TAKAMURA廻戦 作:日三汐理
翌朝。
呪術総監部の一室には、朝だというのに重苦しい空気が満ちていた。
「……もう一度言え」
御簾の向こうから低い声が飛ぶ。
部屋の中央に正座していた男は、僅かに身を強張らせた。今朝、古い詰所へ姿を現した篁へ、虎杖悠仁の処刑について通達する役目を与えられた使者だった。
「篁殿には、虎杖悠仁が両面宿儺の器であること、そして上層部として速やかな処刑を望んでいることをお伝えしました」
「それは聞いた。その返答だ」
「……はい」
男は困ったように一度言葉を切った。
「正直に申し上げますと、何を仰っていたのかは分かりませんでした」
室内の空気がさらに冷える。
「ふざけているのか」
「い、いえ。そうではありません」
「では何だ」
「いつものように、何かを呟いておられました。ただ……」
使者は今朝の光景を思い出す。
古びた詰所の前。
黒いスーツ姿の老人へ書類を差し出し、虎杖悠仁の名を告げた。
宿儺の器。
処刑対象。
可能な限り速やかに執行してほしい。
一通り説明を聞いた篁は、しばらく書類を眺めていた。
「~~~~~~~~~~」
何を言っているのかは、やはり分からなかった。
だが、次に老人は書類を使者へ押し戻した。
そして一度だけ、首を横へ振った。
「……言葉の意味は分かりませんでしたが」
使者は慎重に続ける。
「何を伝えようとしていたのかだけは、間違えようがありませんでした」
御簾の向こうが静まり返る。
「拒否、か」
「はい」
「本当にそう受け取ったのだな?」
「少なくとも、私にはそうとしか見えませんでした。念のためもう一度、これは総監部からの処刑要請であると説明しましたが……」
「どうした」
「もう一度、同じように首を横へ振られました」
沈黙が落ちた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
篁に命令を拒否された。
その事実そのものよりも、上層部にとって問題なのは別のところにあった。
彼らは篁を虎杖悠仁の処刑人として当てにしていた。
五条悟が虎杖を庇う以上、並の術師を執行役に据えたところで意味がない。宿儺の器を確実に殺せるだけの力を持ち、五条悟が妨害したとしてもなお処刑を遂行できる可能性を持つ者。
その条件を満たす人間は、あまりにも少ない。
そして篁ならば、宿儺を見れば必ず危険と判断する。
上層部は、そう考えていた。
「……昨日、五条悟が何かしたか?」
「確認したところ、昨夜、虎杖悠仁を連れて篁殿と接触したようです」
「やはりか」
忌々しげな声が響く。
「五条め……」
「だが」
別の老人が静かに口を挟んだ。
「五条悟が篁を説得した、と断定できるのか?」
誰も答えなかった。
そもそも篁に、通常の意味での説得が通用するのか。
金でもない。
地位でもない。
上からの命令でもない。
何を基準に刀を抜き、何を基準に鞘へ収めるのか。
長年使ってきたつもりでいながら、総監部の人間たちは結局それを理解していなかった。
「昨夜、篁は虎杖悠仁を見た」
「……」
「その上で、今朝の処刑要請を拒んだ」
事実として確かなのは、それだけだった。
「もう一度命令を出すか」
「意味があると思うか?」
「総監部の決定だぞ」
「だから何だ」
苛立った声同士がぶつかる。
「奴がこちらの命令だから人を殺していると、本気で思っていたのか?」
再び、沈黙。
それこそが認めたくなかった事実だった。
篁へ任務を提示すれば、現場へ行く。
呪霊を示せば祓う。
凶悪な呪詛師を示せば斬る。
長い間、それを「命令に従っている」と解釈してきた。
だが今回、初めて明確に答えが返ってきた。
否。
「……では、どうする」
やがて一人が問うた。
即時処刑。
それが上層部の意向であることに変わりはない。
しかし、五条悟は反対している。
そして、切り札として考えていた篁も動かない。
無理に別の執行人を立てれば、今度は五条悟を正面から敵に回すことになる。
そこまでして今すぐ虎杖悠仁を殺す利益があるのか。
答えは、誰にとっても明白だった。
「……五条悟の案を認める」
苦々しい声だった。
「虎杖悠仁の死刑判決そのものは撤回しない」
「当然だ」
「ただし、執行は延期する」
宿儺の指。
現存するそれらを虎杖悠仁へ取り込ませる。
そして、すべてを取り込んだ後に処刑する。
虎杖悠仁の死と同時に、両面宿儺そのものを消滅させる。
五条悟が最初から提示していた案だった。
「宿儺の指をすべて取り込むまで――虎杖悠仁の死刑を執行猶予とする」
それが、その日の総監部の決定となった。
期限はない。
そもそも、すべての指がいつ揃うのか分からない。
一年後か。
十年後か。
あるいは、永遠に揃わないのか。
形式上は死刑囚のまま。
しかし実態としては、限りなく無期限に近い猶予だった。
五条悟が望んだ通りに。
◇
「――というわけで、正式に決まったよ」
「何が?」
「悠仁の死刑、延期」
突然告げられた言葉に、虎杖は数秒固まった。
「……マジで?」
「マジマジ」
「いつまで?」
「宿儺の指を全部食べるまで」
「全部って二十本?」
「そ」
虎杖は指を折り、今自分の中にある一本を除いた十九本を想像しようとして、途中でやめた。
「それ、いつになるんだ?」
「知らない」
「知らないの!?」
「だって千年以上散らばってるんだよ。明日全部見つかるかもしれないし、十年経っても最後の一本だけ見つからないかもしれない」
「……それって」
虎杖が首を傾げる。
「ほとんど無期限じゃね?」
「だから上の人たちは嫌がってたんだけどね」
五条は楽しそうに笑った。
「でも、篁さんが首を横に振っちゃったらしいから」
「……あの爺ちゃんが?」
「そう」
虎杖は無意識に自分の首へ手をやった。
昨夜、確かに刀がそこを通った。
それでも、自分の首は今も繋がっている。
「なんて言ったんだ?」
「分かんないって」
「え?」
「使いに行った人も、何言ってるかは全然分からなかったらしいよ」
五条は肩をすくめる。
「ただ、“殺すの?”って聞いたら首を横に振った」
「……」
「だから、意味だけはめちゃくちゃ分かりやすかったって」
虎杖はしばらく黙り込んだ。
昨夜のことを思い返す。
篁が何を考えていたのかは、結局分からない。
自分を認めたのか。
見逃しただけなのか。
あの一太刀にどんな意味があったのか。
何一つ答えは出ない。
ただ一つだけ。
今日、自分は死ななくてよくなった。
「……そっか」
「そ」
五条が笑う。
「というわけで、悠仁」
「ん?」
「今日から忙しくなるよ」
「何すんの?」
「まずは呪術のお勉強」
「そこから!?」
「そこから」
五条は楽しそうに歩き出した。
死刑判決は消えていない。
いつか宿儺の指がすべて揃えば、虎杖悠仁は死ぬ。
その結末だけは変わらない。
だが、その日は今日ではなくなった。
明日でもない。
いつ訪れるのか、誰にも分からない。
虎杖悠仁には、生きる時間が与えられた。
そしてそのきっかけになった老人は、相変わらず何一つ説明しないまま、どこかへ姿を消していた。