無事に同ランク帯で最初の勝利を収めた少年。
その小さな身体にはまだ戦いの余韻が残り、拳を握る指先には血がこびりついている。
だが彼の表情は晴れやかだった。初めて自分の力で勝ち取った勝利。
それがどんなに歪な環境の中で得たものでも、少年にとっては“初めて誰かに認められた瞬間”だった。
教官は口元を吊り上げ、いつになく上機嫌だった。
「よくやったな。約束通り、綺麗なおねーちゃんのたくさんいる大人の店に連れてってやるよ。」
豪快に笑いながら肩を叩く手は重く、鉄のように硬かった。
少年は苦笑を返す。
そんなどうでもいいもんより飯をくれ、と。
まるで年相応の駄々をこねるような口ぶりだった。
少年にとって「ご褒美」とは、甘い物や肉の匂いのする食卓のことを指す。
女など、まだ夢の外にある話だ。
教官は一瞬、ぽかんとしたあと、声をあげて笑った。
「お前、可愛げねぇな。普通なら鼻伸ばしてついてくるとこだろうに。」
立つもんも立たないのに、行ってどうすんだ?と疑問符を頭上に浮かべ、首を傾げた。
「……はは、確かに。じゃあ飯で手を打とう。」
少年の言葉を軽く受け流したように見えたが、教官の目の奥には微かな陰りがあった。
それは、彼自身がその“大人の店”の意味を知っているからだ。
あそこは、決して遊び場ではない。
奴隷の子供たちを「壊さないための施設」と呼ばれていた。
幼い頃に親から引き離された者たちは、心の成長が歪む。
愛情の欠落は、怒りや憎しみの連鎖を生む。
それだけにとどまらず、協調性すら無くす。
チームを組んでダンジョンに潜らせたりする以上、協調性がない感情の暴走しやすいやつはトラブルの原因だ。
それを防ぐために奴隷主たちは、人為的に“愛情”を供給する場を作った。
そこで働くのは、娼婦の中でも穏やかで、かつて母だった者たち。
彼女たちは子供の頭を撫で、子守歌を歌い、
時に抱きしめ、擬似的な母子関係を演じさせられる。
それが、奴隷商たちの言う「
愛情でさえ売買される。
笑顔の裏で、値札が貼られている。
この国では、心さえも商品の一部だった。
だが、そんな残酷な構造を少年が知るはずもない。知っていたところで、まぁここ地獄だもんな、位でバッサリ切り捨てるが。
彼の目下の関心は、腹の虫と、空腹を満たす手段だけだ。
甘いものはまぁ期待できない。せめて肉の一切れでもいいから腹に収めねば、次の戦いに備える筋肉すらつかない。
彼の普段の食事といえば、石のように硬いパンと、
肉の欠片と玉ねぎが数切れ浮かぶだけの薄いスープ。
食事というよりは、生存のための燃料補給に近い。
だからこそ、ほんの少しの贅沢でも、彼には夢のように思える。
教官は少年の後ろ姿を見つめ、ふと苦笑した。
(実の親を、あれだけ迷いなくぶちのめしたガキが……飯のことで目を輝かせるか)
そこに罪悪感はなかった。だが、先程の闘技で全く感じられなかった“人間らしさ”を確かめられたような気がした。
「じゃあいい飯食わせてやるから、ついてこい。」
そう言って少年の首根っこを掴み、半ば引きずるようにして連れ出す。
外は既に夕暮れで、鉄柵の影が地面を縞模様に染めていた。
辿り着いたのは、喧騒と笑い声に満ちた酒場だった。
厚い木の扉を押し開けると、香ばしい肉の匂いと酒の香りが一気に押し寄せてくる。
煙が漂い、奥では誰かが弦楽器を鳴らしていた。
粗野だが、不思議と温かみのある空間だった。
「よう、女将。いつもの頼むわ。」
教官が声をかけると、カウンターの奥から陽気な声が返ってきた。
「おう、またガキ連れかい? 初勝利記念はこっちでいいのかい?」
「本人が言うんだからしゃーねーや。」
「はいはい、いつもの席空いてるからそっち座っときな。」
そんな軽口のやり取りを横目に、少年は店内をきょろきょろと見回した。
彼の知る世界とはまるで違う。
ここでは皆が自由に喋り、笑い、酔い、手を叩いている。
だがその中には、鎖をつけたままの女たちの姿もあった。
露出の多い衣装に、闘士用の腕輪。
一目で「奴隷闘士」だと分かる。
テーブルの上にはどれも巨大なステーキが置かれている。
切り分けて皿に取り分けるたび、分厚い脂がじゅわりと光り、
焦げた香りが漂ってきた。
そして、彼は気づいた。肉の皮が光沢を放っている。
いや、それは“鱗”だった。
「……ドラゴンの肉?」
つい声に出してしまう。
近くの席にいた闘士の女が、頬に血の跡を残したまま振り向いた。
「正確にはリザードビーストだよ。竜の落とし子みたいなもんさ。」
彼女は笑って、ナイフを突き立て、噛み切る。
歯で裂かれた肉から血が滴り、鉄の皿に音を立てて落ちた。
少年はその様子を目を丸くして見つめる。
それは恐怖ではなく、純粋な興味。
既知ではなく未知を知った喜び。
飯を食らうより前に、心の充足を得ていた。
そして、言葉を話して返事が返ってくる喜び。
会話ができることにようやく実感がわいたのか、それとも枷となっていた産みの親を乗り越えたことがきっかけか。軽口を叩くほどにまで言語能力が回復したようだ。
教官はそんな彼の様子を見て、静かに酒を口にした。片手に酒場の給仕の女性をはべらせつつ。
(こいつはまだ、何も知らねぇ……。知らないままでいられりゃ、それでいいのかもしれねぇな)
そして運ばれてきたステーキを、少年の前に置いた。
皿から立ちのぼる湯気。溶け出す脂。香ばしい焦げ目。
それは彼がこの世界に生まれて初めて見る本物の食事だった。
少年は唾を飲み込み、震える手でフォークを握った。
そして一口。
歯を立てた瞬間、肉汁が口いっぱいに広がり、目を見開く。
言葉にすることも忘れ、口の中の肉をただ咀嚼する。
生まれ落ちてから忘れていた、味わい食べるという行為を、ただひたすらに繰り返す。
話すために口を開けば旨味が逃げるのではないか、と思うほどに。
その教官は何も返さず、ただ酒をあおった。
その顔に浮かぶのは笑いとも、哀しみともつかない表情だった。
彼の胸の内で、ひとつの思いがくすぶっていた。
この世界で“飯がうまい”と思えるうちは、まだ人間でいられる。
そうであってほしい。
せめて、この少年だけは。
少年が肉にかぶりついている、その姿を誰かが見ていた。
店の奥、薄暗い照明の中。
長い脚を無造作に組み、片肘をついて杯を傾ける一人の女狼人闘士。
艶やかな毛並みを丹念に整え、鎖のような飾りを纏っている。
頬には古い傷、だがその傷さえ装飾のように見えるほど整った顔立ちだった。
彼女は、先ほどの試合を観戦していた。
小さな少年が、自分より何倍も体格のある相手を殴り倒した光景。あれを見て、胸の奥が妙にざわめいていた。
殺意でも、興味でもない。
それは、かつての自分が捨てた何かを思い出すような感覚だった。
少年が食事を続けている。
皿に顔を近づけ、肉汁を惜しむように啜る姿。
教官が苦笑しながら見ている。
その微笑ましい光景が、女闘士にはなぜか、酷く“愛おしい”ものに見えた。
「……あの子、今日の試合の忌み子でしょ?」
彼女は椅子から立ち上がり、酒のグラスを片手に教官のテーブルへと歩み寄った。
鎖が鳴るたび、周囲の空気がわずかに張り詰める。
彼女はSランクの闘士。血の女王(ブラッディ・クイーン)のミラと呼ばれる存在だった。
「おう、ミラか。見てたのか?」
教官が気安く声をかける。
彼女は少年をじっと見下ろしたまま、淡々と答えた。
「見てた。……あの目、いいね。壊れてるのに、まだ飢えてる。」
教官は笑みを崩さずに、グラスを傾けた。
「おいおい、食事中のガキに向かって“壊れてる”はねぇだろ。」
「褒めてるんだよ。あの年で、あそこまで冷たいのは珍しい。
戦いの最中、目が笑ってなかった。……ああいう子は、育て方次第で化ける。」
ミラはまるで商品を値踏みするように少年を眺めた。
その視線に気づいたのか、少年が肉片を咥えたまま顔を上げる。
目が合った瞬間、彼女は小さく口角を上げた。
「なあ、白雷の。あの子、私に譲ってくれない?」
唐突な申し出に、教官の笑いが止まる。
「……冗談だろ?」
「冗談で、他人の子供に目をつけたりしないよ。」
「お前に育てられたガキ、何人残ってんだっけな。」
「残る必要、ある?」
静かなやり取り。
周囲の闘士たちが息を潜める中、ミラはさらに一歩踏み込む。
「私は気に入ったの。あの目、あの剣。
“飢えてる子”はね、どこまでも強くなる。
……それに、愛し方を知ってる人間が一人くらいいた方がいい。」
「お前が愛情を教えるってか? 笑わせんな。」
教官は鼻を鳴らした。
「ガキを可愛がる代わりに、血を吸って肉を食う女が何言ってやがる。」
その言葉にも、ミラは微笑を崩さなかった。
「吸うのは血じゃない。心だよ。
あの子の中の熱が欲しい。……この地獄みたいな世界で生きる理由になる。」
少年はそんな会話の意味を理解していたが、ほぼ無関心のまま皿を抱えて肉を頬張っていた。
飯を不味くするやつは死ぬほど嫌いなのだ。
しかもこの世界に生まれて初めてのまともな食事だ。馬鹿の妄言に付き合ってる暇などない。
「……悪いな、ミラ。」
教官が静かに言う。
「そいつは、俺の班のガキだ。譲る気はねぇ。」
「そう。」
ミラは短く呟き、目を細めた。
「じゃあ勝ったら、もらうね。」
「勝負かよ。」
「この街じゃ、それが一番公平でしょ?」
ミラは杯を軽く掲げ、酒を一息にあおると背を向けた。
長い黒髪が揺れ、鎖が鳴る。
去り際、少年の方をもう一度振り返り、囁くように言った。
「ごちそう、ちゃんと味わいな。
次に会う時、その口で痛みの味を覚えることになるから。」
少年は興味がないので露骨に無視した。
教官は深く息を吐き、残った酒を飲み干した。
「……やれやれ。ガキにまで血の匂いをつけたがる女が増えたな。」
そして小さく呟いた。
「ほんとに、お前は手遅れだな…。」
ミラが去った後、酒場の空気はゆるやかに弛緩していった。
闘士たちがざわめきを再開し、皿の上で肉を切る音が戻る。
だが、テーブルに残された教官だけは、どこか気まずそうに無言でジョッキを回していた。
少年はステーキをほぼ平らげ、骨の周りをちびちび齧っていた。
そしてしばらく黙ったあと、ぽつりと呟いた。
「なぁ、教官。」
「んあ?」
「今の女……
「ぶッッッ!!」
盛大な音がした。
教官が飲んでいた酒を真正面に噴き出し、向かいの椅子まで飛沫が飛んだ。
女将がカウンター越しにそれを見て、腹を抱えて笑いだす。
「ちょっ……ま、まって……ぶはははっ! 誰だいそんな言葉教えたの!?」
「誰も。言動見たら分かるだろ。」
「お前……お前なぁ……」
教官は顔を覆い、肩を震わせていた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ笑うしかないといった様子だ。
「おい女将! こいつ聞いたか! “ショタコンのサディスト”だとよ!」
「ひっ……はははっ! 教官、アンタんとこの弟子、口が達者すぎるよ!」
「ガキのくせに地雷ワードの爆弾魔かお前は!」
店内の数人の闘士もつられて笑い、空気が一気に明るくなる。
多少なりとは緩んでいたとは言えさっきまであったミラの冷気のような緊張感が、笑いに溶けて消えた。
少年の顔は試合の時の無表情に書き換わっていた。
「だってそうじゃないのか? 目が怖かったし……俺見て笑ってた。」
「……お前、もうちょっと言い方考えろ。あれでも一応Sランクの女闘士だぞ。」
「つまり、稚児趣味の嗜虐趣味の権力者か。」
「やめろォ!」
再び教官が頭を抱える。
女将はテーブルを拭きながら、涙をぬぐっていた。
「いやぁ……ほんと、久しぶりに腹から笑ったわ。
この店に来る奴ら、みんな血の匂いしかさせないんだもん。
アンタんとこのガキ、いい意味で場違いだね。」
「だろ? 生意気で、無鉄砲で、常識ねぇけど……まぁ、そこが取り柄だ。」
「その割にはバカスカ殴られるのだが。」
少年が呆れたように言うと、教官は肩を竦めた。
「お前の舌の回り方見たら、褒められねぇよ。
普通はな、怖い人にあんなこと言ったら、頭蓋骨ごとテーブルにめり込むんだ。」
「死ぬ時は何時でも死ぬだろう。それが今であれ明日であれ、一瞬で終わるほうが楽だ。」
「……ほんと、末恐ろしいガキだな。」
女将が二人に新しい皿を置く。
「ほら、これサービス。リザードステーキの端っこだけど、脂が乗っててうまいよ。」
「おお、ありがとよ。」
「ついでに、あんたの弟子には口止め料ね。ミラの耳に入ったらマジで死ぬよ?」
「覚えとく。」
少年は軽く頭を下げ、黙々と肉を食べ始めた。
その姿を見ながら、教官はふと真顔に戻る。
「なぁ。」
「なに。」
「さっきの女はああ見えて、戦場じゃ誰よりも情け深い奴だ。」
「俺たちが戦うのは戦場じゃなくて闘技場だろ。」
「……もう寝ろ。」
教官は完全に戦意を喪失した。
だが、女将は微笑ましげに言った。
「ねぇ坊や。ああいう女はね、壊れたものが好きなんだよ。
好きなんだけど直したいのか、壊したいのか、自分でも分かってない。
だから、アンタみたいなのを見たら惹かれちゃうのさ。」
少年はナイフを止め、少し考え込んだ。
「壊れてるのは自覚してるが、向こうはただの変態では?」
「自覚あるなら、半分はまだマシさ。」
女将がそう言って笑うと、教官は深く息を吐いてジョッキを置いた。
「ま、壊れてようが壊れてまいが、今日の勝ちは本物だ。
飯食って寝ろ。明日は地獄だぞ。」
「それは何時ものことでは。」
少年は文句を言いつつもうなずき、最後の一切れを口に運んだ。
脂が唇を光らせ、満足げに息をつく。
それは、戦場よりも人間らしい時間だった。
外では夜風が吹き始め、酒場の外灯が揺れている。
この街で、笑い声が漏れる夜は少ない。
だが今夜だけは、少なくともこの一角だけは、ほんの少し人間の温度が戻っていた。
腹いっぱいになること、小さな一歩。