TAKAMURA廻戦 作:日三汐理
陀艮の領域が崩壊した。
南国の海を模した異形の空間が剥がれ落ち、視界が渋谷駅構内へと戻っていく。必中術式によって際限なく吐き出されていた式神の群れも消え、あとに残されたのは、激戦で破壊された構内と特級呪霊の残穢だけだった。
陀艮を仕留めた男――禪院甚爾は、満足した様子を見せるでもなく次の獲物を探した。その視線が伏黒恵を捉えた直後、二人の姿が凄まじい速度でその場から消える。
「伏黒君!」
七海が反応した時にはもう遅かった。
追わなければならない。しかし、陀艮との戦闘を終えたばかりの七海も真希も相応に消耗している。直毘人に至っては右腕を失っていた。
「……次から次へ」
直毘人が失った腕を一瞥した、その時だった。
とてつもない気配を感じた。
七海が振り向くのとほぼ同時に、通路の奥から小柄な呪霊が姿を現す。
頭部から火山を生やした一つ目の呪霊。
漏瑚。
直毘人と七海との表情がさらに険しくなった。
(おいおい、冗談だろ)
(先ほどの陀艮という呪霊より、はるかに強い)
漏瑚は三人を見ていなかった。
その一つ目は、先ほどまで陀艮が存在していた場所へ向けられている。残るのはわずかな残穢だけであり、その主がすでに祓われたことは疑いようがなかった。
「……陀艮」
返事はない。
当然だった。
「人間などによらずとも、我々の魂は巡る」
漏瑚はしばらく黙ったままそこを見つめ、やがて静かに告げた。
「100年後の荒野で、また会おう」
それが陀艮へ向けた別れだった。
そして、漏瑚の目が三人へ向く。
「さて」
空気が変わった。
そこにいた者たちは誰も陀艮を直接仕留めてはいない。だが漏瑚にとって、その程度の事情を汲む理由はなかった。陀艮は人間側との戦いの中で死んだ。ならば目の前にいる術師たちを始末する。ただし 、完全には殺さない。両面宿儺が肉体の主導権を握れるようにするための交渉材料に使うために。
漏瑚が最初に接近したのは七海だった。あまりの速さに3人は反応できていなかった。
漏瑚は掌を七海に向けていた。人間一人を焼き殺すのに大掛かりな攻撃など必要ない。
炎を放とうとして――漏瑚は動きを止めた。
「……?」
何も起きなかった。
術式が不発に終わったわけではない。漏瑚は、自分が七海へ向けたはずの右腕を見た。
手がなかった。
手首から先だけが、綺麗に消失している。
「……な」
遅れて床へ何かが落ちる音がした。
漏瑚の右手だった。
切断面から紫の血が漏れ出す。
斬られた。
その事実を理解するまでに、漏瑚ほどの呪霊が数瞬を要した。
誰に。
いつ。
七海ではない。真希でもない。片腕を失った直毘人も動いていない。
そして何より、自分自身が斬撃を認識していなかった。
その時。
コツ、と音がした。
構内に響く革靴の音。
コツ。コツ。
急ぐ様子もなければ、こちらへ気配を悟られまいとする様子もない。ただ一定の速度で、誰かが歩いてくる。
「~~~~~~~~~~……」
足音に、低い呟きが混じっていた。
何を言っているのか分からない。
だが。
漏瑚はその声を知らないにもかかわらず、背筋を冷たいものが走るのを感じた。
暗がりから一人の老人が現れた。
黒い背広。僅かに曲がった背中。腰には日本刀。
何の変哲もない老人のように見える。
だからこそ異様だった。
漏瑚の一つ目が見開かれる。
(馬鹿な馬鹿な馬鹿な、何故……!)
「……何故、貴様がここに」
老人は何も答えない。
「~~~~~~~~~~」
ただ何かを呟きながら、こちらへ歩いてくる。
「誰だ、あの爺さん」
真希が低く尋ねた。
直毘人が老人を凝視する。
「……聞いたことがある。黒い背広に日本刀。どこの所属かも分からん老人がいると。名前は……何だったか」
「篁さんです」
答えたのは七海だった。
真希と直毘人の視線が七海へ集まる。
「篁?」
「ええ。私も詳しい素性までは知りません。ただ、名前といくつかの記録については聞いています」
七海は、床へ転がった漏瑚の右手へ視線を落とした。
「少なくとも、刺激しない方がいい人物です」
「味方なのか?」
「それも分かりません」
真希が眉を寄せる。
漏瑚には三人の会話を聞いている余裕がなかった。
あり得ない。
ただ、その一点だけが思考を占めている。
篁は九州にいる。少なくとも偽夏油はそう断言していた。
単に任務表に九州と書かれていたわけではない。監視用の呪霊が本人の姿を捉え、さらに現地で協力している呪詛師からも確認の報告が入っている。
十月三十一日の夕刻、篁は確かに九州にいた。
偽夏油がわざわざ二重に確認した情報だ。
そこから今、この時刻までに渋谷へ来られるはずがない。
少なくとも、篁に長距離転移の術式があるという情報はなかった。
漏瑚の切断された手首から肉体が再生していく。
「どうやってここへ来た……!」
「~~~~~~~~~~」
「答えぬか」
返ってくるのは、やはり意味の取れない呟きだけ。
偽夏油へ問い合わせることもできない。離れた場所にいる相手と即座に連絡を取る手段など、漏瑚は持っていなかった。
目の前の状況を、自分だけで判断するしかない。
戦うか。
逃げるか。
五条悟へ挑んだ時とは違う。
あの時は自分と五条の間にどれほどの差があるのか、漏瑚自身が知らなかった。だが篁については、すでに聞いている。
真人は一度、この老人に斬られて逃げた。
二度目には、逃走へ移るより早く追いつかれて瀕死まで追い込まれた。
そして偽夏油本人もまた、大量の呪霊を囮として放ったにもかかわらず追いつかれ、腹部を刀で貫通されている。
何より、偽夏油は何度も念を押していた。
篁へ殺意を向けるな、と。
あの老人は、自分自身へ向けられた殺意に対して異常なほど敏感に反応する。
再生した右手を握る。
戦える。
漏瑚自身も特級呪霊だ。陀艮とは比べものにならない速度も火力も持っている。極ノ番も領域もある。
陀艮を殺されている。
ここで背を向けるのか。
この自分が。
あの老人を殺す。
ほんの一瞬だけ、その思考が明確な形を取った。
コツ。
足音が止まった。
「――」
漏瑚の身体が硬直する。
篁の顔がゆっくりと上がった。
先ほどまでこちらを見ていなかった老人の視線が、正確に漏瑚を捉える。
刀には触れていない。
構えてもいない。
それなのに、漏瑚の本能が全身へ警告を叩きつけた。
今、気づかれた。
自分がほんの一瞬、篁を殺そうと思ったことに。
「……っ」
漏瑚は無意識に半歩下がった。
真希が小さく目を見開く。
「……あいつ、ビビってんのか?」
「そのように見えます」
七海にも、それは予想外だった。
目の前の呪霊は陀艮よりも強い。にもかかわらず、刀を抜いてさえいない老人を前に明確な警戒を見せている。
直毘人が残った左手で顎を撫でる。
「噂は噂と話半分に聞いていたが、実物は話の倍ほど厄介そうな老人だ」
漏瑚は三人へ視線を走らせた。
人間側の術師。
篁が何を考えているかは分からない。それでも、人間である以上、これを利用できないか。
「止まれ」
漏瑚が言う。
篁は再び歩き始めた。
コツ。
「止まれと言っておる」
反応はない。
漏瑚は再生した右手を七海たちの方へ向けた。
「それ以上近づけば、こやつらを焼き殺す」
真希の表情が険しくなる。
「おい」
「動かないでください」
七海が静かに制した。
「でも――」
「今は何が刺激になるか分からない」
漏瑚は篁を凝視していた。
「聞こえておるのか?」
「~~~~~~~~~~……」
コツ。
「こいつらが死んでも構わんのか」
「~~~~~~~~」
コツ。
分からない。
漏瑚には、本当に分からなかった。
聞こえていないのか。
言葉を理解していないのか。
理解した上で無視しているのか。
あるいは人質というもの自体が、この老人に対して何の意味も持たないのか。
手応えが一切ない。
脅しが通じている相手なら、歩みを止めるなり、視線を人質へ向けるなり、何らかの反応がある。
篁には、それがない。
漏瑚は七海へ掌を向けた。
炎を放てる。
今度は手も再生している。
だがその瞬間、床に落ちた自分の手首が視界の端へ入った。
先ほどは、斬られたことにすら気づかなかった。
人質を殺す。
そう決めて炎を放った時、次に落ちるのはどこだ。
腕か。
胴か。
それとも首か。
人質を取ったはずが、漏瑚自身が身動きを制限されていた。
「……化け物め」
漏れた言葉にも、篁は反応しなかった。
その時だった。
別方向から、強烈な気配が立ち上った。
「――!」
漏瑚の顔が上がる。
距離はある。
だが、間違えようがない。
禍々しく、濃密で、それでいて他の何者とも取り違えようのない呪力。
「宿儺……!」
封じられていた両面宿儺の指。
複数。
それが今、同じ場所で解放された。
漏瑚の思考が一気に切り替わった。
両面宿儺。
呪いの王。
自分たちが復活を望んできた存在。
もし宿儺を完全に顕現させられれば。
篁に対抗できる可能性がある。
少なくとも、目の前の老人を相手に自分一人で賭けへ出るよりは、はるかに現実的だった。
真人を圧倒した老人。
偽夏油にさえ深手を負わせた存在。
それでも。
両面宿儺ならば。
「……ふん」
漏瑚は七海たちへ向けていた腕を下ろした。
篁を見る。
「貴様の相手をしている暇はなくなった」
返答はない。
「~~~~~~~~」
最後まで、その言葉が通じたのかさえ分からなかった。
漏瑚は床を蹴る。
爆発的な加速によってその場から離れ、宿儺の指を感じた方向へ向かう。
目的は決まった。
指を虎杖悠仁へ食わせる。
宿儺を表へ出す。
そして。
呪いの王へ協力を求める。
できるならば――あの老人を殺してもらう。
漏瑚の気配が急速に遠ざかっていった。篁は何を思ってか、急ぐ様子もなくその方向へとゆっくり步いてゆく。
真希は警戒しながらそれを見ていたが、やがて篁の背中も見えなくなってようやく息を吐く。
「……行ったな」
「ええ」
「助かった……でいいのか?」
七海はすぐには答えなかった。
結果だけを見れば救われた。
漏瑚があのまま攻撃を続けていれば、三人とも無事では済まなかっただろう。陀艮との戦闘直後であったこともそうだが、万全な状態でも満足に対応することさえできなかった可能性が高い。
「篁さんが我々を助けるために来たのかは分かりません」
七海が言った。
「だが、あの火山頭が消えたのは幸運だ」
直毘人が肩を竦める。
「って、そうだ恵!恵を助けに行かねえと!」
「それは私が行きます」
七海が制した。
「直毘人さんは右腕を失っていますし、禪院さんも消耗している。私が今この中では最も動けます。2人は家入さんの元に行ってください」
七海は甚爾が伏黒を連れ去った方向を見る。
「動けないまま来ても、足手まといになるだけです。」
篁の革靴が床を叩く音は、もう遠くなっていた。
コツ。コツ。
意味の分からない呟きとともに、やがて完全に聞こえなくなった。
◆
少し前のこと
渋谷は恐怖で満ちていた。
帳によって閉じ込められた大勢の一般人。外へ出られない理由も、何が起きているのかも分からない。異形を目撃した者がいる。人が死ぬところを見た者もいる。地下にはさらに多くの人々が押し込められ、ただ五条悟を呼べと叫び続けていた。
逃げたい。
助けてほしい。
何かがいる。
自分たちを脅かすものがいる。
どうにかしてほしい。
消してほしい。
膨大な数の人間が、同じ場所で同じ脅威を恐れている。
それが誰かへ届くはずなどない。
少なくとも、普通ならば。
東京から離れた、人里のない山中。
任務を終えた黒いスーツの老人が、一人で山道を歩いていた。
篁は突然足を止めた。
「~~~~~~~~……」
風が木々を揺らす。
周囲にはもう呪霊もいない。
誰かが篁へ殺意を向けているわけでもない。
それでも老人は、ゆっくりと顔を上げた。
遥か遠く。
東京。
渋谷。
その方角を、しばらく見つめる。
やがて篁は、それまで歩いていた道とは別の方向へ足を向けた。
誰にも行き先を告げず。
誰にも理由を説明せず。
◆
二日前。
十月二十九日。
「んー……」
南雲与市は端末の画面を眺めながら、頬杖をついていた。
正規の権限で開いている画面ではない。
術師の任務割り当て。
十月三十一日の予定。
与幸吉から届いた警告は、極端に短かった。
十月三十一日。渋谷。何かが起きる。
具体的に何が起きるのかは分からない。
敵が誰なのかも。
狙いが何なのかも。
五条悟なら、おそらくそれほど深刻には考えない。
何かが起きるなら自分が行く。
五条悟という人間にとって、それは決して根拠のない楽観ではなかった。実際、大抵の問題はそれで解決する。
ただ、南雲は同じ考え方をしなかった。
「渋谷で何かある日に……」
画面をスクロールする。
「篁さんは九州か」
偶然。
そう考えることもできる。
だが、距離が遠すぎる。
渋谷で大規模な何かが起きる日に、よりによって篁が東京から大きく離された任務へ割り当てられている。
内容を確認する。
南雲の笑みが少しだけ薄くなった。
「特級案件ね」
つまり、架空の任務でも、どうでもいい雑務でもない。
実際に対応しなければ被害が出る。
そして特級案件である以上、任せられる術師も限られる。
篁が選ばれたこと自体は、不自然ではなかった。
だから厄介だった。
篁を渋谷から遠ざけたい何者かがいたとしても、本物の特級案件を用意してそこへ向かわせれば、表面上は何もおかしくない。
放置することもできない。
「じゃあ」
南雲が小さく笑った。
「僕が行けばいっか」
◆
十月三十一日、朝。
篁へ任務を伝える役目を持つ人物が、老人の前に立っていた。
少なくとも篁はわざわざ疑わなかった。
「篁さん、今日はこちらをお願いします」
差し出されたのは、九州の資料ではない。
東京から多少距離はあるものの、人目につかない山中で確認された別件。少し面倒な条件の特級案件だ。
篁は書類へ目を落とした。
「~~~~~~~~~~」
「はい。じゃあお願いしますね」
篁は何も問い返さなかった。
書類を受け取り、そのまま歩き去っていく。
任務伝達者はその背中を見送った。
篁の姿が完全に消えたところで、顔が僅かに歪む。
「さて」
南雲が元の顔へ戻った。
「次は九州か」
◆
同日夕刻。
九州。
黒い背広を着た老人が、特級案件の現場を歩いていた。
腰には日本刀。
背中を丸め、口元では意味の取れない何かを呟いている。
「~~~~~~~~~~」
少し離れた木々の隙間。
小さな呪霊がこちらを観察していた。
偽夏油が配置した監視用の呪霊。
それとは別に、現地には呪詛師が一人潜んでいた。
老人の姿を直接確認し、携帯端末を操作する。
『篁を確認。現在、九州の任務現場――』
送信。
報告が偽夏油へ届く。
これで二系統。
監視呪霊の視界。
人間による現地確認。
どちらから見ても、篁は間違いなく九州にいる。
老人は何も気づかない様子で、特級呪霊の残骸を越えて歩いていく。
やがて監視用呪霊の視界から外れた。
呪詛師も、それ以上追う必要はないと判断した。
「これで――」
背後から声がした。
「誰に送ったの?」
「――!」
振り返る。
いつの間にか。
黒い背広の老人がすぐ後ろに立っている。
「な――」
呪詛師が術式を発動するより早く、南雲はその懐へ入った。
短い音。
男の身体から力が抜ける。
携帯端末が地面へ落ちるより先に、南雲が受け止めた。
「ごめんね」
倒れる身体を支え、そのまま静かに地面へ横たえる。
「このあと訂正されると困るんだ」
返事はない。
南雲は端末へ視線を落とした。
送信済み。
篁を確認したという報告は、もう相手へ届いている。
「うん。ここまでは予定通り」
少し離れた場所にいる監視用の呪霊は、まだこちらを見ている。
南雲は再び背中を丸めた。
顔を老人へ戻す。
「~~~~~~~~~~」
そのまま何事もなかったように歩き出した。
監視用の呪霊から完全に見えなくなるまで。
十分以上。
南雲は篁を演じ続けた。
◆
山道の奥。
監視の視線が完全に消えたところで、黒い背広の老人が大きく息を吐いた。
「ふぅー……」
曲がっていた背筋が伸びる。
皺だらけの顔が歪み、若い男の顔へと変わっていった。
南雲与市は凝った肩を回す。
「ずっと猫背って、思ったより疲れるなあ」
誰もいない山の中で、一人笑う。
与幸吉から送られた情報は、日付と場所だけ。
何が起きるのかは分からない。
篁を遠ざけようとしていた者が本当に存在するのかも、この時点では証拠などなかった。
それでも。
「特級だから誰かが来なきゃいけないし、ちょうどよかったかな」
南雲は自分が処理した任務現場を振り返る。
偽の任務を篁へ伝えただけで、本来の九州の特級案件を放置しては意味がない。
だから自分が来た。
篁のふりをして。
特級呪霊を処理して。
見張っていた人間にも、篁がここにいると報告させた。
これなら、篁を九州へ置きたかった誰かがいたとしても、少なくとも当面は気づかない。
「まあ、相手がいるのかどうかも分かんないんだけどね」
南雲は携帯端末を仕舞った。
そして、ふと思い出したように辺りを見回す。
「そういえば」
本物の篁には、山中の任務を一つ伝えただけだった。
それが終わった後に何をするのかまでは、南雲も知らない。
「篁さん」
少しだけ首を傾げる。
「今どこにいるんだろ」
答える者はいなかった。