TAKAMURA廻戦 作:日三汐理
「ねえ、これからどこに連れてかれるの?」
後部座席から、虎杖悠仁が尋ねた。
窓の外には、夜の東京が流れている。
繁華街からはすでに離れており、行き交う車も少ない。道路脇に並ぶ建物も次第に古びたものへ変わり、車内へ差し込む街灯の間隔も長くなっていた。
助手席に座っていた五条悟が、顔だけを後ろへ向ける。
「んー、怖いおじいさんのところかな」
「え、マジ?」
虎杖の顔が引きつった。
「俺、殺されない?」
「場合によってはそうなっちゃうかもね」
「えー……」
軽い調子で告げられた内容が重すぎる。
虎杖は何とも言えない顔でシートへ沈み込んだ。
特級呪物『両面宿儺の指』の受肉から三日。
虎杖悠仁は、呪術高専の管理下で事実上の軟禁状態に置かれていた。
死刑そのものは、すでに決定している。
ただし、五条悟がその即時執行に反対した。
宿儺の指は全部で二十本。
どうせ虎杖悠仁を殺すのであれば、残る十九本もすべて取り込ませ、その後で殺せばいい。
そうすれば、千年以上にわたり破壊できなかった特級呪物をまとめて消滅させられる。
理屈としては、そういう話だった。
だが、上層部がそれを素直に受け入れたわけではない。
五条が強引に話を止めている。
ならば。
五条の意思を無視してでも死刑を執行できる者を用意すればいい。
上層部が目をつけたのが、篁という老人だった。
「もっと具体的に言うとね」
五条が言った。
「これから会うのは、悠仁の死刑執行人になるかもしれない人間」
「じゃあ俺を殺そうとしてる人ってことじゃん!」
「“かもしれない”だよ」
「大して変わんなくない!?」
「大丈夫、大丈夫。今のところ、多分まだ悠仁の存在すら知らないから」
「多分って言った!」
運転席で伊地知潔高が僅かに肩を震わせた。
五条は気にせず続ける。
「悠仁の情報があの人に降りるのは、おそらく明日の朝。それより先に会いに行ってるわけ」
「なんで?」
「説得するため」
「先生が?」
「いや」
五条は人差し指を虎杖へ向けた。
「悠仁が」
「俺ぇ?」
虎杖は自分の顔を指差した。
「俺、そういう交渉とかやったことないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ何話せばいいんだよ」
「その前に一個、忠告」
五条が人差し指を立てる。
「絶対に喧嘩売らないこと」
「売らねぇよ!」
「大きい声出さない」
「先生が変なこと言うからだろ!」
「あと、急に近づかない。危ないから」
「熊みたいな注意事項になってない?」
「似たようなもんだよ」
運転席から、小さく咳払いが聞こえた。
「五条さん」
「何、伊地知」
「さすがに篁さんを猛獣と同列に扱うのは……」
「じゃあ伊地知は篁さんと熊、どっちかと同じ檻に入れられるならどっち選ぶ?」
「熊です」
間髪入れずに答えた。
「えっ」
虎杖の顔から笑いが消えた。
「そんなヤバい人なの?」
「はい」
伊地知の返事は先ほどよりも早かった。
五条が楽しそうに笑う。
「伊地知も篁さんを任務先まで送ったことあるんだよね」
「数回だけですが」
「どんな人だった?」
虎杖が尋ねる。
「……正直に言えば」
伊地知はハンドルを握りながら少し迷った。
「最初は、ただのお年寄りに見えました」
虎杖が僅かに安心した顔になる。
「ただ」
「ただ?」
「任務先へ送って、一時間ほど待機していました」
「うん」
「帰ってきたときには山の形が少し変わっていました」
「…………」
虎杖は黙った。
「先生」
「何?」
「もっと普通の人、死刑執行人にできない? 死ぬとしても惨いの嫌だよ俺」
「僕もそうしてほしいんだけどねぇ」
五条は軽い調子のまま肩をすくめる。
「でも、篁さんって話が通じないんだよ」
「ボケてるってこと?」
「それもよく分かんない」
「そんな人が人を殺せんの?」
「それが信じられないくらい強いんだよ」
五条は窓の外へ視線を戻した。
「僕でも、勝てるって断言はしないくらい」
虎杖が固まった。
「……え?」
今まで軽口ばかりだったため、聞き間違いかと思った。
「先生、最強なんじゃないの?」
「最強だよ」
「今と言ってること矛盾してない?」
「してない、してない」
五条は笑った。
「戦ったら僕は勝つつもり。でも、篁さんは分からないことが多すぎる。どのくらい速いのか、どのくらい強いのか、どこまで本気を出してくるのか。そもそも術式を持ってるのかさえ確定してない」
「……激強じゃん」
「激強だね」
「そんな人のところに俺連れてくの?」
「そう」
「やっぱり帰らない?」
「駄目」
「即答!」
「ここで帰ったら明日もっと危ないから」
虎杖が眉をひそめる。
「どういうこと?」
「今なら、篁さんは悠仁について何も知らない」
五条の声音が少しだけ変わった。
「でも明日になれば、上からこう説明される。“両面宿儺の器が出現した。危険だから処刑しろ”」
「……うん」
「その情報だけで篁さんが悠仁を斬るって決めたら、そこから止めるのはかなり難しい」
「じゃあ、俺自身を見てもらうためにその前に会わせるってこと?」
五条が僅かに笑った。
「頭いいじゃん」
「馬鹿にしてんだろ」
「してないよ」
虎杖は腕を組んだ。
「でもさ。結局、俺は何話せばいいんだ?」
「そうだねぇ……」
五条は少し考える。
「多分、あんまり話す必要はない」
「え?」
「変に良い子ぶる必要もないし、宿儺の指を全部食べて世界を救います、みたいな立派なこと言う必要もない」
「俺、そんなこと言うつもりないけど」
「知ってる。一応ね」
「じゃあどうすりゃいいの?」
「普通にしてればいい」
虎杖はますます分からないという顔をした。
「それで何が分かるの?」
「篁さん、多分だけど、人を見るときに経歴とか肩書きだけ見てないんだよ」
「性格とか内面を見るってこと?」
「近いかな。なんか見て分かるっぽいんだよね」
「話さなくても? なんで?」
「分かんない」
「何にも分かってねぇじゃん!」
「だから怖いんだって」
五条は笑った。
その口調は、いつもとほとんど変わらなかった。
だが。
運転している伊地知には分かっていた。
今夜の五条は、普段と違う。
ほんの僅かな違いだ。
声が硬いわけでもない。
呪力を高めているわけでもない。
表情もいつもの五条悟。
それでも、伊地知には伝わってくる。
五条は戦闘を想定している。
相手と会う前から。
しかも。
自分が本気で戦わなければならない可能性を。
伊地知は篁と直接会ったことがある。
任務先へ数度送っただけだ。
まともな会話を交わしたこともない。
後部座席に座り。
刀を抱え。
ずっと何かを呟いている老人。
それだけだった。
初めて会ったときには、なぜこの老人が一人で任務へ向かわされているのか理解できなかった。
後に南雲から聞いた。
とてつもなく強い。
それ以上の説明はなかった。
今なら、その意味が少しだけ分かる。
説明できないのだ。
どう強いのか。
どこまで強いのか。
何をすれば止められるのか。
誰も知らない。
だから。
五条悟でさえ、これから起こることを完全には予測できていない。
「着きます」
伊地知が言った。
虎杖が窓の外を見る。
「……ここ?」
車は、人気のない街へ入っていた。
再開発の途中で放棄された区画らしい。
窓ガラスの割れた建物。
錆びついた看板。
雑草に覆われた歩道。
人の姿はない。
車は古い公園の前で停車した。
◇
「南雲は?」
車を降りた五条が周囲を見回した。
「先に来ているはずですが」
伊地知が答える。
「逃げたかな」
「本人に聞こえたら怒られますよ」
「あいつなら笑うよ」
「五条さん」
後ろから声がした。
「来てますよ」
「うおっ!」
虎杖が振り返った。
そこに。
伊地知がいた。
「…………」
虎杖は隣を見る。
さっきまで車を運転していた伊地知もいる。
もう一度、正面を見る。
やはり伊地知がいる。
「…………え?」
二人を交互に見る。
「伊地知さんが二人!?」
「違います!」
本物の伊地知が即座に叫んだ。
もう一人の伊地知が楽しそうに笑う。
「いい反応するね」
その顔へ手を添える。
指先で皮膚を引っ張るような仕草をした次の瞬間。
顔立ちが変わった。
髪。
輪郭。
身長。
服装まで。
別人へ変わっていく。
「…………」
虎杖が口を開けたまま固まった。
「五条さんの後輩の南雲です。よろしく、虎杖悠仁君」
「いやいやいや!」
虎杖が伊地知と南雲を指差す。
「何今の!?」
「変装」
「変装ってレベルじゃなくない!?」
「似てたでしょ?」
「似てたっていうか本人だった!」
「褒めても何も出ないよ」
南雲は楽しげに笑った。
本物の伊地知は頭を抱えている。
「南雲さん……」
「何?」
「私の姿で勝手に喋らないでください」
「でも結構似てたでしょ?」
「そういう問題ではありません!」
五条が笑う。
「相変わらず趣味悪いなぁ」
「五条さんに言われたくないですね」
「で」
五条は周囲を見回した。
「篁さんは?」
南雲の笑みが僅かに薄くなった。
視線だけで公園の奥を示す。
「さっきからあそこですよ」
虎杖も視線を向ける。
公園の奥。
一つのベンチ。
そこに老人が座っていた。
背中を丸め。
長い日本刀を杖のように立てかけ。
俯いたまま何かを呟いている。
「~~~~~~~~~」
白髪。
皺だらけの顔。
使い古した黒いスーツ。
一見する限りでは、どこにでもいる老人だった。
いや。
身なりまで含めれば、虎杖には路上生活者に近く見えた。
「……マジであの人?」
「そ」
「普通のじいちゃんじゃん」
「見た目で判断しない」
今度は南雲が言った。
「さっきの俺にも同じこと言えるけどな」
「確かに」
「話しかけた?」
五条が尋ねる。
「一応」
「返事は?」
「いつもの」
南雲は小さく口を動かす。
「~~~~~~~~~」
「それ便利だね」
「便利ですよ」
五条は一度だけ虎杖を見た。
「行こうか」
「……おう」
虎杖が息を吐く。
車内で聞いた話が頭に残っている。
五条悟でさえ、勝利を断言しない相手。
それが目の前にいる。
だが。
どう見ても。
ただの老人だった。
四人が近づいても、篁は顔を上げない。
何かを呟き続けている。
「やぁ、篁さん」
五条が先に声をかけた。
「~~~~~~~~~」
「今日はちょっと話があって来たんだ」
「~~~~~~~~~~」
「聞こえてるのか分かんないけど、とりあえずこのまま話すよ」
五条が横へ一歩ずれた。
虎杖の姿が、篁の真正面へ出る。
「こいつ」
五条は虎杖の肩を軽く叩いた。
「虎杖悠仁」
「どうも」
虎杖は反射的に頭を下げた。
「虎杖悠仁です」
篁が。
初めて顔を上げた。
虎杖と目が合った。
「…………」
「…………」
何も起こらない。
虎杖は少し拍子抜けした。
濁った目。
焦点が合っているのかさえ分からない。
本当に自分を見ているのか。
それすら怪しかった。
「えっと……」
虎杖が困ったように五条を見る。
五条は黙っていろというように、軽く手を振った。
篁の視線が虎杖へ向いている。
顔。
胸元。
腹。
そして再び顔。
ゆっくりと視線が移動する。
虎杖は妙な感覚を覚えた。
服を見られているわけではない。
身体を見られている感じとも違う。
もっと奥。
自分の中を覗き込まれているような。
不快ではない。
だが落ち着かない。
そして。
その視線を感じていたのは、虎杖だけではなかった。
◇
暗闇。
血のような水。
骨の山。
巨大な頭蓋の上に。
両面宿儺は頬杖をついて座っていた。
「……ほう」
閉じていた目が開く。
外側から。
視線を感じる。
小僧を見ている。
だが。
その奥にいる自分まで。
まっすぐに。
見ている。
宿儺の口元が僅かに吊り上がった。
◇
「篁さん」
五条が言う。
「悠仁の中には、両面宿儺がいる」
その瞬間。
篁の視線が止まった。
虎杖の腹部。
正確には。
そのさらに奥。
「……この前、指一本食べちゃってさ」
「言い方!」
「事実でしょ」
「もっと事故っぽく説明してくれよ!」
「自分から食べたじゃん」
「でもやむを得ない事情があったっつうか、食べたくて食べたわけじゃないっつうか」
「そういうとこも含めて説明してるんだよ」
「今の会話で!?」
「うん」
五条は笑っている。
南雲も笑っていた。
伊地知だけが、少し離れた場所から青い顔で見守っている。
篁は何も言わない。
「~~~~~~~~~」
「でね」
五条が続ける。
「上の人たちは、悠仁を殺したがってる」
虎杖の表情が少し硬くなる。
「宿儺の器だから危険だって」
「…………」
「明日になったら、多分篁さんにも話が来る」
「~~~~~~~~~」
「篁さんに、悠仁を殺せって」
老人の表情は変わらない。
五条はそこで言葉を止めた。
説得しない。
悠仁が善人だとも言わない。
自分が保証するとも。
伏黒が助けたがっているとも。
言わなかった。
篁自身に見せる。
そのために連れてきたのだ。
「悠仁」
五条が呼ぶ。
「後は自分で」
「え」
「普通に話せばいいよ」
「急だな!」
虎杖は困ったように頭を掻いた。
目の前には篁。
何を言っているのか分からない老人。
明日、自分を殺すよう命令されるかもしれない老人。
しかも。
五条より強い可能性すらある。
「……えーっと」
何を言えばいい。
自分は悪人じゃない。
殺さないでほしい。
宿儺はちゃんと抑えられる。
全部言ってもいい。
だが。
妙に違う気がした。
「俺」
虎杖は口を開いた。
「死刑になるのは、まあ……納得してないけど」
「…………」
「宿儺の指食ったのは事実だし」
自分の腹を見下ろす。
「こいつが危ない奴なのも分かる」
三日前。
自分の身体を使って笑った、両面宿儺。
人間を虫のように見ていた。
伏黒を殺そうとした。
あれを世の中へ出していいとは、虎杖自身も思わない。
「でも」
拳を握る。
「俺が全部食えば、こいつを消せるんだろ?」
五条を見る。
「じゃあ、今死ぬよりそっちの方がまだいいと思ってる」
「…………」
「死にたいわけじゃないけど」
虎杖は笑った。
「普通に死ぬの怖いし、なんで俺が死刑なんだって思ってるよ」
篁は黙っている。
「でも、どうせ死ぬなら」
祖父の顔が一瞬だけ浮かんだ。
人を助けろ。
大勢に囲まれて死ね。
あの言葉の意味を、虎杖はまだ完全には理解していない。
「俺にしかできないことやってからの方がいい」
沈黙。
風が公園を抜けた。
錆びたブランコが、小さく揺れる。
篁は虎杖を見ている。
虎杖も、今度は視線を逸らさなかった。
「…………」
五条も黙っていた。
悪くない。
上手な演説ではない。
立派でもない。
だが。
虎杖らしい。
後は。
篁がどう判断するか。
「~~~~~~~~~」
老人の口が動いた。
「え?」
虎杖が僅かに身を乗り出す。
「何て?」
「悠仁」
五条の声。
それまでと違った。
低い。
「ストップ」
「え――」
篁の右手が刀の柄へ乗った。
五条の六眼が、それを捉える。
いつから。
そう思った時には。
もう遅かった。
呪力の起こりがない。
出力の上昇もない。
術式の発動もない。
殺気さえ。
何もなかった。
ただ。
老人の右腕が動く。
抜刀。
五条も同時に動いた。
篁と虎杖の間へ割り込もうとする。
――間に合わない。
五条の六眼が、その事実を認識する。
速い。
あまりにも。
今の刀身には、呪力がほとんど込められていない。
我流の簡易領域もない。
無下限で止められる。
ならば。
虎杖へ届く前に止めればいい。
五条が右手を伸ばす。
指先が刀身へ届くより。
一瞬。
早かった。
銀色の刃が。
虎杖悠仁の首を通過した。
音すらなかった。
「――――」
虎杖の目が見開かれる。
五条の手が空中で止まった。
南雲の笑みが消えた。
伊地知は声すら出せない。
刀身は。
虎杖の首の右側から入り。
完全に。
左側へ抜けた。
斬った。
五条にはそう見えた。
いや。
確実に斬撃の軌道は首の中心を通っている。
頸動脈も。
気管も。
頸椎も。
まとめて両断する軌道。
なら。
首が落ちる。
――はずだった。
篁は刀を振り抜いた。
そのまま。
何の説明も。
何の確認も。
しなかった。
刀を鞘へ戻す。
「~~~~~~~~~」
そして。
ベンチからゆっくり立ち上がった。
「…………え?」
虎杖が声を漏らす。
篁は虎杖を見ない。
五条も。
南雲も。
伊地知も。
見ない。
刀を杖のように地面へつき。
ただ。
歩き始める。
「ちょっ……」
虎杖が自分の首へ手を当てる。
「…………」
血がない。
傷もない。
痛みもない。
「え?」
もう一度触る。
「俺……」
指を首筋へ這わせる。
「今、首斬られたよな?」
誰も答えない。
「先生?」
五条は篁の背中を見ていた。
ゆっくりと。
本当にただ歩いている。
走るでもない。
逃げるでもない。
こちらの反応を確認することさえない。
「……篁さん!」
五条が呼ぶ。
老人は止まらない。
「今の何?」
「~~~~~~~~~」
返事なのか。
ただの独り言なのか。
分からない。
「俺、殺すの!?」
虎杖も叫んだ。
「殺さないの!? どっち!?」
篁は振り返らない。
そのまま。
夜の道をゆっくりと歩いていく。
誰も追わなかった。
やがて。
老人の背中は、暗闇の向こうへ消えていった。
後に残ったのは。
虎杖。
五条。
南雲。
伊地知。
そして。
理解できない沈黙だけだった。
◇
「…………」
「…………」
「…………」
「……え?」
最初に沈黙へ耐えられなくなったのは、虎杖だった。
「いや」
自分の首へ手を当てたまま、三人を見る。
「何?」
「俺、生きてる?」
「生きてるね」
五条が答えた。
「斬られた?」
「斬られてない」
「いや刀通っただろ!?」
「通った」
「じゃあ斬られてるじゃん!」
「違うんだよ」
五条の声には、珍しく冗談がなかった。
「刀は通った」
「うん!」
「でも」
一瞬。
言葉を探す。
「触れてない」
「は?」
虎杖が固まる。
「何言ってんの?」
「僕も今、ちょっと何言ってるのか分かんない」
「先生!?」
南雲が虎杖へ近づいた。
先ほどまでの笑みは、まだ戻っていない。
「ちょっと首見せてください」
「え、うん」
南雲が皮膚へ指を触れる。
首筋。
頸動脈。
服の襟。
どこにも異常はない。
「傷なし」
南雲が言う。
「服も切れてません」
「だよね」
五条も六眼で確認する。
間違いない。
刀は確実に通過した。
幻覚ではない。
残像でもない。
刀身を術式で消したわけでもない。
本物の日本刀。
本物の虎杖悠仁。
その二つが。
確かに同じ場所へ存在した。
にもかかわらず。
干渉しなかった。
「……トンネル効果」
南雲が呟く。
「何それ」
虎杖が尋ねた。
「物凄く雑に言うと、本来通れないものを粒子がすり抜ける現象です」
「マジ? そんなことあるの?」
「理屈だけなら」
「理屈だけならって?」
五条が口を挟む。
「普通、人間の首と日本刀で起こすものじゃないよ」
「だよな!?」
「しかも」
五条は篁が消えた方向を見る。
「今のは偶然じゃない」
南雲が頷いた。
「僕もそう思います」
「分かるの?」
虎杖が尋ねる。
「分からない」
「分からないの!?」
「でも、篁さんですよ?」
「それ説明になってない!」
南雲はようやく少し笑った。
「本来、トンネル効果なんて狙って起こせるものじゃないんです」
「ですよね」
伊地知も青い顔のまま頷く。
「まして、刀の一振りで……」
「黒閃どころじゃないよね」
南雲が言った。
「黒閃も狙って出せる術師はいないのに」
「しかも黒閃はまだ呪力の現象だからね」
五条が続ける。
「今のは違う」
術式ではない。
呪力によって刀を変質させたわけでもない。
少なくとも六眼には、そう見えた。
単純な技術。
刀の速度。
角度。
軌道。
握り。
その他、五条にも読み取れないほど微細な要素。
それらをすべて揃えて。
本来偶発的にしか起こらないはずの現象を。
篁は。
意図的に再現した。
「神業とかいうレベルかな、これ」
五条が呟いた。
「篁さんだからで済ませたいですけど」
南雲が答える。
「済ませるには無茶すぎますね」
「待って」
虎杖が手を上げる。
「俺、今のがすごいのは分かった」
「うん」
「でも」
自分の首を指差す。
「何のためにやったの?」
沈黙。
五条と南雲が顔を見合わせた。
「それなんだよねぇ」
五条が言う。
「本人帰っちゃったし」
「聞いても答えなかったでしょうけど」
「確かに」
「いや、笑い事じゃないから!」
虎杖が叫ぶ。
「俺、今マジで死んだと思ったんだけど!」
「そこ」
五条の声が少し低くなる。
「え?」
「悠仁」
五条が虎杖を見る。
「今、本当に死ぬと思った?」
「そりゃ思ったよ!」
「刀が来た瞬間?」
「うん!」
「そのとき」
五条が自分の首筋を指でなぞった。
「宿儺に身体を渡そうと思った?」
虎杖の表情が止まる。
「……え?」
南雲も五条を見る。
「五条さん」
「多分ね」
五条はまだ確信したわけではない。
ただ。
一つの可能性が頭に浮かんでいた。
「悠仁」
「何?」
「死ぬって思った瞬間、宿儺なら助かるかもしれないって考えた?」
「…………」
虎杖は少し考えた。
思い返す。
刀が迫ってきた。
身体は動かなかった。
死ぬ。
確かに思った。
怖かった。
その一瞬。
自分の中にいる両面宿儺。
あいつへ身体を渡せば。
そう考えたか。
「……いや」
虎杖は首を横に振る。
「思わなかった」
「全然?」
「全然っていうか……」
少し困った顔をする。
「そんなこと考える余裕なかったし」
「それでもいい」
「でもさ」
虎杖は自分の腹へ手を置く。
「仮に思いついても、渡したくないよ」
「どうして?」
「だって」
虎杖は当然のように言った。
「俺が助かっても、宿儺が出て他の人殺したら意味ないじゃん」
五条は何も言わなかった。
「それに」
虎杖が続ける。
「こいつに助けてもらうくらいなら、自分で何とかしたい」
「何ともならなかったけどね」
「うるせぇ!」
虎杖が即座に返す。
南雲が笑った。
だが五条は笑わない。
視線は。
すでに篁が消えた方向へ向いている。
「先生?」
「……なるほどね」
「何が?」
五条は顎へ手を当てる。
「僕の予想だけど」
南雲も表情を少し改めた。
「篁さんは」
五条が言う。
「悠仁を試したんじゃないかな」
「俺を?」
「本当に宿儺を抑えられるのか」
五条はゆっくりと言葉を選んだ。
「普通にしてるときに宿儺を抑えられる。それだけじゃ、篁さんには足りなかった」
死の恐怖。
真正面から迫る刀。
確実に首を落とされると思える状況。
「本当に死ぬってなったときにも」
五条が続ける。
「宿儺へ逃げないか」
あるいは。
虎杖自身は渡すつもりがなくとも。
恐怖によって意思が揺らいだ瞬間。
宿儺が表へ出てくるのではないか。
「……それを」
虎杖が自分の首を押さえる。
「確認するために本気で俺の首斬りに来たってこと?」
「斬る軌道だったのは間違いない」
「怖っ!」
「でも最後は斬ってない」
「そこだけ聞くと優しいみたいに言うなよ!」
「優しくはないですね」
南雲が即答した。
「うん」
五条も頷く。
「ただ」
五条の声が少し静かになる。
「もし僕の推測が合ってるなら」
篁は。
虎杖を試した。
命を奪う状況を作り。
その瞬間の虎杖と。
内側にいる宿儺。
その双方を見た。
そして。
刀を一度振った後。
何も言わず。
立ち去った。
「少なくとも」
五条が言う。
「篁さんは、今ここで悠仁を殺す必要はないって判断した可能性が高い」
「本当に?」
「多分」
「また多分!」
「本人いないんだから仕方ないでしょ」
「追いかけて聞く?」
南雲が尋ねる。
虎杖が数秒考えた。
「……やめとく」
「賢い」
「もう一回やられたら嫌だし」
「今度は普通に斬るかもしれないからね」
「先生、怖いこと言うな!」
少しだけ空気が緩む。
だが。
伊地知だけはまだ顔色が悪かった。
「……五条さん」
「何?」
「先ほどの一撃ですが」
「うん」
「もし」
伊地知は慎重に言葉を選んだ。
「もし篁さんが、本当に虎杖君を殺すつもりだった場合」
五条が黙る。
「止められましたか?」
虎杖も南雲も五条を見る。
数秒。
五条は答えなかった。
いつもの彼なら。
即答しただろう。
僕なら問題ない。
そう言って笑ったかもしれない。
だが。
「今回は」
五条は静かに答えた。
「無理だったね」
虎杖の表情が固まる。
「え」
「呪力の起こりがなかった」
五条は、自分が伸ばした右手を見る。
「普通なら攻撃の直前には何かある。呪力を増やす。術式を起動する。身体強化を強める」
「でも篁さんにはなかった」
南雲が言う。
「そう」
五条が頷く。
「本当に、ただ刀を抜いただけ」
しかも。
あの瞬間。
刀身にはほとんど呪力が込められていなかった。
我流の簡易領域も使っていない。
つまり。
あれは五条へ攻撃するための一撃ではない。
最初から。
虎杖の首だけを狙った斬撃だった。
「僕が動いたときには、もう刃が届く寸前だった」
「先生より速いってこと?」
虎杖が尋ねる。
「単純な速さの話じゃない」
五条は首を振る。
「僕が最初から抜刀だけを警戒して、悠仁を抱えて逃げることしか考えてなかったなら結果は変わってた」
「不意を突かれた?」
「まあね」
五条は素直に認める。
「予兆がなさすぎた」
「五条さんに見せないって相当ですよね」
南雲が言う。
「そうだね」
五条は篁が立ち去った道を見る。
「でも」
僅かに笑う。
「次は止めるよ」
迷いはなかった。
今回、五条は対応できなかった。
なら。
情報を得た。
次は同じ失敗をしない。
それが五条悟だった。
「とはいえ」
南雲が笑う。
「次がないのが一番ですけどね」
「本当にね」
五条も笑った。
胸の奥には。
まだ警戒が残っている。
そして。
ほんの僅かに。
興味も。
あの一太刀。
あれが本当に純粋な技術だけだとすれば。
どこまで磨けば。
人間はあそこまで到達できるのか。
篁という老人の限界は。
いったいどこにある。
五条にも分からない。
◇
虎杖の内側。
血のような水が広がる暗い空間。
宿儺は。
笑っていた。
「クク……」
先ほどの一撃。
すべて見ていた。
老人が刀へ手を掛ける。
抜く。
小僧の首へ刃が迫る。
五条悟が動く。
間に合わない。
そして。
刀が首を通過した。
斬らない。
否。
斬らずに通した。
宿儺の目が細くなる。
「面白い」
小僧の覚悟など、どうでもいい。
器としての虎杖悠仁にも。
今は興味がない。
老人の素性にも。
何年生きているのかにも。
興味はない。
宿儺が見ているのは。
あの一太刀。
それだけだった。
術式ではない。
呪力による奇怪な現象でもない。
少なくとも。
宿儺にはそう見えた。
本来であれば偶然でしか成立しない現象を。
剣技によって。
意図的に。
再現した。
「……良い」
宿儺の口元が歪む。
技術。
ただ一つの技を。
人の理解の外側まで研ぎ澄ます。
それを宿儺は嫌わない。
むしろ。
好む。
◇
「帰ろっか」
五条が言った。
「腹減った」
虎杖が答える。
「俺も」
「何食べたい?」
「ラーメン」
「えー、僕甘いもの食べたい」
「晩飯だろ!?」
「甘いものも晩飯になるよ」
「ならねぇよ!」
三人が車へ向かって歩き始める。
伊地知も小さく息を吐き、それを追った。
「五条さん」
南雲が声をかける。
「何?」
「焼肉」
「今日じゃないからね」
「約束ですよ」
「悠仁が生き残ったらって言ったでしょ」
「生き残りましたよ」
「まだ正式には処刑撤回されてないから」
「屁理屈だなぁ」
「先生」
「何、悠仁」
「俺が死んだら焼肉なしなの?」
「そうなるね」
「なんか急に生き残りたくなってきた」
「動機軽くない?」
くだらない会話が夜道へ響く。
その頃。
ずっと先では。
篁が一人。
ゆっくり歩いていた。
「~~~~~~~~~」
何を呟いているのか。
誰にも分からない。
虎杖悠仁を何と見たのか。
その内側にいる両面宿儺をどう判断したのか。
あの一太刀に。
どのような意味があったのか。
五条の推測が正しいのかさえ。
分からない。
篁本人だけが知っている。
あるいは。
本人にとっては。
説明するほどのことですらないのかもしれない。
ただ一つ。
事実だけが残った。
篁は。
虎杖悠仁の首へ。
確実に刀を振るった。
五条悟にも止められない速度で。
それでも。
虎杖悠仁の首は。
繋がったままだった。