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――地下拠点、共同食堂。
冷たい石造りの空間に、不似合いなほど温かい香りが漂っていた。
鉄の扉が開く音とともに、ふわりと漂う香り。
カレーの匂い。それは硝煙と油の匂いが染み付いたこの空間には、あまりに場違いな幸福の匂いだった。
「はい、できましたよ~!」
金蓮花苺が大鍋を抱えて現れると、食堂にいた隊員たちが一斉に歓声を上げた。
「おお、花苺ちゃんのカレーだ!」
「やった、今日は当たりの日だ!俺チャン日頃の行いが良いからな~!」
苺はにこにこと手を振りながら、儚と直毘人が座るテーブルにも皿を並べた。
「儚さんも直毘人さんも、はいどうぞ~。熱いから気をつけてくださいね」
儚は無表情のままスプーンを取る。
「……頂きます」
直毘人は軽く会釈し口を開いた。
「ご配慮、痛み入ります……第十八隊長、カレーの食べ方まで無表情というのは、いささか周囲を落ち着かせませんよ」
儚はスプーンを止め、冷たい視線だけを向ける。
「……食事に表情は不要」
その返答に、直毘人は苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「なるほど、合理的ではありますね。しかし花苺殿の料理は、笑みをもって味わう価値があると思いますよ」
「ふふ!直毘人さんったらお上手ですね~」
苺は楽しそうに笑ったが、儚の反応は変わらない。
ただ、ほんのわずかに食べる速度が上がった。
そこへ現れたのは、烏有先生だった。
軍装の裾を翻し、鋭い眼光で食堂を見渡す。
途端にざわついていた隊員たちが一斉に姿勢を正した。
烏有はゆっくりと歩み寄り、儚の皿を覗き込む。
「……それが口に合うならばよい」
儚は黙って小さく頷いた。苺が嬉しそうに笑う。
「せんせ、儚さんね、二口目からスプーンの速度が速くなったんですよ~」
「……余計な報告はいらない」
儚が小声で呟くと、直毘人が穏やかに補足した。
「つまり、確かに味わっている証左ですね」
苺はさらに嬉しそうに笑い、烏有先生はほんの一瞬だけ唇の端を吊り上げた。
食事の後。食堂を出ようとした儚の肩を、苺が軽く叩いた。
「儚さん、今度時間あったら一緒にお菓子作りしませんか?甘いのは……お嫌いですか?」
儚は足を止め、視線だけで答える。
「……任務に関係しない」
「そっか~。じゃあ、任務の“体力回復訓練”ってことで!」
苺は悪戯っぽく笑う。
儚はわずかに眉をひそめ、しかし否定の言葉を返すことはなかった。
その様子を見ていた直毘人は、小さく微笑んで呟いた。
「……第十八隊長、あなたも随分と隊に馴染んでおられる」
儚は振り返らず、ただ冷たく言い放つ。
「冗談は止めて」
だが、彼女の歩調はどこか柔らかくなっていた――なお、これから明日出撃する他の隊作戦のお膳立てに、敵地に先んじて乗り込み水路を通じて侵入し、友軍の脱出用ボートと水中を進むためのボンベを隠さなくてはいけない彼女にそんな時間は無かった。
偵察部隊は忙しい。
――そういえば、私が食事をとったのは何年ぶりだっただろうか?
その疑問が、頭に浮かんだ瞬間。
彼女はふと、違和感を覚えた。
「……今、何を疑問に感じたのだろう?」
思い出せない。
いや、思い出す必要など、最初からなかった。
合理的判断に基づき、九鬼儚は余計な思考を切り捨てる。
そして、再び闇の方角へと歩み出す。
照明の光が一瞬だけ瞬き、影が二度揺れた――
それが、人である証のように見えた。
*【第十八番偵察部隊・食堂記録#042】
作戦前夜:士気正常/精神安定度:可視化不能
備考:九鬼隊長、二口目より摂食速度上昇(花苺記)*
――“影は笑わない。ただ、仲間の光に反応して一瞬だけ、形を変える”。
(第十八番偵察部隊・行動指針より)