」
誰に向けたものでもない呟きが、静かな山へ溶けていく。
その言葉の意味を理解できる者は、そこにはいなかった。
◇
真人は生き延びた。
だが、失った脚と腕は戻らなかった。
肉体の形をいくら変えても、斬られた魂はすぐには元に戻らない。
それに、術式を使うたび、そこに篁の刃が残っているかのような痛みが走った。
暗い山中を這いながら、真人は何度も背後を振り返る。
老人の姿はない。
声も聞こえない。
それでも、震えは止まらなかった。
肉体ではない。
魂そのものが、あの老人を恐れている。
自分を見た者。
自分へ触れることなく、魂を斬った者。
呪いを殺すことに、喜びも怒りも憎しみも抱いていない者。
ただ、道に落ちていたゴミでも片づけるように、自分を斬ろうとした存在。
真人は泥の中へ爪を立てた。
呼吸をする必要などないはずなのに、喉から荒い息が漏れる。
「何なんだよ……」
答える者はいない。
「あれは……何なんだよ……!」
真人の声は、誰もいない山中へ虚しく消えていった。
篁という老人の存在は、傷として真人の魂へ刻み込まれていた。