内容には大幅な変更が加えられています。
補足:前話から描写されていた、依頼人の部屋への扉の位置を一階から二階に変更しました。
空は鈍く曇り、嵐の焦げた匂いがまだ薄く漂う。
地平には崩れた工場群と錆びた配管が、際限なく続いていた。
目的の施設は、その一角にあった。
外壁の半分が崩れ、残りは黒く煤けている。
崩れた外壁の奥には、二階建ての建物が見える。
上階は骨組みしか残っておらず、外装は剥がれ落ちて鉄筋が露出していた。
風に晒された壁面には、掠れた企業ロゴが残っている。
赤い炎のような意匠に、白いイニシャルと社名が並ぶ──(S.F.)SANGVIS FERRI。
Victorはしばし無言で眺めた。
依頼人の言っていた“知られたくない類のもの”が何を指していたのか、ようやく腑に落ちる。
鉄血工造。
かつて世界中の戦場に、機械の軍勢を送り出した軍需メーカー。
その末路は崩壊と暴走、そして今もなお、そこで造られた鉄血兵どもが数えきれぬ程の死者を生み続けている。
「……なるほどな。」
車を停めて敷地に入ると、私兵たちが入口前に集まっていた。
いずれも疲労の色が濃く、装備には煤と油の跡がこびりついている。
その中から、ひときわ背の高い男が一歩前に出た。
角ばった顔、左の頬に薄い傷。
外套の下には弾痕の残る防弾ベスト。
目線は鋭く、長く戦場に身を置いた者特有の静けさがあった。
「外部協力者だな、来てくれて助かる。俺がここの指揮を任されてる。」
「状況は?」
「あまり良くはない。」
リーダーは短く答えると、顎で施設の中を示す。
「詳しくは進みながら話そう。」
Victorは頷き、リーダーに続いて中へと入った。
内部は静寂に包まれていた。
ひび割れた照明が、残りの蓄電で淡く明滅している。
壁には弾痕と焦げ跡がいくつも刻まれ、床には薬莢と倒された鉄血兵の残骸が、あちこちに転がっていた。
額を撃ち抜かれたもの、四肢を砕かれたもの――そしてその間に、いまだ乾かぬ人間の血の痕が混じっていた。
背後では九人の私兵が黙って随伴している。
彼らの足音と、金具の触れ合う音が、広い空間に反響していた。
「被害はどれくらいだ?」
廊下を進みながらVictorが問う。
「四人だ。まだ回収できてないやつもいる。」
リーダーは歩調を緩めずに淡々と答える。
「残りの人員は?」
「俺含め十六人。うち六人は最終到達点で見張らせてある。」
「……この規模で警戒線を張るほどなのか?」
Victorが眉をひそめた。
外観からすれば施設は小規模で、倉庫と事務区画を合わせても五、六室ほど。
大規模な交戦が起きるような構造には見えなかった。
「奥に行けばわかる。」
その声には、微かな含みがあった。
廊下の突き当たりを抜けると、左右に細い通路が分かれていた。
リーダーはためらわず右側へ折れ、埃をかぶったプレートの前で立ち止まる。
【Maintenance Room】
かつての点検・保守用の区画らしい。
ドアは半ば歪み、押し開けるたびに軋んだ音を立てた。
室内は薄暗く、壁際には壊れた工具棚と、引きちぎられた配線が残っている。
床には部品が散乱していた。
それらの奥の作業台の下に、黒ずんだ鋼板が一枚敷かれている。
リーダーが足先で軽く叩くと、鈍い響きが返った。
「見つけたのは昨日だ。最初はただの補強板かと思ったが、下に空洞がある。」
鋼板の縁は削られ、工具でこじ開けた痕が残っていた。
取っ手を引き上げると、下からぬるい湿気が押し出された。
錆の匂いが薄く滞り、息がわずかに重くなる。
Victorは、開かれた闇の先を見下ろした。
光を呑み込む暗黒の底には、音ひとつない静寂が沈んでいる。
まるで地獄の口が、息を潜めて獲物を待っているかのようだった。
「足元に気をつけろ。下は思ったより広い。」
リーダーが先に降り、Victorと私兵たちはそれに続く。
鉄の階段を叩く音が、密閉された空気に溶けていった。
一段ごとに湿り気は引き、こもった熱だけが残る。
剥き出しの鉄骨に赤錆が層を作り、隙間から切れたケーブルが垂れていた。
手すりの粉が手袋越しに崩れて落ちる。
階段を降り切ると、想像以上に広い空間が広がっていた。
天井は高く、太い配管が柱のように奥へと並び、ところどころに崩落の跡がある。
上からの光は届かず、赤錆と灰が薄闇の底に沈んでいた。
Victorは腰のライトを外して点ける。
白い光が壁面を這い、ひび割れた鋼板と瓦礫、歪んだ梁や天井の窪みを浮かび上がらせた。
「地上とはまるで別物だな。」
Victorの声が、空間に静かに響く。
「上は外向けの偽装だろう。おそらく、こっちが本命だ。」
リーダーが短く返した。
通路はそこから奥へと続いている。
壁際には半壊した鉄血兵の残骸が、足元には割れた装甲片と薬莢が幾重にも散っていた。
地上よりも明らかに数が多い。
「敵の構成は?」
Victorの問いに、リーダーは前を見たまま答える。
「AR持ちに、SMGを二丁持ったすばしっこい奴。あとは盾持ちに、小さい飛行型がうろついてて、こっちの動きを逐一探ってきやがる。」
一度言葉を切り、少し間を置いてから続けた。
「……それと一体、異様に速いのがいる。近接の化け物だ。一瞬で二人がばらばらに刻まれた。今は奥で鳴りを潜めてるが……いつまた飛び出してくるかわからん。」
Victorは小さく息を吐き、視線を落とす。
「ヴェスピドとリッパー、ガードにスカウト……近接はブルートか。」
半ば独り言のような声に、リーダーがちらと視線を向ける。
「知ってるのか?」
「ああ。少し関わったことがある。」
その答えに、リーダーの表情が一瞬だけ険しくなる。
だがすぐに視線を前へ戻し、足を止めずに言った。
「なら話が早い。あいつがまた出てくる前に、片をつける。」
そのまましばらく進むと、通路の奥に淡く光が差した。
先には鉄板と瓦礫で組まれた簡易バリケードが見える。
その陰から、見張りの一人が顔を上げた。
「リーダー、戻りですか。」
「ああ。奥の様子は?」
「変化なし。あれからだんまりです。」
リーダーは頷き、Victorに向き直る。
「依頼人から聞いてる。あんたはこっちの指揮には入らないそうだな。」
「そうだ。」
「それ自体は構わない……だが、できるだけ前には出てくれ。これ以上、無駄に犠牲は出したくない。」
「了解した。」
バリケードの向こうには、闇に沈む通路の続きが見えた。
その奥から、何かがゆっくりと目を覚ますような気配がした。
「進むぞ。間隔は広く取れ。」
リーダーの声に、私兵たちが無言で従う。
バリケードを越え、隊は静かに進み始めた。
照明はほぼ死んでおり、頼りになるのは各々のライトだけだった。
細い光の輪が交錯し、一定の歩調音だけが続く。
通路は緩やかに傾斜していた。
壁際の配管は途中で切れ、溶接の焼け跡が黒く残り、天井の崩れた隙間からは、細かい砂が絶え間なく降っている。
Victorは列の中ほどで歩調を保ちながら、周囲を確認する。
床の傷跡は新しい。
弾丸が弾けた痕と、掠弾が壁を削いだ線。
「……ここで交戦したばかりか。」
「あんたが来る数時間前にな。追撃はなかったが、奥の反応が消えてない。」
その言葉が終わるのと同時に、先頭の一人が手を上げた。
全員が即座に構える。
一瞬の静寂。
その奥で、何かが動いた。
「来るぞ――」
鋼の足が床を蹴る乾いた音。
続いて、複数の影が暗闇の底から溢れ出し、その輪郭を露わにした。
最初に現れたのは、リッパーだった。
艶のある紫のスーツと、灰色の小さな装甲パッドを身に着けた女型の人形。
両腕に短機関銃を構え、紫がかった髪が光を掠めて揺れる。
顔には薄く発光する光学グラス。
その無表情の奥に“感情”という概念はない。
その上空を、スカウトが掠めた。
虫と機械のあいだのような、形容しがたい黒紫のフォルム。
赤い単眼センサーが点滅し、旋回しながら隊の動きをなぞる。
さらに奥では、壁際に散開するヴェスピド。
滑らかな紫のボディスーツに、頭部を覆うバイザー型ヘルメット。
彼女たちは長銃身の突撃銃を構え、射撃の体勢を整えつつあった。
「撃て!」
号令と同時に火線が交差する。
反響と薬莢の跳ねが折り重なり、火薬が通路にこもる。
先手を取られたリッパーたちが、低姿勢で突進してくる。
AIに統制されたその動きは機械的で、あまりに単調だった。
しかし、単純であるがゆえに綻びがない。
退くことも、恐れることも、判断を誤ることもない。
倒れた個体の位置を正確に補いながら、同じ軌跡をなぞって前進し続けた。
Victorは膝をつき、床の傾斜に身を預けて照準を合わせる。
三発。
リッパーの胸部を撃ち抜き、もう一体を私兵の連射と重ねて沈める。
天井で影が動いた。
スカウトが滑るように降下し、赤いセンサー光を閃かせて照射する。
光が視界を掠め、照準がわずかに狂った。
Victorは即座にライトを切り、残光を頼りに引き金を引く。
乾いた破裂音。
センサー光が消え、機体が煙を引いて墜ちた。
通路の奥ではヴェスピドが再び陣形を変えて一斉掃射を続ける。
青白い光弾が遮蔽を焼き、壁面に焦げ筋を刻んだ。
「グレネード!」
前衛の兵がピンを抜き、手榴弾を投げ込む。
転がった弾体が床を跳ね、腹の底を叩くような衝撃音が響いた。
圧縮された空気が一気に弾け、鉄片の雨が通路を横断する。
水色の軌跡が途切れ、ヴェスピドの陣形が崩れた。
「今だ、押せ!」
Victorは爆煙の薄皮を割って前に出る。
体勢を崩した個体から順に落とし、残りは味方の連携で押し潰した。
やがて駆動音が止み、音がすっと引いた。
「……クリアだ。」
リーダーが周囲を確かめ、Victorは銃口を下げた。
「状況確認。負傷者は?」
「一名、掠り傷だ。戦闘続行に支障なし。」
短い報告が返る。
薬莢の散らばる床を踏みしめながら、Victorは壁際に転がったリッパーの残骸を見下ろした。
損傷の痕から、命令系統が断たれても末端が惰性で動こうとした形跡がある。
「中枢まで確実に潰せ。死んでも反射で引き金を引くことがある。」
Victorの言葉に近くの兵が無言で頷き、ブーツで頭部を踏み砕く。
金属の割れる音が響き、瞳の光がようやく消えた。
「前進する。警戒を解くな。」
リーダーの指示に従い、隊はすぐに再編された。
装填音が連なり、再び沈黙が戻る。
戦闘の熱と硝煙だけが、この空間に残った。
崩落した壁を迂回しながら、隊は慎重に歩を進めていた。
壁際には曲がった配管や補強柱が並び、
ところどころに崩れた鉄骨が露出している。
呼吸するたびに、淀んだ空気が喉に貼りついた。
先頭のリーダーが立ち止まり、手を上げた。
全員が静止する。
耳を澄ますと、通路の奥から硬質な音が聞こえる。
その律動には、あの人工的な均一さがあった。
「……第二陣だ。」
その一言で、隊は素早く左右へ散開する。
Victorも壁際に身を寄せ、銃を構えた。
闇の奥で、光が複数瞬く。
次の瞬間、鋼の盾が一斉に姿を現した。
ガードだ。
片手に分厚い防弾シールド、もう一方には銃剣付きの拳銃。
顔は鉄仮面のようなバイザーで覆われ、口元だけが露出している。
黒のツインテールが揺れ、無機質な足並みが通路を埋めた。
盾の縁が触れ合うたび、硬い音が反響する。
その背後で、ヴェスピドたちが銃を構えた。
光弾が通路を切り裂き、壁を抉り、焦げ跡を残す。
「正面からは無理だ! 遮蔽に入れ!」
私兵たちは即座に身を隠す。
ガードの盾を貫ける弾丸はほとんどなく、反撃は焼け石に水だ。
Victorは姿勢を低くし、わずかな隙間を狙って単射を繰り返す。
ヴェスピドの一体が撃ち抜かれて倒れたが、盾の壁は遅々とした速度で、確実に距離を詰めてくる。
「盾持ちを崩す。グレネードを用意しろ!」
前衛の一人がピンを抜き、構えた――その刹那。
黒い影が盾の間を縫うように駆け抜けた。
空気が裂け、一閃が横切る。
構えた腕が、肩ごと切断されて弾け飛んだ。
「なっ――」
切断された腕が床を滑り、指先の力が抜ける。
弾体が床を転がりきる前に爆ぜた。
轟音と衝撃波が走り、白い埃が視界を濁す。
その混乱の中で、影が再度線を引く。
「ちくしょう! どこ――」
叫びが途切れ、最前列の私兵が腰から上を刈り取られた。
血が鉄骨を濡らし、体が崩れ落ちる。
その光景を目にした私兵が恐怖に駆られ、銃を乱射した。
弾丸が壁と床を叩き、火花が散る。
だが、その軌跡をなぞるように影が通り抜ける。
刃が閃き、銃声が途絶えると同時に首が宙を舞った。
次の瞬間、粉塵の向こうで影と目が合う。
Victorは反射的に銃を構えた。
影は壁を蹴って左右に跳び移り、射線を乱す。
射撃で影を牽制するが、弾は空を切り、残像だけが網膜に残る。
瞬きほどの間に距離が詰まった。
「......ッ!」
刃が振り抜かれ、Victorは身を反らせながら後方へ跳ぶ。
背中から床を滑り込み、辛うじて直撃は避けた。
だが、手にしていた銃が、基部から斜めに裂かれた。
火花と油煙が薄く上がる。
その火光の中で、ブルートの姿が浮かび上がった。
青い髪を片側に束ね、褐色の肌が粉塵に霞む。
黒白灰の迷彩布が翻り、二本のナイフを順手と逆手に構えていた。
ゴーグルの発光部が、赤紫の横線をなぞる。
しなやかな体躯がわずかに沈み、再び跳び出した。
二撃目が来るより早く、Victorは拳銃を抜き撃った。
引き金の音とほぼ同時に、ブルートは身をひねる。
弾丸が側頭部を掠め、青髪が散った。
ブルートはそのまま後方へと飛び退き、体勢を低く沈める。
再び跳びかかるかと思われたが、跳躍の軌跡は逆方向に逸れ、粉塵の奥へと姿を消した。
粉塵が薄まり、視界が徐々に開けていく。
奥ではなお銃火が瞬き、ガードの盾列が鈍い足音を刻みながらじりじりと前進を続けていた。
その背後ではヴェスピドたちの光弾が壁面を焼き、通路を切り裂いている。
Victorは裂けた銃身を捨て、崩れた遮蔽へ身を滑り込ませた。
すぐ脇には、首を断たれた私兵の亡骸が横たわっている。
その手から滑り落ちた銃を拾い上げ、残弾を確かめた。
リーダーが閃光手榴弾を抜き、床に転がす。
白光が炸裂し、音が一瞬だけ奪われた。
「今のうちに立て直せ!」
私兵たちはすぐに動いた。
倒れた仲間を引きずり、遮蔽物の陰で体勢を整える。
眩惑したガードの列は動きを止め、盾をわずかに傾けて身を守っている。
「右端を取れ。配管の裏を抜けろ!」
通路の片側には崩れた補強柱と配管の影が続いていた。
二人の私兵がその死角を伝って低姿勢で移動し、盾列の端に射線を取る。
Victorは正面から援護射撃を行い、敵の注意を引きつけた。
側面を取った私兵が、盾の継ぎ目へ連射を浴びせる。
曳光が通路を満たし、金属が軋む音とともにシールドがわずかに傾いた。
瞬間、前線の全員が一斉に射撃を集中させる。
火花が連なり、ガードの列が崩れ始めた。
ヴェスピドが援護に移ろうとしたが、体勢を立て直す前に撃ち抜かれた。
通路を塞いでいた壁のような盾列が、きしみながら倒れ込む。
散発的な光弾が飛んだが、もはや統制は失われていた。
通路に静けさが戻る。
リーダーが深く息を吐き、振り返る。
「被害を確認しろ。」
数人がすぐに散り、それぞれ倒れた仲間や遮蔽物の陰を確かめていく。
間もなく報告が返ってきた。
「死者四、負傷者六。うち二名は重傷です。」
沈黙。
誰も声を重ねない。
床を伝って、血がゆっくりと広がっていく。
生き残った者たちが無言で包帯を巻き、止血帯を締め、薬剤を注射していった。
酸っぱい消毒液の匂いが立ち込める。
Victorは崩れた遮蔽の脇に立ち、息を整えながら前方を見据えた。
金属と血の匂いが混じり、空気が急に冷えたように感じられた。
「重傷の二人はここに残せ。」
リーダーが指示を飛ばす。
「応急処置を終えたら、後方の安全圏まで下げる。残りは進むぞ。」
私兵たちは装填を確認し、隊列を整え直した。
誰も余計な言葉を口にしない。
靴底が薬莢を転がす音だけが、乾いた反響を返す。
照明の届かぬ闇が、彼らの行く手を呑み込んでいった。
通路の奥は、さらに深く伸びていた。
崩落の痕が続き、足元には瓦礫が積もっている。
壁のひびには煤がこびりつき、ところどころで補強柱が歪んでいた。
隊は間隔を保ち、音を立てぬように進んでいく。
途中で小規模な交戦が数度あった。
半壊したガードや、稼働の途切れたリッパーとヴェスピドが散発的に現れる。
だが、それらはどれも反応が鈍く、統制の取れた動きとは言えなかった。
二、三発撃つだけで沈黙するものばかりだ。
通路を塞ぐような陣形もなく、罠の兆候もない。
本来なら、奥へ進むほど抵抗は激しくなるはずだった。
だが今回は違う。
進むほどに、音が消えていった。
あの化け物が再び現れる気配すら、まったくない。
不自然なほどの静寂が続き、粉塵が降り積もる音まで聞こえそうだった。
ただ、見えない何かに奥へ奥へと導かれているような錯覚だけが残った。
やがて遠くに、光が赤く瞬くのが見えた。
その方向へライトを向けると、光源の輪郭が徐々に浮かび上がる。
壁際に設置された警告灯だった。
非常電源で辛うじて動いているのか、淡い赤が一定の間隔で脈動していた。
すぐ脇には厚い金属扉があった。
長い年月の酸化で黒ずみ、縁には粉状の錆がこびりついている。
扉の上部には、かすれた文字で【Control Room】と記されたプレートが貼られていた。
リーダーが扉の前で立ち止まり、厚い金属面を一瞥した。
「制御室……ここが終着点だな。」
一拍置いて、振り返る。
「一度、突入方法を詰めよう。中の構造が分からん以上、無策で突っ込むわけにもいかない。」
Victorが一歩前に出た。
「残りの投げ物は?」
「破片が三つ、閃光が四つだ。」
リーダーの答えに、Victorは短く考え込む。
「なら、一つは突入の直前に投げ込む。視界を潰したうちに前線を押し上げたい。それと……ガードの盾を使おう。残骸から再利用できるものを拾い、数人で抱えて突入して前を抑える。後続はその間に内部の構造を把握して遮蔽を固める──そんな段取りでどうだ?」
リーダーは顎に手を当て、しばらく黙った後に頷いた。
「悪くない。誰が前に出る?」
「俺と、力と体力のある奴が二、三人は要る。」
「わかった。」
リーダーは後方に視線を送り、数人が黙って頷き返した。
「……あとの問題は、あいつだな。」
空気がわずかに張りつめる。
誰も名は口にしないが、皆の頭の中には同じ影が浮かんでいる。
Victorは先ほどの交戦を反芻した。
初撃の角度、疾走と跳躍の軌跡、狙いの偏り、そして引き際──。
手当たり次第に斬り捨てているのではない。
何かしらの基準があって動いているはずだ。
数秒の黙考の後、彼は静かに口を開いた。
「……俺があいつを引き受ける。」
周囲の視線が一斉に集まった。
リーダーが眉を潜める。
「だが、どうやってだ。まともに相手をしたら、ただの自殺行為だぞ。」
Victorは首を小さく横に振る。
「あいつは無差別に飛び掛かってきてるわけじゃない。」
言葉を切り、短く整理するように続ける。
「まず、“戦況を動かせる奴”から殺す。
グレネードを構えた男が最初だった。
次に、前列の“芯”。陣形を成立させていた要だ。
その次は――“あいつを認識して、対抗しようとした奴”。
乱射でも、確実に追おうとしていた。だから斬られた。」
その場にいた何人かの喉が、ごくりと鳴る。
「つまり、あいつは“近い敵”や“弱い敵”から順にやってるんじゃない。“戦況に影響を与える可能性が高い相手”を、順番に潰している。」
リーダーが低く息を吐いた。
「……潜在脅威で判断しているわけか。」
Victorは淡々とうなずく。
「ああ。だから、俺があいつの“最優先”になればいい。」
短い沈黙。
すぐに返ってくる問い。
「引き付けたとして、そのあとは?」
Victorはわずかに視線を伏せ、次いで顔を上げる。
「一つ、やりようはある。」
リーダーが眉を寄せると、Victorは簡潔に手順を説明した。
声は抑えられていて、感情の起伏は見えない。
「――あくまで仮説に基づく作戦だ。あいつの構造と挙動次第では外れる可能性もある。だが、試す価値はある。」
説明を聞き終え、リーダーはしばらく黙って彼を見据えた。
「……正気か? 失敗したら真っ先に死ぬのはお前だぞ。」
「承知している。」
迷いのない返答を受け、リーダーはゆっくりと息を吐いた。
「博打だな……だが、やるしかないか。」
――準備が始まった。
壊れた鉄血兵の残骸から外された鋼板や半壊したシールドが、手際よく運ばれてくる。
誰もが無言のまま、緊張に支配された空気の中で、動作だけが淡々と進んでいった。
硬い縁には布やベルトが巻かれ、握りが増設されていく。
破断面を擦って手に馴染ませる者もいた。
数分の作業で、即席の盾が四つ出来上がった。
重く、不格好だが、角度を取れば中口径弾や破片を受け止められる。
Victorはその一枚を受け取り、体の前で軽く構えて重さを確かめた。
隣では同じく前衛に選ばれた三人が同じ動作を繰り返している。
最後に自らの装備を確認し、リーダーへ小さく頷いた。
扉の前で最終確認が行われる。
分厚い金属の向こうには、息を潜めたような静寂があった。
誰もがそれぞれの役割を頭に刻み、息を殺す。
「投げるぞ。三、二、一……」
閃光手榴弾が扉の隙間へ放り込まれ、金属を叩く音が響いた瞬間、爆ぜるような白光が空間を呑み込む。
音が消え、世界が光に塗り潰された。
Victor含む前衛四人が扉を押し開け、盾を抱えて飛び出す。
瓦礫の板が光を反射し、閃光の余韻を切り裂くように突き進んだ。
直後、通路のさらに奥、高台になった足場の上から重い唸りが立ち上がる。
金属の共鳴が空気を震わせ、微かな悪寒が背筋を走った。
ほどなく巨大な三銃身のガトリング砲を抱えた人影が姿を現す――ストライカーだ。
銃身が回転し、水色の光弾が帯になって押し寄せた。
弾幕が青白い尾を曳きながら通路を掃く。
着弾のたびに金属が焼けて黒く線を刻み、遅れて衝撃音が腹を叩いた。
「おい、なんなんだあれ!」
「構うな、押し上げろ!」
それでも隊は止まらない。
前衛が盾を掲げ、後続が遮蔽を確保しながら左右へ展開する。
火線が交錯する中、Victorは視界の端で跳ね回る影を捉えた。
滑るような跳躍、空気を裂く気配――“奴”がいる。
「遮蔽を背に、死角を潰せ! 味方と射線を重ねるな!」
鋭い声が飛び、私兵たちは即座に位置を取り直す。
崩れた壁際に身を預け、互いの射角をずらして火線を散らした。
ストライカーらの弾幕が続き、通路は青白い光の閃きで断続的に照らされる。
その光の合間を黒い影がすり抜けた。
鋭く滑空しながら、遮蔽の陰の私兵へと一直線に迫る。
「来るぞ!」
Victorが盾越しに拳銃を撃つ。
弾丸が跳躍の先を掠め、ブルートは空中で身を翻した。
狙いは外れたが、跳躍の軌道が逸れる。
間髪入れずに別方向へ疾駆し、他の兵を狙う。
再びVictorが軌道を読み、わずかに先を撃ち抜いた。
弾は空を裂き、粉塵の尾を引いたが、今度は明確にブルートの視線が彼を捉えた。
ゴーグルの線が正面を向き、赤紫の光がかすかに煌めく。
(もう一押しだ。)
その確信のもと、Victorは射撃を続け、間隔を崩さぬまま動きを抑える。
弾があたらずとも、ブルートは確実に彼へと意識を向けていく。
ストライカーたちの弾幕はいまだ途絶えずにいた。
光弾が盾の表面を滑り、焦げ跡を刻んでいく。
防戦一方の中、背後から声が飛んだ。
「右奥に抜け道がある!」
Victorは頷きで応じ、盾を構え直す。
「合図で投げろ。」
視界の奥で、ブルートが再び動く。
その気配を読んで、Victorはタイミングを見計らった。
「今!」
閃光手榴弾が弧を描いて飛ぶ。
炸裂と同時に通路が白く焼け、弾幕が一時的に緩んだ。
その隙に、Victorは盾を抱えたまま前へ出た。
瓦礫を踏み越え、光弾の雨を切り裂くように抜け道へと駆け抜ける。
閃光の残滓が視界を走り、その中でブルートの視線が彼を追うように揺らめいていた。
抜け道は、崩落した壁の裏に隠れるように延びていた。
配管と鉄骨がむき出しの通路。
幅は三メートルほどで、天井は低い。
背後では私兵たちの銃火が遠くで瞬き、残響だけが届く。
ここまで引きつけられれば、分断は成功とみていい。
Victorは呼吸を整え、壁際に体を預けた。
視界の端、粉塵の中で赤紫の光が揺らめく。
次の瞬間には、床を蹴る音が空気を裂いた。
「……来たな。」
鋼の脚が金属を叩き、ブルートが闇の中を一直線に迫る。
双刃が金属を擦りながら弧を描いた。
Victorは即座に盾を構えるが、刃が触れた瞬間、布を裂くような軽さで縁が切り落とされた。
冷や汗が首筋を伝う。
もし角度を誤っていれば、今の一撃で腕ごと断たれていた。
ブルートは軌道を変え、壁を蹴って再び突進する。
Victorは壁際を沿うように滑り、ぎりぎりで刃を避けた。
鋭い風が頬を掠め、背後の壁に金属音が走る。
横一文字の深い切り跡が刻まれ、粉塵がこぼれ落ちた。
間を置かずにVictorは拳銃を抜き、跳躍の軌跡を読むように発砲する。
弾丸は空を裂いて壁に散った。
牽制に過ぎないが、この狭い空間では相手の進路を絞るには十分だった。
さらに一閃。
反対側の壁にも爪痕のような線が刻まれた。
鉄骨が裂け、通路は音と熱で満たされていく。
Victorは無言で距離を取り、半ば切断された盾を抱え直す。
内側の留め具に指先でそっと触れた。
小さな金属音がひとつ。
ブルートが再び沈み込み、疾走へ移る。
一撃、二撃――速い。
Victorは牽制射撃を続けながら避けるが、やがて間合いを見誤り、肩口を浅く裂かれた。
布地が裂け、血がにじむ。
息が荒くなる。
弾倉の中身は底をついた。
それでも退きはしない。
呼吸を浅くし、聴覚に意識を集中させる。
跳躍と金属の擦過音。
音の途切れた瞬間にだけ体をずらし、刃を紙一重でかわし続ける。
通路に響く金属の衝撃音が、次の一撃の合図だった。
ブルートが再び低く身を沈める。
(頃合いだ。)
Victorは盾を前に突き出し、わずかに角度をつけた。
双刃が振り抜かれ、鋼が鳴る。
盾が真っ二つに裂け、その勢いで腕に熱が走った。
その瞬間、割れ目から何かが滑り落ちる。
ピンの抜かれた小さな柱状の金属塊――閃光手榴弾。
空中でくるりと回転し、ブルートの顔の前で静止する。
閃光。
白光が爆ぜ、世界が焼けた。
Victorは反射的に伏せ、腕で顔を覆う。
閃光をまともに受けたブルートは、刃を振り上げかけたまま動きを止めた。
「――撃て!」
通路の奥から乾いた連射音が響く。
曳光が二条、閃光の残滓を切り裂き、ブルートの頭部と胸部を貫いた。
金属が砕け、油煙の匂いが漂う。
機体が壁に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
通路に束の間の静寂が戻る。
漂う粉塵の中で、割れた盾の破片を手放し、Victorはゆっくりと息を吐いた。
盾を抱えていた腕には浅い裂傷が走り、血が滴って赤い線を描いていた。
背後から、私兵の一人が駆け寄ってくる。
銃を下ろし、肩で息をしながら言った。
「上手くいったな。だが、よくもまあこんな真似を思いついたもんだ。」
呼吸を整え終えたVictorが、問い返す。
「状況は?」
「高台の機銃持ちは落とした。湧いてきた残党もリーダーたちが押し上げてて、制圧までは時間の問題だが、あんたが加わってくれりゃもっと早い。」
Victorは軽く止血を済ませて応じる。
「わかった。すぐに向かおう。」
私兵が頷き、先導して走り出す。
Victorは銃を抱え、粉塵の薄れる通路を再び駆け抜けた。
通路の先ではリーダーたちが遮蔽物を挟み、断続的な火線を交わしていた。
高台のストライカーは既に沈黙しているが、その下ではガードとヴェスピドが依然として射線を交互に切り替え、抵抗を続けていた。
水色の光弾が壁面を掠め、焦げ跡を残しては消える。
火線の間隙を見切り、Victorが身を低くしてリーダーの遮蔽物へ滑り込む。
隣に身を寄せると、リーダーが視線を寄越した。
「その様子じゃ、奴は片づいたようだな。」
「ああ。」
彼は遮蔽越しに前方を指す。
「高台はクリアだ。残りは中央の盾持ちと、その背後のAR持ちだ。俺たちが右から押す。あんたは左から角度を合わせてくれ。」
「了解。」
Victorが短く応じる。
一拍置き、リーダーが全員に向けて声を張った。
「全員、前進だ! 一気に畳みかけるぞ!」
Victorは左の配管群を抜け、崩れた壁際に膝をついた。
ガードは中央通路を塞ぎ、ヴェスピドがその背後で射撃を続けていた。
通路全体が青白い閃光で照らされ、焦げ付いた金属の臭気が漂った。
リーダーたちの弾幕が正面を押さえ、ガードの姿勢がわずかに傾いた。
Victorは射角をずらし、継ぎ目に三発を叩き込む。
装甲が裂け、盾の縁が砕けた。
「そのまま押せ!」
リーダーの声と同時に、私兵たちが前へ飛び出す。
ヴェスピドが反応するより早く、正面からの一斉射で撃ち抜かれた。
通路を満たしていた銃声が途絶える。
焦げのにおいだけが残り、場の音がすっと落ちた。
「……よし、終わりだな。」
リーダーが銃口を下げ、肩で息をついた。
Victorは応えず、周囲を見回す。
制御区画の床は、撃ち抜かれた鉄血人形の残骸と破片で覆われていた。
倒れた私兵の姿もいくつか見える。
今なお立っている者は、作戦開始時の半数にも満たなかった。
最奥には巨大な制御盤が鎮座していた。
焼け焦げた壁面に埋め込まれた無数の端末が、微かな残光を瞬かせている。
この施設の中枢は、まさにここだ。
リーダーは生き残りをまとめ、データ回収を命じた。
他の者たちは黙って頷き、鉄血の残骸を蹴り分けながら制御盤に取りつく。
Victorはその背を見送り、高台の下へ視線を移した。
落下したストライカーが床に半身を横たえている。
ガードと同型の灰色の装甲は、焼け焦げた継ぎ目から黒い煤が滲んでいた。
短く刈られた黒紫の人工髪が頭部に残り、砕けたゴーグルの緑のレンズは光を失っている。
羽根のような意匠を持つ側部フレームは片方が折れ、壁に突き刺さっていた。
右腕のガトリングは銃口が歪み、冷えきらぬ金属がかすかに軋む。
暴力の残滓だけが、その沈黙に宿っていた。
背後で足音が戻ってくる。
Victorは振り向かずに問いかけた。
「データは回収できたか?」
背後のリーダーが答える。
「ああ、無事に済んだ。全部回収した。」
その声には、どこかぎこちなさが混じっていた。
背後で呼吸の音が増え、立てた靴の気配が小さく重なっていく。
「なんのつもりだ?」
リーダーは言葉を探すように一拍置き、やがて震えた声で切り出した。
「正直、あんたには感謝してる。あんたがいなきゃここまでは来られなかった。だが、依頼人の命令だ。全部片づいたらお前も始末しろと、最初から言われていた。」
Victorは何も言わず、息を静かに吐いた。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
怒りでも失望でもない。
ただ、心の中にあった柔らかい部分がひとつ、確かに死んだと分かった。
あらゆる感情が凍りつき、思考だけが澄んでいく。
「交渉の余地は?」
正面の壁に視線を滑らせる。
鈍く曇った鉄面が、背後の影をぼんやりと映している。
焦点が合うまで半拍かかった。
敵の数は六、いや七。
距離、およそ十メートル。
向こうも負傷や疲労で照準が甘い。
「俺たちに選択肢はない。すまない、仕事なんだ。分かって――」
返答が終わるより早く、Victorは低く身を翻し、指先を引き金にかけた。
周囲に遮蔽はない。
被弾を覚悟した反撃。
振り向きざまに引き金を引き切ると、弾幕が横に走り、私兵の列をなぎ倒した。
床に崩れる影が三、四。
数名は怯んで後退し、一人は銃身に命中して射撃不能となった。
だがVictorも無傷ではなかった。
胸の防弾ベストが複数の衝撃を受け止め、鈍い圧力が胸郭を叩く。
肋骨のいくつかが軋み、ひびが入る感触があった。
さらに肩と前腕にはそれぞれ熱が走り、弾丸が肉を貫いた。
痛みが遅れて脳に届き、動作がわずかに鈍る。
残弾を撃ち尽くす。
弾倉をはじき出す。
立ち上がろうとして、胸が一度止まる。
呼吸を引き剥がすようにして、拳銃を抜いた。
しかし被弾の影響で照準が狂い、銃を無力化されて距離を詰めてきた相手を仕留め切れない。
もみ合いになる。
互いに拳銃を握り合い、数発が放たれる。
相手は拳銃の銃口を自身の防弾ベストに押し付け、射撃を受け止めた。
片腕に力が乗らない。
胸で息を支えきれず、そのまま体勢が割れる。
相手が上に覆いかぶさり、銃床が頭を打つ。
拳銃が手から弾かれて床へ滑った。
首を絞められて意識が遠のくが、寸前で相手のストラップに掛かったナイフが視界に入る。
咄嗟にそれを引き抜き首筋へ突き立てると、相手は力なく倒れ込んだ。
奥から再び銃口が向けられる。
もみ合いの相手が生きていたために射線は限定されていたが、今やその抑止は失われ、時間は秒単位で詰まっている。
Victorは自身にのしかかった死体の腰から手榴弾を引き抜き、前方へ投げつけた。
短い遅延ののち爆音が響き、破片と粉塵が舞い上がる。
爆風で何人かが吹き飛ばされ、瓦礫が散乱する中、Victorは死体を盾に身を伏せた。
それでも隙間を抜けた破片が左脚に深く刺さり、鋭い痛みが走る。
だが、止まって整理する余裕はなかった。
脚が床を蹴り損ねる。
すぐに踏み直す。
粉塵の向こうの影よりも先に、立ち上がって位置を取る。
銃口がぶれる。
近くの亡骸を支えに、指に力を込める。
耳鳴りで銃声が遠い。
立ちかけの影が一つ崩れる。
反動が、胸を打つ。
隣の影が崩れた。
反撃は、もう返ってこない。
残るのは、這って逃げる者、かすかに息づく者、動かぬ骸だけだ。
Victorは短く息を整え、作業のように順を追う。
動く者から、浅い呼吸の残る者の頭部へ。
そして、すでに沈黙した者にも一発ずつ確実に撃ち込んでいく。
撃つたびに、照準の揺れが消えていく。
粉塵がまだ漂う中、瓦礫の隙間でわずかに身じろぐ影があった。
Victorは銃口を向け、足を引きずりながら近づく。
リーダーだった。
腹に鉄片が突き刺さり、片腕が肘から先ごと吹き飛んでいる。
全身が血と埃にまみれ、呼吸はもはや音にならない。
Victorを見上げた彼は、何も言わず、ただ自嘲にも似た笑みを浮かべた。
銃口を上げる。
合わせる。
引き金を引く。
短い破裂音が制御室内にこだまする。
音が止み、粉塵が沈着すると、残ったのは一人分の呼吸だけだった。
まだ、終わっていない。
片を付けるべきことが残っている。
彼は弾倉を換え、血の跡を踏みしめながら出口へ向かった。
その足取りに迷いはない。
残っているのは、次の手順だけだった。
「……遅いな。」
厚いカーテンが閉じられた部屋には、均一な照明が灯っていた。
依頼人は机の前に座り、グラスの縁を指でなぞる。
琥珀色の液体がわずかに揺れ、氷が小さく音を立てた。
壁の時計は、定時連絡の時刻をとうに過ぎている。
「通信が途絶えたようだが……いや、まさかな。」
独り言のように呟き、グラスを口に運ぶ。
しかし、喉を通る液体の味は妙に薄い。
送風の薄い流れだけが、一定のリズムで部屋を満たしていた。
そのとき、外で銃声が鳴った。
依頼人の指が止まる。
一拍遅れて怒号が上がり、さらに続く二度の発砲。
今度は明らかに近い。
「……なんだ? 何があった?」
応答はない。
扉の向こうで何かが倒れる音。
続いて、重い沈黙。
胸の奥が冷たく硬直する。
依頼人は無意識に立ち上がり、扉を見つめた。
取っ手が動き、ゆっくりと扉が開く。
Victorが立っていた。
頭からつま先まで血に濡れ、どこまでが自身のものか判別できない。
布で巻かれた腕からは滴が落ち、床に赤い点を残していた。
表情はなく、その瞳は焦点を失っている。
依頼人は一瞬だけ息を呑み、すぐに声を整えた。
「……戻ったか。仕事の方は?」
Victorは数歩近づき、抑揚のない声音で答える。
「済んだ。」
「我々の人員は?」
「死んだ。」
依頼人の喉がひくりと動く。
「……全員か?」
返答はなかった。
沈黙が答えの代わりとなり、空調の音すら遠のいた。
「金は。」
「……何?」
「報酬だ。依頼の後金。」
「あ、ああ……もちろんだ。すぐに支払おう。」
依頼人は無理に笑みを作り、机の引き出しを開けた。
金属のロックを外す音が、やけに大きく響く。
震える手で銀色のケースを取り出し、机の上に置いた。
「約束の額だ。だが――」
下からさらにもう一つ、同じ型のケースを引き出す。
「倍だ。これでどうだ? 君のような人材は、私が――」
銃声が、言葉の先を断ち切った。
依頼人の額に赤い花が咲き、体が後ろへ崩れ落ちる。
机の脚が震えてグラスが倒れ、酒がゆっくりと流れ出した。
――そこで初めて、指の感覚が戻った。
引き金にかけていた力が抜け、銃口が落ちる。
呼吸が乱れ、胸の奥で鈍い痛みが一気に広がった。
一歩踏み出そうとして、足が遅れる。
修正する。
Victorは無言でケースの片方を手に取った。
血で滑る持ち手を気にも留めず、そのまま扉へと向かう。
振り返ることはなかった。
廊下に出る。
灯りはまだ点いているが、壁も床も血の跡で黒く染まっていた。
三つの影が、壁にもたれて動かない。
Victorは視線を落とさず、通り過ぎた。
足音だけが淡々と廊下に響き、遠ざかっていく。
扉を押し開けると、階下はすでに騒然としていた。
銃声を聞きつけた客たちは逃げ出し、椅子やグラスが床に散乱している。
それでもまだ数人が残っていた。
逃げ損ねた者、呆然と様子を伺う者。
上からVictorが姿を現すと、場の音が止んだ。
残っていた者たちの視線が一斉に向く。
裂けた衣服、乾ききらない血、煤で黒く固まった布。
その姿は、この場のどの人間とも違っていた。
血と硝煙の匂いが、酒と油のこもった空気を押しのける。
まるで別の場所の温度だけを纏っているように、そこに立っていた。
Victorは視線を意に介さずに、歩き出す。
一歩ごとに、足裏の感覚が鈍い。
床を踏んでいるのか、踏み外しているのか判然としない。
割れたガラスを踏み抜いた音が、やけに遅れて耳に届いた。
肩が壁に触れる。
無意識に手をつき、すぐに離す。
それでも歩みは止めない。
人々は道を空け、誰も声をかけない。
ただその足取りだけが、この場の空気と明らかに噛み合っていなかった。
酒場を抜け、街灯の少ない通りへ出る。
夜気が肌を刺したが、何も感じなかった。
停めていた装甲車のドアを開ける。
身体を引き上げる動作が、思ったより重い。
足が一度引っかかり、わずかに体勢を崩した。
そのまま座席に身を落とし、ケースを助手席に置く。
中には久しく見なかったほどの大金が詰まっている。
それを見下ろしながら、Victorは静かに息を吐いた。
......長い一日だった。
任務は終わり、金も手元にある。
だが、決して後味の良いものではなかった。
ハンドルに手をかけたまま数秒、呼吸だけが続く。
胸の奥がさらに軋み、息を吸うたびに痛みが広がる。
視界の端が暗く狭まる。
まぶたが落ちかけ――意識を引き戻す。
一瞬でも抜けば、逸れたまま戻れなくなる感覚があった。
指に力を込め、キーを回す。
エンジンが低く唸る。
街の灯が後方に遠ざかっていく。
夜の闇は音を呑み、何事もなかったように静けさを取り戻した。
[2064-11-04-22:47]
区分:任務
状況:依頼任務「旧S.F.施設共同制圧」完了
依頼人:Marcel
経過:2064-11-04
12:10 現地到着、依頼者面談
12:38 交易拠点出発
15:10 現場到着、私兵部隊と合流
15:18 地下区画、最終進行地点より進行再開
15:40 鉄血残党第一陣と接触ののち交戦
15:52 戦闘終了、排除確認
16:26 第二陣と接触ののち交戦
16:40 戦闘終了、撃退確認。ブルート介入により味方損耗が急増
17:28 最終目標地点、制御室突入
17:55 ブルートおよび残党壊滅、中枢制圧。データ回収完了
17:59 同行私兵が依頼人命令による排除を宣告。交渉不能
18:07 敵対者殲滅確認
21:40 交易拠点到着。護衛および依頼人を排除
21:46 報酬を回収後、離脱
結果:報酬確保済
損耗:重度
人員:前頭部挫創、胸部打撲~肋骨不全骨折、左肩・左前腕裂傷、右肩・左上腕銃創(貫通)、左脚刺創(破片)
装備:主武装損壊、防具破断、消耗品多数喪失
弾薬消費:大
備考:契約条件の保証は無価値。前金・口止め料は危険の指標。同行戦力は資産ではなく可変要素。命令系統を含め常時監視対象とする。不審な動きを認め次第、排除を躊躇しない。決して誰も信用するな。
大変長らくお待たせしました。後編です。
戦闘シーンのウェイトが過剰気味なので、ちょっとそこが未だに悩ましいですね。
どうにかテンポとか字数を巻いて収めようとはしましたが、自分にはこの程度が限界でした。
少なくとも、以前の約17000字に及ぶ怪文書よりは改善できたつもりです。
ただ前編との字数差が倍あるので、切り方を考えた方が良さそうです。次話投稿時には決めておきます。
振り返ってみれば、防衛機構に機械系を出すんだったらどうして鉄血が真っ先に浮かんでこなかったんだよ、と書きながら思いました。盲点でした。
それでまあ、描写のために鉄血兵のデザインを改めてまじまじと見たんですけどね、本文では触れませんでしたがその、なんというか、すごくえっちで、良いなと感じましたね。
ブルートは本編だとそこまで強いわけではないのがなあ......でも褐色っていいよね。
だいぶ間が空いてしまったので、なんとかペースを取り戻さねばと思う一方で、すでに勢いに任せた前科ができてしまったので、できるだけ早さには囚われずに自省しながら続けていこうと考えています。ちょっとリアルでも12月中旬までは忙しくなってくるので。
まだ至らない部分しかありませんが、温かくお付き合いいただけると幸いです。
余談:スキン即買いしたのにフローレンスが出ねえよぉ! イベントもう終わりそうだしやらなきゃだし、あと35回で天井なのに間に合う気がしねえ......