Mercs' Frontline   作:発伝記

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第14話 2月26日

地形図にもろくに記されていないような一角に、巨大な裂け目が、地表をえぐり取ったまま放置されたように走っていた。

 

かつて露天掘りの岩塩鉱山として稼働していた場所だ。

 

外縁は幾度もの採掘で抉られ、今では荒涼とした段丘のように層を成し、むき出しの白灰色が褐色の荒地と不自然に溶け合っている。

坑道は側面に幾つも穿たれているが、その多くは時間と崩壊に飲み込まれ塞がれていた。

 

一方、塞がれずに残ったいくつかの横穴からは、湿った空気と、甘ったるい腐敗の匂いが地表へ漏れ出している。

 

近隣の住人によれば、この鉱山は今やE.L.I.Dsの溜まり場になっている。

普段は外に出ることは少なかったが、ここ最近で個体数が増えたのか、付近の道へと這い出す影が確認されるようになったという。

 

依頼は単純だった――ここを通る時に“運次第”にならない程度に、個体数を減らしておくこと。

 

旧鉱山入口のゲート脇に装甲車を停め、二人はゆっくりと車を降りた。

 

吹き抜ける風は塩を含んでざらつき、舌先に淡い苦味を残す。

見上げれば、かつてクレーンや掘削機が据えられていた鉄骨の残骸が風に軋み、黒い影を地表に落としていた。

 

Victorはその場で、古びた地図を広げる。

 

渡されたのは旧時代の採掘計画図。

坑道の分岐は細かく描かれているが、風化や崩落によってか、目前の現実とは既に大きく乖離していた。

遠目に観察するだけでも、地図に記載されていない新しい穴、逆に記載された坑道が塞がれている箇所がそこかしこに見受けられる。

 

「……参考程度だな。」

 

呟き、地図を折り畳む。

 

「上から反時計回りで、順に横穴を潰していく。時間はかかるが、確実だ。」

 

隣でSeleneが小さく頷いた。

Victorは視線を彼女に移し、言葉を重ねる。

 

「長丁場になる。方針は温存。要所で休憩を挟む。……交戦時は、俺が“下がれ”と言ったら下がって冷却に集中しろ。」

「了解。」

 

それだけで行程は決まった。

装甲車の影を背に、二人は坑道の縁を回り込み始めた。

 

 

 

 

 

はじめは露天掘りの外縁をなぞるように薄く散在する横穴を、反時計回りに淡々と潰していく。

露天掘りの外縁は日光に晒され、白い岩肌が痛いほど明るい。

 

だが、ひとたび坑口を潜れば、世界はまるごと様相を変えた。

 

光は薄れ、代わりに壁に貼りついた湿気の膜が鈍い艶を返す。

空気はどこか停滞しており、肌にまとわりつく湿り気と、鼻を刺す塩の匂いが混じり合っていた。

外界では絶えず吹いていた風も、ここでは遮られ、代わりに淀んだ吐息のような空気が漂う。

 

足を進めるたび、岩塩を削った壁面が低く軋む。

崩落の名残か、砕けた岩塊が床に散らばり、踏みしめる靴底から鈍い音が響いた。

奥からは不規則に水滴が落ちる音が反響し、それが静寂をより際立たせている。

 

やがて通路の奥で、影がわずかに蠢いた。

Seleneは即座に銃口を持ち上げる。

動作は淀みなく、体重移動は最小限。

 

彼女の照準が一点に収束し、それとほとんど同時にVictorが壁際に寄ってスペースを空ける。

言葉はない。

それでも、どちらが前に出るかは既に決まっていた。

 

最初の銃声が坑道にこだました。

 

乾いた破裂音が反響して幾重にも重なり、まるで別の場所からも撃ち返されているかのように錯覚させる。

閃光が白灰色の壁に踊り、影は瞬く間に穿たれて崩れ落ちる。

腐敗した肉と塩が混じった匂いが一気に溢れ、嗅ぎ慣れぬ不快さを放った。

 

最初に倒れたE.L.I.Dは、まだ「人の形」をかろうじて保っていた。

だらりと垂れた腕、爛れた皮膚、異様に膨らんだ片側の肩。

 

「……次だ。」

 

Victorは一瞥だけで判別し、身を少し横に退く。

そのままSeleneを前へと促すように視線を送り、Seleneは合図を受け取って足音を殺しながら先行した。

 

いくつかの横穴を処理した頃には、二人の動きは完全に“手順”として固まっていた。

 

Seleneが先行し、最初の反応を拾う。

E.L.I.Dsの影が動いた瞬間、彼女の射線がそこへ滑り込み、その周辺に交差する射線を作る位置へ、Victorが自然と回り込む。

 

「左奥、二体。」

 

報告は最小限。

Victorは頷きもせず、指定された方向に銃口を向ける。

Seleneが最初の一体を膝から崩し、咄嗟に飛び退いた二体目の頭部を、Victorの連射が斜めから貫いた。

 

二人の射線は重なりすぎることも、妙な隙間を残すこともない。

互いに“空いている穴”だけを無駄なく埋めていく。

以前から明確にしていた方針が、そのまま身体に染み込み始めていた。

 

徐々に、E.L.I.Dsの数は増えた。

外縁から離れ、二層目、三層目と降りていくにつれ、影は濃くなる。

中には骨が露出し、四つん這いでしか進めないものもいたが、まだどれも「元は人間だった」と推定可能な範囲だった。

 

「二分経過。コア温度。」

 

Victorが問いかける前に、Seleneが数字を返す。

 

「六十八パーセント。限界域まで、残り六十秒」

 

Victorは口を噤んだまま、足元の岩塊を踏み越える。

少しだけ位置を入れ替え、彼が前に出た。

 

「……交代だ。」

 

言い終える前に、Seleneは半歩引き、膝をついた。

肩口からじわりと熱が漏れ、内部で冷却処理が優先順位を上げる。

 

その隙を覆うように、Victorは前線を塞いだ。

短い連射で先頭を断ち、後続の流れを削る。

迫ってくる影の足元を的確に狙い、転倒させ、その頭部を踏み潰すように撃ち抜いた。

 

足場は塩粉と体液で滑りやすくなっていたが、彼の足は一度も取られない。

銃口もぶれない。

その動きには、かつて別の戦場で何度も繰り返した“仕事”の癖が濃く残っていた。

 

数分。

 

Seleneの冷却が終わる頃には、手前の通路はほぼ静まり返っていた。

彼女はすっと立ち上がる。

 

「冷却完了。出ます。」

 

Victorは呼吸を乱さないまま、背中越しに頷く。

 

合図はそれだけだった。

しかし、Seleneには十分だった。

 

 

 

 

 

坑道をいくつか制圧したのち、二人はいったん入口近くまで引き返し、崩落の少ない壁際を選んで短い休憩に入った。

休憩は短くても念入りだ。

 

Victorはまず周囲を一巡し、崩落の兆候と反応を確認する。

問題なしと判断すると、Seleneの前に戻り、腰の水筒を外した。

 

「冷却に使え。」

 

無駄のない手つきで差し出す。

Seleneは一瞬だけ視線を落とし、それから水筒を受け取った。

 

「ありがとうございます。」

 

蓋を外し、ゆっくりと喉へ水を流し込む。

 

飲むという動作自体は、どこまでも自然で、人間そのものだ。

しかし、その水は内部で別の役割を担っていた。

体内で分配され、冷却と循環の一部として組み込まれていく。

 

飲み切ると、Seleneは膝をつき、姿勢を落ち着けた。

外見上は、疲れを整えている兵士と大して変わらない。

ただ、皮膚に残っていた熱が引き、目の奥の揺らぎが消えていく。

 

Victorはそれを確認すると、水筒を受け取り、今度は膝に地図を広げた。

古い計画図の線を無視し、実地で得た情報を優先して書き足していく。

頭の中では、次の侵入経路と退路の組み合わせが静かに並び替えられていた。

 

Seleneはその間、内部診断を走らせ、演算負荷を整え、細部のズレを丁寧に修正していく。

 

やがて、彼女が顔を上げた。

 

「コア温度、現在下降中。継戦余力は十分です」

 

冷ややかに告げられる数値に、Victorは軽く頷いた。

さらに視線を細め、彼女の膝や肩の動きに歪みがないか確かめる。

 

「可動域の異常は。」

「検出されません。演算遅延も許容範囲内です。」

 

Victorは短く息を吐き、背を壁に預け直した。

 

「……ならいい。」

 

会話はそれで途切れる。

 

Seleneは銃を膝に置く角度をわずかに変え、肩の力を落とす。

視線を一度だけ足元へ落としてから、Victorと同じ壁に背を預け直し、呼吸の間合いをそっと合わせた。

 

坑口近くの乾いた風が、塩気と鉄の匂いを運ぶ。

見上げれば、漂白された布切れのような空が細く覗いている。

その下で二人は、言葉を立てぬまま、束の間の静けさを共有した。

 

十分ほど経過したところで、Victorは立ち上がり、銃を持ち直す。

 

「行くぞ。」

 

Seleneは即座に頷き、冷却の完了をひとつ確認してから彼に続いた。

 

 

 

 

 

上層に広がる坑道は比較的浅く、E.L.I.Dsの群れも小規模で、狭い通路が自然の膠着点となるおかげで戦闘は安定していた。

二人の進軍は着実に弧を描きながら、外縁を下っていく。

 

層を降りていくにつれ、景色はじわじわと別物に変わっていく。

 

地図にない未知の横穴の数は、増す一方だ。

その先は、外界から切り離されるように変質している。

光は届かず、音すら壁に吸われ、異様な静寂が空間を支配していた。

 

壁は白い岩塩から、黒ずんだ汚れと粘液の膜に覆われた色調へと変わり、通路の輪郭をぼやけさせる。

鼻を突く腐敗臭は濃くなり、喉の奥にまとわりつく湿り気と混じって重く沈んだ。

 

Seleneのセンサーが、頻繁に警告を発し始める。

微弱な熱源、空気の流れの不規則性、揮発性成分の濃度変化。

Victorはその度に眉を寄せ、軸足を変え、進路を慎重に選んだ。

 

この時点で古い地図はほとんど役に立たなかったが、SeleneのスキャンとVictorの判断を組み合わせれば、まだ“死地”ではなかった。

 

しかし、さらに進んだあたりから、様子ははっきりとおかしなものへと変わった。

 

壁の影から這い出してくるE.L.I.Dsはもはや、“崩壊した人間”の延長線だけでは説明がつかない。

 

腕が四本に増え、体幹の重心が前へ落ちているもの。

逆に腕が退化し、背骨の棘を床に突き立てて進むもの。

あるいは、動きそのものが“人”の歩行から外れ、犬や獣のそれに近づいているもの。

 

Victorは一瞬だけ顔をしかめた。

 

――見覚えがある兆候だった。

 

ごく稀に、軍時代にもこうした“ヒトの枠から外れた崩壊”を見たことがある。

症例として記録上は存在する。

そういったものは、決まって何かしら“良くないこと”の前兆だった。

 

前線管理班の連中でさえ露骨に顔色を悪くし、誰もが口には出さなくとも、「長居したくない場所」と理解する類の現場。

 

依頼はあくまで「数を減らすこと」だ。

この先は必須ではないし、下手に首を突っ込めば、余計な責任を負う羽目にもなる。

普通ならここで引き返す。

 

――だが、それでも。

 

だからこそ、今のうちに進むべきだと、経験が告げていた。

こうした異常は、放置すれば必ず悪化する。

増長する前に、徹底的に叩き潰さなければならない。

“芽”の段階で、まだ手が届くうちに。

 

Victorは息を整え、隣のSeleneへ視線を送った。

 

「……目標を更新する。“間引き”で済ませるのはやめだ。可能な範囲で、徹底的に掃討する。」

 

Seleneはほんの一拍だけ間を置き、静かに頷いた。

 

「了解。」

 

それ以上の言葉は必要なかった。

以降、二人は余計なやり取りを挟まず、計画に従って淡々と坑道を削いでいく。

 

一つ潰し、確認し、前へ進む――その繰り返しが、やがて時間そのものを磨り減らしていった。

 

 

 

 

 

開始から数時間。

段丘をなぞるように横穴を潰し続け、いくつもの層を降りてきた二人の前に、「異形の坩堝」 としか言いようのない景色が現れた。

 

裂けた岩盤の奥に、黒くえぐれた横穴。

そこから吹き出す空気は、これまでの湿り気とはまるで質が違う。

塩気と腐敗臭に加え、濃い鉄錆の匂いが混じり、喉の奥を灼いた。

空気は淀み、微かな“熱”を持っている。

 

Victorは立ち止まり、目を細める。

 

「……この先が、本丸だな。」

 

声は低く唸り、足元の塩粉が小さく鳴った。

 

Seleneは一瞬だけ足を止め、音と視界の感度を上げた。

闇の奥で、擦れる音と、にじむような温度の輪郭が重なり合っていく。

 

「奥に複数の反応。……増加傾向です。」

「……“増加”だと? 集まっているということか?」

 

Seleneは、視線を動かさぬまま演算を続ける。

 

「いえ。新たな反応が途中から“湧くように”出現しています。移動体のみでは説明困難です。」

 

舌打ちを飲み込み、Victorは構え直す。

 

「……進むぞ。」

 

警戒を最大限に引き上げ、二人は横穴へ踏み込んだ。

 

内部は、もはや鉱山の面影を留めていなかった。

地面も壁も天井も、一面が粘性の高い黒い膜に覆われ、岩塩の白灰はほとんど見えない。

滴り落ちる液が糸のように垂れ、ときおり粘ついた塊が床へ落ちる。

 

その奥で、輪郭だけがぼやけた“存在”が蠢いている。

 

影が押し出される。

最初は、何かが這い出してくるだけに見えた。

だが違った。

 

――それは、“産み落とされていた”。

 

粘液に包まれた塊が内側から押し破られ、未成熟な肢体が床へ落ちる。

まだ形の定まらない肉塊が揺れ、その数拍後には、動く。

呼吸とは似ても似つかない震えが表層を走り、筋肉とは違う何かが作動し、やがてE.L.I.Dsとして“成立”した。

 

生まれているというより、「何か別のモノが、肉の形を借りて現れている」と形容した方が近かった。

 

「……これは……」

 

Victorの喉が、ひとつ鳴る。

 

「……生成過程と推測されます。」

 

Seleneの声は淡々としているが、その言葉が意味するものは重すぎた。

理解できないものが、理解できない形のまま、ただ目の前に“存在”している。

 

そして――溢れる。

壁面の巣穴から、次々と、粘液の胎から押し出されるように。

数体が床へ落ち、震え、立ち上がり、動き出し、こちらを捉える。

 

Seleneの銃口が吠えた。

それが合図となり、Victorも射線を重ねる。

 

銃火は薙ぎ倒す。

数を削る。

確かに倒している。

 

しかし、撃ち倒した瞬間には、別の個体が既に床を這い出していた。

間に合わない。

削る端から、生産される。

 

Seleneの照準は狂わない。

射撃は正確で、致命は外さない。

それでも数は減らない。

処理速度より、増殖速度の方が速い。

 

排熱値が急速に跳ね上がる。

人工皮膚越しに、明確な熱が走る。

 

Victorは、唇の裏で息を噛み殺した。

ただ撃っているだけでは、いずれ押し潰される。

「数を減らす」という依頼の範疇を、とっくに超えていた。

 

彼は壁際に身を寄せ、射線を維持したまま、視線だけを天井へ送る。

岩塩と粘液の層。

その裏に残った古い支保工の影。

長年の採掘と崩落が作ったひびは、“ちょうどいい”位置で広がっていた。

 

「上……」

 

言いかけた瞬間、Seleneが同じ結論へ辿り着く。

 

「天井に複数の亀裂。崩落誘発、可能です。」

「リスクは。」

「半径四十五〜五十メートル以内は危険域。後退すれば回避可能。爆発性ガス・高拡散毒性なし。」

 

短い沈黙が、数拍以上の重みを持って坑内に沈んだ。

 

銃声が空気を裂き、粘液が弾ける音が続く。

その合間に、床を叩く“生まれたて”の肉塊の湿った音が挟まる。

生産と殲滅が同時に続き、その均衡は確実にこちらの消耗だけを積み上げていた。

 

Seleneの視線が、Victorへ向く。

迷いはない。

判断を委ねているのではない。

すでに結論は出ている。

あとは、“実行していいか”どうかだけ。

 

――やるしかない。

 

「……採用だ。」

 

低く、短く。

揺らぎはなかった。

 

Seleneの虹彩が即座に収束する。

 

「了解。崩落誘発手順に移行します。射線、確保。」

 

言葉と同時に銃口が跳ね上がる。

照準はE.L.I.Dsではなく、“天井”へ。

 

瞬間、前方の火線が一本消えた。

それだけで、圧力の質が変わる。

これまで二人で均等に押し返していた波が、堰を失った水のように一方に雪崩れ込む。

 

その穴を埋めるのは、Victorしかいない。

 

銃口を振るたび、弾丸が骨と粘液を砕く。

一体を倒せば、間を待たず次が突っ込んでくる。

足場は悪く、粘液は滑る。

引き金が軽くなるたび、残弾数が脳裏の隅で冷たく減っていく。

 

Seleneの射撃が天井を裂いた。

閃光、炸裂、崩落の予兆。

だが、それはまだ“途中”だ。

 

Victorは壁際を滑るように動きながら射撃を続ける。

距離を詰めてくる個体を優先して撃ち落とし、跳躍しようとする影には腰を、後方へ回り込もうとした姿勢には脚を――ただ削ぎ、止め、塞ぐ。

 

それでもじわじわと圧が増す。

Seleneが天井を撃ち抜くたび、前方を抑える火線は細っていく。

銃声が呼吸の代わりになる。

それを止めた瞬間、そのまま飲み込まれる未来が容易に想像できた。

 

――まだか。

 

言葉にはならない。

口に出せば、焦りになる。

だから喉の奥に貼り付けたまま、その代わりに引き金へ力を込め続ける。

 

背後で、また天井が裂ける音。

Seleneの照準は微塵もぶれない。

天井を撃ち続けるその姿は、

完全にこちらへ背を預けていた。

 

来る影を撃ち捨てる。

靴底を通して、崩落の振動が伝わってくる。

 

Victorは歯を食いしばり、もう一歩踏み込み、射線を無理やり押し広げる。

視界が一瞬、“押し返せた”という錯覚を見せる。

だがそれは、ほんの刹那だけの嘘だ。

 

波はすぐさま盛り返し、削いだ空間を測るように、別の影が流れ込んでくる。

銃口を振るたび、弾倉が軽くなっていく感触だけが現実だった。

 

――限界が近い。

 

肩口を掠める爪。

跳躍音。

粘液を踏み潰す滑音。

半瞬ごとに“死”の気配が近づく。

 

背後から、Seleneの声。

 

「――準備、完了。崩落誘発、臨界に到達。」

 

同時に、Victorの指先に“空虚”な手応えが走った。

ボルトの動きがわずかに軽くなる。

弾倉が尽きる。

 

舌打ちを飲み込み、最短の判断へ切り替える。

 

「退くぞ! 安全圏まで後退だ!」

 

叫びと同時に、Victorは素早く身を引きながら弾倉を取り出す。

そのわずかな隙を、Seleneが寸分の狂いもなく埋める。

 

金属が噛み合う短い音。

ボルトが前進する。

 

すぐに前へ戻る。

Seleneもそれに合わせて一歩退き、再び二人の火線が並んだ。

 

撃ち、退き、撃ち、退く。

互いの射線が重ならないよう、寸分の誤差も許されない歩調で下がっていく。

E.L.I.Dsの波は寄せては返し、倒した分だけ補充され続ける。

だが、今だけは二人の火線が、その勢いを押し留めている。

 

Seleneの照準は正確だった。

射撃も乱れない。

 

だが、その合間に、ほんの僅かな“間”が生まれ始める。

排熱が臨界に近づいている兆候だ。

人工皮膚は熱を帯び、脚の動きに微かな重さが宿る。

 

それでも、彼女は止まらなかった。

撃つ。

また撃つ。

退路を守るように、Victorの横で火線を繋ぎ続ける。

 

Seleneの足取りが、徐々に遅れる。

肩が揺れる。

呼気にも似た熱が、彼女の喉奥から漏れる。

 

「Selene、下がれ!」

 

Victorが叫ぶ。

Seleneは応じようとする。

 

「……問題ありません。退避行動を――」

 

言葉より、身体が先に限界を告げた。

膝が、かくんと沈み込む。

関節が悲鳴を上げるでもなく、“命令に従うための身体そのもの”が、その役割を拒否した。

 

その瞬間、E.L.I.Dsの波が“近づいた”。

 

迷う余地は一切なかった。

Victorが踏み込む。

Seleneの腕を掴み、一気に肩へ担ぎ上げる。

 

「隊長――」

 

否定も抗議も、最後まで続かなかった。

その代わりに、彼女はしっかり銃を抱え直す。

 

Victorは全力で走る。

撃つ暇などない。

一瞬でも脚を止めれば、そのまま飲まれる。

 

足場は最悪だ。

粘液は滑る。

瓦礫は不安定。

それでも、止まれない。

 

背後でE.L.I.Dsが雪崩れる音。

息が焼ける。

肺が軋む。

 

Seleneは振り返っていた。

担がれたまま、身体を固定し、銃口だけを天井へ――崩落を誘発する“最後の一点”。

そこへ照準を合わせる。

 

「――射線、確保。」

「やれッ!!」

 

榴弾が放たれる。

榴弾は天井の亀裂の“芯”にめり込み、そこでようやく積み重なっていたひびが一本に繋がった。

天井が裂け、坑道が悲鳴を上げる。

 

そして――崩落が始まった。

 

裂け目から一斉に悲鳴が噴き出したような轟音が坑道を満たし、大地そのものが呻くように揺れる。

頭上を埋め尽くす岩塩と粘液と、無数の「何か」が混ざり合い、押し潰される音と、裂ける音、肉の水分が弾ける湿り気を帯びた破裂音が重なって、衝撃そのものが一つの塊として背中を殴りつける。

 

風圧が襲い、砂塵が肺に入り込みそうになる。

それでも、Victorは振り返らない。

ただ走る。

走るしかない。

 

視界の端で、坑道の影が歪み、灯りが揺れ、音が一瞬だけ遠ざかって、次の瞬間、耳を破るほどの爆ぜる振動に引き戻される。

 

崩落は続く。

波のように、遅れて、また落ちる。

背後で世界が何度も「終わって」いく。

 

――間に合え。

 

それだけを胸に貼り付けて、足を止めない。

 

やがて、圧力が落ちた。

背中を叩く空気の重さが、ほんの少しだけ軽くなる。

 

安全圏。

 

Victorは足を止め、ようやく振り返った。

 

坑道の奥は、もはや「地形」ではなかった。

瓦礫と粘液と血膿じみた液体が一つの塊となって堆積し、黒く濡れた岩塩の断片が突き立つ。

そこかしこでまだ潰しきれなかった肉塊が、痙攣するように、断続的に、蠢いていた。

 

“生きている”というにはあまりにも不完全で、“死んでいる”というには、あまりにも執拗すぎた。

 

崩落に巻き込まれ、半身だけが露出し、もはや形を保てないE.L.I.Dsが、音とも呼べない震えを吐きながら、壁を引っ掻く。

 

Victorは、肩からSeleneを降ろす。

彼女は沈黙のまま立ち、機能の復旧に最低限の処理を割きながら、ただその光景を見ていた。

 

Victorは黙って銃を上げる。

残党を探す。

動く影、震える肉塊、まだ“芽”の段階にあるものまで、例外なく、一つずつ撃ち抜く。

 

銃声が止む頃には、音は瓦礫の滴る粘液の音と、落ち着き切らない崩落の名残だけになっていた。

しかし、ここまで徹底的に“終わった”はずの光景を前にしても、まだどこかで“動くかもしれない”と疑わずにはいられない。

 

Victorは銃を下げ、周囲に視線を巡らせ──呼吸が、一拍遅れた。

粘液と体液が混じって岩塩の谷間に溜まり、小さな泡を吐いている。

それは、敵味方の別とは無関係に、戦場が必ず置き土産として残していく“惨状”と同じだった。

 

肩の古傷が、唐突に疼く。

焼けるような鈍痛が皮膚の裏側からせり上がり、忘れていたはずの“あの瞬間”の衝撃だけが、鮮明に身体へ戻ってくる。

思わず顔を歪めた。

 

「……隊長?」

 

Seleneが横で、彼を見ていた。

Victorは、深く息を吸い込む。

塩と腐臭と鉄錆の匂いが肺を満たし、現実が、また重く戻ってくる。

 

「……終わりだ。撤収する。」

 

短く、それだけ告げる。

Seleneは、無言で頷いた。

 

坑道の奥では崩落の名残がまだ遅れて落ち、瓦礫の山がわずかに息をしているように揺れていた。

そして二人は、背を向けた。

 

 

 

 

 

出口へ向けて歩くあいだ、言葉はほとんどなかった。

崩落の余韻がまだ背後でくすぶり続け、湿った空気が喉の奥に重く張り付く。

 

外気がわずかに近づいたと感じたところで、Victorはふと横を見やる。

排熱処理も落ち着き、歩調は安定している。

 

――ここまでの局面を凌げたのは、紛れもなく彼女の働きがあったからだ。

 

「……よくやった。」

 

言葉と同時に、Victorの手が自然に伸びた。

気づけば、Seleneの肩へ置かれている。

かつて戦場で仲間を労うとき、無意識に繰り返していた仕草だった。

 

一拍遅れて、Victorは自分の動きに気づく。

眉が寄り、手を離そうとした――だが、その前にSeleneの表情が目に入った。

 

彼女の顔は、いつも通り落ち着いている。

だが確かに、冷たい演算に縛られたはずの表情の奥に、薄いながらも“誇らしさ”が宿っていた。

 

Victorは、肩に置いた手を完全には引かなかった。

代わりに、短く息を吐く。

 

失われたものの影を追っているわけでもない。

誰かの代わりとして掴んでいるわけでもない。

 

それだけで十分だと、心のどこかが静かに認めていた。

 

 

 

 

 

[2065-02-26-17:00]

区分:任務

状況:依頼任務「旧岩塩鉱山E.L.I.Ds間引き→掃討」完了

依頼人:近隣居住区代表(組合経由)

経過:2065-02-26

11:16 現地到着、車両を旧ゲート脇へ停止

11:35 行動指針確認ののち坑内進入開始(外縁横穴の順次制圧)

11:41 坑内初接触(小規模)

11:47 侵入後、順次交戦継続

13:02 坑口寄りへ一時後退、短時間休憩・再補給

13:17 行動再開、下層へ進入継続

13:45 現場判断:任務到達目標を「間引き」から「可能な範囲で掃討」へ更新

14:23 深部横穴へ進入

14:26 “生成過程”と推測される現象を視認(個体が産出され継続的に増加)

14:31 崩落誘発案を採用。危険域半径45~50mを想定して後退計画を策定

14:34 坑道深部崩落開始、安全圏へ退避

14:51 崩落域周辺の残存個体・半壊個体の殲滅を実施。動態反応の消失を確認

15:10 坑道から撤収開始、上層を経て出口へ復帰

15:40 車両へ帰投、装備点検・弾薬残数整理

16:03 報告完了

結果:報酬受領済

損耗:軽度

弾薬消費:大

Selene:一時コア温度限界域到達(機能障害なし)

備考:E.L.I.Ds推定40体以上(うち非人型形態の異常個体、複数)。現場判断により任務到達目標を「間引き」から「掃討」へ変更。異常個体については現段階で継続調査予定なし(将来的なE.L.I.Ds事案整理の際、野外異常事例として参照予定)。

 

 

 

 

 




はい。もともと草案時点でストックとしてあった話なので、かなりの内容変更はありましたが、意外とすんなりできました。
逆に以降の話は、大筋の構想としてはありながらも明確なストックが一切ないので、ちょっと時間かかるかもしれませんね。
次話の方針も地味に変更したばかりなので、まあそれについてはまた次話を上げたときにということで。
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