TAKAMURA廻戦   作:日三汐理

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与幸吉の賭け

 

 人間の身体というものは、こんなにも重いのか。

 

 真人の手が離れたあと、与幸吉が最初に覚えたのは歓喜でも感動でもなく、自分自身の重さだった。床を踏む足裏に体重が乗り、肺へ空気を吸い込むたびに胸郭が広がる。指を曲げれば関節が動き、握り込んだ拳には確かな力が宿った。頬を撫でる空気も、額へ落ちかかる髪も、これまでは知識としてしか知らなかった感覚が、堰を切ったように一度に押し寄せてくる。

 

 健康な身体。十七年近く、与が欲し続けてきたものだった。

 

「どう? 悪くないでしょ?」

 

 真人が面白そうに顔を覗き込んでくる。

 

 与は答えず、ただ自分の右手を見つめた。五本の指が揃っている。両腕も、両脚もある。強い光を浴びただけで皮膚を焼かれるような痛みもなければ、全身の毛穴から絶えず針を刺されるような苦痛もない。

 

 歩ける。外へ出られる。誰かと、傀儡越しではなく直接顔を合わせることができる。

 

 真っ先に浮かんだのは三輪霞だった。その後から、東堂、加茂、西宮、真依――京都校で共に過ごしてきた者たちの顔が続く。

 

 会いたい。

 

 今度こそ、自分自身の身体で。

 

「約束は果たしたよ」

 

 少し離れた位置から、夏油傑の姿をした男が口を開いた。

 

 与はそちらへ視線を向ける。

 

 夏油傑の肉体を使っている何者か。その正体までは分からない。しかし、少なくとも自分の知る夏油傑本人ではない。そして、真人を従えるでもなく協力関係を結びながら、何か大きな目的のために動いている。

 

「これで君と真人の間にあった縛りは終わりだ」

 

「そうだな」

 

 与が短く答えると、真人の口元が愉快そうに吊り上がった。

 

「じゃあ――もう殺していいんだよね?」

 

 その一言で空気が変わった。

 

 真人の腕が異形へ変じるのと、与が床を蹴るのはほとんど同時だった。巨大な刃のように変形した腕が、つい先ほどまで与の立っていた場所を薙ぎ払い、床と壁をまとめて粉砕する。飛び散る破片を避けながら距離を取り、与は手元の端末へ指を走らせた。

 

 同時に、もう一人の男が静かに片手を上げる。

 

 空が暗くなった。

 

 山間一帯を覆うように、墨を流したような巨大な帳が降りていく。与は一度だけ天井の向こうへ目をやり、すぐに端末へ視線を戻した。表示されていた外部回線が次々と切断され、遠隔操作用の通信網まで沈黙する。

 

 想定通りだった。

 

 五条悟への連絡を、この男が許すはずがない。

 

「まずは、お前を祓う」

 

 与が言うと、真人は嬉しそうに首を傾げた。

 

「できるの?」

 

「できるかどうかじゃない。やるんだよ」

 

 直後、施設の奥から重い駆動音が響いた。

 

 床下、壁の内側、さらに地下深く。隠されていた機構が一斉に目を覚まし、山そのものが唸るような振動が広がっていく。真人が足を止め、離れた場所で戦況を眺めていた男もわずかに目を細めた。

 

 やがてダム湖の水面が大きく盛り上がった。

 

 大量の水を押し退けながら姿を現したのは、巨大な人型の装甲傀儡だった。湖面を割り、鋼鉄の巨体がゆっくりと立ち上がっていく。

 

 究極メカ丸・絶対形態――モード・アブソリュート。

 

「何それ。すっご」

 

 真人が思わず笑う。

 

 与はその間に機体頭部の操縦区画へ入り込んだ。装甲が閉鎖され、視界が複数のモニターへ切り替わる。駆動系正常、術式系統正常、蓄積呪力との接続も問題ない。

 

 残存する蓄積量は、十七年近く。

 

 生まれながらの天与呪縛によって、与幸吉は肉体の自由を奪われた。その代わりに得た広大な術式範囲と高い呪力出力を、長い年月をかけて少しずつ蓄え続けてきた。

 

 すべて、この日のために。

 

「出し惜しみはしない」

 

 究極メカ丸の腕部が真人へ向けられ、砲口に膨大な呪力が集束する。

 

「一年分。まずは受けてみろ」

 

 轟音とともに閃光が走った。

 

 放たれた呪力の奔流が地表を削りながら真人を真正面から呑み込み、そのまま背後の山肌まで吹き飛ばす。衝撃波によって湖面が大きく割れ、離れた場所に立つ男の袈裟まで強風に煽られた。

 

「なるほど。随分と溜め込んでいたね」

 

 感心したような声が聞こえる。

 

 与は返事をせず、真人の反応を探した。

 

 いた。

 

 大きく欠損した肉体が、崩れた地面の上で蠢いている。やがて肉が盛り上がり、失われた腕も潰れた胴体も、何事もなかったかのように形を取り戻していく。

 

「いったぁ……」

 

 想定の範囲内だった。

 

 真人の肉体を壊すだけでは意味がない。虎杖悠仁、七海建人、そして自分が各地へ配置してきた傀儡を通じ、与はこれまで真人の戦闘を観察してきた。

 

 あの呪霊は、自らの魂の形を基準に肉体を保っている。外側をいくら破壊しても、魂そのものへ届かない限り決定打にはならない。

 

「まだあるんでしょ?」

 

 真人が楽しそうに笑い、腕を巨大な槌へと変形させた。

 

 振り下ろされた一撃を、究極メカ丸は巨体からは想像もつかない速度で横へ滑って回避する。そのまま腕を伸ばし、真人の身体を掴んで地面へ叩きつけた。

 

 真人もすぐさま形を変える。翼を生やして空へ逃れたかと思えば、次には身体を細くして装甲の隙間へ潜り込もうとする。巨大化、小型化、分裂、飛行。自在に肉体を変化させ、巨大傀儡の死角を探る。

 

 だが与も、何の準備もせずここへ来たわけではない。

 

 巨大化すれば砲撃で削る。小さくなれば範囲攻撃で進路を潰す。空へ逃げれば対空砲、水中へ潜れば湖面ごと吹き飛ばす。これまで蓄積してきた真人の戦闘記録を、一つずつ本人へ突きつけていく。

 

 気にかかるのは、戦闘へ加わらず湖岸からこちらを見ている男だった。

 

 真人を倒して終わりではない。

 

 あの男も突破し、帳の外へ出て、五条悟へ情報を届けなければならない。

 

 与にとっての勝利条件は、敵を全滅させることではなかった。

 

 情報を外へ出すこと。

 

 そのためにも、ここでは死ねない。

 

「二年分」

 

 再び砲撃が真人を襲う。

 

 地面から生えた巨大な肉塊もろとも真人を吹き飛ばしながら、与はほんの一瞬だけ視線を別のモニターへ向けた。

 

 時刻。

 

 まだ何も起きていない。

 

 当然だった。

 

 そもそも、来る保証などない。

 

 与が事前に算出した確率は四割程度。それ以上に見積もるのは楽観的すぎた。

 

 高専内部の任務情報、補助監督の移動、術師の配置。与が長年、傀儡を介して張り巡らせてきた情報網を使えば、それらへ一定の干渉を加えることができる。京都校の面々を危険な任務から遠ざけるために行ってきたのと、同じ種類の細工だ。

 

 ただし今回は逆だった。

 

 誰かを遠ざけるのではなく、近づける。

 

 この地域の近傍で確認されていた案件の優先順位へわずかに手を加え、他の術師が別件へ回るよう調整した。その結果として一つの任務が残り、ある老人が近隣へ来る可能性を高めた。

 

 篁。

 

 呪術界の記録をどれほど漁っても、素性がほとんど分からない老人だった。強力な呪霊を数え切れないほど祓い、呪詛師まで斬り殺した記録がある一方で、上層部の命令へ忠実に従うような人物でもない。

 

 与は篁へ連絡していない。そもそもまともな連絡手段さえ知らない。ただ、必要な時間帯にこの地域へ近づく可能性を、ほんの少し高めただけだ。

 

 だから四割。

 

 それも、救援が来る確率ではない。

 

 篁は与幸吉の味方ではない。真人たちへ協力し、高専の情報を流していた自分を、あの老人がどう判断するかも分からない。場合によっては、真人や偽夏油と同じように自分まで斬られる。

 

 それでも、与はこの細工をしておいた。

 

 自分が真人に敗れた場合。ここで死んだ場合。せめて敵側が何事もなかったように次の計画へ進む可能性を下げておくために。

 

 三輪に会いたい。

 

 京都校のみんなに会いたい。

 

 その願いを叶えるために、ようやくこの身体を手に入れた。死ぬつもりなどない。だが、自分が必ず生き残るという前提だけで計画を組めるほど、与幸吉は自分の置かれた状況を甘く見ていなかった。

 

「よそ見?」

 

 警告音が鳴り響いた。

 

 気づいた時には真人が至近距離まで迫っている。巨大化した拳が装甲へ叩き込まれ、究極メカ丸の上体が大きく傾いた。

 

「集中しなよ!」

 

「言われなくても分かってる!」

 

 機体を立て直しながら真人の腕を掴み、力任せに地面へ叩きつける。そのまま右腕部の内部機構を展開した。

 

 姿を現したのは通常の呪力砲ではない。細長い筒状の術式装填弾。

 

 残数、四。

 

 真人の目が興味深そうに細められる。

 

「何それ?」

 

「お前には関係ない」

 

 射出。

 

 真人は身を捻ったが、細い弾体は肩口を掠めるように突き刺さった。

 

「シン・陰流――簡易領域」

 

 与が操作を入力した瞬間、真人の身体内部で簡易領域が展開される。

 

「――あ?」

 

 真人の表情が変わった。

 

 肩が内側から弾け飛ぶ。

 

 先ほどまでとは明らかに違った。真人が肉体を変形させても、損傷部分がすぐには戻らない。

 

「効いた」

 

 与は確信した。

 

 真人の身体内部で簡易領域を展開することで、その部分の術式を局所的に中和する。魂そのものを直接攻撃できなくても、魂の形を維持して肉体を変化させる無為転変へ干渉できれば、真人にも致命傷を与えられる。

 

「なるほどね」

 

 遠くから戦いを観察していた男が、興味深そうに呟いた。

 

 対して、真人の表情からは先ほどまでの余裕が薄れていた。

 

「それ、嫌い」

 

「奇遇だな。俺はお前そのものが嫌いだ」

 

 二発目。

 

 真人は今度こそ全力で避けようとしたが、究極メカ丸の左腕が進路を塞いだ。装填弾が脇腹へ刺さり、再び簡易領域が展開される。

 

 肉体が内側から大きく抉れた。

 

「クソ……!」

 

 初めて真人の声に明確な苛立ちが混じる。

 

 いける。

 

 与の中に確かな手応えが生まれた。

 

 こいつは倒せる。

 

 真人を祓い、その先にいる男を突破できるかは分からない。それでも、ここまで来れば可能性はある。帳へ穴を開け、一瞬でも外と繋がれば、五条悟へ連絡できる。

 

 帰れる。

 

 三輪たちのところへ。

 

「随分、嬉しそうだね」

 

 真人の声が低く沈んだ。

 

 次の瞬間、周囲の呪力が跳ね上がる。

 

 与の顔色が変わった。

 

「まずい――」

 

 真人が両手を合わせた。

 

 空間そのものが歪み、巨大な傀儡を丸ごと呑み込んでいく。

 

 自閉円頓裹。

 

 無数の手と歪んだ肉体が広がる異形の領域。内部では真人の無為転変が必中となり、触れるという過程すら必要としない。

 

「これで終わり」

 

 声が領域内へ響き渡る。

 

 巨大な装甲も、操縦席も関係ない。必中の術式は、その内側にいる与幸吉本人へ直接届く。

 

 通常なら、それで終わる。

 

「残念だったな」

 

 操縦席内部で、小さな筒が砕けた。

 

 薄い領域が与の身体を包み込み、迫っていた必中効果を中和する。

 

「簡易領域は、外へ撃ち込むためだけに用意したわけじゃない」

 

 得られたのは一瞬の猶予。

 

 だが、それで十分だった。

 

 究極メカ丸の指先から三発目の術式装填弾が放たれる。真人へ突き刺さった瞬間、与は躊躇なく起動した。

 

「簡易領域」

 

 真人の身体が大きく歪んだ。

 

 直後、肉体が内側から破裂し、それに伴うように領域そのものが崩壊する。

 

 異形の空間が砕け、視界へ再びダム湖と山間の風景が戻ってきた。

 

 与は荒い息を吐きながら計器を確認した。

 

 真人の反応がない。

 

 呪力反応も、ほとんど消えている。

 

「……やったか?」

 

 思わず漏れた声を、すぐに打ち消す。

 

「まだだ」

 

 真人を倒したとしても、もう一人残っている。

 

 究極メカ丸がゆっくりと振り返る。

 

 湖岸。偽夏油は変わらずそこに立っていた。

 

 逃げようともしていない。それどころか、わずかに笑っている。

 

「随分準備したね」

 

 その態度に、与の背筋を冷たいものが走った。

 

 直後、警告音が鳴り響く。

 

 至近距離。

 

「――!」

 

 頭部装甲が内側から爆ぜた。

 

 崩れた装甲の向こうから、真人が顔を覗かせる。

 

「騙された?」

 

 死んでいなかった。

 

 簡易領域による損傷と領域の崩壊を利用し、自ら肉体を崩して死んだように見せていた。

 

 ほんの一瞬。

 

 与の判断が遅れる。

 

 真人の手が伸びる。

 

 操縦席はすでに露出している。触れられれば終わる。

 

「まだ……!」

 

 残された最後の術式装填弾へ手を伸ばす。

 

 三輪の顔が脳裏を過ぎった。

 

 会いたい。

 

 この身体で。

 

 真人の手が迫る。

 

 与も簡易領域を起動しようとする。

 

 どちらが先か。

 

 その瞬間――戦場の空気が変わった。

 

 最初に異変へ気づいたのは、離れた場所にいた偽夏油だった。

 

 自ら下ろした巨大な帳。その表面に、突然一本の細い線が走っている。

 

 術式が解除されたわけではない。結界そのものが崩壊したわけでもなかった。

 

 ただ、切れている。

 

 黒い帳の一角に刃物で裂いたかのような細い開口部が生まれ、外から差し込んだ光が一筋だけ内部へ落ちる。

 

 その裂け目から、一人の老人が身体を滑り込ませた。

 

 黒いスーツ。猫背。腰には一振りの刀。

 

 篁。

 

 老人が中へ入った直後、帳の切れ目は何事もなかったように閉じた。結界は今も正常に機能している。篁は帳を壊したのではない。ただ、自分が通る一瞬だけ切り開き、そのまま内部へ入ってきた。

 

「……嘘でしょ」

 

 真人の顔から、笑みが消えた。

 

 そして同じ瞬間、究極メカ丸の操縦席で、一つの表示が点灯した。

 

 外部通信――復旧。

 

 一秒にも満たない。

 

 帳が開いていた、ほんの僅かな時間だけ。

 

 だが与は、その可能性すら計画へ織り込んでいた。自分で操作する必要はない。外部回線が一瞬でも回復した場合、あらかじめ登録していた最優先通信が自動的に発信される。

 

 送る情報は極限まで削ってある。

 

 詳細を含める時間はない。敵の正体も、獄門疆も、五条悟を狙っていることも送れない。

 

 ただ一つ。

 

 最低限。

 

 十月三十一日。渋谷。何かが起きる。警戒せよ。

 

 送信完了。

 

 直後に帳が閉じ、通信は再び途絶した。

 

「……引いたか」

 

 与は小さく呟いた。

 

 四割。

 

 決して高いとは言えない賭けを、本当に引いた。

 

 けれども、助かったとは思わなかった。

 

 篁が誰を斬るのか。

 

 それだけは、与にも分からない。

 

 真人は即座に逃げた。

 

 ほんの僅かな迷いさえなかった。

 

 一度、あの老人の刀を受けている。自らの肉体をどれほど変形させても、魂の輪郭を保っても、あの刃の前では意味がなかった。

 

 距離を取るため、真人の背から翼が生える。

 

 前回と同じように逃げればいい。偽夏油が大量の呪霊を出せば、篁はそちらへ殺意を向ける敵を優先する。

 

 そう考えたのだろう。

 

 しかし、その思考を終えるより先に篁は真人の目の前へいた。

 

「え――」

 

 移動の途中を、与のセンサーさえ捉えられなかった。

 

「~~~~~~~~……」

 

 鞘走りの音。

 

 真人も反応した。首の位置を変え、身体を分割し、急所そのものを消そうとする。

 

 だが遅い。

 

 一閃。

 

 真人の身体へ斜めに線が走った。

 

「――ぁ」

 

 肉体だけではない。

 

 魂そのものへ深い傷が刻まれる。

 

 真人が地面へ崩れ落ちた。元の形へ戻ろうとして肉体を蠢かせるが、修復できない。自らの基準となる魂の輪郭そのものが損傷している。

 

「また……お前……」

 

 篁が刀を返す。

 

 次の一撃で終わる。

 

 その寸前、偽夏油が動いた。

 

「そこまでだ」

 

 真人はすでに抵抗できる状態ではない。

 

 呪霊操術。

 

 黒い渦が生まれ、地面へ崩れた真人の身体が歪み始めた。

 

「は……?」

 

 真人が偽夏油を見る。

 

「ちょっ――」

 

 声が最後まで続くことはなかった。

 

 肉体も魂も、術式さえも圧縮され、小さな球体へ変わる。

 

 偽夏油はそれを掴んだ。

 

「予定より随分早いけれど、ここで祓われるよりはいい」

 

 そのまま呑み込む。

 

 真人の気配が完全に消えた。

 

 与は操縦席の中から、その一連の光景を見ていた。

 

「……呪霊操術」

 

 夏油傑が持っていた術式。

 

 しかし、その言葉を外へ伝えることはできない。帳はすでに閉じている。

 

 偽夏油の視線が、今度は与へ向いた。

 

「君には、少し眠っていてもらおうか」

 

 背後から、一体の小さな呪霊が姿を現す。

 

 戦闘能力が高いようには見えない。歪んだ人型の頭部には、目の代わりに閉じた瞼が幾重にも並んでいた。

 

 殺意はない。

 

 与を殺すための術式ではない。

 

 ただ意識を奪う。

 

 それだけを目的としている。

 

 呪霊が与へ手を向けた。

 

「待――」

 

 声を出した瞬間、視界が大きく揺れた。

 

 急速に意識が沈んでいく。

 

 身体に力が入らない。

 

「殺しはしないよ。君が死ねば、かえって詳しく調べられるかもしれないからね」

 

 偽夏油の声が遠ざかる。

 

 与は必死に操作盤へ手を伸ばした。

 

 三輪。

 

 まだ会っていない。

 

 ようやく手に入れた身体で、まだ一度も会えていない。

 

「……み、わ……」

 

 指先が力を失い、腕が落ちた。

 

 与幸吉の意識は、そのまま深い暗闇へ沈んだ。

 

 その様子を、篁は止めなかった。

 

 与へ使われた術式に殺意はない。呪霊自身も篁へ何の敵意も向けていない。

 

 偽夏油は、その差を理解していた。

 

 だから次に取る手も決めていた。

 

「行け」

 

 背後の空間が膨れ上がる。

 

 一体、十体、百体。さらにその奥から次々と低級呪霊が溢れ出し、瞬く間にその数は千へ達した。

 

 質など必要ない。

 

 重要なのは、すべてへ同じ目的を与えること。

 

 篁を殺せ。

 

 千体近い低級呪霊が、一斉に篁へ明確な殺意を向けた。

 

 老人の首が僅かに動く。

 

 以前、真人を逃がした時と同じ手だった。

 

 自分を殺そうとする相手へ異常なほど強く反応する篁の性質を利用し、無数の殺意へ注意を奪わせ、その間に離脱する。

 

 前回は成功した。

 

「二度目だけど、君にはよく効く」

 

 偽夏油はそう言い残し、距離を取り始めた。

 

 千体の呪霊が老人へ殺到し、その姿を完全に覆い隠す。

 

 一秒。

 

 背後で斬撃音が響いた。

 

 二秒。

 

 呪霊の群れを横断する巨大な斬線が走る。

 

 三秒目。

 

 偽夏油は足を止めた。

 

 気配が。

 

 消えすぎている。

 

 振り返った時、そこに千体の群れはもう存在していなかった。

 

 正確には、残った呪霊が次々と崩れ落ちている最中だった。

 

 前回のように、一体ずつ殺意の発生源を潰しているのではない。

 

 篁は、殺意を向けた呪霊が自分へ殺到してくることそのものを利用していた。

 

 刀を振る軌道。

 

 踏み込む位置。

 

 密集する呪霊の進路。

 

 数百体を一度の斬撃へ巻き込むように、最短の動きだけを選んでいる。

 

 一振り。

 

 さらに数百。

 

 返す刀で残りをまとめて断つ。

 

 最後の呪霊が左右に裂けて消えるまで、ほんの数秒しかかからなかった。

 

「……学習したのか」

 

 偽夏油の声から、初めて余裕が消えた。

 

「~~~~~~~~~~」

 

 篁はすでにこちらを見ている。

 

 偽夏油は即座に次の呪霊を放った。

 

「殺すな。止めろ」

 

 命令の内容が変わる。

 

 巨大な呪霊が真正面から篁へ抱きつき、力任せに拘束しようとする。別の呪霊は地面を泥状に変え、足を沈めようとし、さらに膜状の呪霊が頭上から覆い被さって視界を奪う。

 

 篁を殺そうとはしない。

 

 押さえる。塞ぐ。邪魔をする。

 

 それだけ。

 

 偽夏油が観察から導き出した、篁への第二の対策だった。

 

 巨大な呪霊が縦に両断された。

 

 泥状になった地面も、その地盤ごと切り裂かれる。

 

 視界を塞いだ膜も、一瞬で細切れになった。

 

 止められない。

 

 それでも、先ほどの千体へ向けた異常なほど鋭い反応とは違う。処理そのものは速いが、僅かな時間は稼げる。

 

 偽夏油は湖岸へ走った。

 

 あと十メートル。

 

 五。

 

 三。

 

 次の瞬間、腹部に冷たい感触が走った。

 

「――」

 

 身体が止まる。

 

 視線を下げると、自分の腹から刀身が突き出していた。

 

 背後から入った刃が、腹部を完全に貫通している。

 

 遅れて大量の血が溢れ、袈裟を赤く染めていった。

 

「……これは、まずいな」

 

 背後には篁がいる。

 

 頭ではない。

 

 首でも、心臓でもない。

 

 内臓には大きな損傷が入っているだろうが、脳は無事だった。

 

 ならばまだ死なない。

 

 反転術式も使える。

 

 偽夏油は傷口の痛みを無視し、身体を無理やり前へ押し出した。刀身が抜け、血液が一気に地面へ落ちる。

 

 同時に、残していた呪霊を一斉に放った。

 

「攻撃するな。押せ、塞げ、捕まえろ」

 

 篁と自分の間へ異形の群れを叩き込み、そのまま湖へ飛び込む。

 

 大きな水柱が上がった。

 

 血液が水面へ広がり、すぐに薄まっていく。

 

 水中には、あらかじめ逃走用の呪霊を待機させていた。その身体へ掴まり、湖底近くを高速で移動する。

 

 岸辺まで続いていた血痕は、水際で途切れた。

 

 水中へ流れ込んだ血液も、流れとともに拡散していく。

 

 偽夏油は傷口へ手を当てた。

 

 反転術式。

 

 裂けた肉が塞がり、血管が繋がり、損傷した内臓が修復されていく。

 

「……危なかった」

 

 水中で漏れた言葉に、いつもの余裕はなかった。

 

 一度成功した手を、二度目も使った。

 

 同じ状況を前にして。

 

 篁は、処理方法そのものを変えてきた。

 

「本当に、面倒な老人だ」

 

 逃走用の呪霊が、さらに深い場所へ潜っていった。

 

     ◆

 

 湖岸へ残った篁は、しばらく水面を見つめていた。

 

「~~~~~~~~~~~~」

 

 すぐに追うことはしなかった。

 

 刀身についた血が一滴落ちる。偽夏油が残した血液の大半はすでに湖へ流れ込み、岸辺に残る痕跡も僅かだった。

 

 やがて老人は振り返る。

 

 大破した究極メカ丸・絶対形態。

 

 開いた操縦席。

 

 その内部で、与幸吉が眠っている。

 

 呼吸も脈拍もある。肉体にも大きな外傷はない。ただし、どれほど待っても目を覚ます様子はなかった。

 

 篁は与を見た。

 

 与幸吉は呪霊側へ情報を流していた。呪術師たちを裏切り、結果として敵に協力していた。その事実だけを見れば、呪詛師と呼ばれてもおかしくない。

 

 そして篁が、過去に呪詛師を何人も斬っていることも、与は調べていた。

 

 この老人を近くへ呼び寄せる計画は、敵だけでなく、自分自身の死刑執行人まで連れてくる可能性を含んでいた。

 

 篁の右手が刀の柄へ触れる。

 

「~~~~~~~~……」

 

 数秒。

 

 やがて、その手は離れた。

 

 刀が鞘へ戻される。

 

 篁は与幸吉を斬らなかった。

 

 理由は、誰にも分からない。

 

     ◆

 

 後に現場へ到着した呪術師たちが目にしたのは、凄惨という言葉だけでは説明しきれない戦場だった。

 

 山肌は大きく抉れ、施設の大半が破壊されている。ダム湖の岸辺には巨大な装甲傀儡が停止し、その内部から、意識を失った一人の少年が発見された。

 

 与幸吉。

 

 生きていた。

 

 しかも、その肉体は彼を以前から知る者には信じ難いほど健康だった。失われていた手足も戻り、長年彼を苦しめ続けてきた肉体の欠損も見当たらない。

 

 しかし、何をしても目を覚まさなかった。

 

 身体に原因はない。脳にも致命的な異常は確認されなかった。

 

 残っていたのは呪いだった。

 

 意識そのものを外側から閉ざすような、未知の術式の痕跡。

 

 詳しく調査すれば、その残穢が人間の術師のものではなく、呪霊由来であることまでは分かった。肉体を傷つける術式ではなく、対象の意識だけを深く沈め続けているらしい。

 

 術式の主体となっている呪霊を祓うことができれば、あるいは与幸吉は目を覚ますかもしれない。

 

 だが、その呪霊がどこにいるのかは分からない。

 

 現場一帯には、あまりにも多くの呪霊の残穢が入り乱れていた。大量の低級呪霊が一度に祓われた痕跡もあり、どの呪霊が何をしたのかを後から正確に辿ることは困難だった。

 

 別の人間がこの場にいたことを示す物証も、ほとんど残されていない。

 

 湖岸では僅かな血痕が確認されたが、それは水際で途切れていた。流れ込んだ血液はすでに湖水へ拡散しており、誰のものだったのか、そこからどこへ逃げたのかを追跡できるほどの痕跡は残っていなかった。

 

 そして、もう一つ。

 

 戦闘が行われた時間帯、外部通信網には一瞬だけ与幸吉の認証情報を用いた通信記録が残されていた。

 

 接続時間はあまりにも短い。

 

 完全な報告を送ることなど不可能だった。

 

 敵の名前もない。

 

 夏油傑の名も。

 

 真人の存在も。

 

 獄門疆も。

 

 五条悟についても何一つ書かれていない。

 

 残されていたのは、短い警告だけだった。

 

 十月三十日。渋谷。何かが起きる。

 

 それだけ。

 

 与幸吉は生きている。

 

 だが、彼が何を見たのか、何を知っているのかを聞くことはできない。

 

 彼が目を覚ますまで。

 

 そして彼の意識を閉ざしている呪霊が、どこかで生き続けている限り。

 

 五条悟たちはまだ知らない。

 

 渋谷で誰が待っているのか。

 

 何を狙っているのか。

 

 そして。

 

 そこで五条悟自身に何が起こるのかを。

 

 与幸吉が命懸けで残すことのできた情報は、ただ一つ。

 

 十月三十日。

 

 渋谷。

 

 それだけだった。

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