イエローエリアの環境は、想像していたよりもはるかに過酷だった。
北へと丸一日荒野を走り続け、ようやくそれを実感として理解した。
グリーンエリアでは計器の誤作動すら滅多になかったが、ここでは違う。
走行中に時折メーターが一瞬だけ狂い、地磁気の乱れか、あるいは残留放射のせいか、電子機器が短く脈打つこともある。
そのたびに視界の端で何かが揺らめいたような錯覚を覚え、胸の奥がざらついた。
昼は容赦なく照りつける陽光が外板を焼き、触れれば掌に焦げるような熱を伝える。
窓越しに見る地平は常に白く霞み、陽炎が瓦礫をゆらめかせていた。
空気は乾ききっており、吸い込むたびに喉が削れていく。
補給所で買ったペットボトルの水はすぐにぬるくなり、飲むそばから汗として蒸発していった。
夜は一転して冷え込む。
昼間の熱は一瞬にして奪われ、装甲板の表面に冷たく結露が滲むほどだ。
エンジンを止めれば静寂が落ちるが、そうして際立つ金属の微かな軋みがかえって神経を逆撫でした。
毛布をかぶっても体温は逃げ、吐息は淡くほどけて闇に消える。
眠ろうとしても、わずかな気配に何度も意識が引き戻された。
昼夜の落差と乾いた風、尽きない塵煙――そのすべてが、ここが人の生活に適さない地であるという事実を突きつけていた。
早朝、Victorは装甲車の天井に落ちる砂の音で目を覚ました。
外ではすでに朝靄が低く張り、風に乗って灰色の塵がゆっくりと舞っている。
車を停めていたのは、イエローエリアの境界に近い小さな取引所の脇だった。
夜間は営業を止めた建物が並ぶだけで、人影はほとんどない。
街灯はひとつを除いてすべて消えており、かろうじて残った光が地面にぼんやりと帯を作っていた。
装甲板の表面には前夜の結露がまだ残り、乾ききらぬ跡が歪な模様を作っていた。
短い睡眠のわりに、頭は冴えている。
Victorは時刻を確かめると手早く装備を点検し、エンジンを始動させた。
低い唸りとともに車体が震え、夜の冷気を押し出すように温風が吹き出した。
今回引き受けたのは、個人契約の小規模な物資輸送依頼だ。
荷主は無名の商人で、仲介を通して端末経由で申し込まれた。
報酬はそこそこで、制約は特になし。
護衛や同行者は不要、ルートも自由。
ただ荷を受け取り、指定の場所まで運べばいい。
自由に行動できる分、責任も全て自分の肩にかかるが、煩わしい上下関係や衝突を避けられるという点で悪くない話だった。
荷の受け取り先は、廃工場を改装した簡易倉庫だった。
遠目に見る屋根の骨組みは、腐食で斑に変色している。
壁面には薄く黄緑色の塗料が残り、かつての企業のロゴらしき跡も見えた。
今はただ、風化した文字が砂に削られているだけだ。
入口脇の卓には、油染みの端末と紙の伝票が無造作に積まれていた。
倉庫の前で車を止めると、倉庫係の仲介人が背伸びしながら近づいてくる。
顎に薄い無精髭、袖口は黒い汚れで固まっていた。
「時間通りだな。積み荷は奥だ。伝票はもう通してある。」
「荷の確認は?」
「いらねぇよ。いちいち中身なんざ気にしてちゃ、長生きできねえ。重さも数も揃ってるから問題ない。」
淡々としたやり取りだった。
Victorは軽く頷くと、倉庫の奥へと足を踏み入れた。
倉庫の内部は半ば崩れかけており、照明の代わりに設置された投光器が埃の筋を照らしている。
中央の台車には、金属製の小さなコンテナがいくつも並んでいた。
表面の塗装は剥げ、刻印はほとんど読めない。
一つを軽く叩くと、鈍い音が返ってきた。
中身の詰まり具合は悪くない。
Victorは端末で伝票番号を照合し、積み込みを始めた。
コンテナは三つ。
重量は規定値通り、外装に異常はなし。
一部のラベルには化学薬品の警告マークが残っていたが、特には気に留めることなく固定具を締め、最後に金具の緩みを確認した。
「……完了。」
仲介人が端末にチェックを入れ、短く返す。
「届け先は登録済みだ。無線は不要、納品は自動で記録される。よほどルートを外れさえしなきゃ時間も食わねえ。寄り道するなよ?」
「了解。」
車に戻る。
ドアを閉めた途端、外の風が遮断される。
Victorはダッシュボードに置いた紙の地図を広げた。
廃墟の街区を抜けて北東へ、旧送電線を目印に進めば半日ほどで目的地に着く。
地形はやや起伏があるが、通行不能な箇所はない。
ルートを頭に入れ、メーターを確認する。
燃料は残り、三分の二。
予備のタンクがない点は気掛かりだが、この依頼をこなしさえすれば、補給分を賄って余りある。
ギアを入れ、目的地へ向けて発進する。
倉庫の影が後方に遠ざかり、砂尾を引いて小さく千切れた。
それからの道中は驚くほど静かだった。
銃声も、無線の雑音もない。
瓦礫の影に人影を見かけることすらなく、車体のエンジン音だけが一定の調律で響いていた。
通信も遮断したまま、Victorは地平線を追うようにハンドルを切り続けた。
陽光は強く、地表の影は短い。
計器の針は安定しており、時間だけが粛々と過ぎていく。
Victorは予定より一時間ほど早く目的地に到着した。
旧工業区跡に建てられた仮設の貯蔵ヤード。
入口のゲートは傾き、外壁には錆が広がっている。
油に濡れた地面には無数の轍が交差していた。
内部では作業服姿の男たちがフォークリフトを動かし、荷を降ろす車両を無言で誘導している。
空気には錆びた鉄と油の入り混じった匂いが漂い、どこか湿った熱気がまとわりついた。
Victorは装甲車を停止させ、窓のハッチを下げた。
警備員がこちらに気づき、片手を上げて歩み寄る。
「荷運びだろ? 積み荷を確認する。後部を開けてくれ。」
Victorは無言で頷き、ドアのロックを外した。
金属音が短く響き、内部の箱が露わになる。
すぐに数人の作業員が近づき、積み荷を外へ運び出す。
どの顔も疲れ切っており、声を発する者はいない。
一人の作業員が伝票を覗き込むと短く頷き、その横で別の男が箱の封印を外し始めた。
Victorはバックミラー越しに、その様子を眺めていた。
作業員たちは慣れた手つきで封印を外し、次々とコンテナの蓋を開けていく。
どの箱にも特筆すべき異常はなく、確認は淡々と進んでいった。
だが、最後のひとつに手がかかった瞬間、空気が変わった。
封印が外れ、蓋がわずかに開いた刹那、ヤード全体に奇妙な沈黙が落ちる。
化学薬品特有の匂いに、さらに甘く鼻を刺すような残香が混じった。
「……おい、これ……」
作業員の一人が呟く。
その声には単なる確認の色ではなく、明確な嫌悪と動揺が混じっていた。
周囲の男たちも顔を寄せ、声を潜めて何かを確認し合っている。
言葉までは聞き取れないが、それでも十分に察せる。
これは、運んではいけないものだ。
「待て、俺は――」
言葉の途中、背後で乾いた音がした。
金属の擦れるような、軽い“カチッ”という音。
耳に馴染みのある音だった――安全装置が外れる音だ。
「動くな。そこでじっとしていろ。」
警備員が銃を構え、ゆっくりと側面に回り込もうとする。
視線は逸らさず、引き金にかけた指が僅かに震えていた。
「違法薬物だ、検査班を呼べ! 念のため武装警備も回せ!」
作業員の一人が無線に手を伸ばし、短い報告を始める。
ヤードの奥では別の影が動いた。
もはや弁解の余地がないことを、Victorは悟った。
呼吸を一度だけ整える。
左手は自然にハンドルへ。
右手でギアを引き、クラッチを踏み込む。
「おい、動くなと言っているだろう!」
警備員が怒鳴り、銃口がわずかに揺れる。
Victorは観念してゆっくりと両手を上げた――かに見えた。
次の瞬間バックランプが灯り、タイヤが砂を噛んでわずかに下がる。
警備員が反射的に身を引くのを見切り、Victorは即座にギアを入れ替えてアクセルを踏み込んだ。
装甲車が唸りを上げて前方へと飛び出した。
フォークリフトが避けきれずに脇へ弾き飛ばされ、鉄片が散る。
怒号と無線のざわめきが背後で重なった。
「止まれ! 発砲許可を――!」
その叫びを遮るように、誰かが引き金を引いた。
開け放たれたままの後部ドアから弾丸が車内へ飛び込み、真横のシートを貫く。
続けざまに一発、二発。
車内で火花が散り、わずかに遅れて跳弾が床を弾いた。
金属の響きが鼓膜を叩き、ハンドルを握る手に薄い汗が滲む。
視界の端ではゲートが閉まりかけているのが見えた。
すかさずハンドルを切り、錆びた鉄扉に正面から突っ込む。
鈍い衝撃音とともに扉がひしゃげて倒れ、外の光が一気に流れ込んだ。
砂煙が舞い上がり、視界を白く覆う。
ミラーの向こうでゲートの影が遠ざかるが、依然として銃声は鳴りやまない。
それでも構わず、Victorはアクセルを踏み込み続けた。
追ってくる気配はまだある。
だが、ここはイエローエリアだ。
正規の追撃部隊が、この先まで入り込むことはない。
やがて警笛の音が薄れ、風の唸りだけが残った。
ようやく追跡の気配が消えたころ、Victorは深く息を吐いた。
開け放たれたままの後部ドアが、走行の振動に合わせて微かに軋んでいる。
Victorは車を減速させ、短くブレーキを踏む。
外気が流れ込み、熱を帯びた砂が頬を撫でた。
ドアを閉めてロックを確かめると、車内の空気は砂と焦げた金属の匂いで満たされた。
「……薬物の運び屋か。笑い話にもならん。」
誰に聞かせるでもなく吐き捨て、視線を前に戻す。
太陽はすでに傾き始め、地平は赤く染まりつつある。
メーターを確認すると、針は下を指していた。
燃料は思いのほか減っている。
追っ手を振り切るために無理な加速を重ねたせいだった。
結局、今回の輸送は時間と燃料を浪費しただけで終わった。
当然報酬もなく、唯一得られたものといえば、車体に新しく刻まれた弾痕ぐらいだ。
この一帯ではもう、当面仕事は受けられない。
いくらイエローエリアといえど、顔を知られた以上はいずれ噂が出回る。
今夜この近辺で宿を取るのも得策ではない。
Victorは小さく嘆息し、ハンドルを握り直した。
進路を外縁へと変え、高架の陰を利用して北へ向かう。
地図に記された廃集落なら、少なくとも人目は避けられそうだった。
(今夜はここで夜を越す。そして夜が明けたら、残りの燃料でできるだけ遠くへ移動し、また一から仕切り直そう。)
そう心に決めて、夜の帳が落ちきるまでに、Victorは再び南へと走り出した。
Victorが辿り着いた廃集落は、想定よりも広かった。
瓦礫と化した家屋がいくつも並び、崩れた壁の合間には、かつての商店街らしき骨組みも見える。
ひび割れた舗装路には風に乗った砂が溜まり、ところどころに倒壊した街灯の根元が黒く錆びついていた。
建物の陰には古びた看板が転がり、壁の一部には手書きの落書きがかすかに残っている。
不気味ではあるが、明確な敵影はない。
周囲をざっと見渡した限りでは、先客の痕跡も見当たらなかった。
(一晩くらいは持つか……)
Victorは装甲車を、比較的視界の開けた広場の端に停めた。
完全に安全とは言い難いが、夜までに別の場所を探す余裕もない。
寝具と最低限の装備を下ろすと、周囲を手短に見回った。
建物の奥や地下へ続く通路もあったが、暗がりの奥まで確認するには時間が足りない。
必要最低限の範囲だけを確かめると、車の近くに簡易的な焚き火台を置いて夜に備えた。
焚き火の明かりが頼りなく揺れ、周囲に小さな輪を作っていた。
Victorは缶詰の蓋を開け、無言のまま火にかけた。
温まった中身を、味も確かめずに少しずつ口へ運ぶ。
ただ空腹を埋めるためだけの作業じみた行為だった。
食事を終えると、消えかけの焚き火を靴先で踏み消した。
夜の冷え込みは思ったより早く訪れた。
風は乾いて鋭く、瓦礫の隙間を抜けるたびに甲高い音を立てる。
Victorは装甲車の影に腰を下ろし、薄い毛布を肩に掛けた。
眼を閉じ、わずかに息を整える。
空気は冷え切っていたが、静寂の中にはかすかな安堵もあった。
それからどれだけの時間が経ったか。
遠くで、何かがこすれるような低い音がした。
初めは風が瓦礫を転がしているのかと思った。
だが、それにしては音が重い。
地面を這うような、粘り気のある響きだった。
Victorは身を起こし、耳を澄ませた。
間を置いて、また一度。
一定の間隔で続く。
自然の出す音ではない。
静かに立ち上がり、銃を手に取る。
音の方向を確かめるように、廃屋の影を抜けていった。
闇に慣れた視界の先、崩れた階段の口が見える。
吹き上がってくる風に混じり、腐敗臭が鼻を刺した。
……嫌な気配だ。
階段の下を覗き込む。
わずかな光が、音の正体を照らし出していた。
――E.L.I.Ds 。
コーラップス汚染に蝕まれ、肉体も理性も人の枠を外れたもの。
それは骨と肉の境も曖昧な体で、生を模倣するように蠢いていた。
しかも一体や二体ではない。
狭い空間の奥に、群れがひしめき合っている。
影の間から、骨の擦れる音と湿った呼吸が絶え間なく漏れ出していた。
息を殺し、静かに身を引こうとするが、ほんのわずかな明かりに反射して、幾つもの濁った眼が一斉にこちらを向いた。
「……っ!」
反射的に銃を構え、引き金を絞る。
乾いた銃声が廃屋の奥にこだまし、最前列の個体が崩れ落ちた。
だが、それを合図にしたかのように群れが動く。
瓦礫を踏み砕きながら、骨の軋みと咆哮が狭い通路を満たした。
Victorは退路を意識しながら射撃を続ける。
動きは正確で、反応に迷いはない。
戦地で何度も対峙した相手だ。
対処の仕方は体が覚えている。
ただ一つ違うのは、背中を守る者が誰もいないことだ。
援護射撃も、支援火器の唸りもない。
引き金を絞るたびに硝煙が夜気を裂き、銃の反動と熱だけが確かな現実として腕に残る。
一人で戦線を保つということが、これほど重いことだとは夢にも思わなかった。
弾薬が減っていく感覚を、脳のどこかが冷静に数えていた。
薬室が空く音すら、まるで訓練の記録をなぞるように聞こえる。
だが、装弾数が尽きるたびに新しい弾を送り込む手は次第に荒れ、硝煙の熱とともに呼吸が乱れていく。
冷静さと焦燥が、同じ身体の中で噛み合わずに軋んでいた。
「くそっ……!」
照準を合わせる間にも、また次の影が迫る。
近距離で撃ち抜いた弾丸が骨を砕き、黒い体液が飛沫のように散る。
腐臭と熱気が入り混じり、視界の端が歪む。
数で押し寄せる群れに対し、反撃はただの延命にすぎない。
もはや制圧は不可能だった。
Victorは直ぐに判断を切り替え、身を翻した。
階段を駆け上がる足音が、瓦礫に反響する。
背後では咆哮が連鎖し、骨の擦れる音が近づいてくる。
崩れた壁の隙間から、濁った影が這い上がってくるのが見えた。
息を切らす暇もなく、装甲車へと走った。
ドアを引き開け、身を滑り込ませると同時にロックを掛ける。
すぐ背後で何かが車体にぶつかり、鉄板が鈍く唸った。
シートに座り込むより早く、エンジンを叩き起こす。
エンジンが激しく咆哮を上げ、ライトが正面に群れの影を捉えた。
構わずギアを叩き込み、アクセルを踏み抜く。
車体が地面を蹴り飛ばすように跳ね、衝撃で背がシートに押し付けられる。
光の帯が闇を裂き、群れの影を乱暴に薙いで突き進んだ。
やがて追跡の気配がなくなり、ミラーの奥で群れが瓦礫の陰に戻っていくのが見えた。
それでもしばらくは速度を落とせなかった。
ハンドルを握る手には汗が滲み、鼓動が耳の奥でうるさく響く。
不意に、空いた手でダッシュボードを叩く。
鈍い音が車内に短く響いた。
すぐに手を戻す。
――軽率だった。
野営地の選定も、周囲の調査も、あまりに甘かった。
もし、もう少し踏み込んで確認さえしていれば、巣の存在にも気づけたはずだ。
結局その夜は休むことなく走り続けた。
背後の闇が徐々に薄れ、空の端が鈍い灰色に変わっていく。
夜明けとともに走り抜けた荒野の先で、Victorは一度だけ車を止めた。
ダッシュボードの地図を広げ、赤いペンで一点を記す。
――あの廃集落の位置に、小さく×印を刻んだ。
それは警告ではなく、過ちを決して忘れないための印だった。
第3話です。はい。
あと2話ぐらいはこれと同じようなテイストの話が続きます。
独りでイエローエリアに順応し始めるまでの過程をじっくりねっとり描きたいというエゴが前面に出ました。
当初は3日に1話ペースで投稿しようと思っていましたが、普通に無理でした。
いろんな構成案とか浮かんでそのたびに文量ががががが
前話から次の2話までは、もともとは一つの話だったんですよね......
今後は2週に3話を最低目標に、週に2話出せたら御の字のつもりで行こうと思います。
そういえばそろそろドルフロ2のイベントが終わりますね。
自分は課題とかは前日にまとめてやるタイプなので、これからシナリオを一気に駆け抜ける予定です。
今回はどんな話なんだろう。楽しみ。
追記:各話タイトルの年の部分を最初以外取っ払いました。毎回はいらなくね?となったので。
あと、年代的に原作設定と合わない単語は消し去りました。(例:生骸)
今後もそういった誤りは随時修正していきます。