TAKAMURA廻戦 作:日三汐理
山中から少し離れた廃道に、古びたトンネルがあった。
かつては近隣の集落を繋いでいたらしいが、数年前の土砂崩れによって使用されなくなり、現在は入口を錆びた柵で塞がれている。
照明はとうに機能を失っている。
外から差し込む月明かりも、十数メートル進めば届かなくなる。
トンネルの奥には、湿った土と苔の臭いが満ちていた。
そこへ、何かが這い込んでくる。
最初は小動物に見えた。
鼠よりも一回り大きい、黒ずんだ肉の塊。
しかし、それは地面を進みながら何度も形を変えていた。
細い脚が生えたかと思えば、次の瞬間には身体へ沈む。
骨らしきものが皮膚の下から突き出し、別の位置へ移動する。
やがて肉塊は人間ほどの大きさまで膨らみ、壁へ手をついた。
腕が伸びる。
肩が生まれる。
歪んだ背骨が音を立てて繋がり、頭部に目と口が形成される。
真人だった。
「……っ、は……」
地面へ両手をついたまま、真人は何度も息を吸った。
呪霊に呼吸は必要ない。
肺が止まったところで死にはしない。
それでも、人間の形を模して生まれた真人の身体は、極度の恐怖を感じると呼吸を求めた。
肩が大きく上下する。
喉から漏れる音は掠れ、空気を吸うたびに胸の奥が軋んだ。
再構成した両脚は、まだ完全な形になっていない。
右脚は人間のものに近かったが、左脚は長さが足りず、膝から下が不自然に細い。失った左腕も外見だけは元へ戻っていたものの、指先が思うように動かなかった。
肉体の問題ではない。
篁に斬られた部分だけ、魂の輪郭が乱れていた。
普段の真人なら、魂の形を先に定め、それに合わせて肉体を作り直せる。
しかし、今回は違った。
新しい手足を作ろうとするたび、魂の断面から鋭い痛みが走った。
斬られた形そのものが、魂へ残っている。
「……くそ……」
真人は壁へ背中を預けた。
泥と落ち葉にまみれた顔には、いつもの無邪気な笑みがない。
何度も背後を振り返る。
暗いトンネルの入口。
そこに老人の姿はない。
何かを呟く声も聞こえない。
それでも、篁が刀へ手を伸ばした瞬間が、何度も脳裏に蘇ってくる。
刃は見えなかった。
殺気も感じなかった。
ただ気づいたときには、自分の魂が斬られていた。
あの老人が追ってきていないという確信を、真人はまだ持てずにいた。
「――あーあ。だから言ったのに」
突然、暗闇の奥から声がした。
真人の身体が跳ねる。
反射的に右腕を刃へ変形させ、声のした方へ向けた。
「誰だ!」
「随分な歓迎だね」
足音が近づいてくる。
闇の中から現れたのは、袈裟をまとった長髪の男だった。
額を横切る縫い目。
穏やかな笑み。
夏油傑の肉体を使う、別の何か。
羂索は真人の構えを気にする様子もなく、その数歩手前で足を止めた。
「私だよ」
「……お前か」
真人の腕が元の形へ戻る。
だが、緊張は解けなかった。
地面に手をつきながら、必死に呼吸を整える。肩が上下に波打ち、喉からは掠れた空気しか漏れてこない。
顔面は泥でぐしゃぐしゃだった。
羂索はそんな真人を見下ろし、小さく息を吐いた。
「酷い姿だ」
「……うるせぇ……っ」
真人が掠れた声で吐き捨てる。
睨むように羂索を見るが、その瞳はまだ僅かに揺れていた。
恐怖。
疲労。
屈辱。
そして、自分に何が起きたのか理解できないことへの怒り。
それらが濁って混ざり合っている。
羂索は小さく笑った。
まるで、面白い玩具が壊れかけているのを観察するように。
「ほら見ろ。だから言っただろう?」
真人の前へ屈み、その顔を覗き込む。
「“あの老人には関わるな”と」
真人の口角が僅かに引きつった。
「知らねぇよ……」
「言ったはずだよ。山へ入るのは構わないが、刀を持った老人を見かけたら、こちらから接触するなと」
「そんな説明で分かるわけないだろ……」
「十分に特徴的だと思うけどね」
「ただの爺にしか見えなかったんだよ!」
真人が地面を拳で叩いた。
湿った音がトンネル内へ響く。
「呪力だって、ほとんど感じなかった。術式を使った気配もない。なのに……」
自分の左腕を見る。
形だけを再現した指が、不規則に震えていた。
「なのに、何なんだよ、あれ」
羂索は答えず、真人の腕を眺めた。
「見せてごらん」
「触るな」
「君の魂を奪おうとしているわけじゃない。今の私には、そんな術式もないよ」
「そういう問題じゃない」
真人は羂索の手を避けた。
普段なら他者に身体を調べられることなど気にしない。
だが今は、誰かが自分へ触れようとするだけで、篁の刃が迫ってくる光景が頭に浮かんだ。
その反応を見て、羂索の笑みが僅かに深くなる。
「相当堪えたようだね」
「……あんなの、人間じゃない」
「それは、どうだろうね」
「は?」
「少なくとも、呪霊ではない。受肉体とも違う。肉体の構造だけを見れば、おそらく人間だ」
「おそらく?」
真人は顔を上げる。
「お前、あいつを知ってるんじゃないのか」
「知っている、と言えるほどではないよ」
羂索は近くに転がっていた石へ腰を下ろした。
袈裟の裾を整え、真人と同じ高さまで視線を下げる。
「名前は篁。呪術界では、随分と昔から術師として扱われている」
「昔って、どのくらい?」
「分からない」
「……何だよ、それ」
「私にも分からないんだ」
羂索の声は穏やかなままだった。
しかし、そこに含まれていた言葉は、真人にとって意外なものだった。
羂索は多くを知っている。
術式について。
結界について。
呪霊について。
呪術界の歴史について。
真人が何を尋ねても、大抵の場合は何らかの答えを持っていた。
その羂索が、分からないと言った。
「呪術高専の記録には、かなり古い時代から篁の名が残っている。だが、術師として登録された時期がない。高専へ入学した記録も、師事した術師の記録もない。どの家系に属していたのかも不明だ」
「じゃあ、勝手に術師を名乗ってるだけ?」
「それなら話は単純なんだけどね」
羂索は目を細めた。
「高専の管理体制が現在の形へ整えられるより前の資料にも、篁らしき名がある」
「同じ名前の別人じゃないの?」
「もちろん、その可能性はある」
「写真は?」
「古いものにはない。比較的新しい資料に残っている写真も不鮮明だ。ただ――」
羂索は一度言葉を止めた。
脳裏に、加茂家の蔵で見た古い報告書が浮かぶ。
時代によって紙の質も、使われている言葉も異なる。
それでも、似通った記述が何度も現れていた。
白髪の老人。
黒い衣服。
日本刀。
聞き取れない呟き。
そして、対象を一太刀で斬り捨てたという報告。
「どの記録でも、篁はすでに老人として書かれている」
真人の表情が僅かに固まる。
「それ、いつの記録?」
「さてね」
羂索は笑った。
「正確な年代が分からないものも含まれている。だから断定はできない。伝聞が混ざり、後から書き加えられた可能性もある。同一人物と判断するには証拠が足りない」
「でも、お前は同じ奴だと思ってる」
「そうは言っていないよ」
「思ってる顔だ」
「君も随分、他人の表情を読むのが上手くなったね」
「誤魔化すなよ」
真人の声に、僅かだが普段の調子が戻り始めていた。
恐怖が消えたわけではない。
ただ、理解できないものを前にした好奇心が、少しずつ恐怖へ混ざり始めている。
羂索はそれを見逃さなかった。
「私が確実に知っているのは、現在の篁が呪術師として活動していること。そして、呪霊を発見すれば、ほぼ例外なく斬るということだけだ」
「ほぼ?」
「彼の行動原理まで把握しているわけではない。任務を受けて動いているように見えることもあれば、誰にも命じられていない場所へ現れることもある」
「高専の奴らは、あいつを動かせるの?」
「向こうもそう思いたがっているだけじゃないかな」
羂索は楽しげに言った。
「任務を出せば、篁は目的地へ現れる。そして対象を斬る。だから自分たちの命令に従っていると解釈している」
「実際は違う?」
「本人に尋ねてみればいい」
「ふざけんな」
真人の顔が露骨に歪んだ。
羂索は声を上げずに笑う。
「冗談だよ」
「次に会ったら、聞く前に殺される」
「よく理解できているじゃないか」
真人は唇を噛んだ。
口内に血の味が広がる。
「……何が起きたんだよ」
「何が?」
「あいつに斬られたときだ」
真人は左手を開閉する。
親指と人差し指は動く。
しかし、残りの三本は魂との接続が不安定で、思いどおりに曲がらなかった。
「俺の肉体が切られただけなら、すぐに直せる。魂の形を保っている限り、身体をどう壊されたって関係ない」
「そうだね」
「でも、戻らなかった」
「見れば分かるよ」
「俺の魂が切られてた」
真人の声が低くなる。
それを口にするだけで、再び痛みが蘇る。
「刃が身体を通った瞬間、同じ場所を魂まで切られた。俺が形を変えようとしても、あいつがつけた切れ目だけが残ってる」
羂索の笑みが消えた。
真人の不安定な左腕へ視線を向ける。
先ほどまでの揶揄するような態度とは異なり、今度は純粋な観察だった。
「やはり、そうか」
「やはり?」
「君を見つけたときから、肉体の損傷とは様子が違っていた。魂の輪郭そのものが乱れていたからね」
「分かってたなら先に言えよ」
「君の口から聞きたかったんだ」
「性格悪いな、お前」
「よく言われるよ」
羂索は真人へ手を伸ばす。
今度は真人も避けなかった。
指先が左腕のすぐ近くで止まる。
直接触れず、残留する呪力の痕跡を確かめる。
「篁は君の魂を観測できる」
「……そんな術式なのか?」
「術式とは限らない」
「術式じゃないなら、どうやって魂を見るんだよ」
「君は自分の術式を習得する前に、誰かから魂の見方を教わったのかい?」
「それは……」
「生まれたときから理解していたんだろう?」
真人は答えない。
人の魂から生まれた真人にとって、魂を見ることは呼吸と同じだった。
教わるようなものではない。
そこに存在するから、見える。
触れることができるから、形を変える。
「篁にとっても、同じなのかもしれない」
「俺と?」
「君と同じという意味ではないよ」
羂索は手を引く。
「彼が何を見ているのかは、彼にしか分からない。肉体と魂を別々に認識しているのか。あるいは最初から、両者を一つのものとして斬っているのか」
「一つ?」
「肉体は魂に従うのか。魂が肉体に従うのか」
羂索は自分の胸へ手を当てる。
「君は前者だと考えている。だが、術式によって世界の捉え方は変わる。私のような術式であれば、肉体が魂へ影響を与えることもある」
「何が言いたいんだよ」
「篁が、君と同じ理屈で魂を見ているとは限らないということさ」
真人は黙り込んだ。
篁の濁った目を思い出す。
視線が合った瞬間、身体の奥まで見透かされたように感じた。
あれは自分の魂を分析する目ではなかった。
真人が人間の魂を見るときには、好奇心がある。
どう変えれば面白い形になるのか。
どこへ触れれば簡単に壊れるのか。
篁には、そのような感情がなかった。
見た。
そこにあった。
だから斬った。
ただ、それだけだった。
「彼はただ、自分の本能に従っただけさ」
羂索が真人の思考を読んだように言った。
「君という呪いを見つけ、斬った。それだけだよ」
「本能……」
「理由を考える必要さえなかったのだろうね」
その言葉に、真人の指先が震えた。
恐怖は単に攻撃を受けたことによるものではない。
自分より強い者に遭遇したからでもない。
真人は生まれてから日が浅い。
成長の途中だ。
今の自分より強い存在がいることくらいは理解している。
問題は、篁が強者として自分の前へ立ちはだかったわけではないことだった。
戦いを楽しんだわけでもない。
怒りや憎しみを向けたわけでもない。
真人の言葉を聞こうとさえしなかった。
ただ呪いを殺すためだけに存在するもの。
そこに呪霊がいたから斬る。
それ以上の意味を必要としない異物。
真人は、その底知れなさに震えたのだ。
「私が助けていなければ、間違いなく殺されていただろうね」
羂索は淡々と言う。
「君の魂を完全に両断するつもりだった」
「……分かってる」
「逃げる判断が少しでも遅ければ終わっていた」
「分かってるって言ってるだろ!」
真人が声を荒らげた。
羂索は動じない。
「千体近く出したんだぞ」
「正確には九百八十七体だ」
「知らねぇよ!」
「そのうち、篁の最初の一撃で消滅したのが九百六十三体。残りも数秒と保たなかった」
真人の口が閉じる。
「あれだけの数を……」
「一度に斬った」
「一度?」
「正確には、私にも一度にしか見えなかった、かな」
羂索は遠くを見るように目を細めた。
自分は篁へ近づかなかった。
真人の回収も、呪霊を介して行った。
あの場へ姿を現すことは、危険が大きすぎた。
呪霊操術で操る呪霊を山中へ放ち、それらが一斉に篁へ殺到した瞬間、真人の周囲へ隠蔽用の結界を形成した。
ほんの数秒。
それだけの時間を作るために、千近い呪霊を消費した。
数を失ったこと自体は惜しくない。
低級のものが大半だ。
また集めればいい。
問題は、その千体が篁の歩みをほとんど止められなかったことだった。
「お前なら勝てるの?」
真人が尋ねた。
「私が?」
「あの爺に」
羂索はすぐには答えなかった。
勝敗を考えること自体に意味があるのか、検討するような沈黙だった。
「戦い方次第だね」
「曖昧だな」
「戦いというものは、本来そういうものだよ。術式の相性、場所、事前の準備、互いが持つ情報。すべてを無視して、どちらが強いかだけを語ることに意味はない」
「正面からやったら?」
「やらない」
即答だった。
真人が眉をひそめる。
「勝てないから?」
「必要がないからだ」
「逃げた」
「そう思いたいなら、それでも構わないよ」
羂索は穏やかに笑った。
「長く生きる秘訣は、勝つ必要のない相手と戦わないことだ」
真人は不満そうに鼻を鳴らした。
だが、羂索の答えが虚勢ではないことも理解していた。
羂索にとって、強者との戦いは目的ではない。
計画のために必要なら戦う。
必要がなければ避ける。
その判断に、誇りや意地を挟まない。
「それに、篁を相手にする場合、術式の優位だけでは判断できない」
「どういう意味?」
「彼は簡易領域を使う」
「簡易領域?」
「一般的なものとは随分異なるようだけどね」
羂索は自分の指先を刀に見立て、空中でゆっくりと動かす。
「通常の簡易領域は、自分の周囲に領域を展開し、結界へ組み込まれた術式を中和するために使う。だが篁は、それを極端に狭くしている」
「狭く?」
「自身と、刀の周囲だけに纏わせる」
真人の視線が鋭くなる。
「それで何ができる?」
「接触した術式を削り取りながら、刃を通す」
「……俺の無為転変も?」
「可能性はある」
真人の顔から再び表情が消えた。
「仮に君が篁へ触れられたとしても、その瞬間、掌の周囲で術式を中和されるかもしれない。そして君の手が届くより先に、彼の刀が君の魂へ届く」
「絶対に?」
「試してみなければ分からないよ」
「じゃあ――」
「試さない方がいい」
羂索の声が低くなった。
それまでの柔らかい調子は変わっていない。
しかし、有無を言わせない響きがあった。
「君はまだ成長の途中だ。ここで失うつもりはない」
「俺を心配してるの?」
「まさか」
羂索は即座に否定する。
「君には役割がある。役目を終える前に消えられては困るんだ」
「本当に性格悪いな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
羂索は立ち上がる。
そのまま真人の前へ歩み寄ると、子供をあやすように頭へ手を置いた。
「それでも、いい経験だっただろう?」
「触るなって言ってるだろ」
真人が手を振り払う。
今度は腕が正常に動いた。
少しずつ魂の輪郭が安定し始めている。
「死に触れるというのは、呪いの本質を学ぶにはうってつけだ」
「殺されかけたのは俺だぞ」
「だからこそだよ。君はこれまで、死を与える側にしかいなかった」
羂索が口元へ笑みを浮かべる。
「人間が死を前にして見せる反応を、君は面白がっていただろう?」
「……それが何だよ」
「少しは理解できたんじゃないかい?」
真人は答えない。
死にたくない。
あの瞬間、自分は確かにそう思った。
人間たちが叫びながら逃げる姿を、真人は愚かだと感じていた。
魂の形など簡単に変わる。
人間という存在には、守るほどの価値などない。
だが、自分の魂が消されようとした瞬間、真人も同じように逃げた。
理屈も好奇心も捨て、ただ生き残ろうとした。
その事実が何よりも気に入らなかった。
「ふざけんなよ……」
真人が顔を伏せる。
「もう二度と、あんな奴に……」
「“もう二度と”ね」
羂索の笑みが少しだけ深くなる。
真人が顔を上げた。
「何だよ」
「いや。随分と人間らしい言葉だと思ってね」
「殺すぞ」
「今の君では難しいんじゃないかな」
真人の右腕が一瞬だけ膨らむ。
しかし、すぐに元へ戻った。
羂索は背を向ける。
「私としても、あれとの接触は避けたい」
「お前も警戒してるんだ」
「当然だよ」
羂索はトンネルの出口へ向かって歩き始めた。
「五条悟のような存在は分かりやすい」
「どこが?」
「自分が最強であることを理解し、それに伴う責任や理想を背負っている。性格に問題はあるが、行動原理は読みやすい」
「篁は違う?」
「何を基準に斬るのか、そのすべてを把握できていない」
羂索の足音が暗いトンネル内に響く。
「呪霊を斬る。呪詛師を斬る。任務対象を斬る。そこまではいい。だが、彼がいつ、誰の命令によって動いているのか分からない」
「さっき、本能だって言っただろ」
「だから危険なのさ」
羂索が振り返る。
「理屈で動く者は、条件を整えれば誘導できる。欲望で動く者には、相応の餌を用意すればいい。だが、自分にしか理解できない基準で動く者は予測できない」
真人は壁へ手をつきながら立ち上がった。
まだ左脚が短い。
数歩進むたびに身体が傾く。
それでも、先ほどまでのように地面を這う必要はなくなっていた。
「次に会ったら、そのときは――」
「君という存在が終わるときだ」
羂索が言葉を引き取る。
「それだけは覚えておいてくれ」
真人は答えなかった。
両手を強く握り締める。
爪が掌へ食い込み、皮膚から血が滲む。
恐怖は残っている。
篁の姿を思い出すだけで、魂の傷が再び疼く。
だが同時に、別の感情も生まれていた。
なぜ、あの老人には自分の魂が見えるのか。
どのように刀で魂を斬ったのか。
あの呟きは何を意味していたのか。
自分が成長すれば、篁へ触れることはできるのか。
そのとき、無為転変は通じるのか。
恐怖によって押し潰されていた好奇心が、僅かずつ形を取り戻し始めている。
羂索はそれを察していた。
だが、あえて指摘しなかった。
真人という呪いは、恐怖によって成長を止める存在ではない。
恐怖さえ、自分の形を知るための材料に変える。
いずれ再び、篁への興味を持つだろう。
そのときは、今回以上に強く制止する必要がある。
少なくとも、真人が役割を終えるまでは。
「さあ、戻ろう」
羂索が出口へ向き直る。
月明かりが、その背中を細長く照らしている。
「あんな存在に構っていないで、こちらの計画を進めよう」
「……分かったよ」
真人は不満そうに答え、羂索の後を追った。
左脚を一歩踏み出すたび、魂の断面に痛みが走る。
そのたびに、山中で見た老人の姿が蘇った。
刀へ手を添える動作。
聞き取れない呟き。
濁った瞳。
自分の魂を、最初から最後まで見通していた視線。
「ねえ、夏油」
「何だい?」
「あいつ、本当に人間なの?」
羂索は歩みを止めなかった。
「さあね」
軽い返事だった。
だが、その問いを笑い飛ばすことはしなかった。
「私にも分からないよ」
羂索は千年近い時を生きてきた。
多くの肉体を渡り歩き、数え切れない術師と呪霊を見てきた。
時代ごとに最強と呼ばれた者も。
歴史に名を残すことなく消えた異才も。
人間という枠から外れかけた存在も。
そのほとんどを、既知の何かとして分類することができた。
しかし、篁についてはできない。
いつから術師をしているのか。
どこで剣を学んだのか。
誰から簡易領域を教わったのか。
なぜ魂を観測できるのか。
そして、古い記録に現れる老人と、現在の篁が本当に同一人物なのか。
羂索にも答えはなかった。
分からない。
その事実を、羂索は不快だとは思わなかった。
むしろ、僅かな高揚さえ感じていた。
自分の知らないもの。
自分の計画へ組み込めないもの。
千年を生きてもなお、理解の外側に存在する異物。
ただし、それは近づいて観察するには鋭利すぎた。
触れれば、こちらまで斬られかねない。
「世界には、ああいう化け物もいるということさ」
羂索は静かに言った。
二人の姿がトンネルの外へ消えていく。
後に残ったのは、真人の掌から落ちた僅かな血と、湿った地面に刻まれた不揃いな足跡だけだった。
夜風がトンネルを通り抜ける。
遠く離れた山の方角から、木々が倒れる音がした。
真人の足が一瞬止まる。
羂索は振り返らない。
「大丈夫だよ」
「……何が」
「篁は追ってきていない」
「どうして分かる?」
「追うつもりなら、君はここまで辿り着いていない」
真人は何も言えなかった。
それが慰めになっていないことを理解しているのか、羂索は僅かに笑った。
「行こう」
二人は再び歩き出す。
篁という予測不能な存在を、ひとまず計画の外へ置いたまま。