装甲車が土塊を踏み潰しながら速度を落とすにつれ、褐色の影が視界にせり上がってくる。
荒地の中で、そこだけ切り取られたように寄り集まった居住区――だが、その輪郭はどこか歪んでいた。
外壁はトタンとコンクリート片の継ぎ足しで形を保っているが、繋ぎ目は抉れ、歪んだ鉄板が応急で押さえつけられているだけだ。
瓦礫は片付け途中で積まれ、屋根の抜けた家屋が空を見上げていた。
つい最近の被害であり、いまなお”ばらけないよう縫い留めている途中”といった有様だった。
Victorはさらに速度を落とす。
装甲車そのものが余計な圧力にならないよう、挙動に神経を割きながら車体を進める。
やがて、集落の入口とおぼしき開口部が見えてくる。
木製パレットのバリケードと、外されて傾いたままの鉄製ゲート。
その脇に、くたびれたライフルを抱えた男と、腰の曲がった老人が立っていた。
外壁の輪郭が、フロントガラス越しに迫ってくる。
Victorは視線を前に向けたまま言った。
「Selene。」
「はい。」
「銃は置いていけ。」
「……了解。」
XM29を足元のラックへ戻す。
代わりにVictorが腰のホルスターを外す。
「これを持て。」
コンパクトな拳銃。
Seleneが受け取る。
「外では抜くな。どうしても必要なときだけだ。」
「分かりました。」
車両が停まる。
Victorが地面へ降りた瞬間、男のライフルが構え直され、銃口が真っ直ぐ胸元を捉えた。
Victorは動かない。
視線だけを男へ向ける。
凝り固まった空気の上を、か細い風の音が撫でていった。
助手席のドアが開き、Seleneが降りる。
細い体躯に、華奢な肩。
少女と言って差し支えない輪郭。
その姿を認めた途端、男の片眉が跳ね、銃口が少し下を向いた。
「……悪い。この頃いろいろあってな。神経が過敏なんだ。」
謝罪と警戒が半々に混じった声だった。
Victorは軽く首を振る。
「構わない。ここがどういう場所かは知っている。」
老人が一歩前へ出る。
不安を抱えた目が、Victorたちを測るように上下する。
「組合からの人間だな? ……助かる。こっちも限界に近い。」
「内容はコーラップスストームの被害確認。損壊した防壁と建物の状態把握、応急補強の支援――違いはないな。」
「そうだ。」
老人は胸の奥に溜め込んでいた息を、ようやく押し出した。
「幸い、シェルターのおかげで死人は出なかった。が……それだけだ。壁は穴だらけで、紙みたいなものだ。修理に人手を回せば見張りが減る。そうやって手を離した側から何か来たら、終わりだ。」
男は銃を肩に戻したが、指はまだ銃身から離さない。
その仕草だけで、この場所の余裕のなさは十分に伝わった。
Victorは視線を巡らせる。
崩れた屋根、仮設の足場、補修途中の壁。
――そして、瓦礫の隙間からこちらをじっと窺っている、小さな視線がひとつ。
「状況は分かった。ここに腰を据える気はない。必要な箇所だけ詰めてやる。」
「それだけでも助かる。」
道が開く。
SeleneがVictorを見上げ、Victorは顎で前を示す。
二人は集落の内部へ足を踏み入れた。
内部は、妙に静かだった。
人は行き交い、作業も生活音もあるのに、全体の音量だけが一段絞られている。
すぐにも消えてしまいそうな、薄いざわめきだった。
Victorは住民代表から要所だけを聞き出すと、余計な会話を挟まず作業へ移る。
どこが危険で、どこから崩れるか。
判断は速く、口数は少ない。
――復旧の現場は、戦場のそれと違う形をした“戦い”だった。
割れた板を運ぶ音。
釘を打つ衝撃音。
抑えた呼吸。
短い呼び声と、それに応じる返事。
笑い声には遠いが、日常へ戻ろうとする“努力の音”が確かにあった。
Victorは借りた道具を手際よく使い、支柱を測り、鋼材を噛み合わせ、固定していく。
金属の軋みと簡潔な指示の言葉だけが、そこに彼がいることを示していた。
すぐそばで、Seleneは黙々と動き続ける。
大人二人がかりでようやく持ち上がるはずの鉄板を、片腕で抱え上げる。
姿勢は崩れず、呼吸も乱れない。
乱暴さとは無縁の、行き届きすぎた動きで運んでいく。
その身体に宿る力は、人間の基準を軽々と踏み越えていた。
周囲の手が一瞬止まる。
「……嘘だろ。」
漏れた声は、驚きとも畏怖ともつかなかった。
Seleneは振り返らない。
ただ場の空気だけは読んでいるかのように、錆びたボルトを押さえ、足場を支え、位置をミリ単位で調整していく。
機械のような正確さと、機械にはない気遣い。
人より静かで、機械より柔らかい。
その“中間”に立つ異質が、存在を主張することなく、集落の重さを淡々と受け止めていた。
やがて周囲の声に、かすかな温度が戻る。
近くで作業していた男が、迷った末に声を掛けた。
「嬢ちゃん……平気なのか? それ、結構重いぞ。」
Seleneは小さく首を傾け、少し考えてから答えた。
「支障ありません。負荷は許容範囲内です。」
「ああ……そうか。なら、任せる。」
言っていることはよく分からなくても、「大丈夫」と言い切られれば、それでいい。
そのくらいには、彼女はすでに“ここにいる者”として受け止められ始めていた。
陰から子どもたちが覗いている。
好奇心と警戒がないまぜになった、まっすぐな視線。
Seleneもそれに気づき、振り返る。
視線が交差した瞬間、子どもたちは慌てて身を隠した。
……けれど、完全には姿を消さない。
陰の向こうから、気配だけが残り続けている。
「……隊長。監視されています。」
Seleneは目線だけでVictorを捉えた。
Victorは手を止めることもなく応じる。
「放っておけ。作業を続行しろ。」
「了解。」
Seleneは再び仕事へ戻る。
足場を押さえる女性の手が震えているのに気づくと、迷わず割って入り、支えを引き受けた。
「こちらで保持します。手を離しても問題ありません。」
平板な声なのに、なぜか耳に柔らかく届く。
女性は驚いたように目を瞬かせ、それから肩の力を抜いた。
「……ありがとう。」
Seleneは一拍置き、ぎこちなく言う。
「任務の一環です。」
少しだけ噛み合っていない言い回し。
だが、そのずれがかえって人の緊張をゆるませる。
作業が進むにつれ、周囲の声に“普通の音色”が戻りはじめた。
「なあ、あの子……何者だ?」
鉄材を運びながら、住民の一人がぼそりと訊く。
Victorは手を止めずに横目だけを投げ、短く返した。
「拾った。」
「……拾った?」
「そうだ。」
それ以上は語らない。
住民は困ったように肩をすくめ、それ以上踏み込んでこなかった。
似たような問いは何度か飛んだが、返ってくる答えはどれも同じだ。
「どこから来たんだ?」
「事情がある。」
「戦えるのか?」
「必要なら。」
その程度で十分だった。
Victorはそういう男で、Seleneはそういう存在なのだ――集落は少しずつそう理解し始めていた。
本来ならあり得ない“異物”が、いつの間にか風景に紛れつつある。
住民たちの胸の奥に、言葉にしづらい温度がゆっくり灯り始めていた。
時間の流れは、音の変化で分かった。
最初は、欠けた部分を埋めようとする切羽詰まった音、次に崩れた形を整え直す慎重な音。
そして今は、失った“当たり前”をつなぎ留めようとする音へと落ち着きつつある。
陽は傾き、影は長く伸びる。
抉られていた外壁は仮設材で塞がれ、折れかけた屋根も応急の支えで何とか耐えていた。
完璧には程遠い。
それでも、“丸裸”の状態からは確実に離れている。
空気が和らぎ、交わされる言葉が増える。
会話の隙間に、小さな笑いが混じり始めた。
井戸のそばで、水を汲む母親と、その隣に立つ少女がいた。
母親は桶の重さを確かめるように腕を伸ばし、少女はその動きを真似しながら覗き込む。
何かを言いかけて飲み込み、母親は少女の頭を軽く撫でた。
少女は気恥ずかしそうに顔をしかめ、母親の影へ身を寄せる。
――こうした光景が、少しずつ戻りつつあった。
生活が“最低限”を取り戻し始めると、心にも余白が生まれる。
陰から覗くだけだった視線が、いつの間にか一歩、二歩と近づいている。
Seleneが近くを通るたびに散っては戻り、その繰り返しで“慣れ”を積み重ねていく。
Seleneはそれをどう扱えばよいのか分からないまま、役割を果たし続けた。
Victorの指示に即応し、鉄骨を支え、角度を修正し、負荷を均す。
長い作業にもかかわらず、息も鼓動も変わらない。
それを見ていた誰かが、何度目とも知れない感嘆を洩らした。
「……ずっとあの調子か。疲れ知らずかよ、あの子。」
Victorは視線を向けずに答える。
「そう造られている。」
納得とも諦めともつかない息が、周囲でいくつか重なった。
やがて陽はさらに傾き、作業は一区切りを迎える。
道具を置く音が増え、人々の肩からようやく力が抜けた。
終わったわけではない。
本格的な復旧にはまだ程遠い。
それでも――「今日はどうにか守り切れた」と言えるだけの現実が、この場所の手の中に戻りつつあった。
応急処置はひと通り済み、これ以上は明日以降の段取りが必要だ――そんな“現実的な線引き”が共有され、集落全体が「今日を終える準備」へ移りかけた、その時だった。
雑然とした作業音の中に、場違いな響きが混じる。
「……あれ? Yuri?」
少し離れた場所で、女性の声がした。
「もう、Yuri。そこで待っててって言ったでしょ、早く戻ってきなさい。」
返事はない。
数秒の間。
声がもう一段強くなる。
「Yuri? 返事しなさい。」
周囲の何人かが顔を上げ、別の誰かが足を止めた。
“終わりの準備”へ流れかけていた空気が、足元をすくわれる。
「Yuri? ……ねえ、どこ?」
今度の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
視線が交錯し、声の周りへ人が集まる。
Victorも気配を捉え、歩を向けた。
輪の中心には、一人の女性。
疲労と不安を顔に乗せたまま周囲を見回し、名前を呼び続けている。
Victorは、無駄な前置きを挟まず口を開いた。
「見失ってから、どれくらい経つ。」
女性がびくりと振り向く。
「……ほんの、少し前までそこにいたの。ここで待ってるように言って……その間に私が道具を片付けて、でも戻ったらいなくて……」
「時間だ。単位で言え。」
乾いた声に、女性は目を閉じて記憶をたぐる。
「……十分も経ってない。五分くらい。そんなに長くはないと思うわ。」
「年と格好。」
「……九歳。肩までの、少し茶色がかった髪。膝丈のスカートで、古いブーツを履いてる……片方だけ色が抜けてて。」
Seleneがいつの間にか隣に並んでいた。
「該当特徴、確認済みです。先ほど井戸付近で視認しました。周囲の作業を観察しながら単独行動する傾向も確認済み。」
近くの住民が目配せを交わし、それぞれ別方向へ散っていく。
「井戸のほう、見てくる!」
「倉庫の裏も当たる!」
「通りの影、子どもが隠れそうな場所を探せ!」
手短なやり取りと足音が、集落のあちこちに広がっていった。
Victorはそれを尻目に、別の“最短手段”を選ぶ。
視線を動かす。
少し離れた場所――固まって不安げに様子を窺う、小さな影たち。
しゃがみもせず、声の調子も変えない。
いつも通りの口調で言った。
「訊きたいことがある。」
しかし、それがかえって"叱責の前触れ"のように響いた。
子どもたちの喉が、一斉に固まる。
誰も逃げはしないが、誰も口を開こうとしない。
先程まで好奇心の塊のようにSeleneを覗き込んでいた面々が、今はすっかり怯えた小動物の顔つきになっていた。
……駄目だな。
短く息をこぼした、その時だった。
「隊長。」
軽い足音とともに、声がかかる。
子どもたちの反応は分かりやすい。
Seleneの姿が視界に入るや、強張っていた肩が少し下がり、視線が上がった。
Victorは言葉にするでもなく状況を理解し、目で指示を飛ばす。
「お前が聞け。俺は外す。」
Seleneは一瞬瞬きし、すぐ頷く。
「了解。」
Victorは距離を取り、子どもたちの輪を離れた。
その背後で、Seleneの落ち着いた声が、水面に広がる波紋のように聞こえ始める。
「――大丈夫。あなたたちを責めるつもりはありません。少し話を聞かせてほしいだけです。」
Victorは振り返らなかった。
ちょうど同じ頃。
内部を探しに散った住民たちが、ぽつりぽつりと戻り始めていた。
戻ってくる顔色はどれも冴えない。
首が横に振られ、「見つからなかった」という言葉が積み重なっていく。
空気が、じわじわと冷えた。
やがて、集落の入り口へ走っていった男の足音が戻ってくる。
肩で荒く息をしながら叫んだ。
「……門は通ってねえ! 見張りも、何も見てないってよ!」
ざわめきが大きくなった。
Victorは男の肩を掴み、要点だけを問う。
「外の見張り。抜ける隙はあるか。」
男の身体が一瞬強張るが、すぐに答える。
「……ある。穴を全部は塞ぎ切れてねえし、ここ数日は補修で人の動きが偏ってる。ずっと誰かの目が届いてた時間のほうが少ねえ。今みたいな時間帯は特に、見張りを張り付かせるのは無理だ……」
「つまり、門を通らず外に出る道は、残ったままということか。」
男は悔しげに唇を噛み、黙って頷く。
ざわめきは、今度は重い沈黙の波へ変わった。
「隊長。」
背後から、再びSeleneの声。
子どもたちの輪から離れ、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
足取りには迷いがなく、答えを握っている者の歩き方だった。
Victorは彼女に向き直る。
「どうだ。」
「子どもたちの証言から判断するに、対象は“東側外壁付近に、以前自分が通った抜け道がある”と認識しており、そこを経由して外へ出た可能性が高いです。また、何かを“探しに行く”意図を示していたとの証言も得ています。」
Victorの目つきが鋭くなる。
「ほぼ確定か。」
「現状での最有力候補です。」
Seleneの報告に、周囲の何人かが息を呑んだ。
「……東か。よりによって、あっちかよ……」
誰かが吐き捨てるように言い、別の誰かが顔をしかめて東へ振り返る。
それは単なる方角の問題ではなさそうだった。
Victorが問う。
「何かあるのか。」
逡巡ののち、先ほどの男が口を開く。
「東は一番壁がやられたとこだ。下手に手を入れると、崩れる方が早え。だから今は仮止めで形だけ保ってる。」
別の男が苦々しく続ける。
「あの先は藪だらけで、足場も見えなけりゃ見通しも利かねえ。見張りを置いたとこでロクに役に立たねえ。だから、あえて誰も付けちゃいない。」
さらに年配の住人が付け足す。
「最奥には廃棄場がある。昔から妙に気味が悪い場所で、良くない噂はいくらでもある。ストームのあとからはなおさらだ。“空気が落ち着かない”と言う者もいる。子どもでも――いや、だからこそ余計に気になったのかもしれんが……」
言葉が途切れ、場が沈む。
陽は傾き、東の影は一層濃くなっていた。
時間をかければかけるほど、見通しは悪くなる。
悠長に構えていられる状況ではないことは、誰の目にも明らかだった。
Victorは短く息を吐く。
「――捜索に向かう。」
その一言で、場に張りが戻る。
母親が顔を上げる。
肩に入りっぱなしだった力は抜けず、別種の緊張がそこへ入り込んだ。
数人の男たちが前に出る。
「俺も行く。」
「俺もだ。放っておけねえよ。」
志願の声が次々と重なる。
しかしVictorは、首を横に振った。
「全員は論外だ。人数を割れば、ここが手薄になる。今の状態でそれをやるのは愚策だ。」
反論は出ない。
“集落を守る”責任は、依然として彼らの肩にある。
Victorの視線が志願者たちを順に撫でる。
「案内役は一人。地形に詳しいこと。……それと、独断で突っ走らないことが条件だ。」
「なら俺が行く。東は昔に何度か通ったことがある。今も同じとは限らねえが、近道と足を取られやすい場所は覚えてる。……それに、あの子の家とは隣同士だ。戻れなきゃ、親に顔向けできねえ。」
Victorは一度、男の目を真っ直ぐ見た。
そこにあるのは勢いでも虚勢でもなく、覚悟と、背負い慣れた責任の色だった。
「条件は変わらない。俺の指示には従えるか。」
「従うとも。」
VictorはSeleneへ視線を移す。
「装備を軽くする。外での活動は、長くて一時間だ。」
「了解。」
Seleneはその場に残り、住民への指示を引き継ぐ。
「内部の見張りは減らさず、東側に近い通りへの出入りを制限してください。……何か変化があれば、門の見張り経由で報告をお願いします。」
Victorは装甲車へ戻り、不要な装備を外していく。
嵩張る装甲板や余分な弾倉を降ろし、動きを邪魔するものを削る。
代わりに、簡易ライトと細いロープだけを腰に固定した。
銃は携行するが、用途は――「最悪への保険」に近い。
「行くぞ。」
東の空はすでに赤が濃く、影が地面を長く引きずっていた。
母親が袖を掴みかけ――寸前で手を止める。
喉が、何かを飲み込むように動き、かろうじて声が絞り出された。
「……お願い。あの子を……」
Victorは振り返らない。
顎をひとつ引き、届く程度の声で応じる。
「できる限りはやる。」
「必ず連れて帰る」とは言わなかった。
それでも、この状況で口にできる精一杯の保証だった。
Victorは前を向く。
案内役の男が先頭に立ち、三人の間合いが自然と狭まる。
東へ進むほどに、周囲の気配が薄れていく。
踏み固められた土は、瓦礫混じりの不安定な足場へと変わった。
東側外縁。
仮止めの鉄板が、冷えた空気の中でかすかに鳴る。
「この先だ。」
案内役の声は低く短い。
Victorは頷き、後方を一度だけ確認する。
集落は距離の向こうで固まり、母親の姿はもう見えなかった。
「Selene。」
呼ばれた名に、少女の視線が少し上がる。
「前方警戒。痕跡を見落とすな。」
「了解。」
三人は壁の裂け目へ身を滑り込ませた。
空気が変わる。
背後の生活音が断ち切られ、森の暗がりが口を開く。
赤い光は既に弱く、影だけが濃くなっていた。
次の瞬間、足音だけを残し、三人の姿は藪の奥へ消えた。
風が枝を擦る音と、遠くで崩れた鉄材が鳴る音だけが続く。
踏みしめるたび、湿り気を帯びた地面が鈍く沈み、その感触が靴底から伝わってきた。
「……この辺りが、廃棄場の外れだ。」
案内役が声を潜める。
呼吸は浅いが、必死に整えようとしているのが背中越しに伝わった。
さらに先へ進む。
朽ちた機械や捨てられた資材が積み上がった“山”が、闇の中から輪郭を現す。
――だが、様子がおかしい。
地面は所々で歪み、隆起し、沈んでいる。
廃材の山も傾き、金属片が不規則に重なり合っていた。
「……前は、こんな風じゃなかった。」
案内役が呟く。
「多分、ストームのせいだ。地面がやられて、ここいら一帯がずっと――」
「待て。」
Victorが片手を上げて遮る。
空気が固まり、三人とも同時に足を止めた。
――何か、聞こえる。
最初は風の音の一部にしか感じなかった。
意識を向けると、輪郭がはっきりしていく。
細く、震えた声。
押し殺した呼吸。
――すすり泣きだ。
しかも、下の方から。
Victorと案内役は、視線を交わしただけで足りた。
近くの亀裂の縁まで身を寄せ、闇の底を覗き込む。
崩れた土砂と折れた鉄材に囲まれた、狭い隙間。
その中で、小さな身体が膝を抱え込んだまま、必死にうずくまっている。
「Yuri!」
案内役が思わず身を乗り出す。
その肩を、Victorの手が押さえた。
「……悪い。」
噛みしめた声で、それだけ絞り出す。
Victorは視線を落とし、即座に判断する。
「Selene。」
「はい。」
「二次崩落の危険度は。」
Seleneは斜面と鉄材、崩落線、荷重のかかり方を一通り見渡した。
「中程度。ただし、介入の余地はあります。」
Victorは短く彼女を見る。
「やれるな。」
「――やります。」
報告の調子を崩さないまま、同時に“意志”を孕んだ答えだった。
ロープを固定する。
金属に通し、地面にアンカーを打つ。
Victorが張り具合を確かめ、案内役が無言でそれを支えた。
「行け。」
Seleneは一切ためらわず身を乗り出し、ロープを伝って下降する。
影が地の底へ吸い込まれていく。
ロープが擦れる音と、砂がぱらぱらと落ちる音だけが耳に残る。
Victorと案内役は周囲に意識を張る。
崩落の兆し、風の向き、わずかな音――全てを拾おうと集中した。
沈黙が、張り詰めた刃のように場を固定する。
やがて、Seleneの足が地面を踏む音がした。
闇の中で、小さな身体が顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、そこに立つ彼女を捉えた。
「……お、お姉ちゃん……?」
声は震え、掠れていた。
Seleneは膝をつき、視線の高さを合わせる。
「もう心配いりません。私につかまってください。」
ためらいが、一瞬だけ。
それから、おそるおそる伸ばされた小さな手。
「う、うん……」
Seleneはその手をしっかり受け止め、抱き寄せる。
身体の位置を調整し、ロープに重心を預けられる体勢を作り直した。
「固定完了。引き上げてください。」
上からロープが引かれ始める。
ゆっくり、慎重に。
暗闇から、二つの影が地上へ持ち上がっていく。
亀裂の縁に戻った瞬間、案内役の男から支えを失ったように力が抜けた。
Victorがロープを外し終えるより早く、男は身を屈めて少女の顔を覗き込む。
「……Yuri!」
少女は弱々しく瞬きを返した。
まだ泣き疲れの呼吸が胸に残っている。
「戻る。」
Victorの短い言葉で、三人は踵を返した。
東の闇から距離が開くごとに、集落の灯りが視界を満たしていく。
母親が駆け寄ってくる。
腕の中に抱き寄せられた途端、Yuriの身体から強張りがほどけるように抜け落ちる。
母親は少女を抱えたまま何度も口を開こうとして、礼の言葉を言葉にならないまま飲み込んだ。
Victorは、軽く頷くだけだ。
少し離れた場所で、Seleneがその様子を見つめていた。
少女と母親の間に流れるものを理解しているのかどうか、その表情からは読みきれない。
ただ、視線だけは揺れずにそこへ向かっていた。
やがてYuriは、母親の腕の中で眠りに落ちた。
泣き疲れと安堵が一度に押し寄せたのだろう。
Victorは周囲を確認する。
見張りは再配置され、最低限の警戒線は整えられていた。
理屈だけで言えば、もうここにいる理由はない。
「やることは終わった。俺たちは――」
踵を返しかけた背中を、声が呼び止める。
「待ってくれ。」
案内役の男が一歩踏み出していた。
「悪いが……今夜だけは、ここにいてくれないか。」
言い終えると、男は息を吐く。
「無理を言ってるのは分かってる。それでも、“もしもの時”に動ける人間が一人でもいるかどうかで、こっちの気持ちがまるで違うんだ。」
周囲の住民たちも、静かに頷く。
言葉にはしないが、その視線が同じ頼みを宿していた。
「悪いが、俺たちにも次がある。ここに留まるわけには――」
「隊長。」
短く割り込む声。
Victorが視線を向けると、Seleneが口を開いた。
「次の依頼地点までの標準移動時間を考慮すると、十七時間の余裕があります。この集落で一泊しても、予定行動には支障が出ません。」
言い方は、いつも通りの事務報告だ。
数秒の沈黙。
Victorは額に手を当て、溜息を漏らした。
「……今晩だけだ。」
その一言で、圧し殺されていた息が一斉に解放される。
胸の奥で固まっていた緊張が、ようやく現実にほぐれていった。
いくつかの灯りが整然と配され、見張りが再配置される。
負担の大きい者から順に休ませ、交代の順番が手短に決められていった。
互いを気遣う声は抑え気味だが、さきほどまでの“極限”とは違う、ささやかな温度が再び戻りつつあった。
夜。
焚き火も灯りも落とされた、見張り台。
背後の集落は息を潜め、東側には闇の海が広がっている。
風が金属を撫で、遠くで鉄板がかすかに鳴いた。
Victorはその闇を睨むように見据えたまま、言葉を選ぶように口を開く。
「なぜ、あんなことを言い出した。」
同じ方向を見張っていたSeleneが、横顔だけを少し傾けた。
責める響きはない。
純粋な確認だった。
Seleneは、事実を並べる調子で答える。
「会話時の判断材料として、“滞在可能時間の有無”という情報は重要だと考えました。必要な情報を提示し、最終決定は隊長に委ねるつもりでした。」
Victorは片眉をわずかに上げる。
「……それだけか。」
「はい。」
一拍置いて、問いが続く。
「だったら、なぜ“提示すべき”だと思った。」
今度は、短い沈黙が挟まる。
言葉を探すように、内部で計算が続いている。
「……理由を、うまく言語化できません。」
Seleneは目だけを東から動かさず、淡々と続けた。
「ここで一泊することが、“望ましい”と感じました。それが私個人の判断なのか、任務効率を優先した結果なのか……分類は、困難です。」
感情という言葉はどこにも出てこない。
ただ、“そう思った”という主体だけが、そこにあった。
しばらく、風の音だけが続いた。
Victorが軽く鼻を鳴らす。
「まあいい。言い出した以上、ちゃんと働け。」
それ以上、理由は追及しなかった。
Seleneはかすかに顎を引いた。
「勿論です。」
それ以上の言葉はいらなかった。
それぞれの役目を果たすだけの、長く静かな夜が続いていった。
夜は何事もなく明けた。
風が吹き、鉄板がときどき鳴り、遠くで野犬が一度吠えただけだ。
やがて空の底が白くほどけ始める。
黒と灰の世界に、少しずつ色が戻っていく。
東の闇が薄れ、集落に、新しい朝が降りてきた。
淡い光が建物の影を細くし、仮補修の鉄板を鈍く照らす。
前夜のような張り詰めた空気は、もうない。
修復すべきものは山ほど残っている。
それでも「今日を迎えた」という事実が、人々の呼吸をいくらか軽くしていた。
戸がいくつか開き始める。
肩を回しながら歩き出す男、工具を抱えて持ち場へ向かう者、寝不足の顔で井戸へ向かう者――張り付いていた緊張が、“生活”という温度に置き換わっていく。
その一角で、見送りの輪が静かに形を取っていた。
装甲車のそばに立つVictorとSeleneを、数人の住民が遠巻きに見ている。
母親が二人の前へ出る。
「本当に……ありがとうございました。」
隣で、Yuriも一歩踏み出す。
まだ眠気を引きずった顔だが、背筋だけは不器用に伸ばしていた。
Yuriは、小さく両手を前に突き出す。
掌の上に載っていたのは、傷だらけで、縁の欠けた懐中時計。
蓋の蝶番も歪みかけている。
「……これ。お姉ちゃんに、あげる。」
Seleneが瞬きをする。
母親が、少し照れたように、けれど誇らしげに微笑んだ。
「……この子、私に渡すものを探してあそこまで行ったみたいで。」
Yuriは拳をいったん握りしめ、それから言葉をはっきりさせるように、もう一歩前へ出る。
「これは……お姉ちゃんの。助けてくれて、ありがとう。」
Seleneは掌に乗った時計を見つめ、それから、横へ視線を流す。
Victorを見る。
どうするべきか――。
Victorは少女とSeleneを順に見比べ、ひとつ息を吐いた。
「もらっておけ。」
Seleneは数秒の逡巡を経て、慎重すぎるほど丁寧な手つきで時計を受け取る。
「……確かに、受領しました。」
いつも通りの事務的な響きだが、その硬さは幾分やわらいでいた。
そして、短く続ける。
「ありがとうございます。」
Yuriの顔がぱっと明るくなり、母親は深く頭を下げた。
その様子を見守っていた住民たちも、安堵と、感謝と、少しの温かさを混ぜた視線を送る。
案内役の男が前に出る。
「また来てくれ。いつだって歓迎する。……あんたらみたいな連中なら、なおさらな。」
周囲の住民も、今度は力強く頷いた。
「用ができたら、だ。」
Victorの返答は相変わらず素っ気ない。
だが、完全な拒絶でもない。
Seleneは、わずかに頭を下げて母子へ向き直る。
「ご無事で。」
それだけ言うと、二人は装甲車へ向かった。
エンジンが低く唸り、車体がゆっくりと動き出す。
外壁の切れ目が遠ざかり、人影は次第に小さくなる。
最後まで手を振っていた子どもの姿も、やがて風景に溶けた。
この場所は、同じ日常を抱えたまま、また今日を生きていく。
彼らはその内のたった一日を、たまたま隣で支えただけ――それだけの話だ。
車内。
走行音が、一定のリズムで響いている。
Seleneは助手席に座り、膝の上で手を重ねていた。
その掌の中――あの懐中時計が、布に包むように大事に収められている。
彼女は、それをじっと見つめている。
表情は淡いが、“対象を観察している”だけではない、どこか手放しがたい色が宿っていた。
Victorは、それを横目で確かめるにとどめる。
あとは前を向き、ハンドルを握り直した。
装甲車は荒地を抜け、次の地平線へと滑っていく。
――その日を境に、Seleneの日課がひとつ増えた。
待機時間や夜番の合間、彼女は必ず懐中時計を取り出す。
布で汚れを拭き、歪みを確かめ、内部に油が回っているかまで点検する。
それは任務でも義務でもない。
ただそうしていたいから続けている、彼女自身が選んだ“個人的な作業”だった。
[2065-02-21-05:42]
区分:任務
状況:依頼任務「集落復興支援」完了
依頼人:現地住民(組合経由)
経過:2065-02-20~2065-02-21
12:10 対象集落到着ののち住民代表と状況確認
12:25 作業開始
17:20 作業終了準備へ移行中、未成年者(Yuri)逸走の申告
17:33 捜索隊編成(当方2+案内役1)
17:41 東側外縁より集落外へ進出
18:14 対象救出完了、集落へ帰投
18:31 集落帰着、対象を保護者へ引き渡し確認
18:40 住民より滞在要請。Seleneの提示につき、一泊を許容
21:10 夜間警戒
04:50 出発準備
05:00 現地離脱
結果:報酬受領済
損耗:なし
備考:予定外行動として一泊滞在(行程余裕内)。Selene、住民より懐中時計を受領(個人保持継続)。復興支援は「防壁連続性の回復」「崩落部の仮固定」を優先し、短時間で最低限の防御機能を確保。逸走事案ではSeleneの聞き取りが情報取得に有効(当方単独では委縮反応を誘発)。今後同様事案に備え、ロープ・ライト携行を標準化候補。
はい。この、話ごとの文量のムラ、どうにかできないものですかね。
今回は戦闘のない話でしたが、戦闘無しで事件起こすのってクッソ難しいんだなと感じましたね。
まあ戦闘あったらあったで別の難しさが張り付いてくるものですが。
そういえば、部屋に籠っているあいだにクリスマスが来て終わってました。
今やゲームのイベントでしか季節の節目に気づくことができないという......悲しいね。悲しいのか?
まあまだ新年も残ってますから、どうかみなさんも良いお年を。