魔力と血液、そのどちらもが限界に達しつつあった。
体内で循環するはずの血はもはや足りず、銀の装甲と化していた部分も黒ずみ、地面に滴り落ちている。
血の欠乏により、脳は即座に悲鳴を上げた。
割れるような頭痛が頭蓋の内側から押し広げ、視界の端が白く滲む。
酸素を求めて肺が勝手に動き、喉を引き裂くような荒い呼吸が漏れ出した。
ヒュウ、ヒュウ、と。
喘鳴が混じるたび、胸の奥が灼けるように痛む。
どれだけ必死に息を吸っても意味はない。
酸素を運ぶための血が、もう足りないのだ。
理解してしまった瞬間、身体は急激に重くなる。
足元がふらつき、平衡感覚が狂う。
吐き出された息とともに、黒く濁った殺意が漏れ出す。
それは言葉にもならず、形も持たない。
ただ、明確な向きだけを持っていた。
目の前に立つリビングメイル。
無機質な装甲の向こうに意思がないと理解していながらも、アダマスはそれを睨み続ける。
ふらつく身体を無理やり支え、どす黒い殺意の目をただ一点に向け続ける。
怒りではない。
恐怖でもない。
生きたいという願いですら、もう薄れている。
それでも残っているものがあるとすれば
「勝ちたい」という、
どうにもならない執念だけだった。
死神の鎌が視界にちらつくような絶体絶命の真っ只中で。
世界が、ほんのわずかに軋んだ。
闘技場を覆う結界をすり抜け、銀の装丁を纏った一冊の本が空から落ちてくる。
重力に引かれているようでいて、実際には別の理屈でそこへ向かっていた。
血と魔力が飛び散る戦場、その中心に立つ少年のもとへ。
本は迷いなく落下し、アダマスの頭部に刻まれた傷口を正確に貫いた。
アダマスが両手で抱えるほどに大きく重い本であったはずだが、着弾の衝撃はほとんどない。まるで最初からそこに収まるべきだったかのように、銀の本は傷の中へと飲み込まれて消える。
瞬間、膨大な知識がアダマスの脳内へとなだれ込んだ。
欲していたものとは無関係。
今この場で役に立つものですらない。
価値のあるものと価値のないものが区別されることもなく、ただ無秩序に流し込まれる。
ホットケーキの焼き方。
ビジョンクリスタルの製法。
獣人の肉質の違いと下処理の方法。
保存食に向く内臓の部位。
忘れ去られた地方言語の文法規則。
殲滅級の水属性古代魔術。
それらを理解させるためではない。
ため込んだ知識を整理するためでもない。
それは知識の付与ではなく、思考領域への侵入であり、侵略だった。
意味のない情報の奔流に思考は濁り、肉体の制御は強制的に遮断される。
鎧の動きを封じていた拳は振り上げられず、アダマスは頭を抱えたまま地面を転がり回った。
知識が流れ込むと同時に、脳から吸い上げられる感覚がある。まるでストローでも突き刺してごくごくと飲み干されるような、そんな感覚が。
経験。
判断。
思考の癖。
戦場で培ってきた勘。
自己を形作っていたそれらが、根こそぎ削り取られていく。
記憶までもが引き剥がされ、意識は急速に薄れていく。
瀕死で勝ち取った昇格戦の記憶にまで手が伸びた瞬間、激昂する。
だがその怒りすらも、噛み砕かれるようにして消えていった。
自分という存在がまるで畑の作物でもあるかのように刈り取られ、収穫されていくのだ。
抵抗の余地はなく、抗う術もない。
悶え、苦しみ、悲鳴を上げることしかできなかった。
敵対者が戦闘不能に近い状態へ移行したことを感知し、リビングメイルは動きを止める。
ダンジョン外において、この種の機体は敵対者が行動不能になると自主的に機能停止する性質を持っていた。
モンスターたちの餌、燃料としてはひどく薄い大気の魔力。必要以上に暴れ回ればその分だけ自身の首を絞めることになる。その為、機械種などの特定のモンスターは周囲に危険がなくなれば機能停止を行う。
話を本に戻そう。
先ほどからアダマスを襲っている銀の装丁の魔術書。
その正式名称は『祝祭の日の美味しいフルコース』。
もう一つの名は『
銀の魔力を持つ人間のもとに現れ、最初は持ち主が求める知識を与える。
魔術を欲すれば、初級魔術から国家を滅ぼす殲滅級魔術まで。
料理を求めれば、家庭料理から王家専用の祝祭料理、果ては人間種やモンスターを素材とした狂気のレシピまで。
戦いを望めば、相手の力量に合わせ、依存を誘うかのように親身になって教え導く。
だが、持ち主の死が近づくと本性を現す。
本は脳に溶け込み、知識を奪い尽くして飛び去る。
得意分野の知識だけではない。
人格を構成する記憶。
思考の傾向。
自我そのもの。
ありとあらゆる人間が人間として成立するために必須の知識すべてをかっ食らう。
食べ終わったあと、脳から羽ばたくように飛び去る姿が鳥に似ていることから、『知恵啄む文鳥』とも呼ばれる。
戦闘中に行動を封じられ、知識の吸引に抵抗することができなければ、待っているのは死だけだ。
生き残ったとしても、もはや人間としての機能はないに等しい。
珍しい知識の持ち主の手元に出現し、隙あらばその知識を貪り喰らう。
竜を殺した剣聖。
国を滅ぼした大魔導士。
アンデッドとして蘇り、死後の世界を垣間見た者。
喰らい殺した数は知れず、底なしの胃袋を持つ。
されど、この本を読むことを禁忌と知りつつも、多くの探求者が手を伸ばす。
膨大な知識の中にはまだ明らかにされていないものが数え切れないほどに詰め込まれている。まるで誰も手を付けていない宝の山なのだ。
探求者たちは無名のまま死ぬより、喰われたとしても知識の一部として残ることを選ぶ。
喰われる瞬間がどれほどの地獄かなど考えもせずに。
人を喰らえば喰らうほど、本は肥え太る。
食われた本人の語彙力は反映されず、技術や理論だけが異様な精度で記録される。
口下手な人間を喰らっても、その中身はまるで論文のように理路整然としたものになる。
感覚だけで魔術を扱っていた者が喰われれば、まるで添削されたかのような完成形が記され
る。
ただし、銀属性であっても相性が悪ければ、読み手は例外なく発狂する。
それは一瞬で起こる破壊ではない。
最初に壊れるのは判断基準だ。
記された内容が「正しい」と思い込まされ、疑うという行為そのものが不要になる。
次に失われるのは倫理だ。
善悪や禁忌といった概念は、効率や手順という言葉に置き換えられる。
やがて、思考は本の内容と本能のみに突き動かされることとなる。
人間種を解体し、調理する。
それはただ食欲のままに。より未知なる美味の為。
蟲人の巣へと自ら飛び込み、生殖行為を行う。性欲のためだけに。強い快楽のために。
邪神召喚に必要な供物を集めるため、虐殺を行うことすら躊躇わない。
それは強者の庇護を得るため。
恐怖も、嫌悪も、躊躇も存在しない。
最終的に残るのは、本能のままに生きる獣。
発狂した読み手は、自分が狂っていることすら認識できず、破滅へと歩み続ける。
人ではなく、獣であるが故に。
それらすべては、書き手たる
だが、この世界にはご都合主義としか言いようのない奇跡が存在する。
俗に言うところの転生特典と呼ばれるものだ。
無尽蔵の魔力や、宝物庫の鍵や聖剣、無数の剣を生み出す魔法。
そういった華々しい特典と比べれば、ひどく地味で、希少性もないものだが。
星を作る者たちの間では常識なこととして、
異界から魂を迎え入れる際、前世との環境差が大きすぎると早逝する事が挙げられる。
食文化、貧困、衛生。
中世に近いこの世界は、現代と比べればあまりにも劣悪だ。
飢えに苦しみ、寒さに怯え、病毒に侵される。
それに抗う術を持ち合わせることは少ない。
幼い頃にそれらに悩まされれば早々と死に至ることは疑いようもない。
そのため一定年齢に達するまで、あらゆる環境に耐えうる『環境適合能力』が付与される。
致命傷を受けたり、1週間ほど絶食したりと即死するような状態に至らない限り、死なない。
いや、死ねない。
異界から魂を引きずり込む行為はコストパフォーマンスがきわめて悪い。
そう簡単に死んでもらっては困るがゆえに、否が応でも生かされる。
その能力が、想定外の化学変化を起こした。
脳に溶け込んだ本そのものに、肉体を適合させてしまったのである。
本の行為は肉体的な即死に直結しない。
精神的ストレスは極限に達している。
適合する条件は成立していた。
異物を排除するより、吸収し適合する方が負荷が低いと肉体は判断した。
さらに、叡智喰らいは脳に溶け込んでいる間、書き手からの操作を受け付けない。
自立思考する魔法生物ではなく、遠隔操作される魔術装置に過ぎないからだ。
深淵に佇むものに操作され、知恵を喰らってページを増やすだけの装置でしかない。
事細かに持ち主に親身になっているのは本ではなく、書き手の方だったということだ。
ただ、脳に溶け込む部分に関しては自らすべて監視する必要もなく、本に刻んだ魔術に自動的に行わせるという雑さがあった。
雑さゆえに、彼らは足元を掬われた。
本は滑らかに動き出し、脳より飛び立とうとページを広げた。
だが、逃げ場はない。
即座に伸びた肉の鎖が、その動きを正確に捉え、容赦なく固定する。
鎖はきしむような金属音を立てながら締まり、脳へ本を封じ込めた。
同時に、アダマスの両手に銀色の文様が浮かび上がる。
知らぬ間についていたそれは、生き物のように脈動しながら皮膚を這い、指先から手首、腕へと登っていく。
冷たいはずの銀が、妙に熱を帯び、血管の上をなぞるたびに鼓動と共鳴した。
文様はやがて首元を越え、頭皮へと移動する。
思考の奥を探るように広がり、門と鍵の形を成した銀の文様が、ゆっくりと完成した。
次の瞬間、その門と鍵の文様が、本へと降下する。
空気を裂き、重力すら従えるかのように。
それはかつて喰われ、名も記録も奪われた者たちの、最後の仕返し。
奪われた知識と意思が積み重なって形作った、所有権を奪うための門。
そして、その膨大な知識を使いこなすためだけに選ばれた者に与えられる鍵。
門が覆いかぶさり、逃げ場を完全に塞ぐ。
続いて、鍵が差し込まれ、閉じられる。
ガギン。
乾いた金属音は爆音となって膨れ上がり、闘技場全体を揺るがした。
床が震え、空気が波打ち、観客席のざわめきすら一瞬かき消える。
その中心で、アダマスは頭を押さえたまま、次の瞬間には大笑いする。
「なーんか頭痛かったのがスッキリしたぜぇぇぇぇ!!!」