薄暗く、乾ききった空気が部屋の隅に溜まり、肌の上をじわじわと這う。
制服を脱いだ肩に、まだ治りきらぬ鈍痛が走り、爆発で裂けた皮膚の縫い跡がきしむ。
部屋に窓はなく、黄ばんだ蛍光灯の光が机上の紙だけを浮かび上がらせていた。
書類の一番右上には、太字で「軍籍解除」の文字。
そして中央に自分の名――Victor Rowen。
その下には、かつて誇りだった階級と所属部隊名が、太い黒線で無残に塗り潰されている。
「ここにサインをお願いします。」
低く、無感情な声。
机の向こうの監察官は、事務用のペンを指先で転がし、紙の一角を無造作に押さえていた。
その視線はVictorを見ず、端末の画面の光だけを反射している。
「あなたの部隊識別番号と階級は、この瞬間から無効です。」
言葉は、壁に貼られた古びた規定文のように淡々と響く。
処分は最初から決まっていた。
あとは形式が追いつくだけだった。
降格通知を受け取った時点では、せめて部隊の名誉を守れるだけの時間はあるだろうと思っていた。
だが今残っているのは敗北の痛みと、この紙切れに書かれた無機質な文言だけだ。
Victorは無言でペンを取った。
金属製のクリップがわずかに鳴る。
ペン先が紙に触れる瞬間、握る指先が微かに震えた。
それが痛みのせいなのか、ここに名を刻む最後の行為だからなのか、自分でも判別はできない。
震えは一呼吸の間に消え、インクが白い紙の上に細く流れていく。
サインを終えると、彼は静かにペンを置いた。
監察官はそれを無表情で受け取り、ページを整え、端末に視線を落としながら続ける。
「装備および支給品は、既にすべて回収済みですね?」
短い問い。
Victorは一瞬だけ間を置き、視線を机の上から逸らさずに答える。
「ああ。」
「民間払い下げ品として購入を希望する場合は、このリストに目を通してください。」
差し出された薄いパンフレットには、軍で使い古された装備や、塗装の剥げた車両の写真が無秩序に並んでいた。
ページの端は手触りの悪いコート紙で、指先に冷たい感触だけを残す。
Victorは軽く頷いたが、その紙を開くことはなかった。
「以上です。ご苦労様でした、Victor Rowen”元准尉”。」
監察官は感情の欠片もなく言い放った。
それは名前の上に二重線を引くだけの処理のようだった。
そして一拍も置かず、再び手元の端末に視線を戻す。
その瞬間から自分という存在が、“閲覧権限の失効した記録”のように扱われる。
Victorは椅子を引き、わずかな音を立てて立ち上がった。
返すべき礼も、受け取るべき言葉も、もう無い。
無言のまま、扉へ向かう。
ドアノブの冷たさが手に触れ、外の空気が細く流れ込む。
そのわずかな風にすら、室内の乾いた空気は押し出され、背後で音もなく溶けていった。
軍の施設を出た瞬間、視界が一気に開けた。
青白く濁った曇天の下、都市の大通りは整然としていた。
兵士たちは一糸乱れぬ行進を続け、車両は寸分違わぬ速度で流れている。
誰もが規律を誇示するかのように振る舞い、表層だけでも秩序の体裁が保たれていた。
今の自分は、そこには属さない。
その光景はこれまでとはまるで別物に見えた。
自分が去ったところで、歯車は何事もなく回り続ける。
そこに空いた穴が小さすぎて、最初から存在などしていなかったかのようだ。
胸元に触れると、かつてそこにあった金属の重みはもうない。
階級章は剥がされ、代わりに残っているのは、爆炎で裂けた痕の鈍い疼きだけだった。
ポケットにあるのは、軍籍番号を消去された民間用のIDカードが一枚。
軍という明確な枠組みの中で、命令を受け、指揮を執って戦い、仲間を生かして帰す。
それが自分の役目だった。
今やその枠は完全に消え、輪郭すら残っていない。
「……これから、どうする。」
誰に聞かせるでもなく漏れた声は、風に紛れて消えた。
足元の舗装は固く、靴底を通して振動がわずかに伝わる。
踵が床を離れ、靴底が舗装を叩く小さな音が、やけに大きく響いた。
民間人として踏み出した一歩は、これまでのどの行軍よりも重く、不確かだった。
安宿の薄暗い部屋。
Victorは背を湿った壁に預け、天井を見つめていた。
壁紙は色褪せ、あちこちに黒いシミが広がり、空気にはカビと安物の煙草の匂いが染みついている。
薄いマットレスは腰の形に沈み、窓はきしんで半分しか開かない。
だが、それらはどうでもよかった。
頭の中では数日前に出した損害の光景が断片となって、何度も返ってきた。
索敵の薄さ、位置取りの甘さ、火点ばかりに目が行き、肝心の狙いが読めなかったこと──判断のミスが一つずつ、明瞭に積み重なっていく。
あの時、もし別のルートを選んでいたら、もし命令を変えていれば、もし自分がもっと早く動いていれば──可能性の分岐が無数に広がり、どれもが同じ結末へと回帰してしまう。
頭の中で何度も「もし」を反芻するたび、怒りは自分へと向かい、言い訳は薄れていった。
冷静に数値を弾いて出した最適解が、誰かの死に繋がったという事実だけが、静かに重く残る。
結局軍を追われることで、仲間の遺族に弔意を伝える機会すらなくなった。
その現実が、安宿の湿った空気の中で、ひときわ冷たく響いた。
そうした中でも腹は空くもので、今後の身の振り方を考えるのが、現時点での急務であった。
思考の行き着く先はいつも戦場だ。
地図と地形を照らし合わせ、部隊を配置し、生存と勝利条件を同時に満たす策を組み上げる。
それがもう必要のない今も、脳は勝手にその思考を繰り返している。
軍を離れてもVictorに染みついているのは、実地経験から刻み込まれた兵士と、戦術家としての在り方だった。
それ以外の自分を、まだ想像できない。
不意に、ベッド脇の端末が低く震えた。
画面に表示されたのは、民間斡旋端末の求人通知。
『夜間店舗巡回警備員募集/勤務地:第7セクター中央区/日払い可』
報酬額は、軍時代の手当てと比べれば笑えるほど安い。
しかし、今の彼に他の選択肢はない。
短く息を吐き、無言で承認キーを押す。
乾いた電子音とともに — 採用完了 — の文字が表示された。
たった一つのボタン操作で決まる自身の未来に、自嘲のような笑みが浮かんではすぐに消えた。
「……これが、今の現実か。」
その夜、Victorは制服代わりのジャケットを着て、胸に「夜間警備/Victor Rowen」と印字されたIDカードをぶら下げていた。
支給された安物のジャケットは薄く、胸元のIDカードは軽すぎて存在感がない。
カードを指で弾き、彼はわずかに鼻を鳴らす。
軍時代は胸に付けた階級章と識別番号が、自分の役目と価値を示す証だった。
ここではこの安っぽいプラスチック片がその代わりをしている。
「Victorさんでしたっけ? マニュアルに沿って巡回をお願いします。」
夜勤を終えた店員が眠たげな目で鍵を渡し、足早に立ち去った。
鍵の重みが、ひどく空虚に感じられた。
任されたのは、小さな民間資本スーパーの巡回だった。
大手企業と契約するような一流の警備案件は、自分のような訳有りの、無所属な人間には回ってこない。
広くもない店内に、ただ一人。
商品棚の間を、マニュアルの通りに歩くだけの単純作業。
時計の針が無意味に時を刻み続ける店内で、Victorは歩き続けた。
消えかけの蛍光灯の下、並ぶ商品棚は整然と沈黙し、空調の唸りだけが耳を満たす。
足音だけが響く空間は、どんな戦場よりも静かで、どんな戦場よりも遠い場所に感じられた。
外装はくすんだ塗装のまま放置され、古びた看板のネオンは半分が切れている。
機械のようにただ決まったルートを歩いては時折、窓の外の闇を覗き込む。
軍で刻んだ哨戒の習慣は健在だが、この場所に差し迫る危険はない。
――退屈。
それ以上に、衰えが忍び寄る感覚があった。
およそ一週間、同じ夜を繰り返した。
安い警備や護衛依頼を拾っては、安い報酬を受け取るだけの生活。
食事は水っぽいインスタントコーヒーと安価なレトルトパック。
身体は維持できても、心は薄く削れていく。
軍を追われた時、こうなることは予測していた。
だが実際にその中で暮らしてみると、腐食は想像以上に早かった。
その日の夜も、巡回の合間に端末を開くと、同じような低額案件がずらりと並んでいた。
画面を流し見する指が、不意に止まる。
『イエローエリア物資輸送護衛募集/報酬:応相談/納品次第現地で支払い』
イエローエリア。
腐食した街並みとコーラップス放射線、荒野の端で交わされる銃声、E.L.I.Dsの群れ。
軍時代に何度も踏み込んだその場所の匂いが、記憶から甦る。
心臓がわずかに速く打ち始めた。
詳細を確認する。
危険だが、報酬の幅は広い。
それ以上にあちら側なら、身体はまだ動く気がした。
――ここに留まれば安全だが、ゆっくりと腐っていくだけだ。
向こうに行けば、危うさの中で身を削ることにはなるが、なにかが変わるかもしれない。
一度画面を閉じ、深く息を吐く。
決意じゃない。
ここで繰り返される日々に耐えられなかっただけだ。
そしてもう一度開き直し、承認キーに指を置いた。
「……決まりだ。」
緑色の文字で — 受託完了 — と表示される。
それは、停滞した夜に差した小さな灯のようだった。
明日にはもう、この安全圏を離れて危険地帯へと足を踏み入れる。
Victorは端末を閉じ、再び巡回ルートを歩き始めた。
その歩調は、先ほどまでの鈍さを失っていた。
翌朝早朝、Victorは払い下げ品を扱う古びた倉庫へ足を運んでいた。
外壁は煤と砂塵でくすみ、薄汚れたシャッターには無数の擦り傷が走っている。
鉄板同士が擦れる耳障りな音とともにそれをくぐると、埃と機械油が混ざった匂いが一気に鼻を刺した。
中は薄暗く、頭上で回る古い換気扇がかすかに唸り、時折その風が棚に積もった埃を舞い上げる。
「……ああ、あんたが予約してた奴か?」
奥から現れた店主は煤で黒ずんだ作業服を着込み、片方の袖口は油染みで固まっている。
その目は眠たげで、欠伸を噛み殺しながらも、こちらの懐だけは逃さないような鋭さを帯びていた。
「Victor Rowenだ。端末で伝えた通りだ。」
「はいよ。これがリストだ。……どれも上物とは言えねぇがな。」
渡された端末には、古びた武装と装備の写真が並ぶ。
民間用に型落ちしたアサルトライフルと拳銃、擦り切れた防護ベストに、刃こぼれした戦術ナイフ。
一つひとつに、かつての持ち主が刻んだ痕跡と、失われた時間の重みが染みついていた。
軍にいた頃は、最新鋭の装備を当たり前のように支給され、傷む前に新品と交換されていた。
今はそれらの廃棄寸前の品の中から、まだ使えそうなものを自ら選び取らねばならない。
リストの最下段――『改造済み軍用車』。
Victorの視線がそこに留まると、店主は薄く笑った。
「ついてきな。」
案内された整備小屋はさらに薄暗く、油と鉄粉の匂いが濃くこもっていた。
照明の下に、一台の車体が無造作に置かれている。
無骨な装甲板が外殻に継ぎ足され、継ぎ目には荒い溶接跡が赤錆を帯びて浮き出ていた。
防弾ガラスは厚く曇り、ドアの蝶番はその重みに負けてわずかに下がっている。
「軍払い下げの軽装甲車だ。元は銃座すらない斥候用だったが……代わりにちょっと”着込ませた”。」
店主は油まみれの布で手を拭いながら続ける。
「イエローエリアに行くんだってなら、これぐらいは厚い皮じゃなきゃすぐに剥がされるぞ。」
Victorは車体を一周し、装甲の継ぎ目に指を滑らせる。
雑な仕上げだが、板は確かに分厚い。
「元の装甲は?」
「小口径なら前面で止まる程度だったな。今の追加装甲なら、角度が良ければ50口径も弾く。至近のAPI(徹甲弾)はさすがに無理だがな。……まあ、その分足は重くなったが、保険にはなる。」
保険――店主の軽い言葉に、Victorの目が一瞬だけ細まった。
「足が鈍いと?」
「ああ。だが悪路には強い。荒地でもまだ走れる。泥も砂利も抜けられるだろうよ。」
Victorは短く頷く。
速度よりも走破性が重要だ。
それに、生き延びるには装甲が厚いに越したことはない。
「……値は。」
店主が両手で指を立てる。
その額は、Victorの資金のほぼ全てだった。
「この状態でか。」
「状態込みでだ。改造費を考えりゃ安いくらいだぜ。生きて帰ってきたら、タイヤくらいはサービスで替えてやるさ。」
Victorはわずかに視線を落とし、車体の影を見た。
その奥底には、まだ知らない現実の深さが沈んでいる。
だが、それを測る時間も意味も、今はない。
「買う。」
店主は笑みを深め、キーを渡した。
Victorはそれを受け取ると、灰色の装甲に手を置く。
板金の継ぎ目をなぞる指先が、自身の古傷を意識して止まる。
冷たく硬い感触は、自分自身のようだった。
傷だらけで、錆びつきながらも、まだ動き続けようとしている。
運転席に座り、キーを回す。
エンジンは一拍の沈黙の後、低く唸りを上げた。
車内に満ちるオイルと埃の匂いは、軍時代の戦場を思い出させる。
――もう、軍も仲間も守ってはくれない。
これからはこの身と、この老いた装甲車だけが背を預けられる相手だ。
Victorはギアを入れ、ゆっくりと倉庫を後にした。
一時間後、Victorはイエローエリアへと繋がる検問ゲートに向かっていた。
装甲車の重いタイヤが舗装路を踏みしめ、低く鈍い振動が足元から伝わってくる。
はじめのうちはまだ整った街並みが両脇に広がっており、グリーンエリアの名残を見せていた。
均一に塗られた外壁、規則正しく並ぶ街路樹、そして頭上を緩やかに旋回する監視ドローンの群れ。
しかし、進むごとにその整然さは剥がれ落ちていく。
道路の継ぎ目には亀裂が走り、アスファルトの下から茶色い土が覗き始める。
窓越しに見える建物は、外壁が剥がれ、ひしゃげた鉄骨が無造作に露出していた。
監視ドローンの姿はいつしか消え、その代わりに、防護服を着た兵士や厚手の装甲ベストを着込んだ警備兵が物々しく巡回する姿が増えていく。
空気は徐々に乾き、どこか焦げ臭い匂いが混じった。
やがて、正面に巨大なゲートが姿を現す。
鉄骨の骨組みをむき出しにしたまま、無理やり組み上げたような構造物。
塗装は剥げ、所々に溶接の焦げ跡が残っている。
ゲートの両脇には監視塔がそびえ、銃を携えた兵士がこちらを見下ろしていた。
Victorはアクセルを緩め、警備兵の合図に従って車を停めた。
片方の兵士が、砂埃を避けるように肩をすくめながら近づき、Victorの端末を受け取る。
端末の画面を確認する指が、作業の慣れと倦怠を同時に表していた。
「……物資輸送護衛か。無所属?」
「ああ、単独だ。」
兵士はわずかに眉をひそめ、端末とVictor、それから装甲車を何度か見比べる。
背後で、掲示板の端が風に揺れた。
『臨時通達 第77号 一部部隊再編/交戦規定の(暫定)改定/反乱勢力の対処につき、監視・巡回を強化』
文言は形式的だ。
だが意味は分かる。
現場には負担だけが降る。
「フィルタ残量、線量計の校正、除染キット――確認。通行許可も有効だ。......それにしてもよくそんなナリでイエローエリアに行く気になるな。まぁいいが、ここから先は何が起きても自己責任だぞ。」
「承知している。」
短く答えるVictorに、兵士は小さく息を吐き、無言でゲート開放の合図を送った。
油圧の唸りとともに、分厚い鉄扉がゆっくりと左右に割れていく。
開ききるまでの間、Victorは無意識に背もたれから身を起こしていた。
装甲車を再び発進させ、ゲートの下をくぐる。
――その瞬間、空気が変わった。
灰色の砂埃が視界を曇らせ、遠くには骨のように白く風化した廃墟が並んでいる。
舗装は途中で終わり、以降は穴だらけの路面と崩れたガードレールが続く。
遠くで銃声が乾いた反響を残し、鳥の群れすら飛ばない。
境界を越えたことを、理屈より先に身体が理解した。
ここから先には、軍や企業の規律も庇護もない。
秩序はほとんどが崩れ、欲望と暴力が均衡を保つ。
常人なら好んで踏み入れようとはしない、不確かで危険な領域だ。
ハンドルを握る手に力がこもり、胸がわずかに高鳴る。
だが、それは恐れではなかった。
むしろ軍を離れて以来、初めて自分の居場所へ近づいているという感覚だった。
「……ここからだ。」
車内にはエンジンの唸りと、瓦礫が砕ける乾いた音が満ちていく。
Victorは速度を上げ、荒れた道路をさらに奥へと進んでいった。
割と結構な頻度で細かい描写を差し替えたり調整したりしてます。
大筋以外の部分はそれぐらいゆるゆるです。
今後ここの描写はもっとこういうのがいいんじゃないかとかあったらどんどん教えてくださればむしろめちゃくちゃ助かります。
特に原作の設定部分とかに詳しい人がいたら崇め奉る勢いで感謝します。
いやまじで。