TAKAMURA廻戦 作:日三汐理
漏瑚は走っていた。
渋谷の地下を焼きながら、ただひたすらに一つの気配を目指している。
先ほど感じ取った、両面宿儺の指。その禍々しい呪力は、入り組んだ地下構造の向こうからでもはっきりと分かった。封印が解かれた指が複数ある。そこまで辿り着き、虎杖悠仁へ自分の持つ指を飲ませることができれば、宿儺を表へ引きずり出せる可能性がある。
問題は、その前に自分が追いつかれることだった。
轟音とともに背後の通路が炎に包まれる。
漏瑚は振り返ることなく、壁、床、天井の至るところから炎を噴き上げさせた。狭い地下道そのものを焼却炉に変え、さらに床を爆破して進路を崩す。人間であれば、それだけで追跡を断念せざるを得ない。
しかし数秒後。
炎の奥から、規則正しい足音が聞こえてきた。
コツ。
コツ。
「~~~~~~~~……」
「……くそっ」
漏瑚は舌打ちし、再び前を向いた。
急いでいるようには見えない。
それなのに、離れない。
先ほどからずっとそうだった。
漏瑚は自分の速度に自信を持っている。少なくとも並の術師や呪霊が追跡できる速さではない。まして相手は、見た目だけなら杖を持っていてもおかしくない老人だ。
だというのに、距離が開かない。
振り返るたびに、黒い背広の老人は変わらぬ歩調でこちらへ近づいてくる。
「~~~~~~~~~~」
漏瑚は掌を後方へ向けた。
壁面が赤熱し、次の瞬間には爆発する。灼熱した瓦礫が通路を埋め尽くし、その向こうからさらに複数の火柱を噴き上げた。
殺すためではない。
進路を塞ぐ。
視界を奪う。
足を止める。
偽夏油から聞かされていた篁への対処を、漏瑚なりに徹底していた。
あの老人へ明確な殺意を向けるほど、反応は鋭くなる。
ならば殺そうとしなければいい。
攻撃ではなく妨害。
戦闘ではなく逃走。
真人が二度目に遭遇した時とは違う。偽夏油が腹を貫かれた時とも違う。
漏瑚自身が、篁と戦うためではなく逃げるためだけに術式を使っている。
それでも。
斬撃音が一度だけ聞こえた。
轟々と燃えていた炎が、中央から二つに割れる。
崩したはずの瓦礫も、その奥の壁ごと一直線に断ち切られた。
開いた隙間から黒い背広が現れる。
「……どこまで追ってくるつもりだ!」
当然、返事はない。
漏瑚は歯噛みしながら曲がり角を抜けた。
瞬間。
背後から悪寒。
身体を横へ捻る。
右肩が浅く裂けた。
「――っ!」
ほんの僅かに判断が遅ければ、肩から先を落とされていた。
漏瑚は炎を爆発させ、その反動まで利用して距離を取る。
傷口を再生しながら速度を上げた。
ようやく分かった。
篁が先ほどまで自分を追い詰め切らなかったのは、遅いからではない。
自分が篁へ殺意を向けず、逃げることだけに集中していたからだ。
それでも追いつかれる。
「冗談ではないぞ……」
漏瑚の額に汗など浮かばない。
それでも、今の感覚を人間の言葉にするなら冷や汗だった。
前方から、目指していた気配が一段と強くなる。
近い。
宿儺の指。
その近くに虎杖悠仁もいるはずだ。
「あと少し……!」
漏瑚が地下を駆け抜ける。
◆
気を失った虎杖悠仁の傍らに、美々子と菜々子はいた。
二人の目的は決まっている。
夏油傑の肉体を弄ぶ何者かを殺してもらう。
そのために、宿儺を利用する。
しかし、二人が次の行動へ移るより早く、凄まじい熱気が通路の向こうから押し寄せた。
「……!」
菜々子が振り返る。
炎を纏った漏瑚が飛び込んできた。
その一つ目が、倒れている虎杖と二人の少女を順に捉える。
「貴様ら、そこで何をしている」
「アンタには関係――」
美々子の言葉は最後まで続かなかった。
漏瑚に事情を聞く余裕はなかった。
この二人が何者なのか。
何のために虎杖の傍にいるのか。
宿儺をどう利用しようとしているのか。
どうでもいい。
今必要なのは、虎杖悠仁だけだった。
「邪魔だ」
熱が爆ぜた。
二人が術式を使うよりも速く、炎がその身体を呑み込む。
悲鳴すら長くは続かない。
漏瑚は倒れた二人を一瞥することもなく虎杖の傍へ屈み込んだ。
懐から、封を施された包みを取り出す。
宿儺の指。
一本ではない。
漏瑚が長く集め、保管していたもの。
十本。
これだけを一度に取り込ませれば、虎杖が肉体の主導権を保てる保証はない。
むしろ、それを狙っている。
一本目を虎杖の口へ押し込もうとした、その時。
遠くから聞き慣れた気配が近づいてきた。
「漏瑚!」
振り向く。
「花御……!」
現れたのは花御だった。
渋谷駅地下で五条悟と戦った際にも、花御は領域展延を解かなかった。そのため五条の術式による決定的な一撃を受けることなく生き残り、負傷を抱えながらも別経路で行動を続けていた。
そして今。
花御の向こう側から。
コツ。
コツ。
あの足音が近づいてくる。
漏瑚の表情が変わった。
「花御! 奴を止めろ! 僅かでいい!」
花御は問い返さなかった。
通路の先から現れた老人を見て、すぐに状況を理解したのだろう。
篁。
「~~~~~~~~~~」
老人は立ち止まらない。
花御の身体を領域展延が包む。
五条悟の無下限へ対抗するために使ったものと同じ。生得術式を一時的に捨てる代わりに、相手の術式へ接触できる状態を維持する。
花御は正面から篁へ向かった。
巨体が床を踏み砕く。
拳が振り下ろされる。
篁の身体が僅かに横へ動いた。
花御の拳は床を粉砕する。
その直後には、刀が抜かれていた。
「――!」
花御が両腕を交差する。
斬撃。
硬い。
並の呪具なら傷をつけることさえ困難な花御の腕。
しかし。
血が飛んだ。
深い傷が、両腕を斜めに走っている。
完全に切断されなかっただけだった。
花御は後退しない。
漏瑚を振り返りもしなかった。
篁の身体を抱え込もうと前へ出る。
その間に、漏瑚は虎杖の口へ指を押し込んだ。
一。
飲み込ませる。
二。
虎杖の身体が僅かに痙攣する。
三。
背後で斬撃音。
花御の肩口から大量の血が噴き出す。
「耐えろ、花御!」
四本目。
五本目。
花御が篁へ掴みかかる。
篁はその腕を潜り、刀を横薙ぎに振るった。
花御の脇腹が深く裂ける。
それでも倒れない。
篁の進路へ身体そのものを置き続ける。
ただ硬いだけではない。
花御自身も、この時間が必要であることを理解している。
六本目。
虎杖の顔に、黒い紋様が一瞬浮かんでは消えた。
漏瑚の一つ目が細くなる。
「まだだ」
七。
八。
篁の刀が花御の左腕を落とした。
花御の身体が大きく傾く。
残った右腕で床を支え、なお老人の前へ出る。
篁は何かを呟く。
「~~~~~~~~……」
花御には意味を取れない。
漏瑚にも分からない。
ただ。
刀が振られた。
「花御!」
漏瑚が叫ぶ。
次の瞬間。
花御の上半身と下半身が分かれた。
腰部を横一文字に断ち切られ、巨大な身体の上半分が床へ落ちる。下半身だけが数歩進んだ後、その場に崩れ落ちた。
それでも。
花御の呪力は消えていない。
生きている。
だが、もう戦えない。
篁が倒れた花御を越える。
九本目。
漏瑚は指を虎杖の喉へ押し込んだ。
篁との距離。
十数メートル。
縮む。
十メートル。
最後の一本を掴む。
花御の上半身が、残された腕で篁の足首へ手を伸ばした。
その手を。
篁は一瞥もしなかった。
踏み込みながら避ける。
「食え……!」
十本目。
漏瑚が虎杖の口へねじ込む。
飲み込ませた。
直後。
篁が止まった。
漏瑚も動かない。
空気が。
変わった。
虎杖悠仁の身体から立ち上る呪力が、先ほどまでとはまるで別物へ変質していく。
濃い。
禍々しい。
ただそこに存在するだけで、周囲の空間を支配するような圧。
閉じていた虎杖の瞼が開いた。
その顔に浮かぶ笑みは。
虎杖悠仁のものではない。
「……」
両面宿儺。
漏瑚の一つ目が見開かれる。
ついに。
待ち望んでいた呪いの王が、表へ出た。
「宿儺――」
声をかける。
宿儺の目が漏瑚を捉えた。
「頭が高いな」
「――!」
漏瑚は反射的に片膝をついた。
だが、それでも遅い。
何かが通過した。
一瞬後。
漏瑚の頭部の一角が、ずるりと滑り落ちた。
紫色の血が流れ出す。
「ぐっ……!」
片膝をついたまま、漏瑚は歯を食いしばった。
宿儺はそんな漏瑚へ興味を失ったように視線を外す。
その先。
花御を両断し。
今もゆっくりと歩いてくる老人。
篁。
「~~~~~~~~~~」
宿儺の目が細くなった。
その老人には、見覚えがある。
虎杖の内側から一度見ていた。
公園。
自分の器の首へ、何の躊躇もなく刀を通した老人。
首は落ちなかった。
傷さえ残らなかった。
だというのに、確かに刃は虎杖の首を通り抜けていた。
「……ああ」
宿儺が小さく笑う。
「あの時の爺か」
篁は返答しない。
意味を取れない呟きだけが続く。
「~~~~~~~~」
宿儺は篁から目を離さないまま、漏瑚へ言った。
「何の用だ、というのは聞く必要はなさそうだな」
「ああ」
漏瑚は再生を始めた頭部を押さえながら立ち上がった。
篁を見る。
「あの術師を倒したい。協力してくれ」
宿儺が僅かに眉を上げた。
「協力?」
その言葉が気に入らなかったのか。
あるいは、ただ面白かったのか。
やがて宿儺の口元が大きく吊り上がる。
「ふむ。十本もの指の礼だ。あの術師とは戦ってやろう」
漏瑚の表情が僅かに明るくなる。
それだけで十分だった。
宿儺が篁と戦う。
その事実だけで、先ほどまでほとんど存在しなかった勝ち筋が生まれる。
しかし。
「だが」
宿儺が続けた。
「協力というのは、主に対等な者に対して求めるものだ」
漏瑚の一つ目が細くなる。
「何が言いたい」
「こうしよう」
宿儺は篁を見たまま、楽しそうに言った。
「今から我々三人で殺し合う」
「……何?」
「お前が俺に一撃を食らわせることができれば、お前の力を認めてやる」
宿儺が一本の指を立てる。
「その時は、お前の下についてやろう」
「……!」
漏瑚が言葉を失う。
願っていた条件。
宿儺を自分たちの側へ引き入れる。
それが実現する可能性を、宿儺本人が提示した。
だが。
「安心しろ」
宿儺の笑みが深くなる。
「俺自身はお前に攻撃はせん」
一瞬。
漏瑚は何を言われたのか理解できなかった。
やがて、その意味が腹へ落ちる。
「……馬鹿にするな!」
足元から炎が噴き上がった。
「それでは勝負にならん!」
宿儺の表情から笑みが消える。
空気が一変した。
「図に乗るな、痴れ者が」
「――っ」
漏瑚の炎が僅かに揺らぐ。
宿儺は篁へ視線を戻した。
「俺が貴様へ攻撃しない。それだけでも過ぎた譲歩だ」
コツ。
篁の足音が近づく。
「この老人と戦いながらでも――」
宿儺の口元に、再び嗜虐的な笑みが浮かんだ。
「お前程度の攻撃を避けるには十分だ」
「貴様……!」
漏瑚の全身から呪力が膨れ上がる。
篁が足を止めた。
「~~~~~~~~~~」
三者。
両面宿儺。
漏瑚。
篁。
互いの間に、僅かな沈黙が落ちる。
上半身だけとなった花御が、離れた場所から辛うじてその光景を見ていた。
最初に笑ったのは宿儺だった。
「ケヒッ」
楽しそうに歯を見せる。
「さて」
その目が。
漏瑚と篁を順番に捉えた。
「始めるか」